僕は人物が描き込まれた絵が少し苦手だ。
肖像画の類なら、それは年代的に写真の代わりをしていたのだから、家族写真や個人の写真と同じで、残しておきたいのは描かれている人たちなのだな、と思える。
でも作者が描きたいと思って描いたに違いない人物画というのが、苦手なのだ。
苦手の根っこは「わからないことばかり」だからだ。
僕にはその絵のなにが優れていて、何が特別なのかわからない。
肖像画の類なら、それは年代的に写真の代わりをしていたのだから、家族写真や個人の写真と同じで、残しておきたいのは描かれている人たちなのだな、と思える。
でも作者が描きたいと思って描いたに違いない人物画というのが、苦手なのだ。
苦手の根っこは「わからないことばかり」だからだ。
僕にはその絵のなにが優れていて、何が特別なのかわからない。
絵の中で人々は時に苦し気にうごめき、作者がなぜその人を、なぜそのように描こうとしたのかと考えた時に、僕は、描かれた人々のそれぞれの思いの中に潜ませた作者の意図に疲れる。思いがひしめき合っている。多すぎる。たとえそれが絵の中でたった一人を描いていたのだとしても、僕には、多すぎてしんどくなる。
風景や花や静物画の方が、僕の心には率直にやさしい。
もともとそんなに絵を観るのが好きというわけじゃないんだ。
でもお母さんが、「英才教育の一環」と言って、僕を展覧会に連れて行くんだもの。心の負担になるものを、果たして英才教育の名のもとに強制的に子供に課していいものだろうかと、僕は常々思っているものの、口に出してお母さんに言ったりはしない。論じたところで、子どもの僕が勝利を手にすることはないと知っているからだ。
そんな僕はまだ小学5年生になったばかりだ。
お母さんは僕のことをとても大切にしてくれる。まだまだ子どもなのだから、いろいろなものを与えなければいけないと考えてくれている。おおむねそれはとても有難い。絵画鑑賞を除けば。
そして僕はお母さんが思っているほどには子供ではない。だけど子どもの内はやっぱり子供でいることの方が都合のいいことがたくさんあるので、僕はつまり、子どもを演じているのだ。
このことは絶対に内緒だよ。
このことは絶対に内緒だよ。