史書から読み解く日本史

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魏と公孫氏

2019-02-17 | 有史以前の倭国
東夷に目を向けてみると、東夷伝の序にも記されたように、その背景には遼東の公孫淵の存在があります。
後漢末の遼東に於ける公孫氏の地盤は、献帝の代に淵の祖父の公孫度が、董卓から遼東太守に任ぜられたのが始まりで、中原の混乱に乗じて郡内を掌握すると、隣接する北の玄菟郡と東の楽浪郡をも占領し、度一代で半ば独立国の体を成すまでに成長します。
尤も玄菟・楽浪の両郡については、後漢が半ばその管理を放棄しているような状態でしたから、むしろ公孫度が支配することで郡を復活させたと言う方が適切かも知れません。
言わば公孫氏の領土は、太守として統治していた遼東郡を起点に、あくまで漢帝国の外へ向けて拡大したものであり、それが三代に渡っての自立を許された所以だったとも言えるでしょう。

その公孫度には、配下の兵を指揮して烏丸や高句麗を討伐した功績を賞せられ、曹操を通して朝廷から武威将軍の職と永寧郷候の位が与えられたものの、それが不満で自ら王を称したという有名な逸話があり、度自身もまた所領は自分の力で築いたものだという自負が強かったようです。
もともと公孫度は遼東の郡府である襄平の出身で、主流ではありませんが有力豪族の公孫氏の家系とあって、遼東太守となる前には冀州刺史を務めた経験を持つなど、決して乱世の成り上がりではありませんでした。
因みに同姓の武将である公孫瓚との間には、共に幽州の公孫氏ながら直接の血縁関係はないとされます。

公孫度の死後は嫡子の康が跡を継ぎ、引続き遼東太守に任ぜられて地盤の世襲を許されました。
但し曹操が朝廷の実権を握ったことで後漢が国力を回復していたため、遼東王を自称した父の頃のような行動はできなくなっており、基本的には後漢に臣従しながら自治を認められるに止まっています。
建安十一年(西暦二〇六年)に曹操自らが出陣して烏丸征伐を行った際には、曹操率いる官軍によって追われた烏丸の大人(単于)と、同じくかつて曹操に敗れて烏丸の地で匿われていた袁紹の子等が遼東へ逃れて来ましたが、曹操を敵に回すことを恐れた公孫康は、単于と袁家の子を殺してその首級を官軍へ送り届け、その功により朝廷から襄平候・左将軍の位を与えられています。

また公孫康の業績として帯方郡の設置があり、倭人とも馴染みの深い帯方郡は、建安年間に公孫康が楽浪郡の屯有県以南を割いて新設した郡で、以後も晋代初期まで百年余り存続していました。
そして帯方郡が設けられて以降は、専ら同郡が倭や韓との外交を担うようになり、恐らく倭人が恒常的に漢人と交流を持つようになったのは、この公孫康の時代であろうと思われます。
その辺りについて韓伝には次のように書かれていますが、ここで「倭と韓は遂に帯方に属す」と記された倭という地域が、後の倭国と同じくこの日本列島を指しているのか、朝鮮半島南部の倭人居住地のことなのかは不明です。

桓霊の末、韓と濊は強盛にして、郡県は制する能わず。民多く韓国に流入す。建安中、公孫康、屯有県以南の荒地を分かちて帯方郡と為す。公孫模、張敞等を遣わして移民を収集し、兵を興して韓と濊を撃つ。旧民やや出で、是後、倭と韓は遂に帯方に属す。

これによると帯方郡が置かれた地域はもともと荒地だったようで、ただそれが初めから人の居住していない未耕地だったのか、それとも農民が離れてしまったために荒れていたのかは分かりません。
そこでその荒地への移民を集め、兵を興して韓と濊を討伐したところ、韓地方へ移住していた農民も少しずつ出て来たのだといいます。
これを読むと、「韓と濊は強盛にして、郡県は制する能わず」とあるように、後漢末の旧楽浪郡南部は韓と濊に侵食されていたようで、農民の多くが韓へ流出したというのも、果して農民が自分の意思で韓へ亡命したのか、或いは韓によって強制的に移住させられたのかは定かではありません。

公孫康が没すると、息子の晃や淵が幼少だったこともあり、弟の公孫恭が太守を継いで家領を維持することになりました。
やがて康の子達が成人するに及んで叔父の恭と甥の淵との間で諍いが起り、結局は恭が淵に太守の地位を譲ることで決着し、公孫淵が家督を継いで当主となります。
この三世四代の間に中央では、後漢が滅んで魏の治世となっていましたが、公孫氏も魏帝から遼東太守としての存続を承認され、後漢時代と変らず四郡の領有を保障されています。
これは南方に呉と蜀、西方に羌族を控えた魏としては、東北の公孫氏にまで手が回らなかったという事情も然る事ながら、曹氏は漢帝から禅譲を受けている以上、後漢の許した冊封は認めざるを得ないという理由もあったでしょう。
尤も実際に後漢朝の冊封を決していたのは漢帝ではなく、魏の帝室の始祖である曹操なのですが。

しかし魏の第二代明帝の代、表向きは魏に臣従する姿勢を見せながら、極秘裏に孫氏の呉と密約を結ぼうとした公孫淵の謀略が発覚したことで、両者の間に亀裂が入ることとなりました。
何故なら公孫淵にしてみれば、遼東が内地からの干渉を免れて自立していられるのは三国が鼎立しているからで、魏一国が強大になって再び天下を統一してしまえば、次は自国が併呑されるのは自明の理だったからです。
ただ公孫淵には魏と事を構えるだけの覚悟はなく、あくまで呉を唆して少しでも魏の国力を削ろうという魂胆だったようです。
そうした公孫淵の思惑に反して呉の方では、遼東と同盟を結んで魏を挟撃する絵図を描いていたようで、こうした両者の方向性の相違が交渉を露見させてしまったようです。

これに対し魏は、明帝の景初元年(西暦二三七年)、幽州刺史の毌丘倹を通じて公孫淵に出頭を命じ、上洛して弁明するよう促したものの、淵がこれを拒否したことで遂に両者は敵対することとなりました。
毌丘倹は幽州と烏丸鮮卑の兵を率いて遼東郡境に布陣し、公孫淵に魏への服従を迫りましたが、淵はこれに従わず国内で戦争の準備を始めました。
同年七月、両者の決裂を好機と見た呉が魏領へ侵攻して江夏郡を包囲すると、これに呼応する形で公孫淵は魏に叛旗を翻して挙兵、長雨による遼河の氾濫等もあって、魏軍は一時撤退を余儀なくされます。
遼東は魏から離れて独立せざるを得なくなり、公孫淵は自ら即位して燕王を称し、年号を紹漢と定めて洛陽とは完全に決別しました。

翌景初二年(二三八年)正月、戦線の長期化を懸念した明帝は、蜀の北侵に備えて関中に赴任していた大尉の司馬懿を召還し、四万の兵を与えて遼東征伐を命じると、司馬懿は一年を経ずに公孫氏を滅ぼして東北を平定します。
出立前に明帝から遠征に要する日数を尋ねられた司馬懿が、「往くに百日、攻めるに百日、還るに百日、六十日を以て休息と為し、此の如く一年で足る」と答え、ほぼその通りに作戦を終らせたのは有名な話です。
日本では『三国志演義』の方が一般的なので、司馬懿仲達というと諸葛亮孔明の好敵手という印象で捉えられがちですが、実際にはこの遼東征伐こそが彼の生涯最大の軍功であって、これが魏朝内での司馬氏の立場を不動のものにしました。

ただ先代文帝の時点で既に位人臣を極めていた司馬懿に、更なる大功を立てさせる危険を冒してまで再び軍権を与えたこと自体、魏にとってこの遼東征伐がいかに重要であったかを物語っていますが、周知の通り果してこの人選が妥当であったかどうかは判断が難しいと言えます。
何しろ当時の司馬懿は三公という国家の最高位にあり、更にその前職は大将軍でしたから、最早これ以上彼がどんな功績を挙げたところで、魏の帝室には司馬一族に報いるだけのものがない訳で、強いて挙げれば魏という国を譲るくらいしか行賞の術はなく、現にそうなりました。
従って確かにこの遼東征伐は、公孫氏を滅ぼして東北を回復することには成功したものの、同時に勝者である魏にとっても滅亡への序曲となってしまった訳です。

もともと公孫氏は衛氏朝鮮のように漢帝国の外で新たに建国した訳ではなく、軍閥として幽州東部に割拠していただけですから、後漢や魏にしてみれば本来は自国の領土ですし、公孫度が遼東以東を占拠した後も幽州には刺史が赴任し、同州西部を統治していました。
にも拘らず代々公孫氏による四郡の占有が認められていたのは、後漢末以来の戦乱で朝廷も東北にまで手が回らなかったのと、異民族を討伐するなど辺境の防衛で同氏が役立っていたからに他なりません。
言わば東北の事を公孫氏に任せて放置していたのは後漢(魏)の方であり、同氏が防波堤となったことで東夷へ兵を割かずに済んだのも事実なのですから、序に「而して公孫淵の父祖三世遼東に有り、天子其の絶域と為し、海外の事を以て委ね、遂に東夷隔断し、諸夏に通ずるを得ず」とあるのは(叛いた公孫淵が悪いとは言え)少々言掛りに近いようにも思えます。

むしろ国境付近を侵食していた東夷を討伐して玄菟・楽浪の両郡を復興したのも、荒廃していた楽浪郡の南部に帯方郡を設置して、農民を再び入植させて開拓したのも公孫氏であり、後々まで続く東夷と支那王朝との外交の基礎を作ったのも公孫氏であって、魏はそれをそっくりそのまま接収しただけですから、公孫氏の東北経営は内政外交の両面でもう少し評価されるべきかも知れません。
しかしいつの時代も公孫氏のような乱世の地方軍閥は、代々十世にも渡ってその領土を継承できる筈もなく、やがて天下の中心を制圧した勢力に吸収されて消滅する運命にあります。
そして地方領主として存続した期間にどれほどの実績を挙げようと、またその間に時の権力者とどれほど蜜月の関係にあろうと、新たな世の覇者に背いて朝敵となった時点で、その存在そのものが否定されてしまうので、やはり地方にあって自立を保持したいなどというのは虫の好い話なのかも知れません。

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