史書から読み解く日本史

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魏志:帯方郡から倭へ

2019-07-02 | 魏志倭人伝
魏志倭人伝を読む
次いで『魏志』倭人伝について考察してみます。
正しくは『魏書』東夷伝倭人条と言うべきなのでしょうが、ここでは一般に馴染みの深い『魏志』倭人伝もしくは単に「倭人伝」で通すことにします。
そしてこれから倭人伝を読み進んで行くに当たっては、基本的に原文は省き、読下し文、現代語訳、解説の順で記して行きます。
但し『魏志』に限らず、漢語の史書の原文には句読点すら振られていないのが普通なので、読下し文に設けられている句読点は、読む側が適当に割り振ったものです。
また倭人伝はかなりの長文なので、その内容を把握しやすいように区切りの良い箇所でいくつかに分割し、それぞれを個別に扱う形で進めて行こうと思います。
 
 

『三国志』魏志東夷伝の中の倭人伝

 
倭人は帯方の東南海中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国、漢の時朝見する者有り、今使訳通ずる所は三十国。郡より倭へ至るには、海岸に循って水行し、韓国を経て、乍いは南し乍いは東し、其の北岸狗邪韓国へ到るに七千余里。始めて一海を渡ること千余里、対馬国へ至る。其の大官を卑狗と曰ひ、副を卑奴母離と曰ふ。居る所絶島、方四百余里、土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す。又南へ一海を渡ること千余里、名づけて瀚海と曰ふ、一支国へ至る。官は亦卑狗と曰ひ、副を卑奴母離と曰ふ。方三百里可り、竹林叢林多し。三千許りの家有り。差々田地有り、田を耕せども猶食するに足らず、亦南北に市糴す。又一海を渡ること千余里、末盧国へ至る。四千余戸有り。山海に浜ふて居る。草木茂盛、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕へ、水深浅と無く、皆沈没して之を取る。
 
倭人は帯方郡の東南の海上に住んでいて、山島に依って国邑を作っている。旧くは百余の国があって、後漢に朝貢した者もあった。今使訳を通じているのは三十国である。郡から倭へ行くには、海岸に沿って水行し、韓国を経て、南または東へ向い、北の対岸の狗邪韓国へ着くまでに七千里ほどである。初めて千里ほど海を渡ると対馬国に着く。その大官をヒコ、副をヒナモリと言う。そこは孤島であって、方四百里ほどの大きさがある。その土地は山が険しく、深い林が多く、道路は獣道のようである。千戸ほどある。良田はなく、海産物を食べて自活し、船で南北に交易している。また南へ千里ほど瀚海という海を渡ると一支(壱岐)国に着く。官を同じくヒコ、副をヒナモリと言う。方三百里ほどの大きさがある。竹林や草叢が多く、三千ばかりの家がある。多少は田地もあるが、農耕だけでは食料が足りないので、やはり南北に交易している。また千里ほど海を渡ると末盧(松浦)国に着く。四千戸ほどある。山海に沿って居住している。草木が蔽い茂って、前を行く人が見えないほどである。好んで魚や貝を捕え、水深に関りなく、誰もが潜ってこれを取っている。
 
 
 
東南陸行五百里にして伊都国へ到る。官を爾支と曰ひ、副を泄謨觚・柄渠觚と曰ふ。千余戸有り。世々王有るも、皆女王国に統属す。郡使の往来常に駐まる所なり。東南奴国へ至るには百里。官を兕馬觚と曰ひ、副を卑奴母離と曰ふ。二万余戸有り。東行不弥国へ至るには百里。官を多模と曰ひ、副を卑奴母離と曰ふ。千余戸有り。南投馬国へ至るには水行二十日。官を弥弥と曰ひ、副を弥弥那利と曰ふ。五万余個可り。南邪馬台国へ至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り、次を弥馬升と曰ひ、次を弥馬獲支と曰ひ、次を奴佳鞮と曰ふ。七万余戸可り。
 
東南へ五百里ほど陸行すると伊都国(怡土郡)に着く。官をニキと言い、副を○○コ・○○コと言う。千戸ほどある。王はいるが代々女王国の統治に属している。郡使が往来の際に常駐する所である。そこから東南の奴国までは百里である。官をシマコと言い、副をヒナモリと言う。二万戸ほどある。その東の不弥国までは同じく百里である。官をタモと言い、副をヒナモリと言う。千戸ほどある。南の投馬国へ行くには、水行に二十日である。官をミミと言い、副をミミナリと言う。五万戸ばかりある。女王の都する南の邪馬台国へ行くには、水行に十日、陸行に一月である。イキマと言う官がある。またミマスと言う官があり、ミマカキと言う官があり、ナカテと言う官がある。七万戸ばかりある。



女王国より以北は、其の戸数道里を略載するを得可きも、其の余の旁国は遠絶にして詳かにするを得可からず。次に斯馬国有り、次に己百支国有り、次に伊邪国有り、次に都支国有り、次に弥奴国有り、次に好古都国有り、次に不呼国有り、次に姐奴国有り、次に対蘇国有り、次に蘇奴国有り、次に呼邑国有り、次に華奴蘇奴国有り、次に鬼国有り、次に為吾国有り、次に鬼奴国有り、次に邪馬国有り、次に躬臣国有り、次に巴利国有り、次に支惟国有り、次に烏奴国有り、次に奴国有り、これ女王の境界の尽す所なり。其の南に狗奴国有り。男子を王と為す。其の官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡より女王国へ至るには万二千余里。
 
女王国以北の国々については、その戸数や道里を略載しようと思えばできるが、それ以外の周辺の国々は僻地にあるので詳らかにしたくてもできない。他に斯馬国がある。また己百支国がある。伊邪国がある。都支国がある。弥奴国がある。好古都国がある。不呼国がある。姐奴国がある。対蘇国がある。蘇奴国がある。呼邑国がある。華奴蘇奴国がある。鬼国がある。為吾国がある。鬼奴国がある。邪馬国がある。躬臣国がある。巴利国がある。支惟国がある。烏奴国がある。そして奴国である。これらは尽く女王の境界内の国である。その(女王圏の)南に狗奴国がある。男子を王としている。ココチヒコという官がある。女王に属していない。郡から女王国までは一万二千里ほどである。
 
 
以上が倭人伝の冒頭の部分ですが、その言わんとしていることや、大まかな流れについては、特に説明の必要もないでしょう。
しかし誰しも目を疑うのが、そこに記された里数や戸数などの数値で、まず距離の方から見てみると、例えば帯方郡から狗邪韓国までが七千余里となっていますが、漢魏の時代の一里を約400mとして計算すると、実に3000㎞弱ということになります。
後漢末の遼東に割拠していた公孫氏が、楽浪郡の南部を割いて新設した帯方郡は、現在の北朝鮮南部から南北境界線付近に設置されていたと推定される郡で、南部では韓や濊とと国境を接していました。
そして郡から狗邪までの行程に陸路ではなく水路を選択しているのは、当時はまだ韓と魏の関係が穏便ではなかったという政治的な事情や、古より倭人が(韓を飛び越えて)海路から直接郡へ渡来していた事実も示す通り、当時の韓地方には郡使の往来できるような道がなかったからでしょう。
 
 
 『魏志』による帯方郡から倭本土までの行程 
    (※海上の線は実際の航路を示すものではありません)
 
 
距離の修正は可能か
ただ陸路であれ海路であれ、実際には七千里もの距離がある筈もなく、もし実際にそれだけの距離があるならば、朝鮮半島南部の韓地方は(大きさだけなら)支那大陸にも匹敵するほどの大国ということになります。
更にこれが対馬海峡ともなると、狗邪韓と対馬、対馬と壱岐、壱岐と松浦の位置関係は、その対岸に立てば肉眼でも目視できる距離であり、そこに千里もの空間がないことは、誰の目にも明らかなのでした。
従って郡から邪馬台までの行程を考察する際には、まずこれらの道里を現実的な数値に修正する必要があります。
尤も今から千八百年近くも前に書かれた他国の史書の、決して本編ではない紀行文に記されている数字に対して、そもそも修正などという作業を施す価値があるのかどうかという初歩的な議論もあると思います。
しかし原文のままでは話が先へ進まないのも事実なので、今となっては正解を知る術などないとは承知しつつも、敢ていくつかの手法で解読を試みてみることにします。
そこで仮に郡から不弥までの全ての数値を約五分の一にしてみると次のようになります。
 
郡から水行して狗邪韓国へ至るには千五百里(約600㎞)ほどである。
初めて二百里(約80㎞)ほど海を渡ると対馬国に至る。
対馬の大きさは長さにして八十里(32㎞)ほどである。
また南へ二百里(約80㎞)ほど海を渡ると一支国に至る。
壱岐の大きさは長さにして六十里(24㎞)ほどである。
また二百里(約80㎞)ほど海を渡ると末盧国に至る。
陸路を東南へ百里(40㎞)ほど行くと伊都国に至る。
東南の奴国へ至るには二十里(8㎞)である。
東行して不弥国へ至るには二十里(8㎞)である。
郡から女王国までは二千五百里(1000㎞)である。

以上のように、郡から伊都までについては(末盧から伊都への方角はともかくとして)、ほぼこれが修正値として見ても特に問題はないでしょう。
もともと千里だの百里だのと言ったところで所詮それは概数に過ぎませんし、まして直線距離でもない訳ですから、多少の誤差は許容範囲と言ってよいでしょう。
因みに実測による対馬壱岐両島の大きさは、対馬が南北に約82㎞、東西に約18㎞なのに対して、壱岐は南北に約17㎞、東西に約15㎞なので、実際にはかなり大きさに差があり、近代的な地図を手に取れる我々は当然それを知っています。
しかし対馬は壱岐や松浦に比べても平野部が少なく、島の大きさに対して養える人口が限られていたこともあってか、古地図などを見ると壱岐よりも一回り大きい程度に描かれていることが多いです。
そして倭人伝の数値が意図的に五倍されたものだったとすると、むしろ魏の使者はかなり正確な距離を把握していたことになります。

ところが伊都以降については、同じように五分の一に縮小してしまうと、逆に小さくなり過ぎてしまうことが分かります。
例えば倭人伝では伊都から奴までを百里としていますが、伊都国が怡土郡、奴国が那珂郡(儺縣)のそれぞれ中心部だとすると、両者の間の距離は末盧(唐津付近か)から伊都までのそれと大して変らないからです。
これについては多くの識者が指摘している通り、魏本国から倭の地までを故意に大きく(遠く)描いた反面、現地については単に実態のままを記しただけかもしれません。
また倭人伝の原型となった資料が、一人の記者の手によるものでもないでしょうから、郡から伊都までは最初に海を渡った使者、伊都周辺については現地に在留した官吏、不弥から邪馬台までは勅使に同行した従者といった具合に、それぞれ異なる複数の著者による記録を一つに纏めた可能性はあるでしょう。
 
中世特有の誇張表現
次いで戸数について見てみると、孤島の一支(壱岐)でさえ約三千家、王都の邪馬台は七万余戸などとなっていますが、当時の日本列島の人口からして、やはりこれも有り得ません。
これは倭人伝に限らず、既に後漢から晋の頃になると、支那では早くも中世に入っているので、後の日本や西洋の中世と同じく、こうした数字というのは総じて実数からは程遠いものとなります。
魏の例で言うと、たといそれが正史に記されたものであれ、魏軍(曹軍)が勝利した際の敵の戦死者や捕虜の数は、実態の十倍にして表現するというのが慣例だったといいます。
そしてこれは中世の日本でも同じであって、例えば源頼朝の挙兵について正史の『吾妻鏡』では、上総介広常の二万騎を筆頭に、他の豪族も数千騎を率いて馳せ参じたなどと書かれていますが、やはり実態はその十分の一程度でしょう。
尤も頼朝挙兵の際の諸豪族の戦力については、書物によってもその数字(倍率)はまちまちなのですが。
 
これらは中世特有の誇張であって、無論現場で実務に携わる役人や軍人までがこうした数字を信じていた訳ではなく、あくまで同じ文化を共有する国民の間で公称するためだけのものです。
従ってその時代を生きた人々にとっては、これが形式上の誇張であることは常識であり、むしろそれが日常の一部でもあった訳ですが、現代の我々がこうした数字に接する場合には、その点に留意しておく必要があります。
要は『三国志』という書物そのものが、正確な数値を記録すべきだという意識が欠けているどころか、それとは正反対の価値観が支配していた時代に書かれたものなのです。
また蛇足ながら付け加えておくと、中世と近世の公称数値の信憑性を比べる上で好対照なものの一つに、応仁の乱と関ヶ原の合戦の兵力があります。
書物に伝えるところでは、応仁の乱で動員された兵力は東軍十六万、西軍十一万であり、関ヶ原は東軍七万、西軍八万となっています。
そして関ヶ原については敢てこの数字を疑う者もないと思われますが、応仁の乱については改めて言うまでもないでしょう。

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