今日がヘストン演じた映画十戒のワンシーンの杖と衣だけで名を消され、羊飼いの井戸にたどりつく寸前のゆだねた砂漠のシーンのようでもあり、大河の・・・糟糠の水の濁る時の船頭の・・・一節のようでもあり
リトルターンはたまた、ブンナよ木から降りて来い。風が吹いて、破れた帆を揚げたヨットのようなそんな気持ちです。今日は、カンダタがモーゼのヘストンのワンシーンに同一化して夜明けを待ちながら。
子供が王様は裸で歩いているは物語になるが大人の場合はヘストンワンシーンで真実の歪曲は事実の愛すべき人たちまでも切り離そうとする上塗りがある。
非所属は無所属とは違う。非所属は得てして風見鳥や蝙蝠と誤解されるので脅迫者被害者傍観者尋問者の社会構図のマジョリテイ現象においては、人の多面内観客観性を恐れてリトルターンに容赦ない。アウトローとは違う。集うことは心強く、又蟻の実験ではないけれど役割がおのずとたまねぎの皮むきのようなもの。しかし、時に自然より容赦ない恣意的な側面を持つ時が人社会には残念ながら芋の連作のごとく発生することがあるのかもしれない。
卑怯でも何でもジョナサンカンダタにジョセフマーフィーでも真言でもセレトニンのさざなみの振幅にリミッターを両極にかけ、フィルターでプラスかマイナスに制御することをよしとする特異的な新社会現象化を感じます。
・・・生き方が下手、うまいとかで、かたずけられる一言の客観性が前記脅迫被害傍観尋問のいずれかの偏りのシステム化意識が感じられるのはまさに御気楽な笑顔が好きな者には生きつらいものです。
低気圧の日は体調もよくないものだ。チャールトンヘストン氏、に川内氏ともに安らかに。作品は観たり歌を口ずさんだものです。特に十戒は何度も観た。ユルブリンナーの脇もすばらしかった。無政党、無宗教ではなく、非政党、非宗教が適切なのか?個人の人柄とかに興味を持つ性分が、あるのかもしれない。集うことも嫌いではないかもしれないが、人間は多面性があると思いたいので、できれば、ご都合主義や蝙蝠や風見鶏と思われたくないものである。・・・数学的には人も自然も統計どうりに決められない理解を超えた今日や明日があったりするから生きていればこそ認識できる不可思議がある。恣意的な現象の予測不可能もあるからこそ生きていなけりゃ喜怒哀楽の味も認識できないように思ったりする。・・・今日は花祭りで仏陀生誕の日でした。・・・こんな具合で、物語でも史実でも、縁があれば興味も持つし、愛着がなければ距離ができることもありえる。機能も型も時代遅れであっても長年愛着をもっていたり、最新型でこれが多くの人に指示されているといわれても興味をもてない事はいくらでもある。
ただ、思う事は、人も自然も事象は大きな流れがあるようであるが、そうでもない事も含んでながれているような気がする。・・・実にあたりまえのことをポリシーはないのかと思われがちな稚拙な言葉ですが、歴史や過去を評論分析でさえ多角的であるゆえに今日と未来も形も現象も一側面であるように思う。そうだとすれば、興味や縁があり続けることもあれば変わることもある。だから戻る事もある。できたら、人に喜ばれて、自分に過度な負荷を強いることなく、皆がお気楽でいれれば極楽でありパラダイスは今と明日も健康な心で過ごせるようになるのだろう。人が喜ぶ事の定義は多面的であるかもしれないが、明らかに自分の身に置き換えて過度の負荷に感じることを、人に影響力を持つ力の秀でた人には、人の苦悩する事を強いる事に快感の執着を覚えるようになってもらいたくないものである。・・・そうゆう意味合いで、非何々(政党、思想、宗教・・・etc)は無何々(政党、思想、宗教・・・etc)とは違う意味にとらえています。・・・ようは蜘蛛の糸のカンダタではないが、人は人以上でもなく人以下でもなく、人は所詮人であるように思う今である。