太陽肛門スパパーンの「「放送禁止歌」祭り」に行ってきた。11月18日と19日の二日通しであったのだが、18日は所用で東京を離れていたので、19日のみの参加となった。
トリプルファイヤーや小室等の「放送禁止歌」の演奏・歌が素晴らしかった。帰りにCD(+「放送禁止歌」の先行シングル)を購入し、資金難で制作が中断しているLP「放送禁止歌」を応援するために、些少ではあるがカンパもしてきた。
この「祭り」には「討議」の部もあったのだが、そこでは「放送禁止」をめぐる「自粛」や「表現の自由(規制)」の問題が話し合われた。その討議を聴きながら、僕は本来表現というものは、〈本質的に言ってはいけない言葉や表現はなく、また、もともとあらかじめ言っても良い言葉や許された表現もない〉ものだと考えていた。アプリオリに禁止されていたり、また許されているような表現はなく、そこでは行為遂行的な「賭け」の次元で表現するしかなく、それ故、一度表現されてしまった言葉や表現は、議論されたり検討されたりしながら、しかしその出てしまった言葉や表現は、最早取り返しが利かないという意味で、即ち存在してしまったという意味で、何らかの形で「肯定」あるいは「赦される」しかないものだと思っている。ただしこの「肯定」や「赦し」は超越的な存在や権力が判断を下すものではないし、恣意的に個人が下せる判断というものではない。ただそれが表現されてしまったという意味での存在は、「肯定」や「赦し」という次元でしか検討ができないという意味である。
悪い意味での「ポリコレ」や「コンプライアンス」は、この行為遂行的で「賭け」の部分である表現の危うさや暴力性を、あらかじめ規制して「暴力」とならないように抑圧する。それこそが「正しさ」になるというのだ。だが、言葉や表現の行為遂行性を規制して、言葉の暴力性を逐次規制していけば、言葉の「暴力」はなくなるかといえば、そうではない。むしろ、言葉や表現の行為遂行性を毀損し「賭け」の次元をなくしてしまうと、言葉の力は失われ、超越的な権力者の言語や表現に抵抗できなくなってしまい、むしろ、そのような超越的な言語の「暴力」に直接的にさらされてしまうだろう。そうならないためにも、言葉や表現の行為遂行的で「賭け」である次元の「暴力」は放棄してはならないのである。それを、安易なリベラリズムと、安易な正しさと、安易な暴力性の排除によって「清潔」な環境を手に入れようとすると、超越的な権力者の言葉や表現の「暴力」に抵抗できなくなり、屈服し続けることになる。
今年の夏、二十年以上以前に芸能界を引退した上岡龍太郎が亡くなったが、上岡はかつてのトーク番組で、上岡がまだ芸能界に入ったばかりの10代後半の時、当時の漫才の大御所の葬式に行った際の話をしていた。その漫才の大御所は犬のブリーダー詐欺のために多額の借金を抱えてしまい、それが原因で海に身を投げて自死してしまったのだ。その大御所漫才師の不幸な死を弔う葬式の場で、上岡は他の芸人仲間が「これがほんまの〈犬死や〉」といって笑い合っている情景を目の当たりにしたという。そして上岡は「こんな〈やさしい〉世界からは絶対に離れないでおこう」と誓ったというのである。今の社会ならば「不謹慎」な情景なのかもしれない。だが上岡がこの「犬死」という言葉と表現に〈やさしさ〉を感じたのは、言葉と表現の行為遂行的な「賭け」の次元を考える時、理解できるような気がするのだ。そんな「絶対に離れないでおこう」と思った芸能界を、上岡は2000年に引退している。テレビからそういう表現や言葉の行為遂行的次元(「やさしさ」)が失われていく時期と重なっているのかもしれない。「暴力」から身を守るための「暴力」の次元は、言葉や表現の芸術の根本のはずなのである。
トリプルファイヤーや小室等の「放送禁止歌」の演奏・歌が素晴らしかった。帰りにCD(+「放送禁止歌」の先行シングル)を購入し、資金難で制作が中断しているLP「放送禁止歌」を応援するために、些少ではあるがカンパもしてきた。
この「祭り」には「討議」の部もあったのだが、そこでは「放送禁止」をめぐる「自粛」や「表現の自由(規制)」の問題が話し合われた。その討議を聴きながら、僕は本来表現というものは、〈本質的に言ってはいけない言葉や表現はなく、また、もともとあらかじめ言っても良い言葉や許された表現もない〉ものだと考えていた。アプリオリに禁止されていたり、また許されているような表現はなく、そこでは行為遂行的な「賭け」の次元で表現するしかなく、それ故、一度表現されてしまった言葉や表現は、議論されたり検討されたりしながら、しかしその出てしまった言葉や表現は、最早取り返しが利かないという意味で、即ち存在してしまったという意味で、何らかの形で「肯定」あるいは「赦される」しかないものだと思っている。ただしこの「肯定」や「赦し」は超越的な存在や権力が判断を下すものではないし、恣意的に個人が下せる判断というものではない。ただそれが表現されてしまったという意味での存在は、「肯定」や「赦し」という次元でしか検討ができないという意味である。
悪い意味での「ポリコレ」や「コンプライアンス」は、この行為遂行的で「賭け」の部分である表現の危うさや暴力性を、あらかじめ規制して「暴力」とならないように抑圧する。それこそが「正しさ」になるというのだ。だが、言葉や表現の行為遂行性を規制して、言葉の暴力性を逐次規制していけば、言葉の「暴力」はなくなるかといえば、そうではない。むしろ、言葉や表現の行為遂行性を毀損し「賭け」の次元をなくしてしまうと、言葉の力は失われ、超越的な権力者の言語や表現に抵抗できなくなってしまい、むしろ、そのような超越的な言語の「暴力」に直接的にさらされてしまうだろう。そうならないためにも、言葉や表現の行為遂行的で「賭け」である次元の「暴力」は放棄してはならないのである。それを、安易なリベラリズムと、安易な正しさと、安易な暴力性の排除によって「清潔」な環境を手に入れようとすると、超越的な権力者の言葉や表現の「暴力」に抵抗できなくなり、屈服し続けることになる。
今年の夏、二十年以上以前に芸能界を引退した上岡龍太郎が亡くなったが、上岡はかつてのトーク番組で、上岡がまだ芸能界に入ったばかりの10代後半の時、当時の漫才の大御所の葬式に行った際の話をしていた。その漫才の大御所は犬のブリーダー詐欺のために多額の借金を抱えてしまい、それが原因で海に身を投げて自死してしまったのだ。その大御所漫才師の不幸な死を弔う葬式の場で、上岡は他の芸人仲間が「これがほんまの〈犬死や〉」といって笑い合っている情景を目の当たりにしたという。そして上岡は「こんな〈やさしい〉世界からは絶対に離れないでおこう」と誓ったというのである。今の社会ならば「不謹慎」な情景なのかもしれない。だが上岡がこの「犬死」という言葉と表現に〈やさしさ〉を感じたのは、言葉と表現の行為遂行的な「賭け」の次元を考える時、理解できるような気がするのだ。そんな「絶対に離れないでおこう」と思った芸能界を、上岡は2000年に引退している。テレビからそういう表現や言葉の行為遂行的次元(「やさしさ」)が失われていく時期と重なっているのかもしれない。「暴力」から身を守るための「暴力」の次元は、言葉や表現の芸術の根本のはずなのである。
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