1976年11月、学生時代に大牟田市でのライブの帰りに、西鉄大牟田線の特急西鉄福岡行き(天神)でさっき歌っていた森田さんが学生服に白手袋の僕と同じ席になり、手袋と生徒手帳にサインをいただきました。先にアップした高校時代のハム(アマチュア無線)時代は冷戦時代でかつ、プリフィックス(コールサインの前の部分で国別割り当て)のBY(中国)は隣なのに交信できなかったですね。…ソ連圏やアフリカ(フランス領など)南米(スペイン・ポーチュガル言語圏)だったり、国内外も正・負のサインカーブを描く問題提起や途上・発展・成長…が入り混じっていた。
光と影のサインカーブが共振してディップ点を模索していた時代だと回想します。1983年、森田童子氏のサインを6月にもらう。この年に森田童子氏は音楽活動を中止した。このあとに93年にドラマ「高校教師」に楽曲が使用され再ブレークし、再リリースされてミリオンセラーになるも本人は表舞台に顔をださず沈黙をしていた。そして平成30年4月24日永眠へ旅立つ。
光と影のサインカーブが共振してディップ点を模索していた時代だと回想します。1983年、森田童子氏のサインを6月にもらう。この年に森田童子氏は音楽活動を中止した。このあとに93年にドラマ「高校教師」に楽曲が使用され再ブレークし、再リリースされてミリオンセラーになるも本人は表舞台に顔をださず沈黙をしていた。そして平成30年4月24日永眠へ旅立つ。
…この年は実兄襲撃疑惑、中長距離ミサイル連続発射強行、核兵器地下爆破実験、…などの強硬についての謝罪をせずになにも反省の弁もなく大国に媚を売る若きリーダーの姿がマスコミによって発言と態度と約束事を全世界に記録披露された日の翌日に森田童子氏の訃報の記事がmass communicationで流れた。
…去年までは拉致、核開発も含め、ミサイル連続発射の中ではあったが、そんな隣国だからこそ太陽と北風では勇気ある歩み寄りによる自ら踏み込む太陽政策外交を望んでいたが、日大アメフトの選手の記者会見でさえ、謝罪は必要だが美談ではないと思う倫理観の私は、せめて、土下座ともいわないが、罪への謝罪や告白や罪ほろぼしの公言が冒頭の態度であってほしかった。これは民族や立場の違いの問題ではなく、人が忌み嫌う行動を自ら率先して相手に不快感をおぼえさせた自覚のある人間としての最低のルールとしては謝罪からはじまるのが世界の常識のある人としての威厳ある反省の良心の証だと思う。ましてや儒教の態度で年長者(大国のみ)には媚を売る若者の初対面ぐらいならマニュアル道理はだれでもできる。…公に記録、放送された約束ごとの信用は継続進歩発展的でないとその逆はあってはならない事態を連想してしまうのは心配性なだけならばいいけれどと思います。いがみ合い、争いはないほうが良いものだ。