立てば芍薬座れば牡丹踊る姿は薔薇の花?

古希から喜寿へ向かうGrandmotherが、つれづれなるままにシニアライフをつづります。

安念山と若羽黒を覚えていますか?

2010-07-12 14:40:33 | 日記
天才に挑んだ努力の力士 - 加来 耕三 - 新聞案内人 :新s あらたにす(日経・朝日・読売)

 うちに白黒テレビが来たのは、昭和32年の3月、その頃活躍していた力士たち。
栃錦、若乃花、鏡里、吉葉山、千代の山、そうそう、安念山もいたよね。懐かしいなぁ!
【この話は、努力は才能に優る】って、ことだね。若者よ、努力で未来を変えよう!

 昭和24年(1949)、名門立浪(たつなみ)部屋の総帥・横綱羽黒山(次代立浪)に見出され、その直弟子第一号になった若羽黒は、入門したときから特別扱いであった。横浜のクリーニング屋の、“若ボン”で育った若羽黒は、チャンコが口にあわず、入門直後から立浪親方の家に下宿。トンカツを好物に、そこから両国の部屋に通った、という変わり種であった。
 この立浪部屋に、若羽黒から少し遅れて入門したのが、安念山(あんねんやま)であった。北海道の出身。農家の9人兄弟の5番目、子供の頃から野良仕事に従事し、その筋肉質の体を見込まれて入門したという。若羽黒とは、同じ年齢でもあった。
 ただ、入門のおりに四股名(しこな)「羽黒錦」を親方が考えていたものの、周囲はそれを許さなかったというから、若羽黒ほどには期待されていなかったのかもしれない。初土俵の前相撲で、安念山は8番取って全敗。本来ならば序の口へも突き出されかねないところを、協会異例のはからいで、二番出世に仲間入りしている。この場所、新弟子の頭数はたった十数人。安念山ひとりを落とすのはかわいそうだ、とお情けでどん尻に加えられたのだ。
 破竹の快進撃をつづける若羽黒に、一時、努力の人・安念山は完全に抜かれてしまう。
  しかし、負けても一番一番を大切に取り、いつもどこかに絆創膏(ばんそうこう)をはって、包帯をしながらも静かな闘志をみせる安念山には、ファンが離れなかった。
 「ざんねんやま」
 などと声がかかることも、しばしばであったとか。安念山は黙々と稽古を積み、自らの相撲が四つになってはダメなことを悟る。右をしぼって、前へ前へと出た。積極的な相撲に転じ、昭和天皇の観戦による場所で、いきなり優勝を手に入れる。やがて安念山は、羽黒山の四股名をもらい、引退後は三代立浪親方となった。

子どもの左手に持ってるものは何?

2010-07-12 13:33:10 | 日記
4月23日に、白老町ポロト湖畔のアイヌ民族博物館へ行ったときに写しました。ストロボをたかずに写した写真なのですが、子どもの左手の上に載っている白色の丸い珠のようなものが気になっています。心霊写真ではないと思いますが、どなたか「意味どき」していただけませんでしょうか?お願いします。