史書から読み解く日本史

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魏志:倭国の周辺

2019-08-17 | 魏志倭人伝
女王国の東、海を渡ること千余里、また国有り、皆倭種。また侏儒国有り、その南に在り。人の長三四尺、女王を去る四千余里。また裸国、黒歯国有り、またその東南に在り。船行一年にして至るべし。倭の地を参問するに、海中の洲島の上に絶在し、或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり。(魏志倭人伝)
 
女王国から東へ千余里ほど海を渡るとまた国がある。皆倭種である。その南に侏儒国がある。人の身長が三、四尺。女王国から四千余里ほどである。その東南に裸国と黒歯国がある。船行一年にして着くだろう。倭の地を参問してみるに、海中の洲島の上に国が点在し、或いは孤島、或いは連なって、周旋五千余里ばかりである。
 

女王国より東へ海を渡ること千余里、狗奴国に至る。皆倭種といえども女王に属せず。女王国より南へ四千余里、朱儒国に至る。人の長三四尺。朱儒より東南へ船行すること一年、裸国、黒歯国に至る。使駅の伝うる所ここに極まる。
会稽の海外に東鯷人有り、分れて二十余国と為す。また夷洲及び澶洲有り。伝えて曰く、秦の始皇、方士徐福を遣わし、童男女数千人を将いて海に入り、蓬莱の神仙を求むれども得ず。徐福誅を畏れて敢て還らず。遂にこの洲に止まると。世々相承け、数万家有り。人民時に会稽に至りて市す。会稽の東冶の県人、海に入り行き、風に遭いて流移し、澶洲に至る者有り。所在絶遠にして往来すべからず。(後漢書倭伝)
 
女王国から東へ海を渡ること千余里、狗奴国に着く。皆倭種だが女王に属していない。女王国から南へ四千余里ほど行くと朱儒国に着く。人の身長が三、四尺。朱儒から東南へ一年船行すると裸国、黒歯国に着く。使訳の伝えるところは以上である。
会稽の海上に東鯷人がいる。分かれて二十余国を為している。また夷洲と澶洲がある。伝えるところでは秦の始皇帝は方士徐福を遣わし、童男女数千人を連れて出航させ、蓬莱の神仙を求めたが得られなかった。徐福は誅を畏れて帰還せず、この洲に止まったという。その子孫は数万家あり、時々会稽に来て交易している。会稽の東冶の県人で、航海中に遭難し、澶洲に漂着した者があった。その所在地は絶えて遠く、往来はできない。
 

倭国周辺の国々
以上はほぼ同じことを記した『魏志』と『後漢書』の一部ですが、これを見ても『後漢書』倭伝が『魏志』倭人伝を原典としていることが分かります。
しかし『魏志』では別の項に出てくる狗奴国を混同して扱うなど、相変らず『後漢書』の記事はいい加減で、范曄が倭伝には大して関心もなかったのか、雑な仕事ぶりが目立ちます。
尤も『後漢書』は全巻を通してこの手の初歩的な間違いが多く、これでは前三史と比較して所詮は私史の域を出ていないと言われても仕方がないでしょう。
因みに『後漢書』の倭伝はここで終っており、『魏志』ではこの後に続いて語られている魏と女王との間の外交や、倭国内での女王国と狗奴国の争い等、後漢と関係のないことについては当然ながら触れられていません。
 
女王国から船で東へ千余里行った所にあるという倭人の国や、侏儒国、裸国、黒歯国という国々については、果してそれがどこを指しているのかは分からりませんが、『魏志』の記述を頼りにこれ等の比定地を探してみたところで、恐らくそれを見付けることはできないでしょう。
と言うのも女王国から南へ四千里だとか、そこから更に東南へ船行一年などと言っても、ここまでの倭人伝の記録からして、それが実際の倭国即ち日本列島を基準にしているとは思えないからです。
特に『後漢書』ではこれに続く形で江南の海外について触れているところを見ても、恐らく侏儒国、裸国、黒歯国の三国というのは、その国名からして実際の倭国よりも遥かに南方の国々で、この『魏志』の記述も倭国が江南の東にあるという漢人の世界観を前提としたものでしょう。
 
混一疆理歴代国都之図に見る世界観
かなり時代は下りますが、漢人や朝鮮人による地理の認識を示す一例として、十五世紀初頭の明代に李氏朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図」という世界地図があります。
元来この地図はモンゴル帝国を描いたもので、原図は元によって作られており、そこへ李氏朝鮮が原本では曖昧だった自国周辺の地理を修正し、何らかの形で日本から手に入れた日本地図を書き加えたものです。
明の建文四年(西暦一四〇二年)に、二種類の地図を参考にして作成したと伝えていますが、現存するのは写本のみで、後世に幾度か手が加えられていることもあり、現在の形で成立した時期については定かでありません。
またこれとほぼ同時期に作られた東亜の世界地図は他にも存在し、更に原本の古いものでは「大明混一図」等もありますが、大陸と日本との位置関係を明確に示している点では「混一疆理歴代国都之図」が最も分かり易いと言えます。
 
 
 混一疆理歴代国都之図
 
 
その内容を見てみると、李氏朝鮮で作られたこともあって、朝鮮半島が実際よりもかなり大きく描かれているのはともかくとして、やはり日本が南北に伸びる島として長江の南に描かれています(但し後に日本で写本された同図の中には、日本を東西に伸びる島として描き直したものもあります)。
そして夷洲を始めとする他の国々もまた、江南海上で混在するように日本の近海へ配置されており、これを見ると十五世紀の明や隣国の朝鮮でさえ、海上の地理についてはこの程度の認識だったことが分かります。
興味深いのは、この地図に描かれた日本とその周辺の環境が、『魏志』の記述に酷似していることで、朝鮮半島が実際よりも大きい(尤もその理由は、李朝が自国朝鮮を詳細に描こうとしたためで、当然『魏志』とは関係ない)こと、朝鮮から日本までの距離が実測よりも遥かに長い(つまり対馬海峡が広い)こと等、千年以上前の『魏志』の内容をほぼ忠実に再現したような絵図となっています。
つまりこれが後に西洋から近代の測量技術が齎されるまで、長く東亜の世界観だった訳です。
 
 
日本周辺の拡大図  
 
 
平面図の限界
ただ一つ付け加えておくと、大陸の人々が倭国周辺の地理に関して正確な情報を得られなかったのは、必ずしも彼等の固定観念や、東夷への無関心ばかりではありません。
これは実際に地図を描いてみると分かることですが、地球は球体なので、作成する地図の領域が東亜全体のような広範囲に及ぶ場合、その中心から遠くなるほど実際の情報を平面上に表示できないという矛盾が生じます。
これを解決するのがメルカトル図法やモルワイデ図法といった近代の投影法なのですが、こうした技法を用いずに紙面へ地理情報を書き込もうとすると、どうしても四方の辺境で距離や方角が合わなくなってしまうのです。
従って近世以前に作られた地図の多くは、(無論理由はそれだけではありませんが)中心から離れるほど地形に歪みが生じており、とても旅行で使えるような代物ではありませんし、元より実用を目的に作られた訳でもありません。
 
一万二千里の根拠
次に「倭の地を参問するに(中略)周旋五千余里ばかり」の箇所ですが、この一文を見ても当時の漢人は、倭という地域を無数の島々から成る海洋国と見做していたことが分かります。
無論実際の日本列島は、本州を始めとする主要な島々がかなり大きいので、必ずしもこの認識が正しいとは言えませんが、中らずと雖も遠からずの範疇と言ってよいでしょう。
最後の「周旋」という熟語については、著者の言わんとするところがよく分かっていません。
「周」は「あまねし」「めぐる」「まわり」といった語義を持ち、「旋」は「めぐる」「まわる」ですから、普通に読めば倭国を一通り巡ってみると大体五千里くらいだという意味になります。

そして前出の帯方郡から女王国までが一万二千余里というのは、郡から狗邪韓国までの七千余里と、この周旋五千余里を足し合せたものなので、そこから逆算することによって女王国の位置をほぼ限定できるとする見方もあります。
つまり総延長一万二千余里から、まず朝鮮半島の七千余里を引き、次いで対馬海峡の三千余里を差し引くと、残りは約二千余里となり、これが末蘆から邪馬台までの距離だという訳です。
この説に従うと、郡から末蘆までの里数との比率から、必然的に女王圏の範囲が限られることとなり、これが邪馬台国九州説の有力な根拠の一つともなっています。
しかし帯方郡から狗邪韓国までが七千余里、狗邪韓から末蘆までを三千余里としておきながら、倭国を一回りして五千余里というのは明らかにおかしいですし、不弥から邪馬台までに要する日数と照し合せても辻褄が合いません。
 
ただ実際には、こうした近代的な検証が意味を成さないのは言うまでもなく、恐らくはこの数字を記録した当人にしてからが、そんな計算は頭の片隅にもなかったでしょうし、そもそも東夷伝は列伝であって実用書ではないのです。
そしてそれは地図という目に見える描写ばかりではなく、里数や方位を文字で表した書物にしても同様であって、実用性というものを全く考慮せずに記された文書の数字や表現に、現代の報告書並の正確性などいくら求めても無意味なのかも知れません。
 
因みに『隋書』倭国伝では、倭の位置について「新羅の東南、水陸三千里の大海の中」、その国境については前出の通り「南北三月行、東西五月行、それぞれ海に至る」としており、単位こそ違いますが『魏志』にある「狗邪韓から末蘆までは三千余里、倭の地は周旋五千余里」と同じく、三と五という数字で倭国の大きさを表しています。
但し「南北三月行」の中に「新羅の東南三千里」が含まれているかは不明です。
こうして見てくると、やはり漢人の方も時代を追う毎に倭の全容を掴んで行ったようで、かつて光武帝に朝貢した倭奴国が「倭国の極南界なり」と表現されたのも、当時の漢人には倭本土に対する知識が殆どなかったので、彼等にとって対馬海峡を越えた先が南界の果てだったからでしょう。
 
夷洲と澶洲
『後漢書』に記された東鯷人の「鯷」とは「なまず」の意で、この東鯷人が会稽の海外で二十余国を為していたとありますが、その所在地や民族などは一切不明です。
夷洲と澶洲は古くから江南の海上にあるとされてきた島で、ここでは徐福の渡航地を日本ではなく夷洲としており、共に出航した童男女数千人の子孫が同洲に土着しているという風聞を伝えています。
その夷洲については台湾に比定する見方が有力であり、後の地図を見てもほぼその通りに描かれる場合が多くなります。
また倭人が呉の泰伯の子孫だというのは、単に倭人がそう自称しているというだけの話ですが、夷洲の場合は徐福等の子孫が数万家あって、彼等が会稽へ交易に来ているとあり、仮にそれが倭人と同じく夷洲人の自称だったにせよ、当時の夷洲というのは決して未開の地ではなかったということでしょう。
一方の澶洲は「所在絶遠にして往来すべからず」とあるように、その比定地には諸説あって今も解答と呼べる説はなく、民族的にも全く不明です。
 
そして呉王孫権が皇帝として即位した翌年(呉の黄龍二年/西暦二三〇年)、呉は将軍二人に兵一万を率いさせて夷洲と澶洲への渡航を試みています。
その目的は海外での募兵で、後漢末より続く戦乱によって魏呉蜀の三国はいずれも兵士の不足に頭を痛めており、魏が烏桓兵を自国の騎馬軍へ編入したように、呉もまた国外に兵力を求めようとしたのでした。
しかしこの遠征は失敗に終り、澶洲へは辿り着くことができず、夷洲からは辛うじて数千人の兵を集めてきたものの、航海中の疫病(現地の風土病とも)により派遣した兵士の大半を失ってしまったため、怒った孫権は帰還した二人の将軍を処刑しました。
またその七年後の呉の嘉禾六年(魏の景初元年)には、揚州で度々叛乱を起していた非漢民族の山越を討伐し、降伏した者達を呉の戸籍へ組み入れて数万人を徴兵しています。
案外『後漢書』倭伝にある江南海外諸国の話は、この時の呉の記録が基になっているのかも知れません。
 
この時の呉による夷洲と澶洲への遠征というのは、その後の魏倭両国の関係にも少なからず影響を与えていて、遠征の失敗から三年後の嘉禾二年、呉帝孫権は海路遼東へ使者を派遣し、公孫淵に九錫を賜って燕王に封じたものの、使者は遼東へ着くなり公孫淵に斬り殺され、その首級は魏に送られるという事件が起きました。
もともとこれは呉と公孫氏が秘密裏に進めていた同盟の交渉中に生じたもので、密約が魏に露見することを恐れた公孫淵が呉を裏切ったというものです。
しかしやがて公孫淵の不審な行動は魏の知るところとなり、これが魏の遼東征伐を招いたことは既述しました。
そして魏が公孫氏を滅ぼしたことで、魏と倭との間に国交が開けた訳ですが、そもそも倭国は江南の東にあると考えられていて、その風俗もむしろ南方系に近いと見られていたので、本来倭人が朝貢すべきは中原の魏ではなく江南の呉の筈なのです。
 
その呉は夷洲と澶洲への遠征に失敗して兵を失い、魏は艦隊を派遣することなく同じ海上の民である倭人の朝貢を受けた訳ですから、まさにこれは遼東征伐の成功に伴う外交上の大勝利であり、同時にこの遼東征伐こそは三国鼎立の終焉を告げる出来事だったと言えるでしょう。
そして倭の女王が魏帝から殊の外厚遇されたのは、倭人が安帝以来絶えていた遣使を復活させたことや、未だ魏に服さない他の東夷への影響も然ることながら、やはり最大の敵である呉を牽制するという意味合いが強いものでした。
無論倭人が魏に与したからと言って、直接それが呉にとっての脅威になる訳ではありませんし、魏の方も東の海上から倭軍に呉を攻撃させようなどとは思っていなかったでしょうが、自国の近海までもが魏の傘下に入ったという事実が、呉に与える心理的な影響は大きいからです。
これは東西冷戦時代にキューバが共産主義国になった時の米国の反応を見れば分かります。

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