兎神伝
紅兎〜追想編〜
(28)謝礼
「里一君、こんな夜中に呼び出して、いったいどんな素晴らしいネタをくれると言うんだね。」
夕餉の賑わいが嘘のように静まり返った食堂に、一人椅子に腰掛ける里一を見出すと、純一郎は皮肉な笑みを浮かべて言った。
「私はねえ、眠たいのだよ。今日は一日、愛ちゃんの赤子の面倒を見させられたからねー。」
里一は、答える代わりに、口元を綻ばせると、書簡・書類の束を、純一郎の前に投げ出した。
「何だね、これは…」
純一郎は、その中の一つに目を通すなり眉を顰めた。
「総宮社(ふさつみやしろ)の爺社(おやしろ)様は、そんな前から、既に楽土と結んでいたと言うわけでござんすよ。そう…同盟紅軍首魁、軽信房枝と奥平剛三を通じてね…
ここ数年に渡る、神領(かむのかなめ)内における楽土の間者達の暗躍には、ほぼ全て…」
「だが、最初に密約を結んだと言う、この頃と言えば…」
「そう…あっし等、燕組が、親父さん率いる隠密御史と共に、聖領(ひじりのかなめ)の翁社(おやしろ)様を襲撃し、壊滅したのと同じ時でござんす。それも、占領軍本国と結ぼうと画策された、総宮社(ふさつみやしろ)の爺社(おやしろ)様の裏切りにあいやしてね…」
里一は、一瞬、眉をしかめて見せたが、すぐにいつもの飄々とした表情に戻った。
「いやはや…
御総社(ふさつみやしろ)の爺社(おやしろ)様も、大したお方だねえ。片や、楽土や明星国の間者どもを片端から炙り出して皆殺し、占領軍本国と組む為に、御自分で聖領(ひじりのかなめ)の翁社(おやしろ)様を襲撃させた、隠密御史や燕組を生贄に差し出しながら…
占領軍と聖領(ひじりのかなめ)とで進めてる機密計画どころか、神領(かむのかなめ)そのものを楽土に叩き売ろうってんだからねえ。
だが、こんなものを私に渡して、どうしろと言うのだね…
扱い方一つ間違えれば、とんでもない火傷をするぞ。」
純一郎もまた、書簡・書類の束を顔色一つ変えずに眺めまわしながら、淡々と言った。
「ご随意に…
あっしからすれば、上の連中が、占領軍と組もうと、楽土と連もうと、どうでも良いこって…
まして、核弾頭とか言う、大筒を使わずに飛ばせる爆弾何ぞ、関わりのねえ事でござんすよ。
さっきも言いやしたように、これは、ご褒美でござんすよ。この四年、親父さんに肩入れして下さり、最後まで愛さんを赤兎にしねえよう、夢にまで見た大連の座まで、お譲りあそばされやした、親社代(おやしろだい)様へのね。」
「そんなに、大事な事だったのかね…たかが幼い子一人、裸にさせるさせない、社領(やしろのかなめ)の好き者達に玩具にさせるさせない何て事がね…
皮剥に赤兎の穂供(そなえ)など、神領(かむのかなめ)では、酒呑むのと同じくらい、何処でも当たり前にされてる事ではないか。」
「可笑しいでござんすか?」
「不思議なのだよ。神領(かむのかなめ)の連中からすれば、酒を呑む程度でしかない、皮剥と赤兎の兎弊を取りやめさせる為に、何百回殺されてもおかしくない危険な橋を渡ろうとする君がね。」
「それを仰られるなら…
親社代(おやしろだい)様とて、たかが幼い子を裸にするとかしねえとか、好き者の玩具にするとかしねえとかの為に、目と鼻の先まで手の届きそうな、大連の座をお譲りあそばされたではござんせんか。」
「それはだね…
本来、兎神子(とみこ)の穂供(そなえ)とは、皇国(すめらぎのくに)の血脈を断たぬ為、爺祖大神様より仰せつかった神聖な祭祀…
兎神子(とみこ)達は、尊い神子(みこ)達なのだよ。
それを、皮剥に赤兎の兎弊などと言う邪習の為、穂供(そなえ)はただの売春行為に成り下がり、兎神子(とみこ)達は、娼婦・男娼の如く卑しい存在に見做されるようになった。
曲がりなりにも、神民道(じみんとう)神職(みしき)和邇雨一族の端くれに産まれたものとして、我慢ならないのだよ。
しかし、君は違う…
上の連中の陰謀にも無関心なら、神領(かむのかなめ)の尊い伝統祭祀も嘲笑しておる。だのにだね…」
「産声をあげた瞬間から、生きる事を否定された、あっしの気持ちなんぞ、親社代(おやしろだい)様にはわかりなさるめえ。
あっしも、伊吹の奴も、燕組の連中皆も、親父さんがいて下さらなかったら、産まれてきた事そのものを否定され、殺されていたんですござんすよ。
親父さんが喜んで下さる事でしたら、どんな小さな事の為にでも、このタマ、いつでも喜んで投げ出しやすぜ。」
里一の言葉を聞いてるのか聞いてないのか、純一郎は、書簡・書類に深く目を通すにつれ、次第に深刻な表情になってきた。
「それにしても、君、とんでも無いネタを掴んでくれたものだねえ。
特に、この誓詞血判状と名簿だよ。神領(かむのかなめ)の神職(みしき)や神漏(みもろ)、神使(みさき)に、これ程楽土の内通者や、間者達のなりすましが紛れてるとは…
確かに使い方によっては…私は、鱶見社領(ふかみつやしろのかなめ)どころか、神領(かむのかなめ)そのものすら動かせるようになるだろう。しいては、皇国(すめらぎのくに)を闇から動かせる力も得られる。
だが、その為に、君に死んで貰う事にしたら、どうするつもりだね…」
「ご随意に…
どうせ、親父さんがいて下さらなければ、この世に産まれてすら来なかった事にされていたんでござんす。」
「成る程…だか、君に死んで貰った後、私が今後赤兎を出さなくする為に動く保証はあるのかね?
いや、あの時は、河泉産土宮司(かわいずみのうぶすなつみやつかさ)でしかなかったから、神民道(じみんとう)に帰依する信仰心と正義感から、愛ちゃんの皮剥を阻止しようとしたが…いざ、最高権力が目の前にちらつけば、誰よりも積極的に皮剥を行おうとするかもしれんよ。爺じの奴にも死んで貰い、ここの兎神子(とみこ)達は、前の宮司(みやつかさ)以上に食い物にするかも知れん。」
「その時は、この僕が、親社代(おやしろだい)様を殺す。それだけの話ですよ。」
不意に、別の声が、二人の会話に割って入った。
「やあ、カズ君ではないか。」
純一郎は、満面の笑みを浮かべると、何処から持って来たのか、酒瓶を掲げて見せた。
「酔いは、すっかり冷めたようだね。どうだ、飲みなおさんか?コイツは、占領軍本国の酒で、バーボンとか言うんだよ。」
和幸は、何も答えず、冷たい光を帯びた眼差しを純一郎に向けた。
「なるほど…やはり、最初から酔ってなかったんだね。」
純一郎は、皮肉な笑みを浮かべると、差し出した酒瓶から、盃に注ぎ、グイッと飲み干して見せた。
「コイツは、うまい!うーん、感動した!」
和幸は、純一郎の言葉を聞き流し…
「拾里に、シーアイエーとか言う占領軍砦の間者がやたらと出没したのも、そう言う事…と、思っても良いのかな、里一さん。」
里一は、しばし沈黙した後…
「拾里…カズさん、貴方、その占領軍砦の間者、全て消しやしたね。」
「奴らに余計な事をかぎまわられては、長い時間かけて待ち続けた革命の日がご和算になるからね。
でも、今にして思えば、つまらん事をしたと思ってる。僕がやらなくても、貴方ががやってくれたでしょうからね。」
「そう…余計な真似…いや、あっしとしては、残念な真似をしてくれやした。菜穂さんを抱く手、希美さんを抱く手、血で汚して欲しくはなかったでござんすからね。」
そう言うと、咥えた楊枝を、ピュッと近くの壁に向けて吹き飛ばした。
「撤退か…」
和幸は、壁に突き刺さる楊枝を見つめて呟いた。
「お引きなせえ。今ならまだ間に合いやすよ。」
里一は、静かに嗜めるように言った。
「そうは、行かないさ。今度こそ、革命の日がやってくるんだ。
親社代(おやしろだい)様も、ここは一つ、腹を決めて頂けませんか?我等…」
「君達、紅兎と結び、革命とやらに加担する事をかね?」
純一郎は、和幸の言葉が終わらぬうちに言った。
「僕ならば、親社代(おやしろだい)様に革命の中心に立って頂く事も可能ですよ。」
「周恩来(チョーエンライ)…かね?」
「そう…父さんの力をもってすれば、親社代(おやしろだい)様を革命の中心に据えるだけでなく、この地が北の楽園同様の楽園に生まれ変わった暁には、指導者の一人に加わる事も夢ではありません。」
「それは、どうでござんしょう…」
不意に、里一が口を挟むように言った。
「酷な事を言うようですがね、その、周恩来(チョーエンライ)とやらは、もう、和幸さんを息子とは思ってはござんせんでしょう。」
和幸は、冷たい光を帯びた鋭い眼差しで、里一を睨め付けた。
「和幸さん、はっきり言いやすよ。おめえさんと、周恩来(チョーエンライ)との関係は、前の親社(おやしろ)様方…眞悟様方を、おめえさん方が始末されてしめえやした時、もう、終わってるのでござんすよ。」
「何故、そんな事がわかる?」
「現に三年程前…あなた方は殺されかけたではありませんか。」
里一が言うと、和幸は一瞬、怒りとも憎悪とも…或いは底しれぬ哀しみともつかぬ表情に顔を歪ませたが…
「あれは、毛沢東(マオツートン)に鞍替えした、奥平剛三が勝手にした事だ。
父さんとは全く関係ない…」
そう言うと、再び物静かな表情に戻り、鋭く光る眼差しを純一郎に向けた。
「まあ…あれだね…まずは、愛ちゃんを聖領(ひじりのかなめ)に引き渡さない算段からつけるかね。」
純一郎は、それまでの話を何も聞いてなかった、していなかったとでも言うように、バーボンの杯を傾け、書類・書簡に目を通しながら言った。
和幸は訝しげに首を傾げ、里一は表情を動かす事なく、見えぬ目を純一郎に向けた。
「こんな大それたご褒美を貰ったのなら、私としても謝礼をせねばなるまい。君達が今、一番望んでいるのは、愛ちゃんを引き渡さぬ事だろう?」
「御意…」
里一は静かに頷き…
「それと、愛ちゃんの子です。三年も辛酸を舐めた末に、あの子を産んだのですから、そのくらいの褒賞があっても良いでしょう。」
和幸は、一層、鋭く目を光らせて言った。
「それはできぬ相談だよ、和幸君。仔兎神(ことみ)の天降りは神民道(じみんとう)の神聖な神事。取りやめるわけには行かん。
だが…
神民道(じみんとう)をあるべき姿に正す為、汚らわしき皮剥と赤兎の兎弊は無くさねばならん。その第一歩として、まずは、愛ちゃんを聖領(ひじりのかなめ)へは、絶対に引き渡さん。
里一君、君から貰ったご褒美をどう使うかは、その後、検討したいと思うのだが…」
「よい、ご決断かと思います…」
里一は、何か言いかける和幸を制するように、大きく頷いて言った。
そして…
「親社代(おやしろだい)様…」
尚も口を開こうとする和幸の肩を掴んだ。
「和幸さん、おめえさんだって、内心もうわかっているでござんしょう?
もう、楽土も同盟紅軍も、紅兎など眼中にはござんせんことをね。
お引きなせえ…
おめえさんを、本当に必要としてなさる者達の為に、お生きなせえ。」
「引くものか…」
和幸は、静かに里一の手を払いのけると、鋭い一瞥をくれた。
「僕は、何としても革命を勝利に導き、父さんに会う。ナッちゃんと希美ちゃんを連れて、父さんと暮らす。希美ちゃんの病気を、楽土の医者に看せ、治して貰う。引けるものか…」
「もう一度、言いやすぜ。周恩来(チョーエンライ)は、おめえさんを息子なんぞと思っちゃござんせんよ。思っていたら、再三、同盟紅軍の軽信房江に助けを求めていたおめえさんを無視して、美香さんを見殺しには致しますめえ。」
里一の言葉に、和幸は更に鋭い一瞥を傾け何か言いかけたが、大きく息を吐くと、口を閉ざし、その場を去って行った。
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