史書から読み解く日本史

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天下統一(魏の盛衰)

2019-03-28 | 始皇帝
韓を滅ぼした後、秦が次の標的として矛先を向けたのは、政とも因縁浅からぬ趙でした。
過去にも幾度となく城の取り合いをしてきた秦と三晋でしたが、戦国時代も後半になると、支那大陸の北部を北から南に流れる黄河が、旧晋諸国と秦との天然の国境となっていました。
もともと黄河流域を開拓したのは晋であり、かつて晋が中原の大国で、秦が西方の弱小国だった頃には、晋(及びその後衛である韓魏趙の三国)の国土は黄河の西岸にまで及んでいましたが、秦が強国として領土を拡大するようになると、黄河以西の土地は尽く秦に併呑されてしまっていたのです。
そして嬴政が王として国権を握ると、いよいよ秦は黄河東域の完全なる平定に向けて、前人未到の大業を実行に移し始めたのでした。

ただ秦と魏の国境が、その中心を流れる黄河という天然の障害を除けば、ほぼ一面の平野だったのに対して、趙との国境付近は必ずしも平坦とは言えず、国土の広さも魏と趙では趙の方が遥かに大きくなります。
また趙の首都邯鄲への進軍にしても(過去に経験があるとは言え)、険阻な地形は元より行軍に要する日数や補給等を考えれば、魏の首都大梁を陥落させる方が遥かに容易でしょう。
確かに荘襄王の代に魏へ進攻した際には、信陵君無忌の率いる敵軍に撃退されていますが、それは天下に人望のあった無忌(魏王の実弟)が指揮を執ることを伝え聞いた他国が魏に援軍を送ったからで、魏一国では秦軍を防ぐだけの力はありませんし、信陵君亡き後の魏には多国籍軍を纏められるような人材もいませんでした。
秦は既に三晋の中で最も南に位置する韓を統治していた訳ですから、まずはその韓に隣接する魏を平定し、その後に西と南から趙を挟撃するのが、一見すると上策であるように思えます。
まして目標とする趙の首都邯鄲は、関中からは遠くなりますが魏と趙の国境からは目と鼻の先です。

にも拘らず秦が趙攻略を優先したのは、秦王の強い意向もあったにせよ、政治的にもそれなりの理由はあって、それが他国からの援軍の存在でした。
尤もこの頃になると、魏は既に枢軸を外れて久しく、趙も長年に渡る秦との攻防ですっかり疲弊し、斉と燕は互いに相争って共倒れするなど、かつて華北に覇を唱えた国々は尽く凋落していました。
潜在的な国力だけで言えば、江南の大国楚が唯一秦に対抗できる勢力でしたが、その楚も決して内情が安定しているとは言えず、昭襄王には広大な土地を奪われるなど、秦の侵攻に対しては常に劣勢を強いられていました。
しかしそれぞれ単独では秦に抗えないとは言え、連合されると依然として強敵であることに変りはなく、現に秦はその連合軍によって度々撃退され、多大な国費と人材を費やして獲得した筈の戦果を、あと一歩というところで何度も放棄させられてきたのです。

そうした視点から、魏ではなく趙を先攻するという戦略を見てみると、仮に魏を先に併合してしまった場合、中原の中心部である旧韓魏領は、まるで突起物のように秦の本領である関中から歪出してしまい、東南北の三方から敵に囲まれる形となってしまいます。
逆に敢て魏を存続させておいた場合、仮に秦が趙攻略の兵を興したとしても、同じ三晋の一国であり、隣国でもある魏が動かない限り、他国が趙救援の兵を送る可能性は低くなります。
もし斉か燕に往年の威勢があれば、再び諸国を纏め上げることができたかも知れませんが、既に両国には他国のために出兵するだけの余力はなく、南方の楚にしても他国のために好んで秦と敵対するような危険を冒す余裕はありませんでした。

以前昭襄王が一時的に趙全土を蹂躙して邯鄲を包囲した時も、魏が援軍を送った(尤も魏の援軍は、趙の公子平原君と姻戚にあった信陵君が、魏王の許可を得ずに動かしたもの)ことを契機に他国もまた趙救援に動いたのであり、魏さえ大人しくしていれば趙併合は時間の問題でした。
秦がしばらくの間、臣従して久しい韓の存続を認めていたのも同じ理由で、表向き韓を独立国として残しておくことで、韓の国土が秦と他国との間の緩衝域として機能したのです。
そして秦王政が遂に韓を廃する決定を下したということは、もはや秦は合従連衡のための衛星国など必要としないことの意思表示であり、諸国はそうした秦の明確な国策の変化に対して、無駄な抵抗は諦めて秦に国土を無血献上するか、存亡を賭けて徹底抗戦するかの二者択一を迫られた訳です。

魏は周の武王の弟の畢公高を家祖とする国で、周王室と同じく姫姓であり、始め畢の地に封ぜられて畢氏を称しました。
従って成王(武王の子)の弟を始祖とする晋公室や、その公族である韓王室よりも家系そのものは古くなります。
やがて子孫の畢万の代に畢の地を失い、一族と共に晋へ移住して曲沃を居城とする晋公室の分家に仕えたところ、折しも時の曲沃の当主の称(晋の武公。春秋五覇の一人である文公の祖父)が晋の宗家を乗っ取ってしまったため、畢氏も主君に従って国府安邑へ活動の場を移すことになりました。
畢万は次代献公の下で武功を挙げ、その褒賞として魏の地に封ぜられており、再び一族を養う本領を得られたことで、これを機に氏を畢から魏に改めています。

魏氏に転機が訪れるのは魏万の孫の魏犨の代で、晋の後継者争いに敗れた公子重耳(後の文公)が約二十年にも渡って各地を流浪した際、魏犨は趙衰(趙の祖)ら他の従者と共に最後まで重耳に付き従い、文公が秦の後押しで即位すると、その功により大夫に任ぜられました。
その後も魏氏は着実に安邑での基盤を固めて行き、魏犨の孫の魏舒の代には国務を司る六卿の一角を占めるまでになり、晋国有数の豪族として成長します。
やがて魏万から数えて七代目の魏駒(桓子)が、韓趙両氏と組んで晋国最大の氏族だった智氏を滅ぼして、その領地を三氏で分割すると、晋領のほぼ中心に位置する魏氏の勢力は、立場上は晋の一貴族でありながら、他国をも凌ぐほど強大なものとなりました。
そして桓子の子の魏斯(文候)が、韓趙両氏と並んで周王から諸侯に列せられるに及び、魏は名実共に天下有数の大国として頭角を現して行きます。

魏の文候は李克・西門豹・呉起・楽洋といった有能な臣下に恵まれ、列候以前にあっても陪臣の身でありながら既に天下最強と目されており、晋から独立して以降は戦国最初の覇者として中原に君臨しました。
因みに李克は孔子の弟子の子夏の門下ですが、彼自身の思想や政策は法家に近く、様々な改革や法体系の整備によって文候の統治を補佐し、その手法は後年秦に仕えた商鞅にも受け継がれています。
李克と並んで内政面の名臣である西門豹は、鄴地方の灌漑を成功させた人物として知られ、これにより魏氏は財政面で潤沢となり、鄴はその後も長く主要な地方都市として栄え、後年曹氏の興した魏は鄴を国都としています。
また軍事面で文候を支えた呉起は孫武・孫臏と並んで兵法の大家と称される軍師で、同じく楽洋は後年燕の昭王に仕えて斉を滅亡寸前にまで追い詰めた名将楽毅の祖先と伝えられる将軍です。

文候の子の武候の代に魏は最盛期を迎え、引き続き覇者としての地位を保ちましたが、既述の通り後の曹操や織田信長と同じく天下の中心に位置する魏は、周囲を敵に囲まれているため戦が絶えず、それが財政面での大きな負担となっていました。
従って魏がその状況を打破して、真の大国として恒久的な覇権を維持するためには、曹操や信長と同じく全方位へ向けて領土を拡大し、他者を圧倒するだけの国力を得るしかありません。
しかしそれを可能とするためには、まず指揮命令系統の頂点に君臨する有能な君主(もしくは宰相)と、その指示命令を確実に施行する優秀な官僚群、全方面での軍事を託せる有能な将軍と配下の将校、そしてそれを支える圧倒的な財政基盤が必要となります。
そして魏がその条件を揃えられるならば、その後も魏は四方へ向けて国土を拡大し、やがて唯一無二の存在となるまで成長を続けるでしょうし、それが不可能であればいずれ八方から押し潰されて縮小の一途を辿るでしょう。

武候の子の恵王は遂に自ら王と称し、天下に対する野心を隠そうともしませんでしたが、即位当初から周辺諸国との無駄な紛争が絶えず、国力を更に強化するどころか、度重なる戦費によって次第に国内が疲弊して行きました。
そしてこの時期に次の段階へ飛躍できなかったことが、結果的に魏の命運を決したと言ってよく、やがて将軍田忌と軍師孫臏の率いる斉軍に大敗して精鋭の多くを失うと、翌年にはその機に乗じて侵攻して来た商鞅率いる秦軍にも敗れて黄河西岸を全て奪われるなど、魏は恵王一代で一気に覇者の地位から転落します。
更なる秦の攻勢を恐れた魏は、黄河東岸の国都安邑を捨てて、国土東南の大梁へ遷都してしまい、かつての敵国斉に服することで秦の東侵から身を守らねばならぬほど没落しました。
もし魏に復権の志があるならば、どれほど秦の脅威に晒されようと、首都は秦との国境に近い安邑に据え置くべきで、秦に背を向けて斉を頼った時点で、既に魏の命運は尽きていたと言えます。

戦国初期の華北に覇を唱えた魏は、列候から数十年でその覇権を失ってしまった訳ですが、栄枯盛衰は世の常なので、それ自体は何ら不思議なことではありません。
ただ一時的に天下の中心で覇者となりながら、一代で天下の大半を手中に収めた曹操や信長に対して、宋・韓・趙といった隣国さえ併合することなく、周囲に押し潰される形で弱小化してしまった魏氏を見比べたとき、果して両者の進退を分けたものは何だったのでしょうか。
無論考えられる要因はいくつもあって、個々の条件ではなく最も大局的な見地から言えば、単に未だ機が熟していなかった、つまり時代そのものがまだその段階ではなかったという結論になってしまうかも知れません。
しかし敢てそれを無視して両者の相違点を見出してみると、当時の技術水準から来る物理的な限界や,法体系や諸制度の時代的な不適を別にすれば、やはり両者の明暗を分けたのは覇者としての意識の差であり、それは取りも直さず始皇と他の戦国諸侯との差でもありました。

例えばこれを日本の今川義元と織田信長で比較してみると、当時駿河・遠江・三河の三国を領する国内有数の大大名で、足利一門今川氏の当主だった義元は、宗主である将軍家からの要請に応じて上洛を決意します。
当然義元にも天下に対する野心はありましたが、それは今川家が諸侯の盟主となって公方を補佐し、自身の名に於いて天下に号令することであり、それに従わない者は諸大名を束ねて討伐し、幕府の第一人者として朝廷や武家からの畏怖と尊崇を得ることでした。
そしてそれは周王を差し置いて「夏王」「天子」などと自称したという魏の恵王にしても同様で、仮に今川家が織田家を踏み潰して上洛に成功し、幕府の管領として一時的な権力と名声を得たところで、今川氏の天下意識ではいずれ魏と同じく覇者であるか故の負担に蝕まれて自壊していたでしょう。

秦の圧力を避けて首都を大梁へ遷した後も、魏という国そのものは百年以上続きました。
しかし魏がかつての文候や武候の頃のような国威を取り戻すことは二度となく、常に四方の脅威に晒されながらも、戦国の力の均衡の中で辛うじて独立を保っていたのが実情だったと言えます。
やがて秦の昭襄王の代、長平の戦いに勝利した秦軍が、その勢いに乗って趙の首都邯鄲を包囲すると、窮した趙が魏に対して援軍を求めてきました。
趙からの救援要請に魏朝内は紛糾しましたが、この状態を放置して趙が秦領となれば、次は遠からず魏が餌食になるのは子供でも分かる道理なので、魏の安釐王は趙への援軍派遣を決断します。
ところがこの動きを察した秦から、もし趙に与すれば次は魏を攻めると恫喝されたため、安釐王は秦に睨まれることを恐れて、兵を国境に止めたまま事態を傍観してしまいました。

ただ冷静に考えればこの理屈は少々おかしいので、魏がここで秦に敵対しない限り、秦がその後も魏の独立を認めるならば、敢て趙を滅ぼす必要もない筈であり、これまでも常にそうしてきたように、趙には城下の盟を受け入れさせ、秦の求めるままに領土を割譲させるなり、毎年朝貢させるなりすれば済む話です。
しかし秦は明らかに趙という国をこの地上から消し去ろうとしており、それが趙一国で終る筈もないことは自明の理でした。
結局この時は王弟の信陵君が安釐王に無断で魏軍を動かし、楚の春申君と共に趙から秦軍を撃退することに成功していますが、それによって魏の置かれた情勢が何ら好転した訳でもなく、長い目で見れば魏氏の命運を多少先延ばししたに過ぎませんでした。

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