史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

後漢書と東観漢記

2019-02-11 | 有史以前の倭国
倭人の国が初めて史書に記された例は、『後漢書』の東夷伝になります。
著者の范曄は南北朝期の人物で、もともと范家は晋朝以来の名門の家柄とあって、范曄自身も父子二代に渡って劉氏の宋に仕えて重職を歴任し、『後漢書』の執筆を始めた時には太守の地位にありました。
つまり彼は史家としての顔を持ちつつも、日頃から文士として生活していた訳ではなく、あくまで本職は南朝の官僚であり、職務の合間を縫って著述を行っていたのでした。
しかし范曄は同書を完成させる前に、帝位を巡る謀議に加わった罪で処刑されてしまい、その時点で書き終えていたのは本紀と列伝までで、志に関しては他書を参考に後世の人間が補完したものです。
 
そして『後漢書』の名の通り、史書として扱っているのは後漢時代なのですが、范曄が同書を著したのは後漢の滅亡から実に二百五十年も後のことであり、むしろ三国時代を記した『三国志』の方が百五十年も先に成立しているのはよく知られています。
また今でこそ『史記』『漢書』『三国志』と並んで正史の一つに数えられる『後漢書』ですが、同書が後漢の国史として広く認められるようになるのは唐代以降のことで、それまでは必ずしも唯一無二の後漢史という扱いを受けていた訳ではありません。
そして范曄の『後漢書』ばかりでなく、後漢滅亡後に著された殆ど全ての同国関連の文書を語る上で、外すことのできない書物に『東観漢記』があります。
 
『東観漢記』とは、後漢朝の東観(宮中の図書館)に置かれた史官によって編纂された官撰史書で、初代光武帝から末代献帝までを紀伝体によって記しており、単に『漢記』とも言われます。
後漢の第二代明帝が光武帝紀の作成を命じたのが起源とされ、その後も後漢時代を通じて幾度かに分けて編修が行われており、完成時には全百四十三巻だったと伝えられます。
言わば『東観漢記』は、後漢朝の修史事業として成立した訳ですが、その点では我が国の六国史(日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・文徳実録・三代実録)ともよく似ていて、王朝の存続と共に著述された史書ということで、その資料的な価値は一級と言えます。
 
但しそうした成立の経緯を持つ『漢記』は、完成当初から史書としての評価が分かれるところで、そこに記された個々の時事の正確性については信を寄せられる反面、主に次のような三つの否定的な意見もありました(尤も肝心の『漢記』そのものは現存していないので、後世の人間がそれを確認する術はないのですが)。
第一に、同書は常に複数の史官によって著作されているのに加えて、完成までの間に幾度も編者が代っているため、その編修方針も含めて、史書としては一貫性に欠けるということ。
第二に、朝廷に仕えた史官の手による記録ということで、編者達の自己規制も含めて、著述に際しての制約が多く見られるということ。
第三に、王朝の存続と並行して編纂されているため、個々の事柄についての著述が詳細に過ぎる、つまり無駄に文字数が多いということです。
 
確かにこうした批判は一面では的を得ているとも言えて、些か極端な例を挙げてみれば、我が国の六国史のうち『日本書紀』を除く五史が、『日本記』として一書に纏められているようなものだと思えば分かり易いでしょう。
如何に同一王朝の官撰史書とは言え、流石に百年単位で時代が違えば、その基準となる編修方針を継続させるのは不可能に近く、やはりその時代によって史書としての方向性に変化が生じてしまうのは避けられません。
また著述の対象となる時代が近いほど、編者にとって「書けないこと」が増えてしまうのも仕方のないことで、むしろ我が国の六国史などは、読む側にその点の考慮を促すのが国学の常識と言えます。
同じく題材としている時代が近いほど、事の大小を問わず文字数が多くなるのもまた当然のことで、『日本書紀』に始まる六国史にしても、終いには史書ではなく単に実録という史料に転じてしまっています。
 
これを突き詰めると、そもそも史書とは何なのかという話になってしまう訳で、少なくとも近代史学が確立される前の社会にあっては、史書とはその国の歴史を知る唯一の方法であり、むしろ史書に記されている歴史こそが唯一の史実でした。
従って現代のように各々が独自に歴史論を展開するなどという自由は有り得ず、言わば史書とは誰もが共有すべきその国の過去であり、まして士大夫にとっては必ず身に付けておくべき基礎的な教養であり、共通の常識ででした。
と言うより歴史とは国家そのものですから、かつては国家の存在を証明する唯一の方法が史書であり、なればこそ史書の選定には甚だ厳しくなる半面、一度国史と認められれば子々孫々までの財産となった訳です。
 
日本は島国という立地を有する上に、神代以来王朝が途絶えなかったので、日本人にとっては今も昔も国家の存在そのものが、通常はまるで空気のように敢て意識する必要もないものであり、外敵の脅威等によって一時的に国家意識が高まることはあっても、そうした危機が過ぎれば再び国家は当り前の空間として存続して来ました。
従って古来日本で史書と呼べるのは『日本書紀』くらいのもので、同書以外の官撰史書は公卿の間でさえ必読の書ではなく、近世以降は専ら史料として扱われています。
そして光孝天皇の実録を最後に、遂には史書そのものが作られなくなってしまう訳ですが、誰もが一つの歴史の中で共存している日本の場合は、それでも特に不都合はなかったようです。
その後は鎌倉幕府の『吾妻鏡』や江戸幕府の『徳川実記』等、政府の編修による実記形式の史書はあるものの、敢てそれを国史として再編しようという試みは為されませんでした。
 
尤も本来史書とはそうした国家の実録のことなのですが、『春秋左氏伝』や『史記』が広く史書として認識され、『漢書』が国史の形式を確立したことにより、一般に史書と言えば専ら後者を指すようになりました(無論その後も史官の記録した公式文書も史書とは言いますが)。
支那では王朝が幾度も替っているのに加えて、秦による統一以後も一貫して他民族国家だったので、天下に共存する多種多様な民族を殷代より続く「中国」の国民とするためには、何よりも先ず文字と歴史を共有させる必要があったのでしょう。
言わば国家そのものが断絶してしまっているが故に、中国という空間の歴史を途絶えさせてはならなかった訳で、『漢書』に始まる一国の断代史が、最後の帝国である清に至るまで全て揃っているのは、やはり「文字の国」の偉業と言う他はありません。
 
そして史書としての『東観漢記』に対して、当初から少なからず低評価の面があったということは、裏を返せば同書への批判と反対の立場を取ることで、史書として高評価を得られるということでもあります。
即ちそれは一人の編者が一本筋の通った姿勢で歴史に臨み、史実に関しては著述に制約を設けることなく、文意は簡潔且つ的確に表現するということです。
但しそれでは『漢記』や六国史のように、王朝の存続と並行して国史を積み重ねて行くという作業は不可能であり、一旦国家が滅亡した後、その政府が残した実記や公文書を参考にして歴史を著述する以外に方法がなく、更に時代が下るとそれが国史編纂の手法として定着しました。
 
但しそうした評価の基準は一面では危険も孕んでいて、そもそも読物として優れていることと、そこに書かれている内容が正しいかどうかは別問題ですから、ともすれば史実の正視よりも著者の文才や論賛を重視したり、記事の正誤よりも文脈の整合性を優先するような傾向を生じます。
しかも実際には、そのような編修方針に則って著作された史書ほど、史学的には余り役に立たないことが多いのもまた事実なのであり、むしろ日本人の感覚からすれば六国史のような自然体の史書の方が、(欠点も多いとは言え)史実をより有りの儘に伝えていると感じることが多いでしょう。
しかし当時は史学などという概念そのものがなく、漢人が史書に求める条件もまた近代とは違いますから、『漢記』のような官撰史書は支持を得られ難かったのかも知れません。
 

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