史書から読み解く日本史

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魏と東夷諸国

2019-02-18 | 有史以前の倭国
公孫氏討伐の総司令官である司馬懿は、(大尉という地位からすれば当然ですが)東夷には殆ど関っておらず、もともと明帝から司馬懿に与えられた任務は公孫氏の討伐であり、四万の軍勢もこの戦役のために編成されたものでしたから、景初二年の八月末に襄平が陥落して公孫氏が滅びると、戦後の処置を済ませて翌月には兵と共に帰路に着いています。
従って内政では戦後の旧燕領を経営してその復興を担い、外交では東夷との折衝に当って魏との関係構築に尽力したのは、幽州刺史の毌丘倹と、州内の各郡に赴任した太守達で、東夷伝は彼等自身による遠征の記録や、彼等が派遣した使者の見聞が下地となっています。

もともと漢や魏のような帝国の場合、相手が自国に匹敵するような大国でもない限り、朝廷が直接外交を行うようなことはなく、外界との交渉は専ら辺境の郡の管轄となります。
幽州の中で東夷伝に記された七国と関係してくるのは玄菟・楽浪・帯方の三郡で、楽浪と帯方の二郡に共同で行動する傾向が見られるのは、もと一郡であった範囲を分割したからでしょう。
中でも東夷伝の成立に最も重要な役割を果していると思われるのが玄菟太守の王頎で、彼の活躍がなければ東夷伝がここまで明瞭に記されることはなかったかも知れないと言えるほど、ほぼ全ての東夷と深く係っている人物です。

その王頎は、正始中に高句麗が西安平(県名)を略奪した際には、刺史の毌丘倹に従い一軍の将として高句麗征伐に功を挙げ、高句麗王が東の東沃沮へ逃亡すると、別働隊を指揮してこれを日本海側まで追撃しています。
序に「又偏師を遣わして到討し、窮追すること極遠にして、烏丸骨都を踰え、沃沮を過ぎ、肅愼の庭を踐み、東に大海を臨む」とあるのは、この時の王頎の行軍を語ったもので、恐らく東沃沮とその北の挹婁の詳細が明らかになったのは、この戦役の成果によるものでしょう。
また王頎は、高句麗征伐を行うに当り、毌丘倹の命により玄菟郡の北の夫餘へ使者として赴いているほか、正始七年(二四六年)に帯方太守の弓遵が急死したことを受け、翌正始八年には帯方郡へ転任しており、倭国の女王卑弥呼が崩じた時の太守は彼になります。

楽浪郡と帯方郡に目を向けてみると、この両郡に太守が赴任したのはかなり早い時期で、韓伝に「景初中、明帝密かに帯方太守劉听、楽浪太守鮮于嗣を遣わし、海を越え二郡を定む」とあり、当然これは序に「景初中、大いに師旅を興して淵を誅し、又軍を潜ませ海に浮かびて楽浪帯方の郡を収め」とあるのと同じ事柄を記したもので、遼東征伐と同時進行で実施された軍船による上陸作戦の際に、太守もまた両郡へ渡って来たことが分かります。
ただここに「景初中」とあるのは景初二年のことなのですが、韓伝では渡海してきた帯方太守を「劉听」としているのに対し、倭人伝では同年に倭人が帯方郡を詣でた時の太守を「劉夏」としているので、両伝に記された太守の名に相違が見られます。
どちらも劉姓であることや、時期的にほぼ一致することを考えれば、同一人物と見るのが最も自然な解釈かと思われますが、倭人の来訪を景初三年の誤りとする見方も強く、この景初二年時の帯方太守が誰であったかについては解答を得られていません。

劉听と鮮于嗣については、あくまで戦後の一時的な就任だったのか、倭人伝によると二年後の正始元年(二四〇年)には、帯方郡の太守は弓遵に交代しています。
この弓遵は正始七年まで太守を務めていますが、正始中に部従事(官職名)の呉林が、かつて韓は楽浪郡が統括していたという理由で辰韓の八国を分割して楽浪郡へ与えたところ、これに反発した韓人の隆起を招いて帯方郡が攻撃される事態となりました。
弓遵は楽浪太守の劉茂と共に韓の鎮圧に当り、正始七年に両郡は韓を討伐して王家の箕氏を滅ぼしたものの、太守の弓遵はこの軍役で戦死しています。
こうした事実から見ると、倭人は終始魏との間に何の問題もなかったので帯方郡が単独で担当し、韓や濊(辰韓の北隣)については楽浪郡と帯方郡が協力して折衝に当っていたようです。

倭魏両国間の外交上の出来事と、その時々の帯方太守を時間軸に沿って示すと、以下のようになります。
まず景初二年(二三八年)に、倭の女王が大夫難升米等を遣わして、帯方郡に詣でた際の太守は劉夏(韓伝では劉听)であり、この劉夏が倭人を洛陽へ送り届けて魏帝に拝賀させたことで、両国の間に親交が結ばれることになりました。
次いで正始元年(二四○年)に、魏帝の詔書や印綬を奉じた返答の使者が、初めて倭国へ渡航した時の太守は弓遵であり、同四年に再び倭の女王が魏帝へ使者を派遣した時と、同六年に魏帝が郡に預けて難升米に黄幢を賜った時の太守も彼になります。
そして同八年に王頎が帯方郡へ転任すると、ほぼ時を同じくして倭の使者から女王国と狗奴国との間で戦争中との報せが入りました。
王頎は塞曹掾史の張政等を遣わして、詔書と黄幢を倭へ届けたりしていますが、この一件の最中に倭国内では卑弥呼から壱与(台与)へと王位が移行しています。

以上約十年の間に倭との外交に当った太守は三人で、そのいずれもが両国の橋渡しとして重要な役割を果しており、当時の東夷との外交というのが偏に太守の手腕に依っていたことが分かります。
これは光武帝の代に長年遼東郡の太守を務めた蔡肜にも言えることですが、乱世が終焉を迎えて新たな治世の始動する時期には、決まって辺境の地方官に蔡肜や王頎のように有能な人材が多く見られます。
と言うより有能でなければとても務まらないのであって、余人を以て代え難いがために自然その任期も長くなることが多く、いつの時代も彼等のような殆ど歴史の表舞台には登場しない能吏達が、創業の柱石となって国家を支えていたのでしょう。

そもそも東夷伝の意義は、その序と評に集約されていて、基本的には司馬懿による遼東征伐と、毌丘倹と王頎による高句麗征伐がその土台となっています。
そして東夷伝は大きく分けて、夫餘伝、高句麗・東沃沮伝、濊・韓伝、倭人伝の四部から構成され、主要記事である夫餘、高句麗、韓、倭人の四伝は文字数も多く、どちらかと言うと挹婁・東沃沮・濊の三伝は付録的な扱いとなっています。
当然その文字数の多寡は、記述の対象となった国の人口や領土の大小に比例していて、この頃の東北に於ける魏周辺の民族構成は、後に満州と呼ばれる地域に夫餘があり、その西に遊牧民である烏丸と鮮卑、南には魏と隣接する形で高句麗があって、朝鮮半島の南部には韓、その先の日本列島には倭人という、後々まで続く民族分布がほぼ出来上がっていました。

中でも最も遠方の挹婁については、実際に魏の使者が現地へ足を踏み入れたかどうかは不明で、挹婁伝に魏との関係を示す記述がないことなどから、或いは夫餘人と沃沮人から聞いた話を載せただけの可能性もあります。
また夫餘伝についても、魏との接点に限って言えば、玄菟太守の王頎が毌丘倹の命を受けて同国へ赴いた際、高官が都の外まで出迎えて軍糧を供出したという記述があるくらいで、その後は特に交流があったと思えるような記録はありません。
実のところ夫餘の場合は、その国土が高句麗の更に北にあって、直接魏に害を為すような存在ではなかったので、魏の東方進出で要らぬ刺激を与えぬよう、取り敢えず誼を通じておけばよいといった程度の関係だったのでしょう。

東沃沮は高句麗の東、濊の北にあって、日本海に面して南北に細長く伸びた国で、王が居らず集落の集合体であったこと、また小国であったことから、当時は高句麗に臣属していたといいます。
その南の濊は、北を高句麗と東沃沮、西を楽浪(帯方)郡、南を辰韓と接しており、正始六年(二四五年)には、高句麗に属したという理由で楽浪太守劉茂と帯方太守弓遵の討伐を受けています。
東夷伝によると両国共に言語は高句麗とほぼ同じで、朝鮮半島を南北に走る山脈が天然の国境となって、日本海側に分離する形で独立しており、どちらもかつては楽浪郡内の東の七県に組み込まれていたといいます。

つまり東夷伝に記された七国のうち高句麗・東沃沮・濊・韓の四国は、公孫淵が討伐されたことを受けて魏に服属したのではなく、あくまで武力によって魏の版図に書き加えられた形になっています。
そして王頎が夫餘に赴いた際の人員にしても、やはり太守自らの訪国とあれば多少の軍兵は伴っていたでしょうから、東夷の中で魏軍がその国土に入らなかったのは倭と挹婁の二国だけであり、そういう意味では東夷伝もまた戦功を語るという異国伝の本質からは外れていない訳です。
やがて時代が下って、支那王朝による東亜の世界秩序がほぼ確立された頃になると、必ずしも全ての異国伝が戦記という訳でもなくなりますが、それはまだ後の話です。

『魏志』が東夷伝を通して伝えたかったのは、毌丘倹と王頎による高句麗征伐(但し戦役の話は東夷伝ではなく毌丘倹伝にある)、楽浪・帯方両郡による韓征伐、そして倭人の来朝であり、その戦果として東夷の詳細を記録できたのです。
ともすると現代の我々は、漢人が使者を派遣して周辺の諸民族を訪問し、その国情を観察してそれを後世に伝えることに対して、記録するという行為そのものが勝者にだけ許された特権だという事実を忘れがちになります。
漢人が遥か遠方の異国にまで足を運んで、そこで見聞したものを事細かに書き留めているのは、それが戦利品だからであって、いつの時代も勝者が敗者を記録するのであり、その逆は有り得ません。

倭人伝に関して言えば、魏が楽浪・帯方の二郡を奪取したことで倭人が来訪し、魏帝から藩国に認められて冊封を受けた時点で、倭国もまた戦わずして得た戦利品であることに変りはなく、倭人側の認識の如何に関らず已に外交上ではそうなっています。
そして魏の使者が漢人として史上初めて倭の地を踏んだということは、新たに帝国の版図に加わった土地へ役人を派遣したということなのであり、倭人もようやく支那王朝の天下に組み込まれたということに他ならない訳です。
そして当時の倭人は文字を持っておらず、自身の歴史を記すことができなかった訳ですから、倭人即ち我々日本人の歴史は、正に魏使がこの日本列島に至ると同時に始まったと言ってよいでしょう。

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