富岡町観光協会ブログ「夢咲くら」

警戒区域となった福島県富岡町の現在…
東日本大震災・原発事故・避難に関する新着情報などをお伝えしています。

3月15日(火)校内放送

2011-05-15 19:46:47 | 地震・津波・原発事故・避難
2ヶ月前の、平成23年3月15日(火)午前2時、
川内小学校の校内放送で目が覚めました。

「ご自分の目でご覧になって、ご自分で判断して下さい」とのこと。
校内に設置してあるテレビのスイッチがつけられ、
原発事故に関する政府の会見が放送されていました。

14日に、3号機の建屋が水蒸気爆発し、
2号機4号機も火災が起きたとのことでした。

早々に荷物をまとめ、車に積み込み、避難所を後にする家族が大勢いました。
パニックにはならなかったけれど、不安いっぱい…
テレビニュースを食い入るように見つめながら、そのまま朝まで過ごしました。

3月14日(月)夕食、驚き!2400個

2011-05-12 17:45:42 | 地震・津波・原発事故・避難
当初、3月14日(月)の夕食は、
川内村婦人会の方々が炊いてくれたご飯を、
避難者ボランティアが握ったおにぎりと、
支援物資として運び込まれた500ミリリットルペットボトルの水でした。

夕方4時前に消防団の皆さんが
生卵2400個を運んできてくれました。
誰からの提供はわからないけど、食べて下さいとの伝言。

まだ洗浄もしてなくて、サイズもバラバラな卵たち…
綺麗に洗ってから、料理室のコンロとありったけの鍋を使って、
ゆで卵作りを開始!!

仕事柄、ゆで卵作りは得意というボランティアの方の指導のもと、
「沸騰してから12分」のルールで、2時間かけて茹であげました…
(衛生上と保存を考え、固ゆでにしました)
避難生活3日目となると、親戚の家や家族の元へ移動されている人も出てきて、
川内小学校内の避難者数が、名簿の数と違い、
準備するおにぎりの数の把握に困っていました。

そこで、茹でた卵の数をあらかじめ確認し、
配布後の残数で滞在している人数を確認することになりました。

14日(月)夕方、川内小学校内の避難者は、約950名
内訳は以下のとおりです。
避難者915名
役場職員と川内小学校職員15名
消防団20名

ボランティアの皆さんは、割れてはみ出している形の悪い
自分の分のゆで卵をもらい、この日は解散しました…
それにしても…2400個のゆで卵を見たのは初めて! 圧巻でしたね。
ご提供して下さった方がわからず、御礼も言えませんでしたが、
この場をお借りして、心より感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。

茹でたてのあたたかい卵は、寒い時期だった事、
そして貴重なタンパク質が摂取出来た事で、
皆さん喜んでいました。
特にご高齢の方や小さなお子さんなどにとっては
ごちそうとなりました…

ありがとうございました。




3月14日(月)子供たち

2011-05-04 12:38:49 | 地震・津波・原発事故・避難
非難生活も3日目となると
子供たちも少し走り回ったりするようになってきました。

夜泣きで困っているお母さんも…
知らない大勢の中で昼間過ごしたりすると、どうしても生活リズムが崩れます。
昼夜を問わず余震も続いていましたから…
本当にお気の毒でした。

非難している皆さんの中には
具合の悪い人やご高齢の方もいましたが、
ある高校生達の所に、子供達が自然と集まりだして、
その高校生達は、トランプをしたり、じゃんけんをしたり
ゲームの指導や手品など、面倒をみていました。

不思議と走り回らなくなって、
一日中、いや、夕食後も寝るまで集まっていましたよ。
あるご夫婦は、子供がいなくなってしまうので
様子を見にいらしてました。
「こんなところで、みんなで仲良く遊んでいたのね」って。

日頃は、きょうだいや同級生などと遊びますが、
こうした避難所では中学生や高校生といった年齢の離れた人とふれあえます。
彼らが少し大きくなった時、こうして遊んでもらった事を思い出し、
同じように小さい子ども達に接してくれれば、すごくうれしいなぁと思いました。


3月14日(月)避難生活3日目

2011-05-03 11:30:17 | 地震・津波・原発事故・避難
避難生活も3日目になると
それぞれに気がついた事を、気がついた人が自然に行うようになってきました。

ある男性は日頃の職業柄から、トイレや洗面所のお掃除を…
ある女性は、トイレ掃除や床掃除、
ゴミの分別や収集など…
避難所本部の放送で空気の換気をしたりと、比較的落ちついた生活でした。

ペットとともに避難してきている人もいて、
校庭などに駐車して自家用車の中にペットをおき、
朝夕の散歩などの時だけ外に出ていましたよ。
家族と一緒ですものね…

3月14日(月)朝食

2011-05-02 10:20:52 | 地震・津波・原発事故・避難
3月14日(月)の朝食は
昨日の夕食の残り「すいとん汁」か、カップ麺
そして、おにぎり1個。

何が大変って、
川内小学校の避難者1000人分のカップ麺のお湯を沸かすのが大変でした。
学校内の調理室のガスコンロは前日まで使用ができませんでした。
11日の本震の影響で安全装置が働き、
ガスがストップしていたのです。
避難している方の中に業者さんがいらっしゃって、
安全装置を解除していただき、ありったけのお鍋と
消防団の野外テント大鍋でお湯を沸かしました。

それでも皆さんに配布するには相当の時間を要しました。
カップ麺は自衛隊の方が運んできて下さったそうです。
標高300メートルもある川内村は寒さもまだ厳しく
暖かい食べ物は大変喜ばれました。
本当にありがとうございました。

もちろん、使用した割り箸とカップ麺の器は
再度使用するために綺麗に洗って頂きました…
ゴミの軽減もありますが、次回配布できる個数がありませんでした…

3月13日(日)郡山市内では…

2011-05-01 10:09:33 | 地震・津波・原発事故・避難
あるご家族が、これから郡山市内に買い出しに行くといいました。
何か必要なものがあれば買ってきて下さるとのこと。
ご厚意に甘え、バナナやおせんべい、野菜ジュースやパン、チョコなど
日持ちがして少しずつ口に入れられそうなものを頼みました。

彼が帰ってきたのは夕方を過ぎてから…
船引町は給油なども可能で、比較的何でも手に入ったようです。
郡山市は給油が難しかったそうですが、美容室は普通営業してたと言ってました。
大手の寿司チェーン店の看板が折れていたりもしていて、
携帯用の充電器などは買えなかったと…

13日(日)のこの時点では、まだ、
こんなに長期の避難生活になると予想していませんでした。
しかし、学校の固定電話もこの日を境に使用不可となりました。

3月13日(日)朝刊

2011-04-27 23:29:53 | 地震・津波・原発事故・避難
避難所で唯一、たった1回、この日だけ新聞が届きました。
一面記事の写真を見て愕然…
福島第一原子力発電所の1号機建屋の写真でした。
水蒸気(?)爆発がおこり建物が破損してました。
(後に水素爆発だったらしい事が判明…)

13日は川内小学校内の固定電話も通じ、
10円玉を片手に利用者が列をなしていました。

携帯電話はほとんどが不通、
auのみがかろうじて通じたり、通じなかったり。
それも、ある一定の場所しか通じません。
比較的メールは大丈夫だったようです。
避難者のほとんどは着のみ着のまま、
充電器を持っている人もあまりなく、
お互いに貸し借りしていましたね。

テレビの前にはいつも人だかりがあって、
三陸地方の大津波の映像や
政府の会見などのニュースに釘付けでした。
ラジオを聞いている方もいらっしゃいました。

大勢で見ていたのでチャンネルが程度固定されてしまい、
今思うと、かなり情報量は少なかったです。
避難所を出てから、知った事、わかった事が
た~くさんあってびっくりしたくらいです。

3月13日(日)夕食

2011-04-26 22:36:15 | 地震・津波・原発事故・避難
この日の夕食は川内村婦人会の皆さんが、
給食用のお釜でご飯を炊いてくださり、
避難者のボランティアが、おにぎりを作りました。
その数、約1500個!

その他、川内村民の皆さんから提供された野菜を使って
汁物を作りました。
ボランティア女性陣は、野菜切り。
屋外にテントを設置し消防団の皆さんが大鍋で炊き出しです。

そして、昨年の11月に友好都市締結を結んでいた
埼玉県杉戸町より支援部隊が夕方到着し、
すいとん汁の提供もありました。

約1400名全員への配布は2時間以上かかりましたが、
川内村の皆さん、川内学校の校長先生をはじめとする先生方、
消防団の皆さん、杉戸町の皆さん…
本当にありがとうございました。

この日の夕食は、皆さんのおかげで
おにぎり1個、食パン1枚、汁物でした。
食パンは柔らかいので、ご高齢で歯が弱い方には好評でしたよ。


3月13日(日)朝食

2011-04-25 20:52:18 | 地震・津波・原発事故・避難
昼夜を問わず強い余震が断続的に続き、
そのたびに悲鳴やざわめきがおこりました。
地鳴りが聞こえる余震は、
とても熟睡など出来るものではありません。
うつらうつらして朝を迎えましたが、
この日の朝食は、おにぎり、11時頃でした。

川内村は約2700名程度、
そこに、約5000名の富岡町民が避難していました。
川内村民の皆さんがお米を提供して下さり、
川内村婦人会のメンバーの方が
ご飯を炊いておにぎりを作ってくれたのです。
川内小学校には、そのうちの約1400人がいました。
本当に感謝…感謝です。

食事の配布は、避難者の中からボランティアを募り、
役場職員の方と相談しながら、
体育館、北校舎、南校舎と、
ブロック別に誘導して平等に配っていました。

3月12日(土)妻子を捜して

2011-04-20 17:57:52 | 地震・津波・原発事故・避難
彼は会津地方の出身
仕事の関係で富岡町に暮らしていた。

地震発生当日、11日深夜に、
災害対策本部のある「学びの森」で会った時、
奥様とお子さんの所在がわからないと言っていた。
彼の住まいは、JR富岡駅前のマンションの2階で、
大津波が押し寄せた付近。
無事らしいとは聞いているが、
富岡町内の各避難所を回り捜したけれど
見つからなかったとのこと。

その彼が、12日(土)朝8時頃、
一人で車を運転し、川内村へと続く大渋滞の中にいた。
昨晩のうち、船引町まで車を飛ばし給油をしてきたが、
所持金は数百円。やはり妻子には会えなく、
これから川内村や他の避難所に行くという。
祈るような気持ちで彼を見送ったけれど…

後日、奥様たちと会うことが出来たと彼から電話が…
現在はいわき市四ツ倉で仕事を再開しているの近況報告も。
いつか富岡町でお会いしましょうと、
堅い約束をかわし電話を切った。
無事に会うことが出来て本当によかった!

11日(金)の夜は、連絡がつかず会えない家族、
所在は確認出来たけれど、交通事情で離ればなれとなり、
不安な一夜をあかした家族など、
様々なドラマがあったようです。

3月12日(土)ある親子の避難

2011-04-19 17:43:18 | 地震・津波・原発事故・避難
3月12日(土)午前7時頃の防災無線により、
川内村へ避難するために、
自家用車で夜の森から上手岡方面へ進んだある親子…

渋滞がひどくガソリンが少なくなり
車列から外れ、少し様子を見ていたが、給油はできない…

その時、高校2年生の息子が言った!
「お父さんの車にガソリンがあるかもしれない!」
(お父さんとは、正確には「別れたお父さん」であるが…)
と、車のおいてある祖父母宅へ直行。

でもガソリンは入っているがバッテリーが繋がっていなかった。
「僕、見ていたからわかる!」と、バッテリーを接続し、
無事に川内村へ移動することが出来たそうです。

何事も経験しておくと、いざという時に役に立つのですね…
それにしても、彼の機転は200点満点だ!
(もちろん、車を借りたと置き手紙をしてきたそうですよ。)


3月12日(土)徒歩で川内村へ

2011-04-15 22:21:35 | 地震・津波・原発事故・避難
12日夜、再避難をした翌日の13日(日)は、
避難所となった川内小学校で
いろいろな方とお話することができました。

あるご家族は、一度は車で川内村へ避難を試みたものの、
渋滞がひどくてガソリンがもたないと自宅へ引き返し、
近所の方達と共に徒歩で川内村へ避難してきたとの事でした。
重い荷物を背負い、五枚沢地区まで3時間半歩いたそうです。
車より速かったと言っていました。
途中、知り合いの方が乗用車で迎えに来てくれたとか。

そのご家族の長男と、我が家の長男・従兄弟は同級生で、
13日と14日の2日間、一緒に仲良く寝ていました。
友達と一緒にいると安心するのかな…
友達って   いいなぁ…

3月12日(土)夜の再避難

2011-04-14 22:11:41 | 地震・津波・原発事故・避難
夕食をとり、もう就寝しようかと思っていた矢先、
午後8時頃に村の防災無線より放送がありました。

「川内村の8区は、20㎞圏内の為、避難して下さい」との事。
消防団の皆さんが家を訪ねてこられて、
「避難して頂かないと困ります。」という。
「川内村の避難所はいっぱいで入れないと聞いたが…」
「大丈夫です。避難して下さい」とのこと。

車に積めるだけの布団・座布団・毛布・食料などを積み、
川内小学校へ移動。午後10時に到着。
ガソリンは一目盛りになってしまいました。
私たち5家族12人が一番最後の避難者だったよう…
受付で氏名・年齢を記入し、
40才以下の人にはヨウ素剤が配布されました。

昇降口近くの廊下へ布団を敷き、腰を下ろして
防寒着を着たまま、毛布一枚にくるまって眠りにつきましたが、
地鳴りがする大きめの余震が断続的に続き、
熟睡できないまま朝を迎えました。

3月12日(土)朝の防災無線

2011-04-13 21:50:36 | 地震・津波・原発事故・避難
避難所より帰宅したのは、12日の午前3時でした。
30分ごとに地鳴りが響く余震があって、
そのたびにカバンを手に部屋の出口へ何度も往復。
ほとんど一睡も出来ないまま、ウトウトしていると…7時頃に防災無線が…
「富岡町民の皆さんは、川内村へ避難して下さい。」
「バスを所有の企業の皆さん、避難民を輸送する為のご協力をお願いします」とも。

昨夜のうちに広野町へ帰れなかった同僚を、車の置いてある役場駐車場まで送り、
自宅に戻ろうとすると川内村への道路が大渋滞になっていました。
100メートル進むのに30分!!

仕方なく車を離れた所に駐車して徒歩で自宅へ。
渋滞は12時頃まで延々と続きました。
ガソリンが2目盛りしかなかったので渋滞は避け、すいてから出発しようと、
ひとまず仮眠をしました。
(後日、家族には「かなり大物」と言われましたが、
 渋滞・ガソリン不足を考えれば、昨夜の睡眠不足を解消したかった…)
待っている間、連絡の取れなかった義弟夫婦が合流、
6号国道から夜の森駅近くまで2時間かかったとのこと。
聞くところによると、川内村まで行くのに7時間かかったそうですよ。

渋滞がなくなって20分後、出発しましたが、やはり、
滝川ダムの手前の大橋付近で渋滞の最後尾に…
エンジンを切って10分~20分待機しながら川内村へ避難。
午後1時頃、父の実家のある毛戸地区へ到着。

午後3時頃、福島第一原子力発電所1号機建屋が水蒸気爆発していたことを、
この日の夜8時頃聞いたのでした。

3月11日(金)避難所の少女

2011-04-12 21:31:37 | 地震・津波・原発事故・避難
避難所の一つ富岡第二中学校体育館にて、
行政区ごとに氏名と年齢を記入してもらい、
避難者名簿の作成をしました。

ふと見ると一人の少女が…
「お母さんやお姉さんとはぐれてしまった。」と
自宅には誰もいなかったので避難所に来たらしく、
「名前を書いておくと、見つけてもらえるよ。
 会えるから書いた方がいいよ。」
というと名前を一番最初に書いてくれました。
でも3時間たってもお母さんは現れず、次第に泣き顔に…
私の息子と同級生で顔見知りだったこともあって、
一人で置くのがかわいそうになり、
体育館内にいる私の知り合いの家族の所に彼女を預けました。
6時間後、お母さんが迎えに来て…
泣きながら抱き合って再会を喜んでいたそうです。
彼女の姿が今も脳裏に焼き付いていて、思い出すとたまりません。

実は私の息子も双葉中学校に避難していたらしく、
主人が4時間かけて迎えに行っていました。
(このときは電話が繋がらず、
 そんなことになっていたとは知りませんでした…)

もう一人の少女は、大熊町から夜の森の友人宅に遊びに来ていて、
地震に遭い、中学校体育館に避難してきました。
やはり、彼女にも「大熊町  氏名  年齢」を書いてもらったところ、
お父さんが迎えに来て会うことができました。
その際、名簿に「父迎え済み」と記入。
1時間後には、お母さんが迎えに来たので、
名簿を見せると安心して自宅へ戻っていきました。
電話も携帯も不通だったので、
行き違いにならなくて本当によかったです。