時代は天正時代で織田信長と荒木村重の話です。 (武家家伝荒木氏より)
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/araki_k.html
荒木村重が、天正六年信長に反逆する。その背景には、畿内方面の複雑な軍事・政治情勢があった。村重は籠城十ケ月ののち有岡城を脱走、残された妻子や城兵の多数は信長に虐殺された。村重は毛利氏のもとに亡命、ついで出家し、晩年は堺に住んで茶の湯で名をなし、豊臣秀吉にもお伽衆として仕えた。その後、村重は機会を得て旗本となったが罪を得て、絶家となった。
何故、毛利氏に‥‥そこにヒントがありそうです!
荒木氏と毛利氏、どのようなつながりがあって頼って行ったのでしょう。
天州寺(行田市)に荒木氏がお寺を立てたのはその後の慶長12年1607年で、毛利氏との縁がそうさせたのではないかと…勝手に想像していますが、次回さらに詳しく調べたいと思います。
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さらに、江戸 天明時代
前回の記事に登場しました「天明年間に牧野の十村役、荒木初穂といふ人の書上に…」の部分ですが、ぬぬぬさんのブログ、この牧野の十村の解釈が難しいのですが、もしかすると『長岡の牧野郷二十村』のことではないかと?? となると長岡です!!!
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せきどよしおの仏像探訪記に「天州寺」が詳しく書かれておりました!
https://www.butsuzoutanbou.org/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C/%E5%A4%A9%E6%B4%B2%E5%AF%BA/
この最後の方に書かれていた【有綱】という人も毛利氏と荒木氏をつなぐ人ではないかと思います。
大江広元の妻であり、季光の母親である「多田仁綱の娘」の多田氏と関係がありそうと…仁綱の出家後の名前は「正阿源宥」
多田源氏の源明国と源頼政の父親である仲政は兄弟です。
そしてさらにその前の代では国房がいて、光国―光信と土岐氏になっていきます。
どうもこの辺りが荒木氏と大江季光をつないでいるものと思われます。
仁綱が有綱とも名乗っていたなど、何か情報をお持ちの方、どうぞよろしくお願いいたします。
※もしかすると…
義澄の跡は長子の三浦義村(?-1239年)が継いだ。義村の弟である有綱・重澄は、それぞれ山口氏、大河戸氏を称した。義村は評定衆の宿老に就任。
この「有綱」ではないでしょうか。毛利季光の妻は「三浦義村」の娘であったはずですので、妻の叔父の事であったかもしれません。(追記)
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