天才に挑んだ努力の力士 - 加来 耕三 - 新聞案内人 :新s あらたにす(日経・朝日・読売)
うちに白黒テレビが来たのは、昭和32年の3月、その頃活躍していた力士たち。
栃錦、若乃花、鏡里、吉葉山、千代の山、そうそう、安念山もいたよね。懐かしいなぁ!
【この話は、努力は才能に優る】って、ことだね。若者よ、努力で未来を変えよう!
昭和24年(1949)、名門立浪(たつなみ)部屋の総帥・横綱羽黒山(次代立浪)に見出され、その直弟子第一号になった若羽黒は、入門したときから特別扱いであった。横浜のクリーニング屋の、“若ボン”で育った若羽黒は、チャンコが口にあわず、入門直後から立浪親方の家に下宿。トンカツを好物に、そこから両国の部屋に通った、という変わり種であった。
この立浪部屋に、若羽黒から少し遅れて入門したのが、安念山(あんねんやま)であった。北海道の出身。農家の9人兄弟の5番目、子供の頃から野良仕事に従事し、その筋肉質の体を見込まれて入門したという。若羽黒とは、同じ年齢でもあった。
ただ、入門のおりに四股名(しこな)「羽黒錦」を親方が考えていたものの、周囲はそれを許さなかったというから、若羽黒ほどには期待されていなかったのかもしれない。初土俵の前相撲で、安念山は8番取って全敗。本来ならば序の口へも突き出されかねないところを、協会異例のはからいで、二番出世に仲間入りしている。この場所、新弟子の頭数はたった十数人。安念山ひとりを落とすのはかわいそうだ、とお情けでどん尻に加えられたのだ。
破竹の快進撃をつづける若羽黒に、一時、努力の人・安念山は完全に抜かれてしまう。
しかし、負けても一番一番を大切に取り、いつもどこかに絆創膏(ばんそうこう)をはって、包帯をしながらも静かな闘志をみせる安念山には、ファンが離れなかった。
「ざんねんやま」
などと声がかかることも、しばしばであったとか。安念山は黙々と稽古を積み、自らの相撲が四つになってはダメなことを悟る。右をしぼって、前へ前へと出た。積極的な相撲に転じ、昭和天皇の観戦による場所で、いきなり優勝を手に入れる。やがて安念山は、羽黒山の四股名をもらい、引退後は三代立浪親方となった。
うちに白黒テレビが来たのは、昭和32年の3月、その頃活躍していた力士たち。
栃錦、若乃花、鏡里、吉葉山、千代の山、そうそう、安念山もいたよね。懐かしいなぁ!
【この話は、努力は才能に優る】って、ことだね。若者よ、努力で未来を変えよう!
昭和24年(1949)、名門立浪(たつなみ)部屋の総帥・横綱羽黒山(次代立浪)に見出され、その直弟子第一号になった若羽黒は、入門したときから特別扱いであった。横浜のクリーニング屋の、“若ボン”で育った若羽黒は、チャンコが口にあわず、入門直後から立浪親方の家に下宿。トンカツを好物に、そこから両国の部屋に通った、という変わり種であった。
この立浪部屋に、若羽黒から少し遅れて入門したのが、安念山(あんねんやま)であった。北海道の出身。農家の9人兄弟の5番目、子供の頃から野良仕事に従事し、その筋肉質の体を見込まれて入門したという。若羽黒とは、同じ年齢でもあった。
ただ、入門のおりに四股名(しこな)「羽黒錦」を親方が考えていたものの、周囲はそれを許さなかったというから、若羽黒ほどには期待されていなかったのかもしれない。初土俵の前相撲で、安念山は8番取って全敗。本来ならば序の口へも突き出されかねないところを、協会異例のはからいで、二番出世に仲間入りしている。この場所、新弟子の頭数はたった十数人。安念山ひとりを落とすのはかわいそうだ、とお情けでどん尻に加えられたのだ。
破竹の快進撃をつづける若羽黒に、一時、努力の人・安念山は完全に抜かれてしまう。
しかし、負けても一番一番を大切に取り、いつもどこかに絆創膏(ばんそうこう)をはって、包帯をしながらも静かな闘志をみせる安念山には、ファンが離れなかった。
「ざんねんやま」
などと声がかかることも、しばしばであったとか。安念山は黙々と稽古を積み、自らの相撲が四つになってはダメなことを悟る。右をしぼって、前へ前へと出た。積極的な相撲に転じ、昭和天皇の観戦による場所で、いきなり優勝を手に入れる。やがて安念山は、羽黒山の四股名をもらい、引退後は三代立浪親方となった。