史書から読み解く日本史

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魏志:卑弥呼の死

2019-09-18 | 魏志倭人伝
卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩。徇葬する者百余人。更えて男王を立てるも国中服さず。更に相誅殺し、時当に千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女壹與、年十三なるを立てて王と為す。国中遂に定まる。張政、檄を以て壹與に告喩す。

卑弥呼は已に死んでおり、径百余歩の大きな塚が作られていた。百余人が徇葬された。改めて男王を立てたが国中が服さず、互いに相誅殺して、当時千余人が殺された。そこで再び卑弥呼の一族の少女で十三歳の壱与を王に立てると、遂に国中が定まった。張政は(改めて)壱与に告諭して激励した。


突然だった卑弥呼の死
「卑弥呼以て死す」の「以て」は「已に」の意。
つまり張政等が倭国へ至った時には、既に女王卑弥呼は崩じており、径百余歩の墳墓が造られた後だったということです。
そして前後の流れからすると、王頎を始め郡の面々は彼女の死を知らないまま、張政等に詔書と黄幢を届けさせたことになります。
「大いに冢を作る」とはあるものの、後の天皇陵と同じく、陵墓そのものは生前に造営されていたかも知れませんが、少なくともはっきりしていることは、載烏越等が倭国を発ってから、張政等が倭国へ至るまでの間に、女王卑弥呼が死亡していることです。
その間にどれほどの時間が経っていたのかは分かりませんが、当時の両国間の往来に費やす日数に加えて、太守の王頎は女王のために詔書を手配しており、その準備にも相応の手間が掛かることを考えると、どんなに早くても半年以上は過ぎていたと思われます。



卑弥呼の陵墓とも言われる奈良県の箸墓古墳


この卑弥呼の突然の死については、当時の女王を取り巻く環境や直接の死因など、事の詳細は今も未解決のままとなっています。
それもその筈で、殆ど唯一の史料である『魏志』がそれに触れていないのですから、後世の我々が卑弥呼の死の真相を知る日は恐らく永久に来ないでしょう。
ただ巷で流布しているように、『後漢書』の桓霊云々の箇所を引用して、彼女が既に老齢だったとする推理は些か的外れで、何しろ『後漢書』の記事そのものに何ら根拠がないどころか、明らかに『魏志』の趣旨を曲解しただけの内容ですから、女王の死因と年齢を絡めるのは初めから意味を為しません。
尤も卑弥呼は死の直前まで郡に遣使しており、その返信使が来着する前に崩じたというのも流石に尋常ではないので、高齢による自然死もしくは病死という死因が最も自然に思えるのもまた事実ではありますが。

日本人と戦争責任
また狗奴国と交戦中だったことから、同国との戦争が何らかの形で卑弥呼の死に係わっているとする見方もあります。
元より戦争は国家の一大事ですから、そこに何らかの因果関係を求めるのは当然であり、当時の女王国で最も大きな政治問題が、狗奴国との戦争だったことは間違いないでしょう。
但しそうした説で時折見受けられるように、王である卑弥呼が戦争の責任を問われたという主張は、この国のかたちに鑑みて余り現実的ではありません。
まずそもそもの大前提として卑弥呼は女性であり、多数の侍女に傅かれながら常に宮殿の奥に居て、日常の政務でさえ弟が補佐していたくらいですから、恐らく彼女自身は兵馬のことなど何も分かりませんし、女王の判断で開戦が決定されたとも思えないからです。

加えて他民族は知らず、この列島で生まれ育った者の性質として、例えば前の大戦が終った直後に「戦争が終ってよかった」などと言えば、「貴様のような奴がいたから負けた」と言われて、うっかり失言した者が戦犯のような扱いを受ける国柄ですから、果して女王の戦争責任などという発想があったかどうかも疑わしいと言えます。
また記紀神話にある天照大神の岩戸隠れの故事にしても、大神が天岩戸を閉じて密室に籠ってしまったのは、弟神である素戔嗚尊の度重なる悪行に心を痛めたからであって、大神が諸神にその責任を問われたからではありません。
そして岩戸隠れが大神の意志だったとして、この行為を擬人的に解するならば、その意味するところは退位もしくは自殺でしょう。
いずれせよ諸神は素戔嗚尊を捕えると、尊に全ての罪を追わせて高天原から追放しました。

日食との因果関係
また周知の通り、近年卑弥呼の死については、日食との因果関係も有力視されています。
もともと天照大神の岩戸隠れが日食ではないかとする説は古くからあって、最初にそれを唱えたのは江戸時代の儒者荻生徂徠だったといいます。
但し天照大神の逸話はあくまで神話の中の出来事ですが、卑弥呼の方は『魏志』という漢籍に記されていることであり、その死去した時期もある程度は特定できるため、学界民間を問わずに広く支持されるようになりました。
幸い今はパソコンの普及と性能の向上によって、誰もが自宅に居ながら気軽に過去の天文現象を検索できるようになっており、一昔前の史学者や歴史愛好家から見れば垂涎ものの学習環境と言えるでしょう。

そして卑弥呼の死に前後して日本では、魏の正始八年(西暦二四七年)と翌九年(二四八年)の二度、日食を観測できた可能性が指摘されています。
但しこの両年に東亜で日食が起きたこと自体は、『魏志』にも明記されていることなのでほぼ間違いないのですが、日本に関しては記録が皆無なので、あくまで推測の域を出ないことを予め承知しておかなければなりません。
この件について国立天文台では「特定された日食は『日本書紀』推古天皇三十六年三月二日(西暦六二八年四月一〇日)が最古であり、それより以前は途中の文献がないため地球の自転速度低下により特定できない」との見解を示しており、どちらも公式には日食として認定していません。
また当然ながら、仮に当時の日本が日食の軌道に入っていたとしても、それを肉眼で見るためには晴天であることが絶対条件であり、当日の天候など今更調べようがないのですから、その点も留意しておく必要があります。

正始八年と九年の日食
それらを踏まえた上で、計算によって導き出された当時の日食の様子を覗いてみると、大体次のようになるといいます。
まずの日食は、西暦二四七年の三月二十四日に起きており、日本では日没直前に西の夕空に見えたと推定されます。
この二四七年の日食については、既に多くの機関によって緻密な解析が行われており、その結果得られた過去の天文情報は無論のこと、それらを基に当時の状況を再現した画像や動画等も数多く公開されているので、改めてここでその詳細に触れるまでもないでしょう。
むしろ多少なりとも邪馬台国やその女王卑弥呼に興味を抱く者にとって、今や正始両年の日食の経緯などは常識以前の話題となっています。

そこで軽くその概要に触れておくと、正始八年に起きた日食の場合、日本列島は皆既日食帯から外れており、太陽と月が完全に重なるのは日没後になります。
従って当時の倭人が見ていた日食というのは、今まさに日が暮れようとしている時に、欠けながら沈んで行く太陽の姿でした。
それはまるで太陽が消えて無くなるかのような光景であり、果して翌朝に再び夜明けが訪れるのかと不安を覚えるような、日中の金環日食とはまた趣を異にする神秘的な天空絵巻だったでしょう。
そしてこの日食は時間帯が日没に重なっていたため、西の九州では観測が可能だったとしても、畿内での目視は厳しかったのではないかと推測されています。
女王の郡への遣使と同年中の出来事ということもあり、こうした事実もまた邪馬台国九州説の有力な根拠の一つとされます。

次いで翌正始九年の日食は、西暦二四八年の九月五日に起きており、前年とは逆に日出直後の東の朝空に見えたと推定されます。
但しこの日食も最大時は日昇前であり、仮に遮るもののない快晴だったとすると、太陽の大部分が月に覆われた状態で朝日が顔を出し始め、日が昇るに従い影が消えて太陽が真円に戻るという、やはり非常に印象的な日食となっています。
またこの日食は皆既日食帯が日本海から能登半島を経て、関東北部(東北南部)から太平洋へと抜けているため、ほぼ日本全土で見ることができたと思われます。
従ってどちらの場合でも倭人は、青天に日が欠け始め、再び満ちて戻るという、日食の一部始終を見ていた訳ではありませんが、皆既食に劣らぬほど衝撃的な光景だったことは間違いないでしょう。


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