史書から読み解く日本史

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人種から見た倭人

2019-02-08 | 有史以前の倭国

ではこれ等の書物に「倭」とか「倭人」などと記された人種が、我々日本人の祖先に当たる人々だったのかと言うと、やはり広義には後の日本民族とも共通の祖先を持つ集団だったのではないかと考えられるものの、果して直接の祖先だったどうかとなると、これは何とも言えなくなります。
前出の越を例に挙げてみると、かつて江南は「百越」と呼ばれた非漢人系の人々の住む土地でした。
これも広義には越という一つの人種として括られていますが、百越という名称の示す通り、実際にはいくつもの異なる部族の総称であったと考えられ、百越人の間でさえ互いに同種という意識があったかどうかは定かでありません。
その百越の中にあって、長江下流域の南部を地盤としていた越人の立てた国が春秋戦国時代の越国で、首都は会稽に置かれ、現在の浙江省一帯を領土としていました。
その越国が楚によって滅ぼされると、更に南方の福建省辺りへ逃れた越人の一派は、現地の百越を取り込んで新たに閩越を建国するなど、倭人同様支那文明を取り入れながらも常に独立心は強いのが特徴です。

やがて秦による統一以降、黄河の勢力が南方へ浸透して行くに従い、越と呼ばれた人々も次第に減少して行き、今では唯一ヴェトナムを指して越南と言うに過ぎなくなっています。
またかつての名残で広東一帯を粤と呼び、広東語を粤語とも言いますが、既に住民の大半は漢人となっています。
但しこうした事実は、何も越種の多くが絶滅してしまったことを示している訳ではなく、越人の居住地が秦や漢といった大帝国の領土となったことで、越人もまた長い年月の中で漢人に同化してしまっただけのことです。
当然そこには北人を越の地へ入植させる一方で、越人は北方へ移住させるといった、現代にも続く中央政府による同化政策がありました。
特に漢の武帝が閩越の一派である東越を滅ぼした際には、同国の住人を尽く江水と淮水の間に移住させたため、東越の故地は無人になってしまったといいます。

同じことは日本の蝦夷についても言えて、奈良時代までは蝦夷(えみし)と言えば、奥羽地方とその先住民である毛人と呼ばれた人々を指しましたが、平安時代以降奥羽が開拓されて行くに従い、蝦夷という言葉も(蔑称としては残ったが)次第に使われなくなり、時代が下って江戸時代になると、蝦夷(えぞ)というのは専ら北海道とその地に住むアイヌ人を指すようになりました。
そして江南から越人が消えたのと同じく、かつて毛人と呼ばれた人々もまた日本列島から姿を消してしまった訳ですが、それは何も彼らが絶滅したからではなく、やはり長い年月の中で和人に同化してしまったに過ぎません。
逆に和人の側からしてみれば、要するに自分達の居住していない土地が「蝦夷」なのであり、同胞が入植して生活するようになれば、そこは蝦夷ではなくなる訳です。

従って古墳時代には毛人と言われ、奈良時代以降に蝦夷と呼ばれていた人々は、広義には更に北方のアイヌ人とも共通の祖先を持つ(純縄文系の)人種だったかも知れませんが、少なくとも両者の間に直接の血の繋がりは認められず、ましてや平安時代に坂上田村麻呂や源義家と戦っていた蝦夷は、決してアイヌ人の祖先などではありません。
同じく春秋時代に呉や楚と争っていた越人は、時代を超えて同じく「越」と呼ばれている事実が示すように、後の南越人や粤人とも同じ遺伝子の系統を有する(漢人とは異なる南方系の)人々だったかも知れませんが、その越人が現代ヴェトナム人の直接の祖先であろう筈もありません。
従って後のアイヌ人やヴェトナム人が、古の蝦夷や越人の記録から知り得るのは、かつて自分たちと同種であったと思われる人々が、今よりも遥かに広範囲の土地を自らの生息圏として、既に他人の土地となって久しい場所で活躍していたという事実だけでしょう。

こうした史実から見ても、古の漢籍に見える倭という存在が、果して我々日本人の直接の祖先であったかどうかは分かりません。
むしろ前記の越や蝦夷と同じように、国家という枠組の外で広範囲に活動していた倭人という民族が、文明の拡大と共に各地から姿を消して行き、大陸の支配の及ばなかったこの日本列島でのみ生き残ったと考えるのが自然でしょうか。
ただその場合でも特に倭人が面白いのは、今述べた蝦夷や越人ばかりでなく、西洋で言えばゲルマン人にブリテン島を追われたケルト人の場合であっても、原則としてある一定範囲の土地に連続して生活圏を広げていたのに対して、倭人の場合は日本列島から朝鮮半島に掛けての土地を占有していたのではなく、この日本列島を除けば、大陸や半島の各地に点在していたとしか思えないことです。

近年の遺伝子解析によれば、倭人の子孫である日本人は、この国の先住民族であった縄文人と、一般に弥生人と言われる大陸系の渡来人の混血であるといいます。
そして日本人即ち倭人の原型とも言える縄文系の遺伝子が、朝鮮半島(特に北部)の人々には殆ど含まれていないこと思えば、あくまで倭人という人種はこの日本列島で形成されたと考えるのが最も自然な解釈となります。
従ってかつて大陸の住民から倭と呼ばれていた人々は、日本列島から朝鮮半島に掛けて広範囲に分布していた民族ではなく、むしろこの国の中で新たに誕生した倭人という民族が、かつて渡って来た航路を再び船に乗って遡り、随所に居住地を作っていたと見ることもできるでしょう。

また本来は全く異なる民族が、時代によって同じ名称で呼ばれていることも決して珍しくはありませんから、或いは古の倭人と日本人の旧称である倭人との間には、特に祖先を共有するような血の繋がりはなかったかも知れません。
つまり今から二千年以上前に支那大陸の東端付近で倭人と呼ばれていた人々が、時代の流れの中で他民族に同化するなどして姿を消した後、改めて日本人の祖先に「倭人」の名称が充てられた可能性はあるでしょう。
ただ少なくとも我々の直接の祖先もまた倭人と呼ばれた事実が示すように、両者の間には同じ呼称が充てられるだけの文化的もしくは外観的な共通性があったのでしょう。
従って古の漢籍に記された倭人という人々もまた、そこに我々へと続く遺伝子の系譜があろうとなかろうと、何らかの形で現代日本人とも共通の特徴を持つ人々であったことは間違いないものと思われます。

では倭人とか日本人と呼ばれる人種は、いつ頃どのようにして形成されたのでしょうか。
前記の如く我々日本人を構成している遺伝因子は、この国の先住民である旧モンゴロイド系の縄文人を土台にして、そこへ江南から越へと分布する南方系の新モンゴロイドと、蒙古や東胡にも近い北方系(膠着語族)の新モンゴロイド、そして漢民族に代表される中間型の新モンゴロイドが混在する形で成立しています。
一般に新旧モンゴロイドを区分する基準としては、寒冷地適応型の身体的特徴を有しているか否かで判別することが多く、コーカソイドから分岐した当初の面影を色濃く残している旧モンゴロイド系の縄文人が、地中海周辺の人々にも似た容姿をしているのに対して、新たにこの列島へ移住してきた新モンゴロイド系の人々は、現代の東亜の諸民族でも主流となっている所謂「アジア人」の祖先となります。

そして旧日本人である縄文人と、新日本人である弥生人について、最も明確な相違である身体的な特徴は元より、血液型の割合や最新の遺伝子研究等から、この列島に於ける両者の分布の濃淡を見てみると、やはり西日本では全体的に弥生人の遺伝子が強く、東(北)へ行くほど縄文人の血が濃くなっています。
また西日本であっても、九州南部や離島など中央から遠く離れた地域や、四国の外縁のように半孤立した沿岸地域では、内地に比べて先住民系の血統の度合が強くなる傾向が見られ、これは縄文人が弥生人に生息圏を奪われて、次第に列島の外側へと追い遣られて行った状況を如実に現しており、ちょうどブリテン島に於けるケルト人とゲルマン人の関係にもよく似た分布が見て取れます。

言語的に見れば、この国の公用語である日本語は、蒙古語やツングース語と同じく北方系の膠着語の一派であり、動詞の用法の類似性等からして、最も近縁の言語が朝鮮語であることも間違いありません。
但し先住民である縄文人の言語については、人種的に最も近い(と言うより恐らくはほぼ同種)アイヌ人と同系の言語だったと推測され、そのアイヌ語はSOVなど基本的な文法こそ日本語と同じであっても、言語体系としてはユーラシア系の膠着語とは明らかに別系統で、むしろ北米原住民の言語に近いものです。
因みに明治以降日本に併合された琉球については、倭人以上に縄文人の血を色濃く受け継いでいる(つまり弥生人との混血が薄い)のは事実ですが、少なくとも江戸時代の時点で既に琉球語は、本土と同系の膠着語であり、言語学的には日本語の一方言といった位置付けとなります。

その地域の公用語が何かというのは、同地に定住する民族の新旧やその分布云々よりも、むしろ政治的な力関係によって決せられることが多く、従って現代まで続く日本語の原形が大陸系であるという事実は、国家としての日本の成立を探る上で最も重要な情報の一つとなります。
例えば最新の人種分岐の研究によると、日本人は同じ東亜系の漢人やカンボジア人とも極めて近種だといいます。
しかし一方で彼等の言語は、チベットから東南アジア一帯に広く分布している孤立語系であり、膠着語系の日本語とは全く文法を異にする言語です。
そして日本語の源流がユーラシア大陸にあり、朝鮮語が最も近縁であるということは、少なくとも当時のこの列島の人種構成がどうであったにせよ、現代まで続く国家としての日本の土台を築いたのは、北方から朝鮮半島を経由して移住して来た集団だったことを意味しています。

但し日本語の原型となる言葉を話し、この国の基礎を築いた人々というのが、一体どのようなルーツを持つ集団だったのかという点については、今もって全く解明されていません。
例えば日本語と朝鮮語が極めて近縁なのは事実にしても、それは基本となる文法や個々の単語の用法が類似しているというだけのことで、実のところ語彙については殆ど同一性が見られません。
これがゲルマン系の諸民族だと、英語やドイツ語に限らず他の諸言語についても語彙の同一性が数多く見られ、それぞれが古代ゲルマン語から分岐したことも容易に理解できます。
しかし日本語と朝鮮語に関して言えば、同系統の膠着語という以外は全くの別言語であり、少なくとも語彙に殆ど共通性が見出せないということは、かなり古い時代に両者は枝分れしたとものと思われます。

新羅が朝鮮半島を統一する以前には、朝鮮にもいくつかの異なる言語を話す民族が存在しており、『魏志』東夷伝には同地の諸国として、高句麗・東沃沮・濊・韓の四国が紹介されています。
そして高句麗・東沃沮・濊の三国は言語がほぼ同じと記されているので、当時の半島東部から北部一帯は高句麗系の諸部族の勢力圏であり、その高句麗語は夫餘語とも同系とされていることから、満州から朝鮮半島にかけての広い地域が高句麗・夫餘系の一大民族圏だったことが分かります。
少し時代が下ると、南の韓は馬韓・弁韓・辰韓の三国に分裂(というより弁韓と辰韓が馬韓から分離)し、その分布について中国側の史料では、弁韓(後の任那)と辰韓(新羅)の二国は同族で、馬韓(百済)とは別種だと記されています。
つまり新羅によって統一される以前の朝鮮半島には、大きく分けて高句麗(及び夫餘)系・新羅系・百済系の三つの主要言語が存在した訳です。

三韓の一国で、後の新羅の前身となる辰韓は、もともと秦の過酷な労役を逃れて馬韓に移住してきた秦の人々が、馬韓から東端の地(日本海側)を割譲されて住み着いたのが起源だと伝えます。
無論ここで言う秦人というのは必ずしも関中の秦人ではなく、あくまで秦帝国から来た人々という意味で、辰韓を秦韓とも書くように、馬韓人が一方的に移住者を秦人と呼んだものです。
そうした経緯から辰韓の言語には秦語が混在していたといいますが、果して後の新羅語となる辰韓語が、支那大陸と同じ孤立語だったのか、高句麗や百済と同系の膠着語だったのかは不明です。
ただ後年新羅が民族名を捨てて唐風の姓名を名乗り、文書を全て漢文で統一したことを根拠に、新羅語は孤立語に近かったのではないかと推測する意見もありますが、未だに定説は得られていません。

そして最初の統一王朝が新羅であった以上、誰しも現代まで続く朝鮮語は新羅語を原型にしていると考えるのが当然ではあります。
しかし新羅の滅亡後に朝鮮半島を統治した王朝を見てみると、後高句麗の後身である高麗と、その高麗の重臣が建てた李氏朝鮮といった具合に、代々旧高句麗系の血統が続いているので、その辺りの整合性についてはよく分かりません。
因みに古代日本とも友好関係にあった百済は、新羅や高句麗とは全く別の言語を話していたものと考えられますが、滅亡後は統一国家に同化されてしまったため、百済語そのものは後世に継承されていません。
また旧百済領の沖に浮かぶ済州島には、今も朝鮮語とは異なる独自の言語が伝わっていますが、やはり日本語との類似性は見出せません。
従って言語系統から有史以前の日本の支配階級の出自を探るのは甚だ困難な作業で、そうした不確定さが騎馬民族征服説のような突拍子もない陳説を招く遠因ともなっているのです。


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