白秋ながや文庫

日々の徒然。

人間の関係」五木寛之:著~ポプラ社発行を手に入れた。

2007年11月30日 | インポート

最近、中央線沿線の本屋で五木寛之:著~ポプラ社発刊の「人間の関係」をやっと手にいれた。ポプラ社の本は二十数年前に福岡で子供の文化や地域活動に興味を持っていたころに「ズッコケ探検隊・・・」?なる児童図書のすばらしさに感銘を受けた以来である。そのころは、教育、地域文化、情操に興味があり、地域に根ざす児童劇団活動に参加させてもらい、九州一円の学校回りをしていた。同時にRPGなるゲームのコンセプトなども個人的にプランを提出していた時期(劇団活動とは別)です。同時期にキー局の特集の企画書なども知人のつてで提出していた時期とダブる。もともと映像制作は通信機器サラリーマン前後にポストプロやCM制作で少しフリーで世話になったりした経験がありました。少しは雛形の企画制作流れは身についていたのでアルバイト気分の楽なスタンスで苦ではなかったし、楽しかった。(PVやラジオ番組など企画制作するのが趣味で)・・・話しはそれたが、ポプラ社の「ズッコケ・・・」はドラマや舞台でもありえる。と思っていた頃の興味あった本です。我国の子供の自立や情操には欧米化の躾や学校、家族、地域、ひいては教育より、わが国にあった、慣習に合う、児童図書がポプラ社の「ズッコケ・・・」にあるように思えます

・・・それから、今回の「人間の関係」五木寛之:著は、なるほど、それら(前記:「ズッコケ・・」を読んだ世代が親になる時代)に良書(捉え方は星の数かもしれないが)へのインデックスとも思える偏らない物の見方の本であると捉えました。わかりやすく優しい言葉はマスメディアの真骨頂でありますが、I_T(双方向性)とも放送(集団伝達)とも両刃の剣である、部分をいかに誤解を少なく、受け取り側の間口に洗練された言葉を選んで書かれた著書であるかは、この本を読んだあと見る夢であったり、人と接する場やあらゆるコミニケーションの場においてのヒントが盛り込んである。偏らないいざないの書である。絶賛ついでに言えば「五木寛之氏の白魔法」である。ハリーポッターが慣習を超えてヒットしたが、五木寛之氏の作品にはそれを超えるヒントが潜んでいるように思える。ぜひ、五木寛之氏にポプラ社より、のぶひろし:作でファンタジーを書いてもらいたいものである。かつて大航海時代から産業革命、植民地支配の時代の延長線のグローバルスタンダートより宇宙時代のナショナリズムの話でも手塚氏W3も藤子氏のドラえもんも、やなせ氏のあんぱん・・・星氏のボンボンと・・・もスピルバークもと杜子春も西遊記もこえた作品を短編でも読んでみたいものである。いったいその世界はどういう価値観がすべての喜怒哀楽の規範に人が関わりを持っている社会なのか?いずれにしろ、言葉の魔法は潜在意識を覚醒させる生きるヒントである。搾取攻撃」が黒魔法とすれば還元癒し守りは白魔法だとすればどちらもエネルギーはゆらぎの範疇である。高度成長期の躁の時代に勇気と情熱を与えた「青春の門」「かもめのジョナサン」、バブル崩壊、ソ連崩壊の鬱の時代に「大河の一滴」で無風の海でのヨットで帆の手入れをしつつ、風を待つような達観の丹田力のヒントを優しく歌い、「リトルターン」「ロストターン」のアジサシの物語。そしていま、「目的」「ねらい」を超えた、・・・つねに「・・・いや、まてよ・・・深呼吸・・・そして目を開く」ような物の見方、感じ方のヒントやコツをさりげなく惜しみなくわかりやすく書かれたインデックスが「人間の関係」であるように思えてしかたがない。次回の本が楽しみである。


「人間の関係」~五木寛之氏:作~ポプラ社発行を見かけて思うこと。

2007年11月21日 | インポート
  先週、林住期に入りました。先日、近所の本屋で、「人間の関係」なるタイトルの本を見つける。                                                                                  「変わる時代に、変わらないものはなにか。
ぼくはそのことを、ずっと長いあいだ考え続けてきました。
そして少し見えてきたのは、「人間」を考えるのではなく、「人間の関係」を考えることこそ重要だ、ということです。人間は「関係」がすべてである。そして家族も夫婦もまず「他人」になることから出発するしかない。他人同士からはじまる『人間の関係』。
それが「生きるヒント」の先にみつけた、ぼくなりの「答え」です。」五木寛之:作「人間の関係」より引用。
・・・この「他人」と言う言葉には、一見すると、「情けは人の為ならず」のことわざの誤解の解釈と同様、深遠なる「信」のメッセージが含まれていると感じるのは、長年の五木寛之氏の時代の一歩先の惜しみないヒントを最大公約数に向け、かつ林の中よりふらりと巷に現れるサドウのようなサムライの先見性の覚文であろう。・・・ようは「他人」は漢字を分解すれば「人は人也」である。人は人以上でもなく人以下でもなく、自分の意思で誕生してくるのでもなく、すべての事象は関わり、つまりは因と縁(自然科学的に解釈すれば証明もありゆるが、予測を超えた偶然であったり、必然もありえる)しかしながら、人社会の森羅万象は「人は人也」これをゆらぎの中の補正の解釈も含めて「他人」と言う言葉で文字に思いを投げかけてあるのだろう?推測の域は、五木寛之氏、五木玲子氏の作品の変遷でも感じられる。以前に触れた五木玲子氏の個展で南米であったか?老女のデッサンをみたことがある。そのときに同時に植物をテーマにしたアートも観た。地球の裏側の老女の人生のキビがその作品の見据える眼力、(スペイン支配も含め、大きなうねりがあった南米の)作品はさらに大河の一滴の表紙画の「アンモナイト」(物言わぬアフリカの化石だろう?)と勝手に判断してみたが。すでに多くの五木氏作品には慣習を含めた人と人の関わりがさりげなくメッセージされている。外をホリゾントに時間軸を一回りし、内にバーチカルに掘り下げてなお、言葉をよりゆらぎの放射線状の先に補正された取捨は五木氏の作品のシャープさをあえてブロードにして、単一指向性にすれば人は人也の真逆はシンクロするだろうが無指向性のごとく、双方向を試行錯誤している時代に一歩先を歩んでいる。以前、ある通信社のジャーナリストがアフリカの溶岩台地の取材の話しを単一志向性に語っていた。目の前で幼い子が飢えて死んでいく時の目は澄んでいて・・・という話から旅することで距離とか時間軸の中で世界の今を追っている自分がジャーナリズムの使命感であると思っていたことにハッとしてバーチカルな目線への発見を論じていたがすでに、五木氏ご両人の作品の中にはある時期よりより縦横無尽なバーチカルな無指向性の模索は起動していたように思われる。おそらくは五木作品は代替的価値観のツールの矛盾をバーチカルボーダー価値観の入り口の発見のヒントであろう。日本より先にエンターテイメントに応用した作品はすでに世界規模で間口を広げて興行収益あるいは出版部数も含めて外貨を稼いでいる。応用の領域はシャープなターゲットで量産され、大河の一滴は又水蒸気となり大海より上へと気化するがごとく、そして雨はなかなか降らず?なぜ?温暖化はぬくぬくと砂漠化が進むがごとく。水は上から下へ流れるとはいうものも。台風はあちらこちらで大暴れでほどほどで循環してほしいものです。虹は陽光のさす雨あがりにこそ笑顔で見れるものだから。・・・「人間の関係」じっくり読んで観て分析してヒントさがししたいものです。