史書から読み解く日本史

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天下統一(統一前夜)

2019-03-25 | 始皇帝
果して秦がいつ頃から天下統一を意識し始めたのかという点については、実のところよく分かっていません。
後年はそれが何度も繰り返されたので、支那大陸の統一という大事業でさえ、既に誰もが認識可能な現象となっています。
しかし現実問題として、戦国時代にそれを思い描いていた人間が何人居たのかとなると、頭の中だけの夢物語を別にすれば、これは甚だ疑問となります。
むしろ天下の統一が可能だなどと何の疑いもなく確信していたのは、天下広しと言えども始皇くらいのものだったでしょう。
そして最終的にはその意識の差が秦と他国との明暗を分けていて、秦以外の大国が、戦国とは言いながらも誰一人として滅びることのない共存の中で、これから先もその状態を続けるつもりでいたのに対して、もはや秦王政には春秋戦国のパワーゲームに付き合う気など更々なく、始めから自国以外の全ての国を亡ぼすつもりだった訳で、他の六国は嬴政という人物を初期の段階で完全に見誤っていたのです。

実際に当時の社会情勢にあって、既存の価値観のまま天下を統一することがどれほど困難だったかと言うと、まず諸侯の誰もがそんな事態そのものを全く想定していなかったことが挙げられます。
言わば基本的に戦国七雄と呼ばれた大国が、城を取ったり取られたりを延々と繰り返しながらも、お互いに存続することを前提にした世界だった訳です。
何故なら複数の大国が分立することで均衡を保っているような世界では、自国の存在を肯定させる尤も確実な条件とは他国が存在することであり、他国の存続を否定する行為は却って自国の存命をも危うくするからです。
要するに天下が分割されている限りは、その一角である自国もまた安泰だったのであり、その点では支那大陸とは逆に、超大国によって統一されている状態の方が珍しい欧州とよく似ています。

例えば前記の如く東帝を称した斉の湣王は、一時的に中原の小国を尽く支配下に置き、燕と楚から広大な土地を奪って天下に覇を唱えましたが、斉一国の巨大化を疎んだ他国の連合軍によって本国を蹂躙されてしまいました。
同じく西帝を称した秦の昭襄王は、一時的に趙全土を制圧して首都邯鄲を包囲しましたが、魏の公子信陵君と楚の春申君の率いる援軍によって撃退され、同王の路線を受け継いだ孫の荘襄王は、その報復として魏領へ侵攻したものの、やはり秦の東侵を案じた他国が魏へ援軍を送ったために大敗させられています。
そしてこれと同じことが、実に数百年にも渡って幾度となく繰り返されて来た訳ですから、秦が乱世を終らせて統一世界を実現しようとするならば、まずは諸国間の共存と同盟の連鎖を断ち切る必要がありました。

今でこそ世界第三位の経済大国になった日本ですが、明治維新以来一貫して頭を痛めて来た外交問題はまさにこの逆で、東亜には日本が同盟を組めるような相手がただの一国もないことでした。
これが欧州ならば、始めから一国で全てを抱え込むような真似はしませんし、不幸にも結果としてそうなってしまうことはあっても、他の全ての国を敵に回すような事態を案じる必要はありません。
二度に渡る前の世界大戦にしたところで、常に一対多ではなく同盟国同士の戦争であり、欧州に限れば兄弟喧嘩のようなものですし、敗戦国が滅亡した訳でもありません。
欧米列強との厳しい外交を強いられた明治初期の日本が、列強の侵略から東亜を防衛するためには、まず朝鮮を清から独立させなければならないと考えたのはこれが理由であり、本来盟主となるべき清帝国があの体たらくでしたから、否が応でも独立国を増やす必要があったのです。

これは現代の金融産業界にしても同じことが言えて、今も欧州では各国がそれぞれ異なる分野に於いて世界有数の企業を有しており、自然と欧州内での役割分担がなされています。
当然それは開発投資に代表される個々の経済負担を軽減させると共に、各国が特定の分野へ集中的に資金を投入できるという利点を持ちます。
全欧州以外の地域(国)で、殆ど全ての分野に世界最先端の企業を有しているのはアメリカ合衆国と日本ですが、米国はその国名が示す通り州そのものが国であり、昔から州単位での役割分担がなされているので、実際に一国で金融産業界の大半を網羅しているのは、今も昔も日本くらいのものなのです。
そしてこの状況は二十一世紀の現代でも何ら変っておらず、多少は頼りになりそうな隣国を見渡してみても、他者を排除してあらゆる利益を独占することや、意味不明な難癖を付けては日本にタカることしか考えていないような連中ばかりです。

最近は世界各国から日本に対して、経済力に見合うだけの政治的軍事的な役割を担うべきだという声が高まっており、確かにそれはその通りなのでしょうが、その一方で米国や西欧諸国は、戦後の日本が軍事負担を免れたことで経済発展を遂げたことは知っていても、日本が東亜に於ける経済的な負担を一身に背負ってきたという事実を、まるで理解していないことが多いのです。
そもそも資源も何もないこの小さな島国が、日米欧の一極を支えて来たこと自体が驚異なのであって、他国の人々は日本だけが魔法を使えるとでも思っているのでしょうか。
近年では中国が世界第二位の経済大国にまで躍進し、韓国も特定の分野では独力で世界と競争できるだけの実力を備えて来ているので、以前に比べれば日本単独の負担も減っているとは言え、今後の日本が軍事面に於いても国力に見合った負担を求められるならば、少なくとも東亜に於ける経済的な負担を更に軽減して、国全体にその分の余力を作らなければ厳しいでしょう。

そして現代の欧州のように、意識的に共存関係を保持するのでもない限り、際限のない競争の行き着く先が一人の勝者による独占であることは、いつの世にも変らぬ自然の摂理であり、遅かれ早かれいつかは出現する世界です。
従ってそうした観点から前記の斉と秦の躍進を見てみると、西南北の三方を他国(残る一方の東は海)に囲まれている斉は、かつてのように未開地を拓いて国土を広げる余地がなく、日に日に強大化する秦や楚から自国の未来を守るためには、もはや容赦なく他人の土地を奪う以外に道がありませんでした。
それは常に東への通路を確保しておかなければ、函谷関から西へ封じ込められてしまう秦にしても同様で、どちらの例も独善的な膨張政策という面を持つことは事実にせよ、反面では自国存続のための防衛行動の帰結という現実もありました。

始皇が最終的な勝者として天下を統一するためには、他国が戦わずして秦に無条件降伏でもしない限り、最後は武力によって全ての国を亡ぼすしかありません。
しかし秦がいかに強国とは言え、一度に全ての国を敵に回したのでは流石に分が悪いので、やはり個々を相手に勝利を重ねて行くべきなのですが、実のところ純粋な戦闘だけでは個別撃破でさえ容易ではありませんでした。
その理由の一つとして、当事者以外の第三者の存在があって、余程迅速に事を運ばない限り、必ず他国の介入を招いてしまうのです。
逆に言えば、それさえなければ個別解決の末の統一は現実味を帯びてくる訳ですが、秦に比べれば弱小とは言え相手も戦国七雄ですから、夢のような速さで一国を平定できる筈もなく、また単に制圧しただけはその土地を支配できる保証もありませんでした。

もう一つの理由としては、諸侯連立の時代が数百年も続いていたことで、やはり諸国の方も戦慣れしており、特に三晋や楚のように秦と国境を接している国にとって、秦による侵犯などは日常茶飯事でしたから、地の利を活かした自領内での迎撃ともなれば猶更のこと、秦軍の攻勢に対してもそれなりの耐性が備わっていました。
まして当時の秦軍と他国軍との間には、現代の米軍のような装備面での他国に対する優位性は殆どなく、基本的には似たような武器で戦闘していたので、装備の先進性で他を圧倒するという訳にも行きませんでした。
従って相手国の君主や、その国政全般を担う丞相、戦場で指揮を執る将軍が凡庸な人物であれば、秦はその国力をそのまま戦力にも転化できるのですが、先方の国王が英主であったり、実務を統轄する丞相や将軍が有能だったりすると、国力の差が必ずしも戦場に反映される訳ではありませんでした。

秦が天下を統一するということは、即ち秦一国を残して他国はこの地上から消え去るということであり、その過程の中で最初に消滅したのは韓でした。
尤も常に秦の東征に脅かされていた韓は、秦に朝貢することで何とか独立を保っていたのが実情で、秦の郡県と変らないなどと揶揄されたように、秦からは半ば属邦の扱いを受けていたため、秦王が遂に韓の廃国を決め、その故地を潁川郡と称したところで驚く者は少なかったでしょう。
とは言え紀元前二三〇年に起きた韓の滅亡劇が、来るべき新たな時代への号砲となったことに変りはなく、三氏が晋公から独立して以来、二百年以上に渡って続いて来た既存の世の中が、いよいよ終焉に向けて動き始めたことを明示する事件でした。
言わば遂に秦が一国を滅ぼしたということは,他国に対してもそれを平然と実行する可能性が高いということであり、どれほど相争っていても最後は落としどころを見付けて共存するという、従来の価値観がもはや通用しないことを意味していました。

確かに百年以上遡れば、楚は越を滅ぼして江南を平定していますし、その越は呉を滅ぼして長江流域にまで進出しています。
また七国(越を入れれば八国)が共存していたなどと言っても、その間にでさえ各国の栄枯盛衰や覇権の移動はありましたし、全ての地域で国境線は常に変動していました。
やがて戦国も末期になると、前記の如く斉は燕と楚の国土を際限なく奪って燕を滅亡寸前にまで追い詰め、すると次は逆に燕が斉領を尽く制圧して一気に斉を屠ろうとし、秦は趙の首都邯鄲を包囲して陥落寸前にまで追い込むなど、次第に諸国間の戦争が本格的な生存競争の様相を呈しており、いつかこういう日が訪れるであろうことは誰もが薄々気付いていたことでした。
そして戦国七雄の一角である韓の悲劇は、他の諸侯やその公族に対して、それと同じことが自国にも起こり得るということを、逃げ場のない状態で突き付けたのです。

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