伊雑宮にお参りした後、宮司さんからお勧めのあった「佐美長神社」に足をのばしました。
「鶴の穂落とし」の伝承で有名な神社ということで、きれいに掃き清められた境内は神々しい雰囲気が漂っていました。
鳥居の横木に沁み込んだ黒い模様?が、羽を広げた鳥のように見えました。その裏にこんな伝承があったのですね。
「伊勢志摩きらり千選」というホームページから、真名鶴伝説を引用いたします。
http://www.kirari1000.com/www.kirari1000.com.base_data.base_data.phpQkirari_cd=00699.html
真名鶴伝説1
皇大神宮御鎮座の翌年、鳥の鳴く声が昼夜高く聞こえて泣き止まずやかましかったので、倭姫命が使いを遣わすと、嶋(志摩)の国の伊雑の上方の葦原に、本は一基で末は千穂に茂った稲が生え、その稲を白い真名鶴がくわえながら鳴いていた。
それを聞かれた倭姫命は「恐し。事問ぬ鳥すら田を作り、皇大神に奉るものを」と感激され、その稲を抜穂にして、皇大神の御前に懸け奉った。
倭姫命は稲の生えていた場所を「千田」と名付け、そこに天照皇大神の摂宮を造られた。
これが現在の「伊雑宮」(皇大神宮別宮)であり、毎年6月24日には、その神田で御田植祭が行われ、国の重要無形民族文化財に指定されている。
また稲をくわえていた真名鶴を「大歳神」と称え、同じ場所におまつりされた。これが現在の「佐美長神社」(伊雑宮所官社)である。
真名鶴伝説2
伊雑宮ご鎮座の翌年秋、皇大神宮に真名鶴が北から来て昼夜鳴いた。倭姫命はそれをあやしく思い、使いを遣わすと、その鶴は佐々牟江宮前の葦原に還った。そこでは本は一基で末は八百穂に茂った稲を鶴がくわえて鳴いていた、それを聞かれた倭姫命は、この稲を抜穂にして、皇大神の御前に懸け奉った。これが懸税(かけちから)の起源である。
佐々牟江の地は、現在の明和町の行部と山大淀の間に位置し、式内社佐々夫江神社が鎮座する。
この伝承と仕来たりをもとに、この地に昭和24年伊勢神宮カケチカラ会が発足し、10月の神嘗祭と11月の新嘗祭には、両正宮の内玉垣と各別宮の端垣に懸税を奉り、その年の実りを大神に感謝している。(倭姫宮展より)