お墓と供養の新時代

北海道札幌において、お墓納骨堂を中心とした終活全般について綴っております。

歎異抄

2007年07月09日 | Weblog
歎異抄
第五条
 一 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。

その5
 わたし(親鸞)は、亡くなった両親への追善供養としては、一回も念仏したことはない。なぜなら、すべての命あるものは皆、輪廻転生を繰り返しているあいだ、お互いに父となり、母となり、兄弟となっているからだ。お互いに、次の世で浄土に生まれて、仏と成って救うのだ。もっとも、自分の力で善行を積んでいるとでもいうのであれば、念仏を称えて、その修行の功徳を亡くなった両親への追善供養とすることで、両親を救うことができるのかもしれないけどな。で、とにかく自力をすてて、さくっと浄土で悟りを開けば、六道(天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)や四生(胎生・卵生・湿生・化生)という迷いの世界で、悪い行いの報いとしてどんなに苦しみを受けていたとしても、仏のスーパーパワーで、まず自分と親しいものたちを救うことができるんだ。
と、親鸞さまはおっしゃいました。


生きとし生けるものは、生まれ変わり死に変わり、われわれとつながっている。
その意味で、一切の生きとし生けるものは、われわれの父母兄弟である。

今のあなたに、故人を成仏させるほどの力があるのか?

お墓参りや仏壇に手を合わせることは、先祖のための追善供養というより、
故人を偲び、今の自分を見守っていてほしいという自分のため。

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