史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

後漢書と范曄

2019-02-12 | 有史以前の倭国
西晋から東晋の時代に掛けて、『東観漢記』の記録を原典として、後漢の一代史を再編しようという試みが数多く為され、確認できるだけでも七種の『後漢書』が作成されており、『続漢書』や『後漢紀』など書名の異なるものも含めれば、その数は更に多くなります。
范曄の『後漢書』もそうした流れの中で成立した訳ですが、その完成度の高さから次第に好評を得て、晋代までに発刊された他の後漢書が淘汰されて行く中で、宋代という最も後発の范曄の書が、時代の流れと共に正史としての地位を確立して行きます。
尤もここで言う完成度というのは、史書としての正確性という意味ではなく、専ら文章(文飾)の出来栄えに依るもので、著者の范曄自身もそれを認めている通り、あくまで史学と言うよりは文学的な要素が強いものです。
 
因みにこれ等の後漢書に先立って世に出された『三国志』は、著者である陳寿の客観的な姿勢と、個々の時事の正確性、見事なまでに簡潔な文章で知られます。
そして当然そうした史観が多くの支持を得たのは事実なのですが、支那大陸の長い歴史の中でも特に人気のある時代を題材としながら、必要最低限の文章で史実だけを淡々と記す同書を惜しむ声も多く、後年『三国志演義』のような物語が描かれたのは、その辺にも一因があるものと思われます。
また『三国志』のそうした特徴は、当時の晋朝内で陳寿の置かれていた状況も然る事ながら、時期的に見て『東観漢記』を反面教師とした可能性もあるでしょう。
逆に范曄が『後漢書』を著述するに当り、史実の正確性等よりも文飾を優先するような姿勢で臨んだのは、やはり『三国志』に対する評価も多少は影響しているのかも知れません。
 
また余り語られることはありませんが、これだけ多くの後漢書が書かれた背景の一つに、紙の普及があります。
蔡倫によって改良された紙は、筆記にも耐え得る素材として竹簡や布からの代替が進み、後漢時代を通して広く普及しました。
竹や皮に比べると甚だ脆いものの、竹簡ならば積み上げられていたような量の文書を、気軽に持ち運べるほど小さく纏めることができ、保管にも場所を取らない紙の登場によって、それまでは限られた者達しか保有できなかった書物が写植によって量産され、(安くはなかったとは言え)代金さえ払えば誰もが手に入れられるようになったのです。
それと同時に詩や論文といった自らの作品を発表することも容易になっており、特に後漢後期以降というのは、まるで堰を切ったかのように様々な書物が相次いで発刊された時代でもありました。
 
そして後漢の断代史として著された史書は数多いものの、ほぼ完全な形で現存するのは范曄の『後漢書』と東晋の袁広の『後漢紀』のみであり、皮肉なことにその両書は元より全ての後漢史の原典となった筈の『東観漢記』の方が早くから散逸してしまっていて、今では他書に引用された部分等が断片的に伝わるばかりとなっています。
ただ『漢記』そのものは散逸してしまったと言っても、その後に作られた後漢時代を扱う史書は尽く『漢記』を原本としているので、そうした意味では決して『東観漢記』が消滅した訳ではなく、『後漢紀』や『後漢書』といった史書に形を変えただけだとも言えます。
試みに残存する『漢記』の記事と、『後漢書』の同じ個所を照合してみると、その内容はほぼ『漢記』そのままと言ってよいものです。
 
そもそも『東観漢記』という官撰史書がありながら、なぜこれほどまでに後漢の断代史が著作されたのかについては不明な点が多く、前述の通り『漢記』は複数の史官による共作だったので、単純に『史記』や『漢書』に比べて史書としての出来が悪かったのだとか、或いは後漢から三国時代を経て魏や晋へと政権が移行する中で、実はかなり早い時期から『漢記』は欠損してしまっていて、後漢書の多くはそれを補完するために作られたものだとか、或いは後漢の存続と共に執筆されてきた『漢記』は、後漢が滅亡することによって完結するので、当然ながら最後の編纂が行われたのは献帝から魏王曹丕への禅譲後であり、(簒奪者である)魏に仕える史官が同書を完成させたことが(後世はそれが常態となりますが)不評だったなどとも言われますが、未だ解答は得られていません。
 
ただ『東観漢記』の散逸は致し方のない面もあって、日本では王朝が途絶えなかったので、官撰の史書がそのまま正史として受け継がれてきましたが、もしどこかで王系が代ってしまっていたら、やはり六国史の欠損は免れなかったでしょう。
むしろ王系が代って新朝の治世となれば、編纂の時期も編者も異なる六国史を『日本書』に再編しようと考える方が自然であり、もし文才のある史家が秀逸な一個の史書に纏め上げてしまえば、恐らく後世の多くはそちらを支持したものと思われます。
そうなれば史料としての役割を終えた旧朝の官撰史書に用は無くなる訳です。
 
もともと漢人は日本人と違って徹底して個人主義なので、一人の人間が自身の名に於いて成し遂げた功績は評価しても、責任の所在も明確でないような集団的成果を基本的に認めない傾向にあります。
それは著書のように、作者個人の名が前面に現れる行為に対しては殊更に顕著で、『東観漢記』が余り評価を得られなかった一因もその辺りにある訳ですが、見方を変えれば著作権の曖昧な『漢記』は、仮に後世の人間が独自に同書を再編し、それを自身の名で発表したとしても、特に批判される謂れはないということであり、このことは誰に対しても後漢の国史を著述する機会が残されていたということでもありました。
 
例えば『史記』や『漢書』を書き直すなどという行為は、たといそれが誰であろうと許されるものではありませんが、官撰の『漢記』に対してはそれが可能だったのであり、もし再編の作業が成功して『漢記』に取って代ることができれば、史家として司馬遷と班固の次に自分の名を刻むことも可能となります。
そして最終的にその栄誉を手に入れたのが范曄だった訳ですが、既に『東観漢記』という史書がありながら、晋代以降に数多くの後漢書を生み出した背景が明らかではないように、既に複数の後漢書が世に送り出されているにも拘らず、東漢の滅亡から二百五十年も後の南北朝時代に、范曄が『後漢書』の著述を思い立った動機についてもまた今もって定かではありません。
何しろ支那史の中での後漢時代というのは、我が国に於ける平安後半期とよく似ていて、史家としては余り執筆欲をそそられるような時代でもないのです。
 
確かに後発という点では、袁広の『後漢紀』もまた他書に比べれば後発であり、范曄も自著の執筆に臨んでは同書を参考にしたと言われますが、『後漢紀』が後漢末の学者である荀悦の著した『漢紀』に倣って編年体であるのに対して、范曄の書は他の後漢史と同じく紀伝体です。
つまり袁広は、あくまで荀悦の『漢紀』の続編として『後漢紀』を著したのであり、編纂を志した時点で既に、他の後漢史とは些かその趣旨を異にしていて、それが范曄と並んで袁広の書を後世にまで伝えた所以でもあるでしょう。
しかし他の後漢史は尽く紀伝体であり、言わば『漢書』の続編として著されたものでしたから、西漢の国史である『漢書』が班固の一書であるように、『後漢書』もまた范曄の一書を残して消え去る運命だったのかも知れません。
 
また『後漢書』は、他の正史に比べてその成立の過程が特殊であり、その点でも異質な史書になります。
と言うのも通常こうした国史を著作する場合は、その史料として朝廷の保有する公文書や旧朝の記録を閲覧する必要があります。
何しろ一国の歴史を編纂するともなれば、歴代皇帝の実録を始めとして、臣下の経歴や系譜、国の基本法や諸制度、朝廷の議事録や人事、帝室の祭祀や諸行事、その時々の事件や災害、外交や戦役の記録など、それこそ気の遠くなるような量の情報を網羅しなければならず、それを知るための文書が保管されているのは、唯一国家の書庫だけなのです。
ましてや既に王朝が幾度も替って、史料となる文書の大半が失われてしまっているような状況では、もはや何もできないと言ってよいでしょう。
 
従って本来こうした史書を編纂するという行為は、朝廷の公文書館へ自由に出入りし、その閲覧を許された者だけに可能な作業なのであり、どれほど史家としての資質があろうと、その立場にない者には不可能です。
例えば司馬遷は初め大史令(父の司馬談も大史令の職にあった)、後に中書令と、常に朝廷の保管する史料や重要文書を扱う部署に席を置いており、班固と陳寿に至っては共に史家としての仕事が正職のようなものでした。
そして彼らの著した『史記』『漢書』『三国志』は、いずれも形式上は私選ということになっていても、あくまで朝廷の許可を得た上で執筆されたものであって、個人の蔵書を頼りに自宅の書斎で書き上げられた訳ではありません。
 
確かに班固は父の遺作である『後伝』を引き継ぐところから始めていますし、陳寿もまた自著に先立って完成していた他の史書を参考にしているので、必ずしも一から十までを独力で著作した訳ではありませんが、それでも時事の照察等の実務は、可能な限り著者自ら(もしくは彼等の助手)が行っています。
しかし范曄の書に限らず、後漢について書かれた史書の多くは、『東観漢記』という官撰史書を原典に、個々の作者がそれを独自に再編したものであり、むしろ出藍の優劣を競い合う中で生まれた書群です。
従って著者自身による史料の照合等の作業は当然ながら殆ど行われておらず、個々の記事の信頼性は偏に『漢記』を頼りとしており、そうした意味では否応なしに『漢記』を肯定しているのです。
 
やがて時代が下り、唐の太宗が重臣の房玄齢等に晋から隋までの国史の編纂を命じて以降は、時の王朝が自国の正統性を誇示する目的もあって、新王朝が旧王朝の国史を書き記すのが恒例となり、史書編纂は個人の手を離れて専ら国事として行われるようになりました。
こうした変化の背景には、文明が発達し、社会が成熟して行くに従い、かつては私撰が当り前だった史書編纂の作業さえ、とても個人の手には負えなくなったという現実もあります。
これは国家としての漢と唐を比べてみて、その官僚機構と情報管理の規模の違いを見れば一目瞭然であり、人口の増加は当然のことながら、技術の進歩や経済の発展に伴う社会の多様化と、紙の普及や識字率の向上による情報量の増加と情報の共有化は、否応なしに個人による実務の限界を狭めてしまい、かつて司馬遷や班固が歴史を記した頃のようには行かなくなっていました。
 
無論その後も私撰による国史は著わされており、中には後世に正史と認められた史書も実在しているとは言え、それ等はいずれも予め著作に必要な史料が揃って(揃えられて)いたか、或いは先に完成していた国史を再編したもので、元より個人が独力で作り上げたものではありませんし、そもそも史書編纂の動機さえ、必ずしも編者自身の意向であったとは限りません。
要するに表向き私撰とは言いつつも、それは単に官撰ではないという意味であり、編者は個人(もしくは共著)であったとしても、国家の全面的な協力もしくは指示によって著されたものです。
従って『後漢紀』や『後漢書』が生み出された時代というのは、史書編纂の作業が個人から国家へと移行する過渡期だったとも言えますが、両書が共に原典とした『東観漢記』だけが散逸してしまったこともあってか、以後支那では国家が自国の国史を編修するという行為には正当性が認められなくなって行きます。
 
もし魏王曹丕が自ら即位せずに漢帝を補佐していたら、或いは魏の明帝の死後に再び劉氏が天下を取って漢朝が再々興されていたら、劉氏は日本の皇室のように支那に於ける不可侵の家系となり、史書もまた日本のように官撰が主流となっていたかも知れません。
しかし曹氏もまた司馬氏に禅譲を許し、やがて河北は鮮卑によって支配され、江南では複数の短命王朝が興亡を繰り返すに及び、国家そのものが頗る相対的な存在となってしまったこともまた、史書の神聖性を失わせる一因となった可能性はあるだろう。言わば易姓革命が秦以来の帝政下でも常態化したことで、どれほど隆盛を極めた国家であっても、いずれ滅びる時が来るという史観が定着し、それが結果として史書の適時編纂を否定してしまったとも言えます。
 
そして范曄の『後漢書』が唐代になって俄に重用されたのは、唐の太宗が重臣達に晋代以降の国史を一括して編纂させたことにより、中国の歴史を連続させるためには、後漢の国史もまた一書に定める必要があったからであり、数ある後漢書の中から特に選ばれたのが范曄の書だった訳です。
無論なぜ范曄が選ばれたのかについては、その理由を記した文献も特に見当らないので、今となっては知る由もないのですが、時代的に最も近い范曄の著述に何か共感を覚える所があったのかも知れません。
ただ唐の太宗の治世と言えば、後漢の滅亡から実に四百年も後のことであり、後漢時代の史実の考証などできる筈もないので、少なくとも後漢書選択の基準となったのが、その内容の正確性や客観性といった、本来史書に求められるべき要素でなかったことは確かでしょう。

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