下記の記事はAERAdotからの借用(コピー)です
インターネットがわからなくたって生きていける……。この持論をある日、目にとまった書評でガラリと変えた佐藤愛子さん。数えで99歳になるベストセラー作家は、孫を先生にインターネットを学んでみることにしたのだが、「パソコンは電話がかけられない?」……。抱腹絶倒の発見を綴った特別寄稿の後編。
* * *
そんなある日、文藝春秋の私の担当編集者山口女史から電話がかかって来た。用件というのは以前に文庫出版された「老い力」というエッセイ集についての相談である。山口女史はこういった。
「あの『老い力』のテキストデーターをオンラインに」
ここまではここに再現出来るのだが、その後がいけない。山口女史が何をいおうとしているのかがわからない。わからないから返事が出来ない。彼女は返事を待っている。答えないのは聞こえないからではなく、オンラインとはどういうことかわからないからなのだ。だがそういう私の苦況は山口女史には理解出来ないだろう。この文明の世にそんなことがわからない奴がいるとは夢にも思わないだろうから。オンラインだけではない。山口女史はその後の説明の中で、私には未知のインターネット語(?)を使ったのだ。
そのインターネット語は三つもあって、そのため私はチンプンカンプンだったのだ。
その後山口さんに会った時、私はチンプンカンプンになったわけを説明したところ、彼女はそのインターネット語とやらは私は三つも使っていません、普通にしゃべっただけですといった。そういわれてみるとそうだったかもしれない。やっぱり私の耳は大分悪くなっているのだな、と思う。もう以前のように自分の思い込みに固執しない。しないというより、出来ない。素直なものだ。一瞬暗澹とするが、それもすぐ忘れる。
インターネット、そんなもん、わからなくたって生きていける……。今までに何度、私はそういって来たことか。娘や孫相手ばかりでなく、心許した編集者、私を奇人変人と思っている友人、佐藤愛子らしいいつもの「放言」と聞き流してくれる人ばかりでなく、真面目なインタビュアにまで本気でいってきた。本気だ。全く本気で、真面目に私はそう確信していたのだ。
その確信が揺らいだのは、留守中に届いていた宅配便を見た時である。
「ご不在連絡がスマホに届く!」
という貼紙が包みの上に「これ見よ!」とばかりに貼りつけてあったのだ。
私は意味不明のその貼紙を、意味不明であることに腹を立てて剥ぎ取って丸めて捨てた。
そんなもん、わからんかて、生きていくワイ、と胸に叫んだ。私は感情が高まると生れ故郷の言葉になる。
そうこうして(インターネットを無視していると、生きて行けない時が来るかもよ、と誰かに言われたことがあったが)、それを切実に思い出す時が来たのである。
ある日の朝日新聞の書評欄にぼんやり目を向けていた時のことである。
「……私はこの社長が大好きだ」
という一行が目に飛び込んで来た。この頃の私の視力はとみに衰えて、新聞は読むというより「眺める」という見方になっている。視線を漂わせていると、向う(つまり紙面)の中から言葉、あるいは文章が飛び出してくることがあり、「おっ!」と思って改めて読み直すという読み方になっているのだ。
「一番好きなシーンは、会社のパソコンがウイルスに感染したのは自分がインストールした囲碁ソフトのせいではないかと社長が怯えるくだり。私はこの社長が大好きだ」
それは長嶋有さんの「泣かない女はいない」という短篇小説についての歌人の山田航氏の批評である。私の目が引き寄せられたのは「私はこの社長が大好きだ」という一行だった。小説の登場人物を「大好きだ」と書く書評は珍らしい。その「大好き」の一言で私は「泣かない女はいない」を読みたくなった。書評で「大好き」といわれる社長はどんな人物なのか、私は読まないうちからもう、この「社長」を好もしく思っているのだった。
だがその一方で、私は気がついていた。「会社のパソコンがウイルスに感染したのは自分がインストールした囲碁ソフトのせいではないかと怯える」とはどういうことなのか、私にはわからない。パソコンがウイルスに感染?
「ウイルスとは超顕微鏡的大きさ(約二〇~二六〇ミリミクロン)を有し、生物に寄生し、生きた細胞内でのみ増殖する微粒子。形は球状、棒状などの他、頭部と尾部とをもつものもある……」
広辞苑はそう説明している。それ以外に「ウィリス」といえば「イギリスの医者、戊辰戦役に官軍のために治療に従事云々」というのがあるだけである。仕方なく(したくはないが)私は娘を書斎に呼んだ。パソコンがウイルスに感染したってどういうこと? 娘は「またかいな」という顔になった。面倒くさそうにいった。
「ウイルスってのはパソコンを壊してしまうデーターのことよ」
「ふーん」といった後、私は少し黙り、それから呟いた。「何のことか、さっぱりわからん……」そしていわでものことを言った。
「広辞苑で調べたら、形は球状、棒状などあって頭と尻尾があるって書いてあったけど」
「それって、いつの広辞苑?」
えらそうに娘はいい、机の上の広辞苑を開いていった。
「なにこれ、昭和三十年五月に発行されてるんじゃないの。新しいのを買いなさいよ」
それは表紙裏おもて、手ずれどころかガムテープを二重三重に貼ってそれでもボロボロは隠せないといった代物(しろもの)で、私が三十才を幾つか過ぎた頃、正式にというのもおかしいが、小説家を目ざそうと、本気になった時に買ったものである。昭和三十年じゃ、インターネットなんて影も形もないもんね、と娘はいい、「新しいのを買いなさいよ」といって部屋を出ていった。
その後、私はインターネットの勉強を始めた。孫が先生である。新しく買って来たノートに書いた。
「ケイタイ。
相手を呼び出し、会話する。(電話の機能)
メールのやりとり。
カメラ撮影」
「パソコン(パーソナルコンピューター)
あらゆるジャンルの情報が詰っている。
わからない文字、その意味などすぐわかる。
文書作成。小説も書ける。
計算も出来る」
何しろ孫が先生だから、書き方にとりとめがない。わかったような、わからないようなハッキリしない頭で私は書く
「スマホ(スマートホン)ケイタイ電話プラスパソコン。つまり電話をかけられるパソコン」
そこで質問した。
「じゃあパソコンって、電話をかけられないの?」
「かけられない」
「じゃあスマホは? 電話かけられる?」
「かけられるよ。電話だもの」
「でも電話だけじゃないんだよね」
「そうだよ。だってコンピューターみたいなもんだもの」
「じゃあスマホはパソコンなの?」
「違うよッ! 電話だよッ!」
孫は怒り、私は勉強をやめた。
私は黄土色のソファに座って今日も庭を見ている。蝋梅は散った。白梅がほころび始めている。目の前にテレビはあるが、見るためにそこにいるわけではないから、見ない。ぼんやりと私は思っている。
──そもそも文明の進歩とは、人間の幸福を目指すものではなかったのか?
今は何を目指している?
ただ思いをめぐらせているだけで、答を求めているわけではない。すぐに忘れる。それからまた思う。
──文明は進歩しているが人間は進歩しているのか? 劣化ではないのか? 進歩していると思いながら劣化していっているのではないのか?
かつては同じことを激越にしゃべったものだ。
そして聞き手を困らせたものだ。今は思うだけだ。ぺらぺらしゃべると疲れる。孫が聞いたらいうだろう。劣化しているのはおばあちゃんじゃないの、と。
だが、こうしているのも悪くないのだった。これはこれで悪くない。何をしたい、何を食べたい、誰に会いたい、どこへ行きたいということがなくなっている。脚萎えになったら人に迷惑をかけるから鍛えなければ、とも思わない。
黄土色のソファの一部になって私は生きている。これでよい。これ以上に望むことは何もない。九十七年生きて、漸くそう思えるようになってきたことを有難いと思うことにする。(了)
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