お話

日々思いついた「お話」を思いついたまま書く

朱い手袋

2020年05月20日 | 怪談 手芸部信子
 絵美はじっと自分両手を見る。指の部分以外は包帯が巻かれている。指を動かそうとすると痛みが走るのか表情が険しくなる。……もう、ピアノが弾けないのかしら…… 絵美はため息をつく。

 先月の初めに、ピアノのレッスンの帰り、いつもの公園を抜けようとして、黒いスエットの上下にサングラスとマスクをした年齢不詳の女に襲われた。押し倒されると、両方の手の甲を金属製の棒で叩かれた。思い出してもぞっとする音が両方の甲から上がった。恐怖と激痛とで泣いている絵美をそのままにして、女は去って行った。
 通りかかった人が通報してくれて救急車で病院に行った。病院には親も来た。ピアノの先生も来た。警察が色々と話を聞いてきたが、答えられるようなことは何も覚えてはいなかった。
 絵美は再来月に開催されるピアノのコンクールにエントリーしていたのだが、それを妨害するために何者かが暴挙に及んだと警察は判断した。
 手の甲は折れていた。もうピアノが弾けない、その思いで涙が止まらなかった。
 コンクールに出場できない事よりも、ピアノが弾けなくなることの方が、絵美には辛かった。

「絵美……」声をかけて来たのは、同じクラスの信子だった。手芸部の部長だけあって、いつも何か編み物をしたり刺繍をしたりしている。「手の具合はどう?」
「ああ、ありがとう……」絵美は努めて笑顔を作る。「良くなってきているわ。まだ、ちょっと痛みが残っているけど……」
「でも、さっきの様子じゃ、ちょっとの痛みって感じじゃなかったわよ」
「信子はお見通しか……」絵美は表情を曇らせる。「実は、まだまだ痛いの……」
「そう……」信子は言うと、紙袋を差し出した。「良かったら、これを使ってみて」
 絵美の代わりに信子が紙袋を開け、中から朱い手袋を取り出した。見たことの無い生地だったが光沢がある上品な感じだった。面白い作りで、手の甲は包んでいるが、指の部分が無く、穴が開いている。
「包帯よりは見栄えが良いと思って……」
 甲側に黒い糸で亀の甲羅のような模様が刺繍してあった。
「この刺繍は……?」
「回復のおまじないよ」
「ありがとう……」
「早く良くなって、また絵美のモーツァルトが聞きたいわ」
「うん、頑張るわ」

 家に帰り、絵美は信子がくれた手袋を見た。手触りも良いし、作りも良い。絵美は包帯を取って、手袋を嵌めてみた。ほんのりと温かい気がした。指を動かしてみる。痛みが軽くなっている。そして、不思議とピアノが弾きたくなった。居間に行き、ずっと閉めていた鍵盤のカバーを開けた。カバーを開ける時も痛みが無かった。椅子に腰掛け、どきどきながら鍵盤をそっと押す。痛みが無い。両手で簡単なフレーズを弾いてみた。
「痛くないわ!」
 気が付くと絵美はずっと弾き続けていた。パートから帰ってきた母親が絵美の様子に驚いていた。
「絵美ちゃん、痛みは?」母親が心配そうに言う。「聞いている分には、戻って来ているようには思うけど……」
「ええ、そうなの!」絵美は手袋を嵌めた両手を自慢げに差し上げる。「友達の信子が作ってくれたの! 全然痛くないのよ! しかも、ピアノの感覚も戻って来ているの!」
 母親は父親にも、ピアノの先生にも連絡をした。父親は会社を早退した。ピアノの先生はその日のレッスンを取り止めにして来てくれた。
「凄いわ。この調子で行けば、コンクールは間に合うわね」ピアノの先生は満足そうだ。「菊乃さんも頑張っているけど、やっぱり絵美さんの方がコンクールは可能性があるわね」

 菊乃は絵美のライバルだ。とは言え、菊乃が一方的にライバル視しているだけだった。学校も違うのでレッスンの時ぐらいしか接点が無かった。それに、実力は絵美の方が遥かに上だった。絵美がコンクールを先生の勧めで受けてみることにした際も、菊乃も是非にと食い下がってコンクールを受けることにした。二人は一次予選を通過した。あとは二次予選と本選が残っている。コンクールが近づくにつれ、絵美はめきめきと腕を上げた。菊乃は頭打ちだった。先生の指導もついつい絵美に比重が掛かってくる。当然、菊乃は面白くない。
 しかし、菊乃以上に面白くないのは菊乃の母親だった。自身が果たせなかったピアニストの夢を娘の菊乃に託している。とは言え、耳は正直だ。菊乃の母親は絵美の実力を認めざるを得なかった。

 ……邪魔者……

 菊乃の母親の心に絵美はそう映っていた。その思いは菊乃にも反映した。


  そして実行された……


 菊乃は、母親が普段はしないような格好で興奮した表情で帰って来たのを見た翌日に、絵美が襲われたことを知った。……これで絵美は終わりね。菊乃は笑った。絵美を襲った犯人は、結局、分からず仕舞いとなった。……わたしは犯人を知っているけどね。菊乃は何事も無かったように振る舞う母親を見ながら思う。


 絵美は再起不能なはずだった。それなのに……

 
 菊乃がいつものようにピアノのレッスンに行くと、とても良い演奏が聞こえていた。レッスン室のドアを開けると、絵美が弾いていた。怪我をする以前よりも上達している。朱い手袋をした両手が華麗に舞っている。曲を弾き終えると先生が拍手をする。
「絵美さん、良いわ! これなら優勝は間違いないわ!」
「ありがとうございます」絵美は答える。表情は満足そうだ。「わたし、コンクールもですけど、ピアノが弾けるようになったのが嬉しいんです」
「その手袋のお蔭かしらね?」
「そうかも知れません。信子には感謝、感謝です」
「……絵美さん……」菊乃が声をかける。「復帰できたのね……」
「あ、菊乃さん」絵美は屈託のない笑顔を菊乃に向ける。「心配かけたわね。これから、改めてよろしく!」
 菊乃の目は絵美の朱い手袋に注がれている。絵美もそれに気が付いたようだ。
「これ、クラスメイトの信子が作ってくれたのよ」絵美は自慢げに手を上げて、菊乃に見せた。「これを嵌めて弾いたら全然痛くないの! しかも、自分で言うのもなんだけど、前より上手くなったのよ!」
「そうなんだ……」菊乃は言う。「……ねえ、それ貸してくれない?」
「え?」絵美はすっと手を下ろす。「でも……」
「それだけ弾けるんなら、手袋無しでも大丈夫よ」
 絵美は先生を見る。先生はうなずく。
「そうね、いつまでも手袋ってわけにはいかないわ」先生が言う。「手袋無しで弾いてみましょうか?」
「分かりました……」
 絵美は言うと手袋を外し、サイドテーブルに置く。どす黒く腫れていた甲はすっかり治っている。絵美は何度か指を握ったり開いたりを繰り返した。
「痛みは全然ありませんね」
 絵美は言うと、改めてピアノの前に座る。精神を統一して、コンクールの自由曲を弾き始めた。闊達に、流麗に演奏が展開される。表現も申し分ない。弾き終わると、先生が手を叩いて喜んでいた。
「手袋無しで、大丈夫ね。本当、良かったわあ!」
「はい、思った通りに弾けるみたいで……」
「じゃあ、手袋、いらないわね」菊乃が言い、手袋を取り上げた。「……きっと幸運の手袋なのね。わたしもあやかりたいわ」
 菊乃は手袋を嵌めた。
「きゃあああああ!」途端に菊乃が悲鳴を上げた。「痛い、痛い、痛い!」
 菊乃は両手を突き出している。手の甲が反り返り始めた。続いていやな音が二回起こった。絵美はその音を覚えていた。……手の甲が折れた時の音! 絵美は菊乃を見た。手の甲が二つに折れ曲がっていた。指先がぴくぴくと痙攣している。菊乃は気を失い、その場に倒れてしまった。

「……なんて事があったのよ……」
 放課後、誰もいなくなった教室で、絵美が信子に話していた。信子はマフラーを編みながら絵美の話を聞いている。
「不思議な話ねぇ……」信子はマフラーから顔を上げずに言う。「それで、その菊乃さん、どうなったの?」
「指が動かなくなっちゃって…… ピアノ止めちゃったわ…… 菊乃のお母さん、『わたしのせいだ、わたしのせいだ』って、訳の分からないことを叫んでいたんだって……」絵美は信子をじっと見つめながら話す。「……ねえ、信子…… あの手袋……」
「回復のおまじないの刺繍が効いたのね」信子は顔を上げ、絵美に笑って見せた。「それ以上は、わたしには分からないわ」
「そう、そうよね…… きっと菊乃さんは無理な練習をして指を壊したのね……」
「そう言う事ね」信子は絵美の鞄を取ると絵美に差し出した。「さあ、帰って練習しなきゃ! コンクールの大事だけど、わたしの好きなモーツァルトも忘れないで練習してよ」
「分かってるわ」
 絵美は帰って行った。
 
 信子の手が止まる。
「そう…… 絵美を襲ったのは菊乃って娘と母親だったのね。『復讐の刺繍』が役に立ったってわけね……」
 信子の手が動き出し、マフラー続きを編み始める。左の口の端が少し上がった笑みを浮かべながら……

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