立てば芍薬座れば牡丹踊る姿は薔薇の花?

古希から喜寿へ向かうGrandmotherが、つれづれなるままにシニアライフをつづります。

子供の臓器移植 提供しなかった親の胸中は…

2011-04-18 19:14:07 | 日記
産経新聞4月18日(月)7時56分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110418-00000083-san-soci
■「死」決める恐怖 判断いまも自問

 初めて15歳未満の脳死判定が行われ、臓器提供がクローズアップされた先日の子供からの臓器移植。ただ、臓器提供は「義務」ではなく、残された家族が選ぶことができる「選択肢」のひとつだ。静岡県立こども病院(静岡市葵区)で今年1月、脳死状態にあると診断された女児(2)の両親は葛藤の末、提供しないことを選んだ。どのようにわが子の「脳死」と向き合ったのか。

 「ほかの子供のためになるとは思います。それでも提供に踏み切れません」

 こども病院小児集中治療センターの面会室。1月12日夜、浜松市内に住む会社員、土井文吾さん(35)と妻で看護師の留美さん(36)は、植田育也センター長から、次女の美奈ちゃんが脳死状態であること、法的脳死判定後に脳死下の臓器提供が可能であることを告げられると、静かにこう答えたという。

 美奈ちゃんは昨年12月30日、突然、脳が腫れ、意識障害などの脳機能障害を引き起こす重篤な病気「急性脳症」となり、搬送されてきた。容体はどんどん悪化していった。

 センターでは、多くの子供が命がけで傷病と闘っていた。そこには、ただ祈るだけの崩れ落ちそうになった親の姿もあった。文吾さんらには、その気持ちが十分すぎるほど理解できた。

 「もし美奈の臓器を提供したら、あの苦しむ子供や親たちを助けられるのではないだろうか」。両親は法的脳死判定を行い、提供に踏み切ろうかと考えたこともあった。でもその度に、割り切れない思いがわき起こってきた。

 脳死状態とはいえ、いまだ心臓の鼓動を感じる。体だって温かい。臓器提供を承諾することで、美奈ちゃんが「死亡した」ということを受け入れることになる。「子供の死」を、親が決めてしまうことへの怖さもあった。

 「美奈はこの世に生を受けてわずか2年半。かわいそうという思いも強かった」と留美さんは話す。

 葬祭会社に勤務する文吾さんは、かつて角膜提供者の葬儀を扱ったことがある。眼球がない遺体のまぶたに、無造作にテープが張ってあった。遺族は泣いていた。「美奈もモノのように扱われてしまうんじゃないだろうか」。そんな不安もあったという。文吾さんと留美さんは仕事柄、普段から「死」を身近に感じてきた。美奈ちゃんの入院から2週間。夫婦で何度も考え、出した結論だった。

 15歳未満のドナー(臓器提供者)の臓器が5人の命を救った。文吾さんは「私たちの判断が良かったのかどうかは、いまだに分からない。今も自分に問いかけている」と話した。葛藤はまだ続いている。

 ■「夫婦でじっくり考えて」 子供の脳死「臓器提供せず」決断

 土井美奈ちゃん(2)はそれまで大きな病気をしたことがなかった。昨年12月30日、子供部屋のベッドでぐったりしている美奈ちゃんを母親の留美さん(36)がみつけた。いくつかの病院を経由し、高度な小児集中治療室(PICU)を持つ静岡県立こども病院へ搬送された。

 数時間後、両親は面会室で、植田育也センター長から病状と治療についての説明を受けていた。

 美奈ちゃんの脳の腫れが激しいこと、腫れを抑えるためのステロイド投与や低体温療法など可能な限りの治療を行っていること、そして脳が広範囲にダメージを受けた場合、脳死になる可能性もあること…。

 「なんでそんなことに」。両親はインターネットなどで調べ、状況が厳しいことを理解した。脳死になった場合は「臓器提供」という選択肢が見えてくることも分かった。

 容体は悪化。正月の三が日以降は瞳孔が開き始め、脳の機能低下が現実のものとなってきた。「嫌でも『脳死』と『移植』を意識せざるを得なかった」と父親の文吾さん(35)は振り返る。

 昨年7月の改正臓器移植法施行の際はニュースを見ながら、夫婦で30分以上、脳死と臓器提供について議論したが、子供の臓器提供については「当事者にならないとわからない」としか言えなかったという。しかし、その“当事者”の立場になる日は近づいていた。

 ■魂はどこに

 1月12日夜。2人はこども病院小児集中治療センターの面会室で植田センター長から美奈ちゃんが脳死状態と診断されたことを伝えられ、治療の経緯や脳死とは何かについて、詳細な説明を受けた。

 2人はある疑問をぶつけた。「脳死になってから、回復した例はあるのか」。米国の病院で脳死小児移植を経験してきた植田センター長の答えは「私の経験した限り、1例もない」。

 その後、植田センター長から法的脳死判定と移植の選択肢を告げられ、2人は提供の決断ができないという思いを伝えた。

 脳死状態を宣告された翌日。留美さんは美奈ちゃんのベッドサイドに座り、幾度となく優しく美奈ちゃんの頭をなでながら、髪の毛を結んであげていた。脳死状態でも足を触ればピクンと動く。意思ではない「反射」だと教えられたが気持ちの整理はつかなかった。

 一方で夫婦は「脳が機能しなくなったら、魂はどこにあるのだろうか」とも考えたという。病院には、美奈ちゃんに対し積極的な延命治療をとらず、家族との最後の時間をゆっくり過ごす「みとりの医療」に切り替えるよう依頼。病院の屋上で、家族みんなで最後の散歩をするなどした後、1月29日午前3時48分、文吾さんの腕に抱かれた美奈ちゃんは2歳と半年の短い生涯を終えた。

 ■周囲の支え

 「脳死移植」に心が傾いたことも事実だ。それは「病院ができる限りの治療をしてくれたこと、そして美奈の病状や、脳死とは何かということをしっかり説明してくれたことがあったから」と文吾さんは話す。文吾さんの勤務先の社長は真っ先に病院にかけつけ、「美奈ちゃんが一番大事。仕事より看病を優先しなさい」と言ってくれた。おかげで美奈ちゃんのことを考えることに専念できた。

 「美奈が入院したとき、植田先生らが『助けます』と言ってくれたその言葉が支えになっていた。周囲のこうした支えがあってこそ、親は真剣に移植を考えるのではないだろうか」

 今回の15歳未満からの脳死移植については「私たちができなかった最初の一歩を踏み出した。その決断に頭が下がる思い」と文吾さん。「私たちと同じ境遇に直面したご家族がいたら、周りの意見に耳を傾けながら、夫婦でじっくりと考え、結論を出してもらいたい」と話している。(豊吉広英)



「偽善エネルギー」残余のリスクで不安全原発を推進した原子力安全委員会

2011-04-17 21:14:10 | 日記
中部大学教授・武田邦彦氏のブログ記事を引用させて頂きました。

【原発深層流003 危険な原発・登場の瞬間】
http://news.livedoor.com/article/detail/5496444/

私はかつて原子力エネルギーに夢を持っていました。

日本は資源が少ない国でしたが、技術は世界一ですから、何とかして技術力で日本人が豊かな生活ができるようにと思ったのです.

幸い、日本の原子炉(軽水炉)は水で中性子を減速するので、内部に自動停止装置を持っているようなものですから、「事故は起こらない」、つまり「原子炉は暴走しない」というタイプなのです.

原子炉ばかりではなく、耐震建築にしても、電気設備やコントロールにしても、日本の技術や運転は本当に世界一と言って良いと思います。

だから、原発のような危険なものは世界で日本ができなければ、どの国もできないはずだと考えていたのです.

私が書いたかつての文章の中に「原発は安全だ」というのがありますが、考えてみると「原発は安全だ」というのは正確ではなく、「安全な原発を作る事ができるので、安全に作れば安全だ」という事だったのです。

・・・・・・・・・

そんな私の夢が大きく崩れたのが平成18年でした。この年の9月、原子力安全委員会は次のような耐震設計の審査基準を出しました。

この指針は旧指針と呼ばれた昭和56年の指針を改定するのですから、全体としては優れたものだったのですが、一つ、大きな欠点がありました。

それは、それまで「原発は絶対に安全に作る」というのが基本だったのですが、どうも大きな地震が来ることもあって、「想定外」のことが起こる場合、それを「残余のリスク」という言葉で処理しようという事になりました。

「安全な原発を作る事ができるのに、不安全な原発を作れる言葉」を役人が発見したのです。

つまり、「残余のリスク」という聞き慣れない言葉の登場です。

それまでの考え方=「絶対に安全」、というのもやや矛盾するところがあるのですが、かといって、電力会社が「災害の想定」を行って、それより大きな場合は、「仕方が無い」ということで「大量の放射性物質が漏れ」、その結果「付近住民が著しい被ばくをする(説明書にある)」というのは到底、納得できません。

・・・・・・・・・

このことが日本の親として知らなければならないのは、「福島原発以外の原発も、耐震や津波、台風、大雨・・すべて「想定外なら被ばく」という考え方」で作られているという事だからです。

こんな奇妙な指針ができたのは、推定ですが経産省が原発の安全性の責任を持ち、安全院なるものを作ったからと思います.

1) 原発は推進したい、

2) でも事故が起こったときには責任はとりたくない、

3) 自分の任期の間には地震は起こらないだろう、

というのが役人の考えだからです.

かくして私は2年ほど前、幻冬舎から「偽善エネルギー」という本を出し、そこで、次のように書いています.



福島原発の事故が起こってから、幻冬舎の編集者はこの文章を思い出して読み、背筋がゾッとしたそうです。

これは予言でも何でもないのです。「日本の原発は地震や津波で破壊されるようにできている.その時には電力会社のヘマを付近住民の被ばくという形で片付ける」という方針だからです.

福島原発は「方針道理の結果」で、「想定外だから、大量の放射線がでて何が悪い」というのが保安院の態度に出ています.また、知事さんも市長さんもこのことはご存じです.

もし、電力会社の社長さん、知事さんが自ら「自分のところの原発は不安全だ」と宣言して、情報を出し、地元に説明をしたら、これからの日本は繁栄し、安全な社会になるでしょう。

その点で、今は正念場です.

釜石が繋いだ未来への希望―子ども犠牲者ゼロまでの軌跡―

2011-04-16 20:44:21 | 日記
群馬大学大学院工学研究科『広域首都防災研究センター』
http://www.ce.gunma-u.ac.jp/bousai/research02.html

速報:釜石が繋いだ未来への希望―子ども犠牲者ゼロまでの軌跡―

 平成23年3月11日(金)14:46 太平洋沖にてM9.0という超巨大地震が発生し、それに伴う巨大津波の襲来によって、東北地方を中心として東日本の太平洋沿岸全域が甚大な被害に見舞われました。この度の災害で犠牲となった方々に対しましてお悔やみ申し上げます。また、ご遺族の皆様に対しましてお見舞い申し上げます。今なお、多くの方々が行方不明のままであり、ご家族の方のお気持ちを察すると、胸が痛む思いです。また避難された方も寒さや食料不足により、不便な生活を強いられており、大変なご苦労が続いていることと思います。そして、福島原発の問題や電力不足による計画停電が実施されていることもあり、直接の被災者だけでなく、多くの日本国民が不安な思いでいることと思います。

 しかし、このように甚大な被災の現場において、奇跡ともいうべき見事な対応によって、多くの命が救われた地域がありました。それは岩手県釜石市です。被災後数日間、全くと言ってよいほど地域の被災状況が報道されなかったこの街で、子どもたちは教えられた通り、いやそれ以上の対応をとることで、巨大津波から無事に生き残りました。釜石市ではこの度のような大津波の襲来を想定して、学校における津波防災教育を熱心に取り組んできました。その結果として、釜石は地域の財産であり、未来への希望である子どもたちを津波から守ったのです。

 不運にも数名の子どもたちが犠牲となってしまっており、またこれだけ多くの方々が犠牲になっているので、手放しに喜ぶことはできません。しかし、暗く悲しい、そして不安をかき立てるような報道が多い中で、少しでも希望の光をこの国に届けることができればと思い、子どもたちが成し遂げたことの経緯と、被災時の様子を紹介したいと思います。そして、あれだけの巨大津波に対しても、日頃からしっかりと備えておくことができれば、犠牲者ゼロは不可能ではないんだ、ということを、今後大きな地震の発生が危惧されている地域の皆さんにお伝えしたいと思います。

 本来であれば、この情報は、釜石市の防災・教育関係の現場の皆さんが発信するべきことは重々承知しています。しかし、今彼らは被災後のつらく苦しい状況で、まさに死力を尽くして対応にあたっています。そんな彼らの励みになればと思い、これまで釜石市と一緒に防災教育を推進してきた者の一人として、彼らに変わり、被災後間もないこの時期に、この奇跡を報告させていただきます。
平成23年3月20日
群馬大学広域首都圏防災研究センター長・教授 片田敏孝

【津波襲来時の対応】http://www.ce.gunma-u.ac.jp/bousai/research02_3.html

ここでは釜石東中学校の対応を中心として、鵜住居小学校の対応も合わせて、津波襲来時の様子を紹介していきます。
 (生徒や先生方からの話を聞いて、一部修正しました:平成23年4月13日)
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 平成23年3月11日14:46 大きな揺れが両校を襲った。地震発生時、釜石東中学校ではすでに授業終了時刻であったため、校庭で部活動を行う生徒、校内で課外活動を行う生徒など、学内の様々な場所に点在していた。一方、鵜住居小学校では放下直前であり、多くの児童は校舎内に滞在していた。

 釜石東中学校では、大きな揺れの最中、副校長が校内放送を使って全校生徒に避難の指示を出すことを試みた。しかし、地震発生直後、停電になってしまったため、それをすることができない。仕方なく、ハンドマイクで生徒に校庭への避難の呼びかけを試みるようとしたが、それは不要であった。多くの生徒は地震の揺れの大きさから“ただ事”ではないことを察知し、各々で揺れから身を守るための最善の対応を行い、揺れがおさまった後に、自らの判断で校庭に集合し始めたのである。そして、ある教師が生徒に向かって、「逃げろ」と叫ぶと、運動部員を先頭に全生徒は予め決めておいた避難場所(ございしょの里)まで走り始めた。

 一方の鵜住居小学校では、津波の襲来に備えて、全校児童を校舎の3階に移動させていた。しかし、中学生が避難していく様子を見て、すぐに校外への避難を決断する。釜石東中学校の生徒たちは、鵜住居小学校の児童にとって率先避難者となったのである。児童たちは中学生のあとを追って、ございしょの里まで走り始めた。

 ございしょの里まで走りきった小中学生はその場で点呼を取り、避難は無事に完了したかに見えた。しかし、ございしょの里の職員や生徒数名が、建物の裏山の崖が崩れていることを発見する。「ここも危険だから、もっと高いところに避難しよう」と生徒は先生に進言する。釜石東中学校の教師は、すぐにさらに高台にある介護福祉施設への避難が可能であるかどうかの確認に走る。避難可能の確認がとれ、小中学生はさらに高台までもう一度走り出す。

 このとき、すでに地震発生からかなりの時間が経過していた。一刻の猶予もない。中学生は訓練したとおりに、小学生の手を引き、避難を支援する。避難の道中、園児を抱えながら、たくさんの園児を乗せた散歩用の台車を押し、必死に避難する鵜住居保育園の保育士を生徒たちは確認する。ここでも生徒たちは教えられた通り、『助ける人』としての役割を果たすこととなる。保育士と一緒に園児を抱え、台車を押し、必死に避難する。

 先頭を行く中学生が介護福祉施設に到着し、点呼を取り始めたとき、消防団員や周辺にいた地域住民の「津波が堤防を越えた!」という叫び声が聞こえた。「逃げろ!」襲い来る津波の恐怖に、子どもたちは福祉施設よりもさらに高台にある国道45号線沿いの石材店まで駆け上がる。中には敷地内の裏山まで駆け上がる生徒もいたほどだ。避難の列の最後尾の児童は、介護福祉施設にたどり着くまえに津波に追いつかれてしまう。とっさの判断で山を駆け上がり、間一髪のところで無事にみんなのところに合流することができた。

 石材店にまで避難してきた子どもたちは、彼らの学舎が、そして見慣れた街並みが轟音とともに津波にのまれ、押し流されていく残酷な光景を目撃することとなる。しばらくののち、避難している場所が屋外であったため、屋内で滞在可能な場所への避難を開始する。先日開通したばかりの釜石山田道路(縦貫道)を通って、旧釜石第一中学校体育館まで移動し、そこで一晩を過ごした。翌日、鵜住居小学校の児童は甲子小学校へ、釜石東小学校の生徒は甲子中学校へと移送してもらい、避難生活を送ることとなった。こうして、津波襲来時に学校管理下にあった鵜住居小学校、釜石東中学校の児童・生徒約570人は無事に津波から生き残ったのである。

 また、釜石東中学校生徒は、避難所でも教えられた通り『助ける人』としての役割をしっかりと果たしていたことを付け加えます。

 生徒たちは、避難所での生活が落ち着いてきた頃から、誰に指示される訳でもなく、率先して毎朝清掃を行い始めました。その活動を見た他の避難住民も生徒たちと一緒に清掃を始めるようになったそうです。

 生徒たちが移送された甲子中学校は彼らの居住する地域からはだいぶ離れた場所にあります。そのため、家族と連絡のとれた生徒は家族のもとへ避難先を移動していていきました。その際に、家族や親戚が彼らの安否を確認することが困難であったとの経験を活かし、避難所に避難している住民の名簿づくりを開始しました。生徒たちは「これが被災後最初のEASTレスキューの活動だ」と言って、手分けして避難者カードの記入をお願いして回っていました。彼らはこの活動を被災後4日目から開始しています。

 このように、彼らの学習は、犠牲者行方不明者が10,000人を超えるような大災害の最中で、自らの命を守っただけでなく、災害時に地域住民に活用され、そして被災後においても地域住民の役に立つことができたのです。日頃から防災教育を実施してきたことの成果として、これ以上のことが他に何かあるでしょうか?

松山千春 - ピエロ

2011-04-15 20:57:05 | 日記
松山千春 - ピエロ


4月15日、東京ディズニーランドが営業再開しました。
松山千春「ピエロ」こんな歌を聞いて 笑顔を取り戻しましょう

もしも 君が悲しすぎて 
涙 流す夜は 
僕が君を勇気づけて 
唄を歌ってあげる 

へたな唄で悪いけれど 
君のために歌うよ 
僕の声で涙なんて 
吹き飛ばされてしまう 

そうさ 僕はピエロでいいさ 
いつも 笑いふりまくピエロでいいさ 

笑いなさい 笑いなさい 
いやなことは忘れて 
笑いなさい 笑いなさい 
君には笑顔が似合う