先日札幌で受けた講座から(浅沼先生)+ web情報
元年者(がんねんもの) 1868年慶應4年(明治元年)5月17日に SCIOTO号に乗り150名が横浜を出港
同年 6月19日 ホノルルに到着し、20日上陸 誰もパスポートは持っていなかった。
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http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/040304/ に詳しく載っていました。
日本最初の集団移民となったのは、よく知られているように1868年(明治元年)5月17日、横浜を出港したイギリス船籍の「サイオト号」に乗った153人(149人説など異説も)でした。この移民は、ハワイ政府の強い要請に基づいて準備されていましたが、移民許可を出した徳川幕府が瓦解し、明治新政府はこの移民を認めなかったため、無断で出港してしまうという、国際関係から見ると最悪な事態に陥りました。
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/040401/
ホノルル到着に際しては、ハワイの人々から大歓迎を受けることとなりました。当時の地元の新聞には 「彼らは温良かつ有用な労働者になるだろう」と期待され、ハワイアンからも白人からも好意的に受け入れられたようです。
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何故、その頃「ハワイへの移住者」を募ったのであろうか?
ヴァン・ディード(ハワイ王国・総領事)は砂糖農園で働く者を募っていた。
ハワイ王国の人口減少=労働者減少が主な理由であった。
布哇(ハワイ)の人口は
1819年から捕鯨船が寄港するようになって以来、外来の病気も持ち込まれるようになり、人口が減少してきた。
1823年 13万人(推定)
1850年 8万人 捕鯨船500隻
1859年 ペンシルバニアで石油がみつかる⇒捕鯨の必要がなくなる。捕鯨時代の終わり。
砂糖産業は「KOU」と言い、1835年カウアイ島で初の農園(Plantation)が始まる。
1848年 グレート・マヘレ(カメハメハ3世)「マヘレ」というのは一区画という意味。
元来ハワイの人々は「土地は神から授かったもの」という考えだったが、
この「グレート・マヘレ」という法によって「土地の分配」をせざるを得なくなる。
例:パーカー牧場・グレートマヘレによって買った土地で始める。
カメハメハ4世
1860年 ポーハタン号が咸臨丸の先導役としてサンフランシスコに入港。
そのサンフランシスコの帰りにハワイに寄港した木村摂津守喜毅(よしたけ)
木村摂津守喜毅に詳しいwebページです。
http://blog.jog-net.jp/201406/article_3.html
続く。
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