立てば芍薬座れば牡丹踊る姿は薔薇の花?

古希から喜寿へ向かうGrandmotherが、つれづれなるままにシニアライフをつづります。

建築中だった箱館奉行所

2010-09-27 23:07:10 | 日記
五月十六日、五稜郭公園にお花見に行きました。建築中の箱館奉行所が満開の桜の中に見えました。7月29日にオープンして、9月16日には入館者が十万人を突破したそうです。坂本龍馬人気もあって、開館110日で達成できました。私はまだ入館していないので、帰省の折には、是非行ってみたいと思っています。

http://www.hakodate-bugyosho.jp/index.html
ペリー艦隊来航と再度の箱館奉行所設置

 嘉永6(1853)年にアメリカのペリー艦隊が浦賀に来航します。翌年(嘉永7年/安政元年)には日米和親条約が締結され、下田港と箱館港が開港されました。ペリー艦隊は同年4月に箱館に入港しています。このとき幕府からペリー提督の応接を命じられたのは、松前藩家老・松前勘解由らでした。
 幕府はペリーが箱館を去った翌月に、箱館奉行所を34年ぶりに復活し、箱館および周辺5~6里四方(現在の函館市・七飯町大沼・木古内町札苅までの一帯)を松前藩から上知して(取り上げて)幕府直轄地としました。さらに、その翌年の安政2(1855)年、松前藩から福山周辺を除く蝦夷地の全領地を上知しています。

 再設置された箱館奉行所の任務は、開港にともなう諸外国との応接(外交交渉)、蝦夷地の海岸防備、箱館を中心にした蝦夷地(アイヌをふくむ)の統治でした。開港場となった箱館は、貿易額は多くありませんでしたが、各国の領事館が設置されるなかで、箱館奉行所が外国との重要な窓口であったことは間違いありません。

奉行所移転先は亀田村柳野に

 箱館奉行所の移転先に選ばれたのは、箱館の隣村・亀田村の奥にある柳野と呼ばれる緩やかな丘陵地でした。港から約3kmほど離れた場所で、これは当時の大砲の射程距離から外れていました。軍事的に優れた立地にありながら、箱館の市中からそれほど遠く離れた場所ではなく、赤川(亀田川)から清流を引き込むことができ、さらに周囲にある泥沼や曲がりくねった道が防衛上の利点になると判断されました。この地に、四方を土塁で巡らせた役所を建てる計画が決まり、蘭学者であり箱館奉行支配下であった武田斐三郎(後に諸術調所教授役)が設計をおこなうことになりました。
この役所を囲む土塁こそが、亀田御役所土塁すなわち五稜郭(通称)です。ちなみに、箱館奉行所の正式名称は箱館御役所です。