次に北方からの民族移動について見てみると、そこには大きく分けて二つの政治的な要因と、それ等が引き起こした二つの民族の流れが考えられ、且つその二つはほぼ同時期に起きています。
まず一つは、河北から朝鮮半島(もしくは山東半島)を経由して日本列島に至る流れで、それを招いた最大の動力源は秦による支那大陸の統一でした。
東夷に於けるその顕著な例として、秦が燕を平定したことにより、秦の支配を逃れた燕人の一派が衛氏朝鮮を建国したことは既述しました。
その際に燕からの移住者に押し出される形で、朝鮮半島から満州にかけての広い範囲で、先住民の間でも連鎖的な民族移動が起こった可能性は高いと言えるでしょう。
更に言えば、秦が燕の地へ兵を進める以前から、燕による東方への領土拡大があり、燕人による衛氏朝鮮の建国にしても、未開の地を切り開いたという訳ではないので、燕の勢力が遼東付近にまで進出した頃から、既に多少の民族移動は起きていたものと思われます。
まず一つは、河北から朝鮮半島(もしくは山東半島)を経由して日本列島に至る流れで、それを招いた最大の動力源は秦による支那大陸の統一でした。
東夷に於けるその顕著な例として、秦が燕を平定したことにより、秦の支配を逃れた燕人の一派が衛氏朝鮮を建国したことは既述しました。
その際に燕からの移住者に押し出される形で、朝鮮半島から満州にかけての広い範囲で、先住民の間でも連鎖的な民族移動が起こった可能性は高いと言えるでしょう。
更に言えば、秦が燕の地へ兵を進める以前から、燕による東方への領土拡大があり、燕人による衛氏朝鮮の建国にしても、未開の地を切り開いたという訳ではないので、燕の勢力が遼東付近にまで進出した頃から、既に多少の民族移動は起きていたものと思われます。
主筋である周王室を廃し、他の六国を尽く滅ぼして天下に君臨した秦は、その統一の過程で無数の仇敵や逃亡者を内包しており、そこへ戦乱で生活の手段を失った民衆や、没落した貴族なども加わって、帝国全土で大量の流民が発生していました。
衛氏朝鮮のように国を興すとまでは行かなくとも、戦国末期にもなると中国から海外に逃亡する人々は後を絶たず、彼等の中には漢による統一で再び天下が平穏になると、生活の保障を求めて中国へ戻った者もあれば、移住先で原住民と共存したまま戻って来ない者もいました。
やがて武帝が周辺諸国を尽く滅ぼして、その旧領を漢の郡県に組み入れると、かつて海外へ移住した人々の子孫もまた、再び中国の領民として国家に服属しています。
衛氏朝鮮のように国を興すとまでは行かなくとも、戦国末期にもなると中国から海外に逃亡する人々は後を絶たず、彼等の中には漢による統一で再び天下が平穏になると、生活の保障を求めて中国へ戻った者もあれば、移住先で原住民と共存したまま戻って来ない者もいました。
やがて武帝が周辺諸国を尽く滅ぼして、その旧領を漢の郡県に組み入れると、かつて海外へ移住した人々の子孫もまた、再び中国の領民として国家に服属しています。
もう一つの大きな流れは、蒙古高原や満州平野から、朝鮮半島もしくは日本海を経由してのもので、恐らく日本語の原型ともなった膠着語を話す人種の民族移動は、これが主流になっているものと思われます。
そしてその最も大きな原因となったのは、やはり匈奴の台頭であり、匈奴が東胡を駆逐したことにより、東故の残党が北もしくは更に東へと移動を始めました。
中には後の烏丸や鮮卑のように遊牧民として留まった例もありますが、そのまま満州へ雪崩れ込んだ勢力によって、一気に民族移動の連鎖が引き起こされた可能性が高いと言えます。
何故なら西方でも匈奴が月氏の放牧地を奪ったことによって同じことが起きているからです。
尤も秦と燕の関係と同じく、匈奴が東胡を圧倒する以前には、東胡によって周辺の諸民族は更に外側へと追い遣られていたので、潮流の発端は既に現れていたと言えなくもありません。
そしてその最も大きな原因となったのは、やはり匈奴の台頭であり、匈奴が東胡を駆逐したことにより、東故の残党が北もしくは更に東へと移動を始めました。
中には後の烏丸や鮮卑のように遊牧民として留まった例もありますが、そのまま満州へ雪崩れ込んだ勢力によって、一気に民族移動の連鎖が引き起こされた可能性が高いと言えます。
何故なら西方でも匈奴が月氏の放牧地を奪ったことによって同じことが起きているからです。
尤も秦と燕の関係と同じく、匈奴が東胡を圧倒する以前には、東胡によって周辺の諸民族は更に外側へと追い遣られていたので、潮流の発端は既に現れていたと言えなくもありません。
この北からの渡来者のルートを探る上で、参考となる交流の一つに後の渤海使があります。
そして遣唐使と同じく渤海使の航路もまた、ウラジオストク付近を出港した後、一度北上してから日本海沿岸を南下して羽州もしくは北陸へ上陸する北航路、そのまま日本海を横断して北陸へ上陸する中航路、朝鮮半島東側に沿って南下して山陰へ上陸する南航路という三つの経路がありました。
その主要な上陸地は、(羽州を別にすれば)敦賀から能登にかけての越地方、出雲を中心とした山陰中部、そして大宰府のある北九州で、それ等は取りも直さず古墳時代以前からの主要な交易港であり、同時に外国の使者の出入港地でもありました。
ただここで注意しなければならないのは、ある勢力の圧迫によって民族移動が起きたにしても、それは必ずしも心太方式に順次押し出される訳ではないということです。
例えば花見の場所取りをしていて、自分たちが占拠していた場所を他人に奪われたからといって、すぐ隣の場所を奪っていいという理由にはなりませんし、それができる保証もありません。
従ってそうなってしまった際に奪われた者が為すべきことは、空いている場所を探して移動するか、自分達も同じように他人の場所を奪うか、空間に余裕のある場所へ割り込ませてもらうことです。
現に匈奴によって生活圏を追われた月氏は、始め北へ向けて移動したものの、北では別の部族に追い返されるなど各地を転々とし、ようやく新たな定住地を見付けたのは遥か西方でした。
例えば花見の場所取りをしていて、自分たちが占拠していた場所を他人に奪われたからといって、すぐ隣の場所を奪っていいという理由にはなりませんし、それができる保証もありません。
従ってそうなってしまった際に奪われた者が為すべきことは、空いている場所を探して移動するか、自分達も同じように他人の場所を奪うか、空間に余裕のある場所へ割り込ませてもらうことです。
現に匈奴によって生活圏を追われた月氏は、始め北へ向けて移動したものの、北では別の部族に追い返されるなど各地を転々とし、ようやく新たな定住地を見付けたのは遥か西方でした。
同じことはエジプトを追われたユダヤ人や、フン族から逃れたゲルマン人についても言えて、実のところ日本語や朝鮮語の起源を持つ人々が、果してどこを発祥の地として、どのような経路で朝鮮半島や日本列島へ辿り着いたのかを探り出すのは、甚だ困難な作業となります。
近年進歩の著しい遺伝子解析にしても、ある程度それによって知り得るのは、現代の我々に至る大まかな遺伝の流れだけであり、いつどこで何があったのかまでは何も分かりません。
それは遺跡の発掘にしても同じことで、例えば史書の裏付けのない遺跡を発見し、且つ最新の科学を駆使して発掘研究したところで、それによって現代の我々が知り得るのは、そこで何らかの人々の活動があったということだけであり、実際にどのような活動が行われていたのかを知る術などないでしょう。
近年進歩の著しい遺伝子解析にしても、ある程度それによって知り得るのは、現代の我々に至る大まかな遺伝の流れだけであり、いつどこで何があったのかまでは何も分かりません。
それは遺跡の発掘にしても同じことで、例えば史書の裏付けのない遺跡を発見し、且つ最新の科学を駆使して発掘研究したところで、それによって現代の我々が知り得るのは、そこで何らかの人々の活動があったということだけであり、実際にどのような活動が行われていたのかを知る術などないでしょう。
ここに面白い話があって、日本に史書というものが無く、その歴史が伝えられなかったとして、住む人々の居なくなった京都と鎌倉が遺跡として発見されたと時、果してその存在を知らなかった未来人は、この二つの都市をどう解釈するかのというものです。
まず京都と鎌倉では市街の構造が全く異なりますし、出土品にもかなりの相違が見られるでしょうから、恐らくその歴史を知らない発掘者や研究者の導き出す結論は、二つの遺跡は当時この列島で東西に並立していた、文化を異にする勢力の主要都市だというものでしょう。
実際に科学がどれほど進歩したところで、考古学や遺伝学等から京都と鎌倉の関係を知るのは不可能に近く、従って今我々が探求している日本人のルーツという問題にしても、基本的にはそういうものなのです。
まず京都と鎌倉では市街の構造が全く異なりますし、出土品にもかなりの相違が見られるでしょうから、恐らくその歴史を知らない発掘者や研究者の導き出す結論は、二つの遺跡は当時この列島で東西に並立していた、文化を異にする勢力の主要都市だというものでしょう。
実際に科学がどれほど進歩したところで、考古学や遺伝学等から京都と鎌倉の関係を知るのは不可能に近く、従って今我々が探求している日本人のルーツという問題にしても、基本的にはそういうものなのです。
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