呂不韋は史書によると、荘襄王が即位するなり秦の丞相に就任したといいますが、流石にそれは有り得ないでしょう。
呂不韋が荘襄王の即位に尽力したのは誰もが認めるところであり、王自身は彼に生涯の大恩があるにせよ、それはあくまで子楚個人の恩義な訳ですから、商人である呂不韋には商売上の便宜を図ってやれば済む話で、秦に何の功もない他国人の彼を丞相に据える口実にはなりません。
これが趙夫人と政をそれぞれ王妃と太子に立てる程度ならば、条件さえ揃えば上意を通すこともできるでしょうが、いかに秦は他国に比べて王権が強いとは言え、どこの馬の骨とも知れぬ怪人をいきなり丞相に任ずるというのは、流石に王族や重臣の同意を得られなかったものと思われます。
呂不韋が荘襄王の即位に尽力したのは誰もが認めるところであり、王自身は彼に生涯の大恩があるにせよ、それはあくまで子楚個人の恩義な訳ですから、商人である呂不韋には商売上の便宜を図ってやれば済む話で、秦に何の功もない他国人の彼を丞相に据える口実にはなりません。
これが趙夫人と政をそれぞれ王妃と太子に立てる程度ならば、条件さえ揃えば上意を通すこともできるでしょうが、いかに秦は他国に比べて王権が強いとは言え、どこの馬の骨とも知れぬ怪人をいきなり丞相に任ずるというのは、流石に王族や重臣の同意を得られなかったものと思われます。
もともと秦は西方(と言っても周の故地なのですが)にあって、中原の諸国からは後進地域として蔑まれてきたこともあり、能力さえあれば他国人であろうと抜擢する国風があるので、呂不韋が丞相に任ぜられること自体に不審な点はありません。
例えば始皇に仕えて秦帝国の丞相となる李斯は楚領の出身ですし、始皇はまた『韓非子』の著者で韓の公子でもある韓非を招こうとしています。
また君主の擁立に大功のあった者が、その側近として重用されるのは半ば常識ですから、もし呂不韋が秦とは何の縁もない他国者の商人でなければ、その条件を満たしている面はあります。
例えば荘襄王が即位する以前から、子楚の推薦で呂不韋が昭襄王なり安国君なりに仕えて、既にそれなりの待遇を受けていたというならばまだ筋も通るのですが、そうした記録は一切見当たらないのです。
ただ子楚が単身趙を脱出した後、政母子が邯鄲で困窮していた(無論それが史実ならば)ことを考えると、恐らく呂不韋もまたほぼ時を同じくして趙を退去し、そのまま子楚と共に秦に留まったと見るのが妥当でしょう。
言わば政母子は父親のみならず、そのタニマチをも同時に失ったのであり、要は両者から見捨てられた形になった訳です。
従って子楚の立太子を受けて、趙が政母子を秦へ送り返したといっても、果して秦の方がそれを求めたのかどうかは分かりませんし、趙にしても秦との関係を慮ったというよりは、扱いに困った母子を手放したかっただけかも知れません。
そして子楚の帰国から即位までの約四年間、呂不韋は活動の場所を咸陽に移して、再び子楚との二人三脚で事を進めていたのであり、その間に秦内でもそれなりに知名度を挙げていたものと思われます。
そこで呂不韋が秦で破格の出世を遂げた背景を察してみると、ほぼ二つの方法が考えられます。
まず最も可能性のある道筋としては、優れた商人でもあった呂不韋が、初め子楚を通して安国君や華陽婦人といった有力者に財務顧問のような形で係るうち、彼等の財産の運営に手腕を発揮して、次第に重宝されるようになったというものです。
これは商人が政治の世界へ進出する際の典型的なパターンで、江戸時代の大名家や近世欧州の王侯にも多くの実例があり、現代でも大統領制の国家では財務長官が資本家出身というのは決して珍しい話ではありません。
そして子楚が王位を継承すると、呂不韋は王の私財のみならず秦国の財政の管理も任されるようになり、その功績により丞相にまで登り詰めたというのであれば、まだ合点の行く話ではあります。
他にも考えられる形態として、呂不韋は華陽后や趙夫人など、後宮の支配者に強い繋がりを持っていたので、古今東西を問わず多くの事例があるように、後宮への影響力を利用して(つまり女性の力を借りて)のし上がったというものです。
実際に華陽后はともかく趙夫人に関しては、後年までの気遣いや距離の置き方などからして、邯鄲時代の扱いに負目を感じていたばかりではなく、秦での立身出世にも何らかの形で彼女の助力を得ていた可能性は高いでしょう。
恐らく秦の王族や古くからの重臣の中で、商人上がりの呂不韋を快く思っている者が甚だ少なかったのは間違いなく、いかに子楚が彼を重用したい(或いは逆に遠ざけたい)と望んでも限度がある訳で、新参者が他国で位人臣を極めるには、やはり荘襄王の自発的な意思だけでは難しかったものと思われます。
荘襄王が在位三年で没すると、十三歳の新王に実権などあろう筈もなく、生母の趙太后が後見人として大権を握り、丞相の呂不韋が朝廷を牛耳るという形での双頭体制が始まりました。
そして仮に政がこの両者の子であるならば、この時点で秦は完全に乗っ取られてしまったことになります。
呂不韋は秦王から「仲父」と呼ばれ、河南の地に食封十万戸を有し、大国秦の丞相として並ぶ者のない権勢を誇っていたといいます。
そして呂不韋の名が青史に刻まれるほどに巨大化したのは、君主の政が少年だったからに他ならず、河南の封地や丞相の地位にしたところで、果して史書に伝えるように荘襄王が与えたものなのか、或いは秦王政(即ち趙太后)が許したものなのかも定かではありません。
秦王政の下で丞相だった頃の呂不韋の権勢については、巨万の富を背景に斉の猛嘗君や魏の信陵君に倣って食客三千人を集めたとか、自宅の使用人が一万人に上ったとか、食客の知識の粋を集めた『呂氏春秋』なる書物を編纂したなど、まるで後世の平氏を髣髴とさせるような浮世での陶酔っぷりが伝わっています。
しかしその一方で、彼が丞相として秦のために何をしたなどという話は殆ど残っておらず、果して彼が為政者として有能であったかどうかは不明です。
秦の譜代の家臣や歴戦の将校にしてみれば、呂不韋の栄華などは腸の煮えくり返る思いであったでしょうが、幼君を押さえられてしまっている以上は為す術がありませんでした。
実のところ呂不韋を排除しようという動きは常にあったものの、朝廷内に張り巡らせた諜報網によって巧みに逃れています。
そんな呂不韋に斜陽が訪れるのは、政の即位から八年後のことでした。
荘襄王亡き後、趙太后は男子禁制の後宮で密かに嫪毐という情夫を囲っていましたが、当然ながら表向きは宦官を装っており、太后に信任の厚い宦官として嫪毐は次第に昇進し、遂には彼女の推挙で封候されるまでになりました。
しかし本来は日陰を歩かねばならぬ身でありながら、実体も伴わぬまま富貴を得た多くの成金と同様、嫪毐もまた食客を集めるなど派手な生活を人目に晒したため、彼の身分詐称や太后との密通を秦王に密告する者が現れました。
窮した嫪毐は太后の印綬を盗んで叛乱を起こしたものの、王命を受けた官軍に呆気なく鎮圧され、主犯者である偽宦官の一族は尽く誅滅されました。
しかし秦王が頭を痛めたのは、太后と丞相という国家の権力を二分する二人が、共にこの事件に深く関っていたことでした。
趙太后については、彼女が直接謀叛に加担していた訳ではなかったことと、国王の生母であるということで助命されたものの、共犯の罪に問われて咸陽追放(後に赦されて帰京)となりました。
呂不韋の方はというと、彼自身はこの事件に全く関わっていなかったのですが、そもそもの原因が尽く呂不韋に端を発していたため、本来ならば連座制によって死罪もしくは奴隷に落とされるべきところを、彼の功績を重んじた秦王の温情によって減刑され、丞相罷免と食封での蟄居という寛大な処置となりました。
尤も見方によっては主犯格とも言える呂不韋に対する処分が、咸陽を離れる以外は殆ど無罪と変らぬような量刑で済んだのは、余り追い詰めると呂一派が叛乱を起こし兼ねないという危惧もあったものと思われます。
この一連の騒動によって政が受けた衝撃というのは、実母が情夫と組んで謀叛を企てたことのみならず、そもそも太后が後宮に情夫を囲っていたこと、両者の間には二人の子供がいること、その情夫はかつて丞相呂不韋の食客であり、それを太后に紹介したのも宦官と偽って後宮へ送ったのも呂不韋だったこと、荘襄王亡き後に実母と仲父が密通していたこと等々、宮中では誰もが当然の秘事として知っていた数々の醜聞を、国王である自分一人だけが全く知らなかったことです。
太后と呂不韋を咸陽から退去させた後、恐らく政の気性からして、過去の事柄についても臣下に再調査を命じたことは間違いなく、次々と明るみに出る事実を眼前に突き付けられた時の彼の心情たるや、常人には察することさえ難しいものであったでしょう。
親政を始めてからの秦王政が、情報というものには殊更神経質となり、臣下に対して常に正確な報告をするよう求めたのは、彼の場合は生来の性向もあるでしょうが、若い時に「裸の王様」にされた苦い経験が影響していたのかも知れません。
しかしその始皇が晩年は宦官の趙高を偏信し、政自身が半ば政務を放棄してしまったこともあって、趙高の妨害により天下の正しい情報が入らなくなったばかりか、臣下には君主の正しい情報を与えなくなるなど、再び「裸の皇帝」となってしまったのは皮肉と言うほかはありません。
いずれにせよ若き秦王に親政を始める体制が整ったことは、太后と呂不韋の専横に不満を募らせていた臣下にしてみれば、ようやく晴天に白日を仰ぐ思いであったでしょう。
趙太后と呂不韋の双頭体制は、太后の情夫による謀叛という形で終りを遂げた訳ですが、已に秦王が二十歳を過ぎていたこともあり、いつまでも二人がやりたい放題を続けられる筈もなく、むしろ潮時だったと見るのが妥当かと思われます。
後宮という狭い世界に住んでいる太后はともかくとして、呂不韋が老後についてどう考えていたのかは分かりませんが、いつまでも少年君主の仲父として権勢を振るうことなどできないのですから、いずれ国の実権を巡って秦王と対立する日が来るであろうことは容易に想像がつきます。
秦王嬴政にとって最悪のシナリオは、いずれ長子の扶蘇を幼君に担ぎ出して、朝権を恣にしようとする不逞の輩が現れることであり、なればこそ彼は我が子が物心つく前に呂不韋一派を排斥して、将来の禍根を取り除いておかなければならなかったのです。
肝心の呂不韋はというと、秦王やその臣下から自分に向けられた嫌疑の視線を知ってか知らずか、封地へ転居した後も派手な生活を改めようとせず、相変らず食客を集めたり、各国の要人と交流したりして、むしろ自分の存在を誇示するようなところがありました。
これが隠退した老人の余興ならば自宅で好きにさせておけばよいのですが、厄介なのは彼が封戸十万を返還しようとしなかったことで、そもそも呂不韋は丞相就任中に巨万の富を蓄えていたので、食封などなくとも一生遊んで暮らせるだけの財産はありましたし、老後の生活費に十万戸は必要ありません。
にも拘らず領地に居座って咸陽時代と変らぬ生活を続けているということは、腹中蔵するものがあると疑われても仕方がありません。
そして丞相罷免から三年後、ほぼ宮中を掌握した政は呂不韋に詰問状を送り、全ての地位と権益を取り上げて蜀への移住を命じました。
ここに至って吾身の前途を悟った呂不韋は自刎して果て、再び王権と共に在る秦が若い君主の下で蘇ったのです。
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