史書から読み解く日本史

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後漢時代の書中に記された倭人

2019-02-07 | 有史以前の倭国
次に、現存する書物の中で「倭人」という言葉が初めて使われたのは『漢書』になります。
『漢書』とは、漢の高祖から王莽までを紀伝体によって記した(但し本紀は第十二代平帝まで。王莽は王莽伝に記す)漢朝の国史で、本紀十二巻、列伝七十巻、表八巻、志十巻の計百巻から成ります。
その原型となったのは、後漢の世祖光武帝に仕えた史家の班彪が、司馬遷の『史記』の後を継ぐ形で編纂した『後伝』六十五編と伝えられます。
しかし班彪は『後伝』を完成させることなく世を去り、その後に同じく後漢朝に仕えた息子の班固が、朝廷の許可を得て亡父の遺業を引き継ぎ『漢書』として成立させました。この点でも亡き父の遺志を継いで史書を著した司馬遷とよく似ていますが、『史記』が古の五帝から漢の武帝までの通史であるのに対して、『漢書』は漢の建国から滅亡までの一国史であり、この形式は国史編纂の基本として後々まで踏襲されて行くことになります。

そして扱われている時代が一部重複していることや、著者である司馬遷と班固の歴史に対する姿勢が好対照であり、それがそのまま『史記』と『漢書』の史観の相違となって現れていることなどから、何かと比較されることの多い両書ですが、元よりどちらが史書として優れているとか、どちらの編修方針が正しいとかいう話ではありません。
しかしよく似た境遇に端を発しながら、相反する性格を持つに至ったこの二書が、今もって漢語圏に於ける史書の双璧であり、東亜史を学ぶ者にとって必読の書であることに変りはなく、後世の全ての史書は『史記』と『漢書』を継承する形で成立しています。
尤もこの両書の存在が余りに偉大であったが故に、『史記』の完成から約二千年後の清代に至るまで、漢語の史書は遂に両書の域を超えることができず、近代史学への進化を遂げられなかったのもまた事実なのですが。

但し班固は、妻の一族が絡んだ事件に連座して投獄され、『漢書』を一部未完のまま獄死しており、それを補充して同書を完成させたのは妹の班昭でした。
この班昭は才女の誉れ高く、和帝の命で後宮の師範に任ぜられたほどの女性ですが、『漢書』の著者が班固と班昭の連名になっていたりするのは、こうした理由によります。
また些か事情は異なるものの、司馬遷もまた主君である武帝の不評を招くことを恐れて、自身の存命中は敢て『史記』を公にせず、同書を娘(夫は昭帝に仕えて朝廷の高官を歴任した楊敞)に託して世を去っています。
因みに班昭が兄班固の遺稿を受け継いで編修の作業を行ったのは後述する東観であり、前漢の国史である『漢書』もまた東観で完成した訳です。

その『漢書』地理志の中に、
 
然東夷天性従順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫
然して東夷の天性従順、三方(北西南)の外に異なる、故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す、以(ゆえ)有るかな
 
との一文があり、これに続いて、
 
楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云
楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す、歳時を以て献見すと云う
 
と記されています。

そして『漢書』内での倭人に関する記録はこれだけなので、後の史書のように列伝(東夷伝等)ではなく地理志の中に収められています。
ここでは孔子の故事から話を進めていて、東夷の気性が従順(倭人に関して言えば、そもそも人偏に委と作る「倭」自体が従順の意を持つ)であること、倭人の居住地が東の海上であることから、『論語』の中の二つの話を足し合わせて、それを続く倭人の話と結び付けているのが見て取れます。
しかし当然ながら孔子が道の行われないことを悼んで海に浮かびたいと言った(公治長篇)ことと、同じく九夷に居たいと言った(子罕篇)ことと倭人とは、実際には何の関係もありません。
何より孔子が生きた時代には、未だ海中に倭人がいるなどという発想はなかったでしょう。

ただ敢て孔子の逸話に倭人を絡めている辺り、大陸民族である漢人にとって、海の彼方から渡来する倭人という集団は、古の仙人国の伝承とも相まって、何とも神秘的で不可思議な存在だったのでしょう。
そして『漢書』のこの一文にも見える通り、漢代も時が過ぎると東の海上には倭人の国があるという認識が定着して行き、それに伴って仙人国の幻想は次第に薄れて行ったようです。
ただその後に発刊された書物の中にも、倭国を古の仙人国だとする主張は特に見当らないので、その辺は漢人の中で線引きが為されているらしい。
尤もそれは文字として残されていないだけで、以後も朝廷の使者や交易商など、大陸と日本との間を往来した人々は、海上にあるという仙人国の所在を探ってはみたものの、終に見付けられなかったというだけの話なのかも知れません。

楽浪郡は、漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼした際、その故地に設置した漢四郡(朝鮮四郡とも)の一つで、現在の北朝鮮一帯を占めていたと推定される郡であり、当時の漢帝国の領土の東端でした。
そしてその楽浪郡の海中(海上)に倭人がいて、その地は百余国に分かれていて、歳時には献見しているというのですが、実のところ地理志のこの記述に関しては、果してそれが前漢期の時事であったかどうかは疑問と言えます。
と言うのも班固は後漢の二代明帝の下で光武帝紀の編纂にも関わっており、『漢書』を執筆したのは続く三代章帝の治世なので、後に『後漢書』の著者范曄が、『魏志』の倭人伝から引用した邪馬台国の話を自著の倭伝へ挿入したように、倭奴国が光武帝に朝貢した時の情勢をそのまま『漢書』に転載した可能性は否定できません。

因みに范曄は『後漢書』倭伝の初頭で、「倭は韓の東南大海の中に在り、山島に依りて居を為す。凡そ百余国。武帝の朝鮮を滅ぼしてより、使訳漢に通ずる者三十許国」といった具合に、他の史書の倭人に関する文言を独断で取捨して、時間軸を無視した創作をしていますが、無論これは有り得ません。
いずれも正史と呼ばれる史書ですらこの通りですから、実際に光武帝以前の大陸にあって、果して海中の倭人という民族がどの程度知られていたのかとなると、現存する僅かな文章からそれを察するのは甚だ困難と言えますが、四郡が設置された時点で東夷の大まかな情勢は把握していたと思われるので、その存在くらいは知られていたと見るべきでしょうか。
 
他には『漢書』とほぼ同時期に著された『論衡』という書物にも倭人に関する記事が見えます。著者の王充は江南の会稽の生まれで、若い頃は首都洛陽に出て班彪に師事しており、五歳下の班固とは互いに知る間柄だったようです。
書名『論衡』の「衡」とは天秤のことで、その名の通り天下に流布している様々な思想や学説を秤に掛けて、事の是非正邪を論評して行くという趣旨で書かれており、どちらかと言えば思想書に分類されます。
学者としての王充の生涯は決して恵まれたものではなく、班彪の下で学び終えると洛陽で仕官をせずに若くして故郷へ戻り、以後は地方の下級官吏として勤務したり、郷里の若者に講義を開いたりしながら著述を続け、文字通り半生を掛けて『論衡』を完成させたのだといいます。

その『論衡』に記された倭人の話は次のようなものです。
 
周時天下太平倭人來獻鬯草(巻五、異虚篇)
周の時、天下太平にして、倭人来りて鬯草を献ず
 
周時天下太平越裳獻白雉倭人貢鬯草 食白雉服鬯草不能除凶(巻八、儒増篇)
周の時、天下太平にして、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢ず
白雉を食し鬯草を服すも、凶を除く能わず
 
成王時越裳獻雉倭人貢鬯(巻十九、恢国篇)
成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は鬯を貢ず
 
以上それぞれ別の篇に三度記されているものの、その内容はほぼ同じで、天下泰平の周の成王の時代に、越裳という民族は白い雉を献じ、倭人は鬯という草を貢いだといいます。
周の成王は、殷を滅ぼして周を興した武王の子で、周王朝の二代目の王ですから、その治世と言えば『論衡』の時代から見ても千年以上昔の話になります。
従ってその事件の起きた年代としては、最も古い倭人の記録ということになりますが、やはりこれは俄には信じ難い話であって、常に越と倭が同列に記されているところを見ても、むしろこれは史実と言うより、王充の故郷である江南の伝説の類でしょう。
ただ面白いのは、この『論衡』での記述に限らず、河北では東夷の一派として括られている倭人が、江南では常に南蛮(越)と並んで扱われていることで、その後の大陸から日本列島への文化移入の経路も含めて、河北(黄河文明)と江南(長江文明)という異なる文化を持つ南北両地域の人々と倭人との交流は、案外また違ったものだったのかも知れません。

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