ちょっと目先を変えて「坂本臣」のことを考えてみたいと思う。
坂本臣、紀角宿禰、根使主。
これらは系図上のつながりのあるグループである。さらに草香部氏にもつながりがっていく。
坂本臣の先祖であった根使主は、調べてみるとわかるように才能があり天皇の近くに仕えながらも、そのために罪を犯してしまったのか、はたまた誰かに利用され陥れられたか・・・のようである。
web上にあった系図に拠ると
坂本糠手(あらて)- 坂本財(たから)ー 坂本鹿田 ― 坂本 宇豆麻佐(うずまさ)となる。
糠手は外交官のように、相手国と自国の間を取り持つような役目もしていたようである。
http://kodai4.net/moromoro/tatibana01.html
上記の「起源考」では、その根使主の事件は「氏族の分岐や統合といったものを反映している可能性が高い。」と述べられている。
坂本臣の坂本は『和名抄』の「和泉国和泉郡坂本郷」(大阪府和泉市阪本町付近)とされる。
根使主の歿後、この一族は二分された。
そのひとつが坂本臣となるのだが、坂本臣というのは茅渟に入った草香部氏の別称と解されるそうである。
起源考の方によると、
『書紀』に坂本臣と大河内氏にともに「糠手」という人物が現れる。
坂本臣糠手 推古八年 百済派遣
推古十八年 新羅・任那の使者を迎える
大河内直糠手 推古十六年裴世清を接待(『隋書』では小徳阿輩台)
この両者は同一人物であり、複姓であろう。ともに外交に関係し、外国から来た客の接待にあたっている。外交交渉をやりうるのは王権の中でもトップに近い官位の人物に限られる。それがたまたま同じ「糠手」という名であったとは考えにくい。また、坂本氏、大河内氏がなにゆえに王権中枢にいるのかということも問われなければならない。それは両者とも草香部氏に発する氏族だからである。
…だそうである。
大河内は凡河内とも書く。
なお草香部氏に関しては、後日調べることとする。
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坂本臣に話を戻すと、
財(たから)は、天武天皇のために戦い、亡くなっている。
次に、坂本宇豆麻佐(豆は頭と書いてあるものも多い)に注目して見たい。「太秦」と同じ音であることからも、何かしら関係があると思う。絹などの織物・反物と関係がありそうである。
「太秦氏」「秦氏」と、もしもつながるということになれば、古代ユダヤとの関係性も否定できない。
木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ、木島坐天照御魂神社)は、京都府京都市右京区太秦森ケ東町にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は郷社。
通称は「木嶋神社(このしまじんじゃ、木島神社)」や「蚕の社(かいこのやしろ、蚕ノ社)」とも。古くから祈雨の神として信仰された神社であり、境内には珍しい三柱鳥居があることで知られる。
嵯峨野・太秦周辺は渡来系氏族の秦氏が開拓した地で、広隆寺・松尾大社・蛇塚古墳などの関係寺社・史跡が知られることから、木嶋社もまた秦氏ゆかりの神社といわれる。また現在本殿の東隣に鎮座する蚕養神社は、この秦氏が招来した養蚕・機織・染色技術に因むと推測される[。ただし秦氏の渡来以前にも、木嶋社付近では和泉式部町遺跡などの弥生時代頃からの集住を表す遺跡の存在が知られている。
それは、少し横に置いて、人物を見ていこうと思う。木簡で確認できる人物なのである。
小さすぎて文字が見えなかったので、下記参照。
木簡「上切り折り、下折れ。左右割れ。左辺は加工の可能性もある。
大蔵廣足は天平八年(七三六)正月に正六位上から外従五位下に叙されている。
坂本宇豆は坂本宇豆麻佐であろう。『続日本紀』天平九年正月丙申条に、持節大使藤原麻呂らとともに副使常陸守従五位上として見える。
四七六〇・四七六一号と材など似る。」
と、常陸守 従五位上 坂本宇豆麻佐 である。
他にも続日本書紀で確認することができる。(坂本臣は全部で24カ所の記載があった。)
Tokyoboyさんのブログでは、以下のように書かれている。
「坂本臣とは武内宿彌の子孫で、古くから坂本郷(坂本町、寺門町、今福町、観音寺町、桑原町、一条院町)附近を支配し紀伊国を本居とする。一族は大阪湾沿岸一帯に蟠居し讃岐国の方向にもその勢力を及ぼしていたという。
坂本臣平は602年百済使の任についているからこの一族は海事に明るく、海外交渉の実務にすぐれていたに違いない。」
隋とは…
https://www.sekainorekisi.com/japanese-history/%E9%9A%8B%E3%81%A8%E3%81%AE%E4%BA%A4%E6%B8%89/
602年の百済使とは…
推古天皇 10(602)年 10 月に百済の僧勧勒かんろくが来朝し暦本などを献納したこと、陽胡史やこのふびとの先祖玉陳たまふるが勧勒から暦法を学んだことなどが記されています。中国の宋から伝わった元嘉暦を百済では滅亡(661 年)まで使っていた
ので、今回の木簡の発見により、『日本書紀』の記述が例証されたといえます。
僧勧勒(かんろく)とは…
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%8B%92
そして蛇足だが、この勧勒の下に「坂本太郎」という歴史学者の名前があったので、そちらのwikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E5%A4%AA%E9%83%8E_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)
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話を戻すと、
そしてその後、坂本 宇豆麻佐は陸奥に派遣され、常陸国の守護となるのである。
昔の常陸国の範囲はどのようになっているのだろうか?
改新の詔によって国造制が廃止されて、国造に委任されていた行政権は中央政府に移行しし、国郡制となった。
「常陸国」とは「新治、白壁(真壁)、筑波、河内、信太、茨城、行方、香島(鹿島)、那賀、久慈、多珂」の十一郡となる。
坂本宇頭麻佐:氏は坂下とも記される。贈小紫・坂本財の孫で、務広肆・坂本鹿田の子とする系図がある。官位は従五位上・常陸守。勲等は勲六等。
太秦は、音に合わせて四文字だとその時になりますね。私は音一文字ずつの漢字をみるとテンション上がります。宇豆ってつくと思い出すのは奈良です。大きな木のある神社です。
秦氏の前に太秦の地に関わっていた民族探しているんでこの方かもしれませんね!嬉しいです。
あと糠(ヌカ)の音出てきましたね。この字は青森だったか地名でもあります。
紀古佐美や大野東人さんあたりも超気になっている方です。
もちろん養蚕や機織や布関係ありますね。
川とも関係あるはずなので山の際あたりも大事です。
あとなんだっけなあ。別の記事でも出てましたけど交野って言えば長谷ですよ。観音さん。
この前尾根線の山登りしてきましたけど、同じ山の裏で距離は離れてますけど同じ尾根伝いにいけるような地や山はおそらく関連ある地になりそですよ。秋篠あたりの地図みていて思いました。
今後が楽しみですよ。
名前が変化して名字に、そしてその名字が頂いた名前で変化したりととっても見にくくなりますけど、同じような仕事は経験と素質が大事なので自然とまとまってくるでしょうね。
その時にうわあ、別人格だと勝手に思いこんでいたと騙されたと思う事が多そうに思います。神も同じように思いますね。1330
コメントの返事遅くなってごめんなさい。
そうなんです。その秦=機織につながっていって、やがては七夕にも…ということを頭の中が巡っていました。で、なんだか忘れてしまいました。
また、思い出して書きたいと思います。
コメントありがとうございました。