日本シリーズも終わり、契約更改・トライアウトなどプロ野球選手の「人事」が活発になってきた。選手のドラフト当時と今のコメントを比較して、「プロ野球人生」についてフリーライター・神田憲行氏が考えてみた。
* * *
10月22日に行われたドラフト会議では88人の選手が指名された(育成ドラフトを除く。以下同じ)。指名されたなかには、契約前にもかかわらず早くも、
「1年目から1軍で活躍して、日本でトップの選手になる。遅くてもFA取得前までにはメジャーに行きたい」
とオコエ瑠偉選手(楽天1位指名)のように目標を高く掲げる選手もいた。
しかし当然ながら厳しいプロの世界では、指名された全員が活躍するわけではない。そこで今から10年前の2005年ドラフト指名選手のうち何人が今もプロ野球でプレーし続けているのか、
「ドラフト指名選手の10年生存率」を調べてみた。
2005年のドラフト会議は変則的で、高校生指名と大学・社会人指名の2回に分けて行われている。
まとめていうと、この年に指名された選手は高校・大学・社会人あわせて全部で96人。巨人指名の福井優也投手が入団拒否した以外、95人が入団した。そして現在も指名球団・他球団にかかわらずプロ野球選手のユニフォームを着ているのは、45人である。
「10年生存率」は47%だ。
半分近く残っているというのは意外に多いなという気もするが、これが1軍生存率にするとぐっと下がるのだろう。生存率の内訳を球団別に見ると、けっこうばらつきがあった。
たとえばソフトバンクは高校生を4人指名したが、10年後にはひとりも残っていない。高校生1位指名の荒川雄太は、
「プロのキャッチャーと言われれば『荒川』と言われる選手になりたい」
「(城島は)目標にしています。いつか追い越さなければならない。(打撃)タイトルもとりたい」
と勇ましいコメントを残していたが、1度も1軍の公式戦に出場することなく、2010年に戦力外通告を受けた。現在はトライアルを経て入団し、引退した西武でブルペン捕手を務めている。
一方でソフトバンクはこの年の大学・社会人ドラフトでは5人指名し、1位の松田宣浩をはじめ4人が選手として残っている。
惨憺たる生存率だったのが巨人だ。高校生は3人指名したが先述の通り福井に振られて入団は2人、しかし生存率は0%、誰も残っていない。大学・社会人は大量7人が入団したが、残っているのは脇谷亮太ひとりだけだ。つまり巨人の2005年ドラフトは高校・大学・社会人合わせて9人入団して、1人しか残らなかったのである。
巨人から解雇された選手なかでせつない名前を見つけた。
「光栄です。今の気持ちを忘れずに強気のピッチングをしていきたい」
指名されて胸を躍らせながらこうコメントしたのは、2005年大学・社会人ドラフトの希望枠で入団した福田聡志投手である。そう、今秋、野球賭博で解雇されたうちのひとりである。まさか10年後に、
「軽はずみに興味本位で始めてしまった。今後はわからない。野球しかしてこなかったので……」
という羽目になるとは、本人も想像していなかったに違いない。どこで「今の気持ち」を忘れてしまったのだろうか。
他にも今回解雇された選手の指名当日のコメントを紹介しよう。
2008年ドラフト5位指名の笠原将生投手は、
「歴史ある球団で目標としいた球団だったので、指名されて嬉しいです」
と語っていたが、7年後に解雇処分を受けて、
「いろんな人の人生をメチャクチャにしてしまった。償いきれない思いは、死ぬまで引きずるだろう」
とコメントしている。2011年ドラフトで1位指名の松本竜也投手は、
「1位だったのでとても嬉しいです。僕をとって良かったと思ってもらえるよう頑張りたい」
と初々しくコメントしていたが、わずか4年後に、
「自分なりに反省している。いろんな人に申し訳ない。興味本位で手を出してしまった」とうなだれた。
指名された直後に高らかに目標を掲げて、その通りになった選手もいる。ヤクルトの「トリプルスリー」男・山田哲人選手は2010年ドラフトで指名されて、
「まさか1位指名とは思わなかったので嬉しい。期待を裏切らないようにヤクルトに欠かせない選手になりたい」
と、その通りの選手になった。ちなみに山田選手はヤクルトが指名競合した斎藤佑樹投手、塩見貴洋投手のくじに負けて、「外れ外れ1位」だった。
10年以上プレーし続けた選手はドラフト時のコメントにも味がある、と思わせてくれたのが、今季のプロ野球界の天下人、ソフトバンクホークスの工藤公康監督のドラフトである。それはまさに「工藤劇場」ともいいたくなるような入団劇だった。
プロ志望届もない1981年のドラフト会議の4日前、突然工藤家が指名挨拶のない日本ハム、大洋(当時)、ロッテを除く9球団に「指名お断り」の文書を発送する。理由は甲子園出場後に慢心の気配がする工藤の人間形成のために、社会人野球の熊谷組に進ませたい、という父親の意向だった。工藤はドラフトの目玉とも言われていただけに、残念がるスカウトもいた。
しかしドラフトでは西武が6位で工藤を強行指名する。「交渉に来られても玄関には入っていただくが、家には上げません」と頑なな態度を崩さない工藤父。しかし交渉に入るや、次第に態度を軟化させ、入団に前向きとなっていく。もともと他球団に指名させないための「芝居」だったのではないかという疑惑が浮上し、「バカバカしい」というヤクルトスカウトのコメントが紹介されている。
これで一転して入団かと思いきや、そこは工藤劇場たるゆえん、「当て馬」にされた熊谷組が「うちに入社する約束をしている。二重契約ではないか」とゴネだした。しかも西武が工藤家に渡した契約金6000万円の小切手を保管しているという。
「なぜうちが工藤さんに渡した小切手を熊谷組が持っているのか、意味がわからない」
という西武フロントの戸惑いに爆笑した。そりゃたしかに意味がわからない。結局、工藤父があちこちに頭を下げて周り、熊谷組も大人の配慮をして丸く収まった……とはならず、工藤劇場の第三幕があがる。
今度はなんと、工藤が通っている名古屋電気工業(現・愛工大名電)高校の校長先生が「今回の事態は学校側として遺憾に思う」という文書をメディアに公表したのである。高校生が在籍している学校の校長先生に公然と批判されるというのは、前代未聞だろう。予期せぬ伏兵の登場に、またもや頭を下げて回る工藤父。その間には工藤が学校の許可無く自動車教習所に通っていたことが発覚し、校則違反の処罰として丸坊主にされるというオマケもついた。
ようやく入団記者会見にこぎつけたのは、なんとドラフト翌年の1月12日だ。ドラフト会議が11月25日と遅いこともあるが、すったもんだあった影響は大きい。その入団記者会見に際して、あちこちに迷惑をかけたのだから殊勝な態度で臨むかと思いきや、さすが工藤は違う。
「(目標となる選手は)いません。目標とする人を作ると、その人のまねをするだけで超えることはできないから、それより自分だけの独特の型をもちたい」
「ライバルはいません。自分のことだけを考えて、結果的に勝てればいい」
と言いたい放題。これには西武フロントの坂井保之球団社長(当時)も、
「今日は完全に完封されちゃったね。今年の契約更改が思いやられるね」
と呆然としたコメントを残し、工藤劇場のオチとなった。
もし工藤が10年かそこらで消えて無くなる選手だったら、この騒動も関係者の苦い想い出にしかならなかっただろう。しかしその後の工藤の輝かしい球歴と合わせて考えると、記者会見の言葉にも含蓄を感じ、工藤のユニークエピソードの一章となる。厳しい世界だが、勝てば黒いものも白となるというのもプロ野球の魅力のひとつである。