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『母さん、ごめん。』から4年、ついに訪れたこの日

2021-06-20 15:30:00 | 日記

下記は日経ビジネスオンラインからの借用(コピー)です

 自分では「ついに来たか」と思い、想定した範囲内の出来事だと考えていたのだが、予想以上にショックは大きかったようだ。
 この5月、私は仕事の上の失敗をいくつか繰り返した。そのうちのひとつが、日経ビジネス編集Y氏を巻き添えにしたので、私は彼からずばり指摘されたのだった。「松浦さん、お母様の本を書かれる前にも似たことがありました。なにか精神的に参っていませんか」。
 Yさんは言った。
 「書いて吐き出せば、いくらかは楽になるかもしれませんよ」(鬼!)。
 で、私はこの文章を書いている。
コロナ禍の中、久しぶりに母に会いに行く
 今年の5月7日のことだった。私はほぼ1カ月ぶりに母に会いに彼女の入居するグループホームに行った。
 グループホームは自宅から8kmほどのところに位置している。
 新型コロナウイルスによるパンデミックが始まる前、私はほぼ1週間に1回の割合でグループホームに通っていた。8kmというのはバイクで行けばすぐ。自転車で往復することも大してつらくはない。東京にいる弟は1カ月に1回、ドイツ在住の妹は年2 ~3回程度の帰国の度に母のところに顔を出す、というペースで、我々きょうだいは母と面会していた。
 それがパンデミックで崩れた。それまではホームの母の居室で面会できたものが、家族でも建物の中に入れなくなった。面会は窓越しのみ。それも時間と回数をきびしく制限されるようになった。職員の方たちと話をするのも、建物の外である。もちろんマスク必須だ。2020年春以降、私の面会頻度は、1カ月に1回、時にはそれ以上間隔が空くようになった。
 もちろんやむを得ない制限だ。新型コロナ肺炎の集団感染が起きてしまえば、体の弱った老人が多数入居するグループホームなどひとたまりもない。まず間違いなく死者がでるだろう。
 パンデミックが音もなく近づいてきていることは、ホーム側も家族の側もはっきり認識していた。近隣の老人施設でも、主に健康で外出可能な老人が入居するサービス付き高齢者住宅を中心に、複数の集団感染が発生していた。母の入居するグループホームだって、いつ集団感染の修羅が起きるとも限らない。
 5月頭の時点では職員および入居者のワクチン接種の日程が決まったところだった。6月中に3週間間隔で2回。すると免疫が定着するのは7月の半ばということになる。なにかとお世話になっている職員のOさんは面会に当たっての会話で「なんとしても、7月半ばまでがんばってウイルスの侵入を防がなくてはなりません」と、やや緊張した面持ちで話してくれた。
 いや、それ以降だって気は抜けないだろう――Oさんの話を聞きつつ私は考えていた。いかにファイザー・ビオンテックのmRNAワクチンが優秀で95%を超える感染予防効果があるとしても、感染はゼロにはならない。全国民へのワクチン接種が進み、集団免疫が確立して身の回りからウイルスがいなくなるまで、老人施設の臨戦態勢は続くのだ。
 グループホームの裏手に回り、母の居室の窓へと向かう。母への面会は、居室の窓越しだった。窓は断熱性の良い二重窓で、耐火性の高い網入りガラスが入っている。ここしばらくは窓を開けることも禁止だった。そうなると会話は、窓の内と外で大声を張り上げねばならない。もう、母は「大声を出さねば話ができない」というような状況判断ができなくなっている。内側で職員の方がついて、母の話を大声で伝えてくれていた。
 この日は15cmほど開けて会話をしてもよいということになった。もちろんマスクは必須だ。面会時間は15分に制限されている。
ああ、ついにこの日が来たか
 職員の方に「このところ機嫌の良いときと悪いときがあります。今はまあまあですね」と言われて、車椅子に座った母に声をかける。「元気そうだね。来たよ」
 久しぶりに母の肉声を聞いた。
 「あんた誰?」というものだった。
 正直、聞いた時点でのショックはあまりなかった。
 「ああ、ついにこの日が来たか」という、良く言えば客観的で、悪く言えば他人事の感想が湧いた。
 母がアルツハイマー病を発症したときから、いつかこう言われることになるだろうとは覚悟していた。
 最初の兆候に気が付いてから6年10カ月、グループホームに入居してから4年4カ月。
 最初の介護認定が要介護1だった母は、自宅で介護するうちに要介護3になり、グループホーム入居から2年で要介護5となった。もう歩けないし、身の回りのことは食事から排せつに至るまで、すべて周囲に頼らねばならない。その間に3回も入院したし、「これはもうダメかも」と、葬儀社に葬儀の出し方を聞きに行ったこともあった。
 が、私は、母の頑強さをなめていたのだった。
 昔っからことあるごとに「あんたたちが風邪を引いても、私は風邪を引かなかった。母親が倒れると家庭は大変なのだから、あんたたちは私が頑丈であることに感謝しなさい」と威張っていた人だ。「インフルエンザの予防接種なんか受けなくても、インフルエンザなんか、かかったこともない」とも言っていたな。
 その丈夫さは想像を超えていた。
 1年前は、ほとんど話せなくなり、食も細り体重が減少していたものが、2020年の暮れあたりからは回復し始めて、食欲も出て来たのだ。職員の皆さんは「こんなケースは初めてですね」と言い、子どもらは「死に神を退けたか」とほっとしたところだった。
私はセワシくんなのか
 で、元気になってくると今度は「あんた誰?」だ。
 「あなたの息子だよ」と返事すると「子どもなんか産んでない。結婚なんてしてない」と言う。仕方ないのでスマートフォンで亡父の写真を「お父さんだよ」と見せるが、「知らない」と言う。心中、あの世の父に「済まぬ」と手を合わせる。
 そのうちどんどん機嫌が悪くなってくる。「ああもう、疲れて疲れてしょうがないからもう寝るんだ。寝るんだから、おまえ邪魔だ。あっちいけ」と怒る。
 言葉もろくに出なかった間は、まだ私が分かっていたようだったのに。私の顔を見ると笑い、「帰るよ」と言うと手を振っていたのに。
 怒って取り付く島もない母をなだめているうちに、面会時間は過ぎた。「また来るよ」と言って、窓から離れ、ホームの玄関に戻る。そこで職員のOさんと、「こんな感じでした」と話をする。報告会というか反省会というか……一種のデブリーフィングだ。
 Oさんによると、このところ「家に帰らなくちゃ、妹が一人で待っている」というような言葉がよく出るという。どうやら、母の自意識は現在を離れて、記憶の中にある過去を行ったり来たりしているらしい。意識が少女時代に戻っていたら「子どもなんか産んでない。結婚なんてしてない」と言うのももっともだ。
 「あなたの息子だよ」などという私は、『ドラえもん』に出てくるのび太の子孫、セワシくんみたいなものだろう。「あんた誰?」というのも無理はない。
 その一方で「疲れて疲れてしょうがない」というのは、老いて動かなくなった今現在の体が発する信号そのものだ。Oさんは「なにか肉体的不快感があるのかもしれません。それはどこかが痛いのかもしれないし、痒いのかもしれないけれど、言葉にできないんです。だからどんどん機嫌が悪くなっていく」と言う。
 「我々は話を合わせて会話をしますので」というOさんに、母の子ども時代のエピソードの話をする。海軍軍人の娘として生後しばらくあちこちを引っ越して移動していた母だが、物心ついた後は祖父が横須賀、そして東京の勤務となったので、神奈川県の逗子に住むことになった。逗子の思い出はいくらか聞いているのでOさんに伝えて「これで話をつないでください」とお願いする。
「スローターハウス5」を思い出す
 記憶の中の人生の時間を主観的に行ったり来たりする――まさにそんなSF小説がある。カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』(1969年)だ。
 主人公のビリー・ピルグリムは、記憶のままに自分の人生の任意の時へとタイムトラベルを繰り返す。ジョージ・ロイ・ヒル監督による映画化(1972年)では、冒頭で年老いたビリーがタイプライターを打っているとタイムトラベルがおきて、第2次世界大戦・欧州西部戦線で友軍とはぐれて雪の中を一人さまよう若き日のビリーに場面転換するのだった。
 ひょっとするとヴォネガットは認知症の身内を観察することで、この作品のアイデアを得たのかもしれないな、と考える。
 この小説では、意識はいつでも自分の人生における任意の時点にタイムトラベルできるのだから死は無意味になる。というわけで、死がことさらに軽く描かれている。
 が、現実は「スローターハウス5」よりもずっと残酷だ。少女に戻った母の自意識は、依然として衰え行く肉体の中にあって、衰え故のなんらかの不快感を抱き、しわがれた老女の声で「疲れて疲れてしょうがない」と不機嫌さを発散するのだ。
 母は自らの人生で得たそれなりに豊かな蓄積、豊かな記憶を、アルツハイマー病によって、失いつつある。まるで大気圏に再突入して分解する探査機のように、母は不可逆の分解プロセスをたどりつつある。
 そのひとつの表れが「あんた誰?」だったのだ。
 そうだった。Yさん、あなたの言った通りだ。そろそろ還暦が見えてきた身であっても、母に「あんた誰?」と言われるのはきびしいもんだよ。さびしいもんだよ。
松浦 晋也
ノンフィクション作家



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