ここで斉と晋について軽く触れておくと、斉は武王の覇業を補佐した太公望呂尚を始祖とする国で、呂尚は姓が姜、氏が呂だったため、王姓は姜であり、周一門ではなく臣下が封ぜられた中では最も大きい国です。
但し呂尚が下向した当時の斉は、殷に属していなかった莱という部族の土地であり、要するに彼は既に開けていた国を与えられたというよりも、莱を征伐してその故地に建国することを認められたようなものでした。
周が次代成王の世になると斉は、周王室に対して罪を犯した諸侯を討伐する権限を許されたとも伝えられ、ちょうど関中と斉とで中原を挟撃するように、周の版図の東端にあって諸国に睨みを利かせる存在となっていました。
ただ武王が太公望を莱の地に封じたのは、彼が最も信頼できる臣下だったのは当然にしても、後に豊臣秀吉が重臣の徳川家康を関東へ、謀臣の黒田如水を九州へ移したように、余りに有能な呂尚を遠ざけるためだったとも言われます。
但し呂尚が下向した当時の斉は、殷に属していなかった莱という部族の土地であり、要するに彼は既に開けていた国を与えられたというよりも、莱を征伐してその故地に建国することを認められたようなものでした。
周が次代成王の世になると斉は、周王室に対して罪を犯した諸侯を討伐する権限を許されたとも伝えられ、ちょうど関中と斉とで中原を挟撃するように、周の版図の東端にあって諸国に睨みを利かせる存在となっていました。
ただ武王が太公望を莱の地に封じたのは、彼が最も信頼できる臣下だったのは当然にしても、後に豊臣秀吉が重臣の徳川家康を関東へ、謀臣の黒田如水を九州へ移したように、余りに有能な呂尚を遠ざけるためだったとも言われます。
旧殷領ではなく他族の土地を領有した斉は、その後も周王室や他の諸侯に憚ることなく、周囲の未開地を併呑しながら領土を拡大していったので、やがて関中にも匹敵するほどの大国となって行きました。
また海に面している斉は、塩の生産によって財政が安定しており、他国と比べても裕福だったといいます。
しかし大規模な領土の増加は、それが必ずしも君主である斉公の権力強化には繋がっておらず、多くの似たような事例が示す通り、却って有力な家臣の台頭を招く結果となりました。
尤も天子である周王にしてからが、その直轄領は大して増えることのない(むしろ減っています)まま、家臣である筈の諸侯が巨大化したことにより、相対的に弱小化の一途を辿ってしまった訳ですから、それと同じ下克上が諸国で起きていたとしても不思議ではありませんでした。
斉には、国氏、高氏、鮑氏、崔氏、慶氏、陳(田)氏という、公族を含む六氏の有力貴族がおり、斉公を差し置いて互いに抗争を繰り返していました。
やがて陳国からの亡命公子の家系である田氏が、貴族間の生存競争を勝ち抜いて同国最大の氏族となり、後の藤原氏や北条氏と同じように事実上の斉の支配者となりました。
そして紀元前三九一年、時の当主だった田和が、主君の康公を追放して斉を乗っ取り、ここに太公望以来の名門斉(姜斉)は滅亡し、新たに田氏(姓は嬀)の斉(嬀斉或いは田斉とも)が誕生しました。
当然この簒奪劇を引き起こした背景には、韓魏趙の三氏による晋の分割と、同じく三氏の列候による独立が影響していたであろうことは想像に難くありません。
田和が周の愛王から諸侯に列せられるのは、康公の強制退去から五年後の前三八六年のことで、これによって斉は名実共に田氏の国となったのです。
斉が春秋五覇の一人である桓公以来の威勢を誇ったのは、田和の曾孫の威王の治世で、将軍田忌と軍師孫臏を擁する斉軍は無敵を誇り、他国は先代薨去に紛れて奪っていた土地を返還すると共に、以後二十年に渡って誰も斉を攻めようとはしなかったといいます。
続く宣王は一族の孟嘗君を登用して国力を更に増強させ、かつて周王と斉公が東西に君臨したように、西の秦と東の斉による二強時代を築き上げました。
続く湣王は引続き孟嘗君を重用し、宋を滅ぼして中原の小国を尽く属国にすると、燕楚両国に兵を進めて広大な土地を自国の支配下に置き、三晋にも侵攻して領地を奪うなど、斉の国土は建国以来最大に達し、遂に湣王は東帝を称するまでになりました(後に撤回)。
因みに時を同じくして始皇帝の曾祖父の昭襄王は西帝を称しています。
しかし限界まで膨張した風船が破裂するように、史上最強の国力を誇った斉は一転して奈落の底へ転がり落ちることになります。
斉の躍進に危機感を抱いた他国は打倒斉で一致し、やがて燕の昭王が燕・趙・魏・韓・秦の五カ国による同盟を纏め上げると、斉は燕の将軍楽毅の率いる五カ国連合軍によって首都臨淄を落とされ、その後も燕に七十余城を奪われるなど湣王一代で滅亡寸前にまで陥りました。
やがて燕で昭王が没すると、斉は策略を用いて燕の王位を継いだ恵王と楽毅の離間に成功し、燕に奪われた七十城を尽く奪回して旧領を復活させましたが、斉がかつての国威を取り戻すことは二度とありませんでした。
河北で唯一秦に対抗できる力を持っていた斉が衰退したことで、もはや秦の東進を阻む者はいなくなったため、結局のところ五カ国連合による斉の弱体化は、秦の覇業を利するだけに終っています。
もう一方の雄である晋は旧名を唐と言い、周の成王の代に旧唐国が背いたため、周公旦(武王の弟で成王の叔父:魯国の始祖)がこれを討伐し、その故地に成王の弟の虞が封ぜられたのを起源とします。
従って王姓は周王室と同じく姫姓であり、後に国号を晋と改め、周の版図の北方(現山西省)にあって、他の諸侯のように近隣国に煩わされることも少なかったので、周に服していない土地を次々に征伐することで領土を拡大して行きました。
そして文公の代には覇者として諸侯の会盟を仕切り、反乱から逃れてきた周の襄王を助けて洛陽を鎮定するなど、周文化圏随一の強国となった晋でしたが、斉同様に大国の常で、英明な主君を頂いている限りは諸国の盟主となり得ても、凡庸な主君の下では国内が纏まらないことも多くありました。
そもそも文公にしてからが晋候の嫡流ではなく、分家の三代目だった武公が宗家を滅ぼして自ら国主となった家系で、文公は武公の孫に当たります。
晋の職制では六卿と呼ばれる最高位の重職があり、春秋末期になると、韓氏(公族)、魏氏、趙氏、范氏、智氏、中行氏(智氏と中行氏は同系で、共に荀氏の出)の六氏が、他氏を排斥して六卿の地位を独占していました。
やがて晋の出公の代、韓・魏・趙・智の四氏が、他の二氏の領地を分割しようと企てたため、出公自ら他国の協力を得て四氏を除こうと謀ったものの、これに失敗して亡命するという事件が起きました。
もしこの時に出公の作戦が成功して王権を回復できていれば、或いは秦にも比肩する強国晋が復活していたかも知れませんが、逆に失敗したことで晋候は国政の実権を尽く失い、以後は周王と同じく形ばかりの国主として存続することになります。
四氏の中では智氏の勢力が最も強かったのですが、智氏が韓・魏両氏と組んで趙氏を斃そうと謀った際、窮した趙氏は韓・魏両氏に対し、もし自分が滅びたら次は諸君の番だと説いて離反を誘い、逆に韓・魏・趙の三氏が連合して智氏を滅ぼしました。
そして紀元前四五三年、勝利した三氏が国土を三分割して晋公から独立したことで、晋は僅かに二城を領するだけの小国に転落してしまいます。
ここでも智氏が順次他の三氏を滅ぼして、斉の田氏のように晋を乗っ取ることに成功していたら、再び晋は天下を左右するほどの強国になっていたかも知れません。
国を分割して簒奪した三晋各氏が、周の威烈王から諸侯に列せられるのはこの五十年後であり、大国秦と隣接しながら国を三分してしまったことは、却って自家の社稷を危機に晒す結果となっています。
ただ斉の田氏や晋の三氏を簒臣とばかりは言えない面もあって、確かに長い歴史の中では斉の桓公や晋の文公のような君主も居たにせよ、人々が剥き出しの人間のままで生きていたような時代のことですから、人間失格と言えるような碌でもない君主が多かったのも事実なのです。
またそんな時代だったからこそ、諸子百家のように深い人間観察も可能だったのでしょう。
現に田氏が国主となるや瞬く間に斉は強国として復活しましたし、同じく魏も二代目の文候の代には早くも列強としての頭角を現し、続く武候の代には主要七国の中で最強を誇るまでになっています。
しかし四方を他国に囲まれている韓魏や、国土は北に広くとも平野部の肥沃な土地が少ない趙では、やはり絶対的な国力で秦や楚に対抗できず、一時的な勢いで他者を圧倒する時期はあったとしても、長い目で見れば秦の猛攻を防ぐのが精一杯だったと言えます。
確かに秦王政が親政を始めるまでは、秦がどれほど三晋に攻勢を掛けたとしても、最終的には常にこれを撃退して三国は独立を保っていましたし、同じく楚が一時的に中原を侵食したとしても、河北諸国が必ずこれを押し戻していたのは事実です。
しかし秦が三晋領に侵攻することは度々あっても、逆に三国の方が秦に脅威を与えることは殆どなく、楚が日常的に中原を窺うことはあっても、河北の諸国が楚の国境を後退させることは滅多になかったという点を鑑みれば、既にその時点で天下の趨勢はほぼ決していた訳です。
そして未来永劫そんな状態が続く筈もないので、河北が一国に統一されない限り、いずれ周文化圏は秦と楚の二強によって分割され、その二国が最後の覇権を争うようになるのは自明の理だったでしょう。
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