その国、本また男子を以て王と為し、住ること七八十年。倭国乱れ相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わす。年已に長大なるも夫婿なく、男弟有り、佐けて国を治む。王と為りしより以来、見る有る者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人有り、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵を厳かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す。
女王国は、もと男王が治めており、在位すること七、八十年に及んだ。(その王の死後に)倭国は乱れて、互いに攻伐して時を経た。そこで双方が共に先王の娘を王に立てることで合意した。名をヒミコ(ヒメミコか)という。鬼道を事として衆を惑わしている。すでに成人しているが夫や婿はいない。弟が補佐して国を治めている。王となって以来、その姿を見た者は少なく、千人の侍女が奉仕している。ただ一人の男子が、飲食を給し、辞を伝えるために居処に出入している。宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、常に兵を従えた者が守衛している。
卑弥呼は先王の娘
この辺から倭人伝は邪馬台国が主題となり、まず同国には長期間在位した前王がいたことから話を始めています。
ただ「七八十年」というのは、恐らく現地の倭人から聞いた話をそのまま記載したものと思われますが、当時の倭人の歳の数え方からして、現実には話半分と見ておいた方がいいでしょう。
そしてその王の死後に国が乱れた訳です。
ここでは内乱の経緯について触れていませんが、前述の通り漢籍の史書というのは、最低限の歴史の素養がある者を対象に書かれているので、至極当然の流れは省かれることが多くなります。
むしろ分かり切ったことを事細かに記せば、逆に冗漫だと非難されることになるからです。
この邪馬台国の例にしても、長期政権を築いた王の死後に後継者を巡って国が乱れるのは半ば常識であり、それが世の大勢に影響のないような内容ならば、字数の限られる書物に於いては敢て触れるまでもないことでした。
特に王が長命だったりすると、太子の方が先に薨じてしまっている場合も多く、そうなると更に問題はややこしくなります。
ただ「七八十年」というのは、恐らく現地の倭人から聞いた話をそのまま記載したものと思われますが、当時の倭人の歳の数え方からして、現実には話半分と見ておいた方がいいでしょう。
そしてその王の死後に国が乱れた訳です。
ここでは内乱の経緯について触れていませんが、前述の通り漢籍の史書というのは、最低限の歴史の素養がある者を対象に書かれているので、至極当然の流れは省かれることが多くなります。
むしろ分かり切ったことを事細かに記せば、逆に冗漫だと非難されることになるからです。
この邪馬台国の例にしても、長期政権を築いた王の死後に後継者を巡って国が乱れるのは半ば常識であり、それが世の大勢に影響のないような内容ならば、字数の限られる書物に於いては敢て触れるまでもないことでした。
特に王が長命だったりすると、太子の方が先に薨じてしまっている場合も多く、そうなると更に問題はややこしくなります。
そして二つに割れて相争っていた双方が、先王の娘を共に立てることで決着したといいます。
以前よく見られた主張の中には、倭国内がいくつもの勢力に分かれて争っていて、つまり当時の倭国は戦国の様相を呈していて、その複数の小国連が一人の女性を連立したとする説もありました。
しかし御伽噺の世界ならばともかく、現実の世にそんな擁立劇が起きるとも思えません。
また同じく「一女子」とあるのを読み違えて、それに続く鬼道云々と合わせて小説化する者も後を絶ちませんが、文章の前後の流れからすれば明らかに先王の娘ですし、それ以外に解釈の仕様がありません。
「名づけて卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わす。年已に長大なるも夫婿なく」とある文を読めば、これが結婚をせずに巫女となった王女であることは、その後の『古事記』や『日本書紀』の同例を見ても疑いの余地がないでしょう。
以前よく見られた主張の中には、倭国内がいくつもの勢力に分かれて争っていて、つまり当時の倭国は戦国の様相を呈していて、その複数の小国連が一人の女性を連立したとする説もありました。
しかし御伽噺の世界ならばともかく、現実の世にそんな擁立劇が起きるとも思えません。
また同じく「一女子」とあるのを読み違えて、それに続く鬼道云々と合わせて小説化する者も後を絶ちませんが、文章の前後の流れからすれば明らかに先王の娘ですし、それ以外に解釈の仕様がありません。
「名づけて卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わす。年已に長大なるも夫婿なく」とある文を読めば、これが結婚をせずに巫女となった王女であることは、その後の『古事記』や『日本書紀』の同例を見ても疑いの余地がないでしょう。
共立の意味
ここでは「共立」という言葉を使っていますが、意味としては二人(或いは二つの勢力)が同じものを共に立てる(共に事を為す)こと、つまり志を同じくすることを言います。
また「共和制」の語源となっている「共和」とは、周の厲王が国内の暴動によって逃亡し、続く宣王が即位するまでの王不在の間、周定公と召穆公の二人が共に政務を執った期間を「共和」と称したのに始まり、これが転じて君主を戴かない政体を共和制と呼ぶようになりました。
同じく「共産」の語義は、支配者と民衆という相容れない二つの階級が、共に生産活動に従事しながら共存すること、つまり統治者が搾取する側に立つのではなく、被統治者と同じように働きながら政治を行うことであり、後年王族や資本家の存在を比定して、労働者が直接国を支配することを「共産主義」と称したのは、これが由来です。
また「共和制」の語源となっている「共和」とは、周の厲王が国内の暴動によって逃亡し、続く宣王が即位するまでの王不在の間、周定公と召穆公の二人が共に政務を執った期間を「共和」と称したのに始まり、これが転じて君主を戴かない政体を共和制と呼ぶようになりました。
同じく「共産」の語義は、支配者と民衆という相容れない二つの階級が、共に生産活動に従事しながら共存すること、つまり統治者が搾取する側に立つのではなく、被統治者と同じように働きながら政治を行うことであり、後年王族や資本家の存在を比定して、労働者が直接国を支配することを「共産主義」と称したのは、これが由来です。
卑弥呼と鬼道
卑弥呼が事としていたという「鬼道」については、果してそれが何だったのか、今もって回答は得られていません。
因みに大陸で鬼道と言えば専ら五斗米道を指し、確かに同教の隆興した時期は後漢末から三国期なので、年代的には卑弥呼の生きた時代に近いとは言え、流石にこれが漢中から河北を飛び越えて日本へ伝わったとは考え難いものです。
ただ『魏志』が卑弥呼の執務に対して、敢て五斗米道を表すような単語を使ったということは、両者の間に何らかの共通点を見出していたのかも知れません。
また年代的に近いと言えば、前記の「大人は皆四五婦、下戸も或いは二三婦云々」という箇所は、後漢末の太平道にも通ずるものがあって、こちらは地理的にも黄巾残党の倭国への亡命は否定できませんが、『魏志』がその点に触れていないところを見ると、やはりこれも可能性としては低いでしょう。
因みに大陸で鬼道と言えば専ら五斗米道を指し、確かに同教の隆興した時期は後漢末から三国期なので、年代的には卑弥呼の生きた時代に近いとは言え、流石にこれが漢中から河北を飛び越えて日本へ伝わったとは考え難いものです。
ただ『魏志』が卑弥呼の執務に対して、敢て五斗米道を表すような単語を使ったということは、両者の間に何らかの共通点を見出していたのかも知れません。
また年代的に近いと言えば、前記の「大人は皆四五婦、下戸も或いは二三婦云々」という箇所は、後漢末の太平道にも通ずるものがあって、こちらは地理的にも黄巾残党の倭国への亡命は否定できませんが、『魏志』がその点に触れていないところを見ると、やはりこれも可能性としては低いでしょう。
後漢末の太平道(黄巾党)と五斗米道の広がり
従って周知の通り現時点では、後の神道や日本古来の信仰との関連性から鑑みて、卑弥呼の行っていた鬼道というのは、東亜一帯に多く見られるシャーマニズムの流派ではないかとする見方が一般的です。
但しこれを余り大袈裟に捉えてしまうと、卑弥呼と呼ばれた女性は類稀な霊能者か何かで、彼女の信者となった諸豪族が、その教義の下に団結したのではないかという説も出てきます。
だとすれば邪馬台とその傘下の国々は、後の一向宗のように宗教的な連合体ということになり(現にそういう主張もあります)、何らかの明確な教則の下で統治されていたことになりますが、当の倭人伝にはそうした特徴を示す記録は何もありません。
もし当時の倭国が実際に女王を教祖とする宗教的な連合体であれば、黄巾の乱を経験したばかりの魏の使者がそれを指摘しない筈はないと思われるので、やはりこれも可能性としては低いと言えるでしょう。
但しこれを余り大袈裟に捉えてしまうと、卑弥呼と呼ばれた女性は類稀な霊能者か何かで、彼女の信者となった諸豪族が、その教義の下に団結したのではないかという説も出てきます。
だとすれば邪馬台とその傘下の国々は、後の一向宗のように宗教的な連合体ということになり(現にそういう主張もあります)、何らかの明確な教則の下で統治されていたことになりますが、当の倭人伝にはそうした特徴を示す記録は何もありません。
もし当時の倭国が実際に女王を教祖とする宗教的な連合体であれば、黄巾の乱を経験したばかりの魏の使者がそれを指摘しない筈はないと思われるので、やはりこれも可能性としては低いと言えるでしょう。
祈祷は王族の特権
そして古来日本では、女性が巫師や祈祷師となる場合、専ら皇女をその任に当てることが多く、神功皇后の逸話に見られるように、皇后(皇族から選ばれる)がその大役を担うこともありました。
これは王家の人間こそが最も神に近い存在だからであり、日本に限らず東亜各地で同様の例が見られます。
また「政」と「祭」を共に「まつりごと」と言うように、政治と祭祀が一体であった時代には、どちらも王家の大権だったという面もあります。
やがて時代が下って、仏教が国教となっても基本的にこの構図は同じで、法曹界と政界の上層部は密接に結び付いており、有力寺院の高僧尼は皆権門の出身です。
これは王家の人間こそが最も神に近い存在だからであり、日本に限らず東亜各地で同様の例が見られます。
また「政」と「祭」を共に「まつりごと」と言うように、政治と祭祀が一体であった時代には、どちらも王家の大権だったという面もあります。
やがて時代が下って、仏教が国教となっても基本的にこの構図は同じで、法曹界と政界の上層部は密接に結び付いており、有力寺院の高僧尼は皆権門の出身です。
恐らく卑弥呼は先王の晩年の子で、王の死後に後継者を巡って国内が割れた時、巫女となっていた王女を戴く一派と、別の王子を支持する一派が相争い、最終的には双方が卑弥呼を共立することで事を収めたものと思われます。
但し「王と為りしより以来、見る有る者少なく」とありますから、後の女帝と同じく卑弥呼が親政を行っていた訳ではなく、実際に政務を執り行っていたのは王弟の方なのでしょう。
そして女王には多数の女官が仕えており、一人の男子だけが宮殿への立入りを許されていたといいます。
独身の卑弥呼には実子がないので、後の女帝の事例にもあるように、近侍を許されていた男子は弟の子(甥)と見るのが妥当でしょううか。
但しそれが政務を補佐していた弟の子なのか、別の弟の子なのかは分かりません。
「婢千人」とあるくらいですから、大陸ならば宦官の職分かも知れませんが、遊牧の歴史がない日本では宦官の伝統がないので、男子禁制の大奥とは言え、やはり誰かしら男子が連絡役を務めなければならなくなります。
但し「王と為りしより以来、見る有る者少なく」とありますから、後の女帝と同じく卑弥呼が親政を行っていた訳ではなく、実際に政務を執り行っていたのは王弟の方なのでしょう。
そして女王には多数の女官が仕えており、一人の男子だけが宮殿への立入りを許されていたといいます。
独身の卑弥呼には実子がないので、後の女帝の事例にもあるように、近侍を許されていた男子は弟の子(甥)と見るのが妥当でしょううか。
但しそれが政務を補佐していた弟の子なのか、別の弟の子なのかは分かりません。
「婢千人」とあるくらいですから、大陸ならば宦官の職分かも知れませんが、遊牧の歴史がない日本では宦官の伝統がないので、男子禁制の大奥とは言え、やはり誰かしら男子が連絡役を務めなければならなくなります。
魏志と後漢書
ここまで倭人伝を読んでみると、少なくとも『魏志』と『魏略』に関して言えば、解釈等で意見の相違は多少あるにせよ、特に謎と呼べるほど難解な箇所はないようにも見えます。
しかし個々の内容を他書と比較してみると、明らかに趣旨の異なる箇所がいくつか見受けられるようになります。
例えば卑弥呼が女王として共立された経緯について、『魏志』と『後漢書』ではまるで正反対のことが書かれており、古来それが邪馬台国を考察する上で無用な障害となっているのでした。
ただ『後漢書』は『魏志』から百五十年も後の成立であり、『魏志』や『漢書』のように公文書を史料にして編纂された史書ではありません。
しかも『後漢書』東夷伝の大半は『魏志』からの引用なのですから、両者の記述に相違が見られる場合、どちらに信を置くべきかは言うまでもありません。
そこで『後漢書』倭伝の該当部分を抜粋してみると、そこには次のように記されています。
ここまで倭人伝を読んでみると、少なくとも『魏志』と『魏略』に関して言えば、解釈等で意見の相違は多少あるにせよ、特に謎と呼べるほど難解な箇所はないようにも見えます。
しかし個々の内容を他書と比較してみると、明らかに趣旨の異なる箇所がいくつか見受けられるようになります。
例えば卑弥呼が女王として共立された経緯について、『魏志』と『後漢書』ではまるで正反対のことが書かれており、古来それが邪馬台国を考察する上で無用な障害となっているのでした。
ただ『後漢書』は『魏志』から百五十年も後の成立であり、『魏志』や『漢書』のように公文書を史料にして編纂された史書ではありません。
しかも『後漢書』東夷伝の大半は『魏志』からの引用なのですから、両者の記述に相違が見られる場合、どちらに信を置くべきかは言うまでもありません。
そこで『後漢書』倭伝の該当部分を抜粋してみると、そこには次のように記されています。
桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐し、歴年主無し。一女子有り、名を卑弥呼と曰う。年長ずれども嫁せず。鬼神の道に事え、能く妖を以て衆を惑わす。ここに於いて共に立てて王と為す。侍婢千人。見る有る者少なし。ただ男子一人有り、飲食を給し、辞語を伝う。居処・宮室・楼観・城柵、皆兵を持して守衛し、法俗厳峻なり。
桓霊云々の意味するところ
「桓霊の間」とあるのは、後漢の桓帝と霊帝の治世のことで、この枕詞が何を意味しているかは既述しました。
桓帝の在位期間は西暦一四六年から一六七年まで、霊帝は一六八年から一八九年までであり、この間に倭国が大いに乱れたというのですが、当然ながら『魏志』にその記述はありません。
ではそもそもこの桓霊の間という特定の年代が、一体どこから出てきたのかというと、要は『魏志』の文中に「住七八十年」とあるのを、「七八十年間、王が不在だった」と読んでいるのでした。
そこで仮に魏使が初めて詔書と印綬を奉じて倭国を訪れた正始元年(二四○年)をその起点とすると、八十年前は桓帝の代、七十年前は霊帝の代となり、まさに桓帝から霊帝へ帝位が移行するその時期に、倭国で王が不在になったという結論になる訳です。
しかしこの場合の「住」は「在」と同義ですから、『後漢書』の解釈は明らかにおかしいものです。
桓帝の在位期間は西暦一四六年から一六七年まで、霊帝は一六八年から一八九年までであり、この間に倭国が大いに乱れたというのですが、当然ながら『魏志』にその記述はありません。
ではそもそもこの桓霊の間という特定の年代が、一体どこから出てきたのかというと、要は『魏志』の文中に「住七八十年」とあるのを、「七八十年間、王が不在だった」と読んでいるのでした。
そこで仮に魏使が初めて詔書と印綬を奉じて倭国を訪れた正始元年(二四○年)をその起点とすると、八十年前は桓帝の代、七十年前は霊帝の代となり、まさに桓帝から霊帝へ帝位が移行するその時期に、倭国で王が不在になったという結論になる訳です。
しかしこの場合の「住」は「在」と同義ですから、『後漢書』の解釈は明らかにおかしいものです。
ある時代を表す手法として、時の君主の名を冠するというのは、古今東西よく用いられる様式で、その治世との関連性を示す上でも便利なものです。
桓帝と霊帝に関しては、『魏志』東夷伝でも韓と高句麗の項で触れられていて、韓伝には「桓霊の末、韓と濊は強盛にして、郡県は制する能わず」とあり、高句麗伝には「順桓の間、復た遼東を犯し云々」とあります。
高句麗伝では他にも後漢との接点として、高句麗が光武帝八年に朝貢して始めて王と称したこと、殤帝と安帝の間にしばしば遼東を侵し、改めて玄莵郡に属したこと等、『後漢書』倭伝とも年代的に共通性のある記述が見られます。
従ってもし『魏志』にある「住七八十年」という一文が、『後漢書』のように「桓霊の間」という意味ならば、他ならぬ『魏志』がまずそう記した筈でしょう。
従って『後漢書』倭伝の桓霊云々というのは、倭国にも後漢の帝位との関連性と、他の東夷伝との共通性を持たせようとして、著者の范曄が『魏志』の記述を半ば意図的にすり替えたものだと言えます。
桓帝と霊帝に関しては、『魏志』東夷伝でも韓と高句麗の項で触れられていて、韓伝には「桓霊の末、韓と濊は強盛にして、郡県は制する能わず」とあり、高句麗伝には「順桓の間、復た遼東を犯し云々」とあります。
高句麗伝では他にも後漢との接点として、高句麗が光武帝八年に朝貢して始めて王と称したこと、殤帝と安帝の間にしばしば遼東を侵し、改めて玄莵郡に属したこと等、『後漢書』倭伝とも年代的に共通性のある記述が見られます。
従ってもし『魏志』にある「住七八十年」という一文が、『後漢書』のように「桓霊の間」という意味ならば、他ならぬ『魏志』がまずそう記した筈でしょう。
従って『後漢書』倭伝の桓霊云々というのは、倭国にも後漢の帝位との関連性と、他の東夷伝との共通性を持たせようとして、著者の范曄が『魏志』の記述を半ば意図的にすり替えたものだと言えます。
後世の史書の信頼性
時代が下って唐代になると、『梁書』の編者姚思廉が桓霊を更に進めて、同書倭伝の中で「漢霊帝の光和中、倭国乱れ相攻伐すること歴年」と記して、年号まで特定したため更に厄介なことになりました。
光和は後漢の霊帝の三番目の元号で、西暦一七八年から一八四年までの七年間を指します。
但し思廉が倭国大乱の時期を光和年間と断定したことに関して、唐代に入ってから新たな史料が発見されたとか、『魏志』よりも信頼できる別の書物が存在していたなどという話は伝わっていません。
では光和というのが一体どういう時代だったのかと言うと、光和元年には空前絶後の愚策である売官が始まり、同三年には何の罪もない宋皇后を廃して下賤の出の何氏を皇后に立てると、同七年には大賢良師張角による黄巾の乱が勃発するなど、後漢帝国が音を立てて崩れ始めた時代でした。
姚思廉が倭国の内乱を表す時期として、特に光和という年号を選んだ理由も、大方そんなところでしょう。
時代が下って唐代になると、『梁書』の編者姚思廉が桓霊を更に進めて、同書倭伝の中で「漢霊帝の光和中、倭国乱れ相攻伐すること歴年」と記して、年号まで特定したため更に厄介なことになりました。
光和は後漢の霊帝の三番目の元号で、西暦一七八年から一八四年までの七年間を指します。
但し思廉が倭国大乱の時期を光和年間と断定したことに関して、唐代に入ってから新たな史料が発見されたとか、『魏志』よりも信頼できる別の書物が存在していたなどという話は伝わっていません。
では光和というのが一体どういう時代だったのかと言うと、光和元年には空前絶後の愚策である売官が始まり、同三年には何の罪もない宋皇后を廃して下賤の出の何氏を皇后に立てると、同七年には大賢良師張角による黄巾の乱が勃発するなど、後漢帝国が音を立てて崩れ始めた時代でした。
姚思廉が倭国の内乱を表す時期として、特に光和という年号を選んだ理由も、大方そんなところでしょう。
もともとこれは范曄が『魏志』の「住七八十年」という一文を「桓霊の間」と捻じ曲げて(或いは范曄以前に誰かがそれを曲解して)著述したことに起因する問題ですから、それを受けて記された姚思廉の「光和中」などというのは初めから実態そのものがありません。
同じように范曄の安易な文章が、長く後世に誤解を与え続けた例として倭人の人口比率があり、『魏志』の「その俗、国の大人は皆四五婦、下戸も或いは二三婦」という箇所を彼が『後漢書』で引用した際に、その前置きとして「国多女子」と入れてしまったため、これが倭の地は男性よりも女性の数が多いという迷信を生み、倭人の特徴と称して他書内でも繰り返し流用されることになりました。
当然姚思廉も『梁書』倭伝の中で、倭人の長寿と男少女多の性別構成を紹介していますが、いずれの書に於いても、なぜ男が少なくて女が多いのかという点については触れられていません。
同じように范曄の安易な文章が、長く後世に誤解を与え続けた例として倭人の人口比率があり、『魏志』の「その俗、国の大人は皆四五婦、下戸も或いは二三婦」という箇所を彼が『後漢書』で引用した際に、その前置きとして「国多女子」と入れてしまったため、これが倭の地は男性よりも女性の数が多いという迷信を生み、倭人の特徴と称して他書内でも繰り返し流用されることになりました。
当然姚思廉も『梁書』倭伝の中で、倭人の長寿と男少女多の性別構成を紹介していますが、いずれの書に於いても、なぜ男が少なくて女が多いのかという点については触れられていません。
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