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(since 2007/8/15)。

1291)私的岩手通史の旅 第118回(奥州合戦 第11幕)

2012年04月15日 | 私的岩手通史の旅
 新聞のコラムで、若者の箸の使い方の乱れを嘆いていました。嘆くのはよいのですが、それを総て若者自身の責と断じていたのはどうなのかなと思いました。子供に箸の使い方を教えるのは誰でしょう?執筆者は割り箸の普及が箸への敬意を薄れさせたとも嘆いていましたが、割り箸を普及させたのも誰でしょう?


第118回 奥州合戦 第11幕(平泉町 東物見)

 私的岩手通史の旅、舞台は久々に岩手県に戻ります。1189(文治5)年8月に阿津賀志山の戦いで藤原四代泰衡の異母兄国衡を破った源頼朝軍は、敗走する泰衡を追い北上を続けました。

 一方の泰衡は陣を張っていた国分原鞭館(現在の仙台市榴岡と推定)から退散し、平泉も捨てて更に北へと逃げました。主に見捨てられた平泉は郎党らに火を放たれ、多くの宝物や建物が灰と化しました。

 その後を追った頼朝軍は8月下旬に平泉に到着しました。奥州合戦を記した「吾妻鏡」を読んでいないので、頼朝が到着した時の平泉がどのような状況だったか分かりませんが、きっと荒れ果てていたことでしょう。泰衡のひい爺さんにあたる清衡が長い年月をかけて築いた街ですが、消えてしまう時は呆気ないものだと思いました。

 頼朝軍が平泉のどこに宿営したのか分かりませんが、もしかしたら中尊寺へ足を伸ばしたのかもしれませんね。その時は東物見から平泉の街を眺めたのでしょうか。


(秋の東物見-平泉町平泉 2008/11/23-)

 平泉に着いた頼朝のもとへ、北へ逃げた泰衡からの書状が届きました。その内容は割愛しますが、要は命乞いの内容でした。戦わずして逃げたり、命乞いの書状を送ってきたりと、万事清衡とは対照的なひ孫に感じます。
 そのような書状に左右されず、頼朝軍は平泉を後に更に北上を続けます。


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