「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

「人道的」という非人道的言葉

2023年11月12日 | 日記・エッセイ・コラム
 ネットや新聞の記事や、テレビでも目にすることがあるが、「人道的」という言葉が大変胡散臭く、また不誠実な形で使われることが多い。少し前は「北朝鮮」への「人道支援」という言葉でもよく耳に入った言葉だが、今回のイスラエルの一方的なパレスチナ国への虐殺と破壊においても「人道的停戦」という不誠実な言葉が使われている。なぜこの言葉が不誠実かというと、この「人道的」という修飾語によって、イスラエルが主体的におこなっている虐殺や破壊が免罪されているからである。例えば「人道的停戦」を求める場合、その言葉には理由はともかく、「人道的」には人命が第一なので停戦を要求するという意味があり、だがそれはイスラエルの軍事行動を非難するのではなく、ひとまず理由はともあれ人命が失われる行為を止めましょうという、そこでおこなわれているそれこそイスラエルの人道に反する戦闘行為の主体を曖昧にして、行為の当否を留保する効果もあるのだ。この「人道的」という言葉こそ、イスラエルの人道に反した戦闘行為を許してしまっているのである。勿論、こうやってイスラエルを免罪することで、そのイスラエルの同盟国もイスラエルとの関係を顧慮することなくパレスチナ国のガザ地区を「人道的」に救援しようという意図があるのかもしれないが、しかし「人道的」という言葉でイスラエルを免罪し続けている、ヨーロッパ・アメリカ中心主義こそ非人道的な行為の根源であり原因だというべきである。

 このような「人道的」という理念的かつ超越的な修飾語は、経験的次元におけるイスラエルという行為の主体と、本来の「人道」とという倫理の次元を逆説的に切断してしまい、イスラエルの虐殺・破壊行為と倫理との結びつきを曖昧にしてしまう。この「人道的」という言葉の使用は大変不誠実である。本来、「第二次世界大戦」で問題となった「人道に対する罪」、「人類に対する罪」、「平和に対する罪」などの法的な概念は、人間の行為が人間の実存の根源そのものを破壊し得るということを法の次元で問題化したものであり、人類や正義という概念や存在に対する「罪」の様態を明らかにするために「発明」(ジャック・デリダ)された言葉であったはずだ。それ故、これ等「人道」をめぐる「罪」の概念の「発明」は、新たな人類の倫理的な次元を拡張したはずなのだが、昨今使用される「人道的」という言葉は、逆にこの倫理的な次元を曖昧にして閉ざしてしまっている。かつてナチが「ユダヤ人」に対しておこなった、人間の実存そのものを破壊しようとした「絶滅」という暴力を、倫理的な次元で「罪」として問題化し得た「人道」という言葉を悪用することで、ヨーロッパやアメリカはイスラエルが今現在おこなっているパレスチナへの、人間の実存そのものを破壊し得る暴力を免罪させている。この不正こそ問われるべきだろう。

 そして、この「人道的」という、逆説的に倫理を毀損する言葉は、形や言葉を変えて、資本主義の日常でも使用されていることに注意する必要がある。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿