「最近、有紀ちゃんを見ないけど、どうしたの?」
信子は後輩で一年生の千代美に聞いた。千代美は有紀と一緒に手芸部に入部してきた中学校からの親友同士だった。入部の頃はいつも二人できて楽しそうだったが、近頃は千代美一人で来ていた。しかも、千代美の表情は暗い。
「何かあったの? 喧嘩でもしたの?」
「いえ、違います……」
「じゃあ、どうしたの?」
千代美は答えない。ずっと下を向いている。千代美の両手が制服のブレザーの裾を皺を作るほど強くつかんでいる。
「……喧嘩じゃないんなら良いわ。いずれ戻って来るって思っているわ」
信子はそう言うと、千代美の傍から離れた。
「あの…… 先輩……」
千代美が声をかけてくる。信子は優しい笑顔を千代美に向けた。
「良いわよ。話してみてくれる?」
「え?」
「千代美ちゃんの様子から、有紀ちゃんに何かがあったって分かるわよ」
「……はい…… 実は有紀、ストーカーに遭っているみたいなんです……」
有紀が気にし出したのは二か月ほど前だった。下校時に、いつも通る道にいつも同じ男がいたのだ。
大学生か社会人かは有紀には判断がつかなかったが、道路の脇の電信柱のところに立って、陰気そうな眼差しでじっと有紀を見つめていた。何かをしてくる事は無かったが薄気味が悪かった。なので、帰り道を変えた。しかし、その道にもその男が立っていた。
「そんな時にわたしが相談を受けたんです」
相談を受けた千代美は一緒に帰るようにした。帰る道すがら、ここに男が立っていたとか、あそこからじっと見ていたとか、震える声で有紀は話していた。
有紀と違い勝ち気な千代美は、何か危険な事があったら大声を出して周囲に助けを求めるつもりでいた。しかし、千代美と一緒の時にはその男は現われなかった。有紀も日に日に明るさを取り戻して行った。
そんなある朝……
有紀が家を出ると、門柱のところにその男が立っていたのだ。無表情で、まるで有紀を刺し通すようにギラギラとした眼差しを向けていた。有紀は悲鳴を上げて気を失った。その時に両親もストーカーの事を知った。それ以降、有紀は外出ができなくなった。
「そうなんだ……」
「警察もパトロールを強化してくれてるんですけど、まだ捕まらないんです」
「大変ね」
「ご両親も心配しちゃって、引っ越しも考えているようなんです」
「学校はどうなの?」
「担任の先生が家庭訪問はしているみたいですけど、詳しい事は分かりません」
「勉強も心配ね」
「そこは大丈夫です。有紀は頭が良いから、勉強は困らないんです。わたしが教わっているくらいで……」
「千代美ちゃんは遊びに行っているのね?」
「はい! わたしと居る時は明るくて普通なんだけど、部屋のカーテンは閉まっているんです……」
「怖いのね……」
「そうだと思います。見ていると、かわいそうで……」
千代美は涙を流す。信子はハンカチを取り出して千代美に渡した。千代美はすんすん泣きながら、受け取ったハンカチで目頭を拭った。
「ねえ、千代美ちゃん……」
「はい……」
「明日、有紀ちゃんのお宅に連れて行ってくれないかしら? 励ましてあげたくなったのよ」
「分かりました。有紀も手芸部の事を気にしてましたから」
「そう。……じゃあ、何かプレゼントをして元気づけなきゃね」
「はい! わたし、有紀に連絡しておきます!」
「そうだ、明日は部活の無い日だから、下校時間に校門で待ち合わせしましょう」
「分かりました!」
「よろしくね」
千代美は嬉しそうにしている。信子はそんな様子を見ながら、左の口の端が少し上がった笑みを浮かべた。
……有紀はずっと家から出て来ないじゃないか。オレがこんなに愛しているのに。オレがこんなに大事に思っているのに。有紀を見た途端、オレは運命の出会いを感じたんだ。オレと有紀は結ばれる定めなんだ。どうして有紀はそれが分からないんだ? オレを怖れるなんて、どうかしている。有紀のためにオレは全てを捧げた。大学も辞めた。オレの時間全てが有紀のためのものなんだ。それなのに、どうして家に隠れてしまったんだ? どうしてオレを見て気を失ったんだ? そんなにオレが憎いのか…… ならば、オレの命ある限り、誰にも汚される事のないオレの思いの中で、生きるが良い……
翌日の放課後、信子は千代美と並んで歩いていた。
「昨日電話したら、有紀、とっても喜んでいました」
「良かったわ」
「それで、先輩がプレゼントを持って来てくれるって言ったら、嬉し泣きをしちゃって……」
「まあ……」
「……先輩、何をプレゼントするんですか?」
「あら、知りたい?」
「そりゃあ、先輩からのプレゼントなんて興味津々ですよ」
「そう。じゃあ、見せてあげるわね」
信子は鞄と一緒に持っていた紙袋を開けた。
淡いオレンジ色の柔らかい手触りの布で作られたショルダーベルトの付いた縦長な形をしたバッグだった。クチにファスナーが付いている。
「わあ、素敵! 色も元気が出そう!」
「そう? 昨日慌てて作ったから、ちょっと雑だけど……」
「いいえ、そんな事ありません! 有紀、きっと喜びます!」
千代美は手に取ってあちこちを見ている。ファスナーを開けて、中も見た。途端に不思議のものを見たような顔を信子に向けた。
「先輩、これは?」
千代美が示したのは、バッグの内側に縫い付けてある黒いアップリケだった。
横断歩道の止まれ表示の人型に似ている。そして、からだの部分に、赤い糸がカタカナで「ユキ」と読めるように縫い付けられている。
「ああ、これ? これはね、おまじないよ。有紀ちゃんが元気になるようにって言うね」
「そうなんですか……」
「そうよ。内側に付けたのは、目立たないように助けを与えるって言う意味があるのよ」
「ああ、そう言えば、服なんかの内側にお守りを縫い付けるなんて事しますもんね」
「そうそう、それと同じ」
……あれは? 確か有紀と一緒にいた女じゃないか。オレと有紀との間を邪魔した、憎い女じゃないか。千代美とか有紀が呼んでいたな。オレに見せた事の無い笑顔をあんな女に見せやがって! それと、一緒にいるのは誰だ? あの手にしているのは何だ? ……有紀へのプレゼントだと? ふん、有紀のものはオレのものだ。
信子と千代美の背後に走る足音がした。二人が振り返ると、千代美の手からショルダーバッグをひったくると走り去った。突然の出来事に千代美は座り込んで泣き出した。勝ち気だとは言え、いざとなると取り乱すものだ。近所から人が出てきた。信子は千代美の背を擦っている。しばらくするとパトカーが来た。近所の人が呼んだのだろう。
泣きじゃくる千代美を慰めながら信子が警察官と話をする。
「いきなりだったので顔を見ていません。雰囲気は若そうでした。わたしの作った淡いオレンジ色の生地で作ったショルダーバッグをひったくって逃げて行きました。この娘の友人の有紀ちゃんの家へ行く途中でした。ストーカーの被害に遭っていて、家から出られなくなっているので、それをプレゼントして励まそうと持って向かっていたんです」
一通り話すと、信子と千代美はパトカーで家まで送られた。泣きじゃくる千代美の背を撫でながら、信子は左の口の端が少し上がった笑みを浮かべていた。
……これが有紀へのプレゼントか…… これを有紀が肩から掛けて、あの可愛い笑顔を見せながら、オレと一緒に、オレと一緒に、デートをするんだな。この中には何が入るんだろうな。オレが買って、まだ渡していない化粧道具かな? それともハンカチかな? ……いや、この下着だな。これを着けた有紀を早く見たいものだな。……何だ、バッグの中のこれは? 「ユキ」って縫い付けてあるけど? ははは、有紀の事か。これを有紀だと思って寝れば、良い夢が見られそうだ。……有紀、おやすみ……
安アパートの一室で男は寝ている。枕元にバッグが横倒しに置かれている。クチのファスナーは開いたままになっている。
バッグが急に何かが入っているかのように膨らんだ。しばらくするとバッグのの中からゆるゆると伸びて出てきたものがあった。それは黒い右手だった。手はさらに伸び、二の腕までが露わになった。それから黒い左腕が出てきた。両腕は這い出す様に動く。続いて頭らしきものが出てきた。それは黒い影のようで目鼻口は見えなかった。更に胴体が、足が続く。全身をバッグから出すと立ち上がった。
それは全身が黒い長身の人物のようだった。鼾をかいている寝ている男を黙って見下ろしている。しゃがみ込むと男の頬を伸ばした指先で触れた。
「わっ!」
男は飛び起きた。それが目に飛び込んでくる。
「何だ、お前は!」
男は怒鳴る。相手は何も言わない。男は枕を振り回した。相手に当たっているはずなのだが、空を切っているだけで全く手応えが無い。
「何だ、何なんだあ!」
男は飛び起きると玄関へ走った。震える手で鍵を開け外に出た。黒いそれは出て行く男を見ながらゆっくりと立ち上がった。
アパートを出た男は走った。近所の公園に来た。息を切らしながら立ち止まり、恐る恐ると言った態で後ろを見る。何も居ない。ほっとして前を見る。街灯を背から受け、すっかりとシルエットになっているそれが、少し先に立っていた。ゆっくりと男の方へ歩いてくる。男は悲鳴を上げながら走りだした。
公園を抜け、四つ角を曲がる。男はそこでも悲鳴を上げた。曲がったすぐの所にそれが立っていたからだ。男は自棄気味に叫ぶとそれに突進した。しかし、何の手応えも無かった。振り返るとそれが立っていた。通り抜けてしまったようだった。それはゆっくりと男の方へと歩いてくる。男はまた悲鳴を上げて走った。
途中で通行人にぶつかった。罵られながら突き飛ばされ座り込んだ。その通行人を見ながら男は悲鳴を上げた。通行人の背後にそれが立っていたからだ。男はよろよろと立ち上がると走り出した。通行人は呆れた顔で男の後ろ姿を見ていた。
「何だ、何だ、何なんだあ!」
男は走る。左右を見る。見る先々にそれが立っていた。いや、そう見えるだけかもしれない。男は悲鳴を上げながら走る。
路地に入る。路地の先にそれが立っている。男は慌てて踵を返して走る。路地を出て左右を見る。左側にそれが立っていた。男は右に走り出す。涙を流し涎も流している。
前方にそれが見えた。男は悲鳴を上げながら右に曲がった。
男の記憶はそこまでだった。
赤信号で飛び出したのだ。男は大型トラックに撥ねられた。
翌日の部活の時間、千代美と信子がひそひそと話をしている。
「先輩、聞きました?」
「ええ、聞いたわよ」
「トラックに撥ねられた男の人が、有紀のストーカーだったって……」
「その人のアパートに、わたしのショルダーバッグがあったって警察から知らせがあったわ」
「うわあ…… 有紀の写真を壁中に貼ってあったとも聞きました。怖い話ですね……」
「見つかったショルダーバッグは薄気味悪いから処分をしてもらう事にしたわ。新しいのを作ろうと思うの」
「それが良いと思います。そうだ、わたしも何か作ろうかな?」
「それが良いわ」
「でも、これでもう安心です! 有紀にも連絡しました。近々学校に出て来ると思います!」
「そうね、楽しみだわ」
千代美は一礼すると自分の席に戻って行った。
「……ふふふ、とことん追いつめる『人影縫い』は強力よね。バッグをひったくられなかったら、別の方法も考えていたんだけど、結果としては良かったわ。でも、トラックに撥ねられたのは予想外だったわ。……まあ、同情はしないけどね」
信子はハンカチに刺繍をしながら呟いた。左の口の端が少し上がった笑みを浮かべながら。
信子は後輩で一年生の千代美に聞いた。千代美は有紀と一緒に手芸部に入部してきた中学校からの親友同士だった。入部の頃はいつも二人できて楽しそうだったが、近頃は千代美一人で来ていた。しかも、千代美の表情は暗い。
「何かあったの? 喧嘩でもしたの?」
「いえ、違います……」
「じゃあ、どうしたの?」
千代美は答えない。ずっと下を向いている。千代美の両手が制服のブレザーの裾を皺を作るほど強くつかんでいる。
「……喧嘩じゃないんなら良いわ。いずれ戻って来るって思っているわ」
信子はそう言うと、千代美の傍から離れた。
「あの…… 先輩……」
千代美が声をかけてくる。信子は優しい笑顔を千代美に向けた。
「良いわよ。話してみてくれる?」
「え?」
「千代美ちゃんの様子から、有紀ちゃんに何かがあったって分かるわよ」
「……はい…… 実は有紀、ストーカーに遭っているみたいなんです……」
有紀が気にし出したのは二か月ほど前だった。下校時に、いつも通る道にいつも同じ男がいたのだ。
大学生か社会人かは有紀には判断がつかなかったが、道路の脇の電信柱のところに立って、陰気そうな眼差しでじっと有紀を見つめていた。何かをしてくる事は無かったが薄気味が悪かった。なので、帰り道を変えた。しかし、その道にもその男が立っていた。
「そんな時にわたしが相談を受けたんです」
相談を受けた千代美は一緒に帰るようにした。帰る道すがら、ここに男が立っていたとか、あそこからじっと見ていたとか、震える声で有紀は話していた。
有紀と違い勝ち気な千代美は、何か危険な事があったら大声を出して周囲に助けを求めるつもりでいた。しかし、千代美と一緒の時にはその男は現われなかった。有紀も日に日に明るさを取り戻して行った。
そんなある朝……
有紀が家を出ると、門柱のところにその男が立っていたのだ。無表情で、まるで有紀を刺し通すようにギラギラとした眼差しを向けていた。有紀は悲鳴を上げて気を失った。その時に両親もストーカーの事を知った。それ以降、有紀は外出ができなくなった。
「そうなんだ……」
「警察もパトロールを強化してくれてるんですけど、まだ捕まらないんです」
「大変ね」
「ご両親も心配しちゃって、引っ越しも考えているようなんです」
「学校はどうなの?」
「担任の先生が家庭訪問はしているみたいですけど、詳しい事は分かりません」
「勉強も心配ね」
「そこは大丈夫です。有紀は頭が良いから、勉強は困らないんです。わたしが教わっているくらいで……」
「千代美ちゃんは遊びに行っているのね?」
「はい! わたしと居る時は明るくて普通なんだけど、部屋のカーテンは閉まっているんです……」
「怖いのね……」
「そうだと思います。見ていると、かわいそうで……」
千代美は涙を流す。信子はハンカチを取り出して千代美に渡した。千代美はすんすん泣きながら、受け取ったハンカチで目頭を拭った。
「ねえ、千代美ちゃん……」
「はい……」
「明日、有紀ちゃんのお宅に連れて行ってくれないかしら? 励ましてあげたくなったのよ」
「分かりました。有紀も手芸部の事を気にしてましたから」
「そう。……じゃあ、何かプレゼントをして元気づけなきゃね」
「はい! わたし、有紀に連絡しておきます!」
「そうだ、明日は部活の無い日だから、下校時間に校門で待ち合わせしましょう」
「分かりました!」
「よろしくね」
千代美は嬉しそうにしている。信子はそんな様子を見ながら、左の口の端が少し上がった笑みを浮かべた。
……有紀はずっと家から出て来ないじゃないか。オレがこんなに愛しているのに。オレがこんなに大事に思っているのに。有紀を見た途端、オレは運命の出会いを感じたんだ。オレと有紀は結ばれる定めなんだ。どうして有紀はそれが分からないんだ? オレを怖れるなんて、どうかしている。有紀のためにオレは全てを捧げた。大学も辞めた。オレの時間全てが有紀のためのものなんだ。それなのに、どうして家に隠れてしまったんだ? どうしてオレを見て気を失ったんだ? そんなにオレが憎いのか…… ならば、オレの命ある限り、誰にも汚される事のないオレの思いの中で、生きるが良い……
翌日の放課後、信子は千代美と並んで歩いていた。
「昨日電話したら、有紀、とっても喜んでいました」
「良かったわ」
「それで、先輩がプレゼントを持って来てくれるって言ったら、嬉し泣きをしちゃって……」
「まあ……」
「……先輩、何をプレゼントするんですか?」
「あら、知りたい?」
「そりゃあ、先輩からのプレゼントなんて興味津々ですよ」
「そう。じゃあ、見せてあげるわね」
信子は鞄と一緒に持っていた紙袋を開けた。
淡いオレンジ色の柔らかい手触りの布で作られたショルダーベルトの付いた縦長な形をしたバッグだった。クチにファスナーが付いている。
「わあ、素敵! 色も元気が出そう!」
「そう? 昨日慌てて作ったから、ちょっと雑だけど……」
「いいえ、そんな事ありません! 有紀、きっと喜びます!」
千代美は手に取ってあちこちを見ている。ファスナーを開けて、中も見た。途端に不思議のものを見たような顔を信子に向けた。
「先輩、これは?」
千代美が示したのは、バッグの内側に縫い付けてある黒いアップリケだった。
横断歩道の止まれ表示の人型に似ている。そして、からだの部分に、赤い糸がカタカナで「ユキ」と読めるように縫い付けられている。
「ああ、これ? これはね、おまじないよ。有紀ちゃんが元気になるようにって言うね」
「そうなんですか……」
「そうよ。内側に付けたのは、目立たないように助けを与えるって言う意味があるのよ」
「ああ、そう言えば、服なんかの内側にお守りを縫い付けるなんて事しますもんね」
「そうそう、それと同じ」
……あれは? 確か有紀と一緒にいた女じゃないか。オレと有紀との間を邪魔した、憎い女じゃないか。千代美とか有紀が呼んでいたな。オレに見せた事の無い笑顔をあんな女に見せやがって! それと、一緒にいるのは誰だ? あの手にしているのは何だ? ……有紀へのプレゼントだと? ふん、有紀のものはオレのものだ。
信子と千代美の背後に走る足音がした。二人が振り返ると、千代美の手からショルダーバッグをひったくると走り去った。突然の出来事に千代美は座り込んで泣き出した。勝ち気だとは言え、いざとなると取り乱すものだ。近所から人が出てきた。信子は千代美の背を擦っている。しばらくするとパトカーが来た。近所の人が呼んだのだろう。
泣きじゃくる千代美を慰めながら信子が警察官と話をする。
「いきなりだったので顔を見ていません。雰囲気は若そうでした。わたしの作った淡いオレンジ色の生地で作ったショルダーバッグをひったくって逃げて行きました。この娘の友人の有紀ちゃんの家へ行く途中でした。ストーカーの被害に遭っていて、家から出られなくなっているので、それをプレゼントして励まそうと持って向かっていたんです」
一通り話すと、信子と千代美はパトカーで家まで送られた。泣きじゃくる千代美の背を撫でながら、信子は左の口の端が少し上がった笑みを浮かべていた。
……これが有紀へのプレゼントか…… これを有紀が肩から掛けて、あの可愛い笑顔を見せながら、オレと一緒に、オレと一緒に、デートをするんだな。この中には何が入るんだろうな。オレが買って、まだ渡していない化粧道具かな? それともハンカチかな? ……いや、この下着だな。これを着けた有紀を早く見たいものだな。……何だ、バッグの中のこれは? 「ユキ」って縫い付けてあるけど? ははは、有紀の事か。これを有紀だと思って寝れば、良い夢が見られそうだ。……有紀、おやすみ……
安アパートの一室で男は寝ている。枕元にバッグが横倒しに置かれている。クチのファスナーは開いたままになっている。
バッグが急に何かが入っているかのように膨らんだ。しばらくするとバッグのの中からゆるゆると伸びて出てきたものがあった。それは黒い右手だった。手はさらに伸び、二の腕までが露わになった。それから黒い左腕が出てきた。両腕は這い出す様に動く。続いて頭らしきものが出てきた。それは黒い影のようで目鼻口は見えなかった。更に胴体が、足が続く。全身をバッグから出すと立ち上がった。
それは全身が黒い長身の人物のようだった。鼾をかいている寝ている男を黙って見下ろしている。しゃがみ込むと男の頬を伸ばした指先で触れた。
「わっ!」
男は飛び起きた。それが目に飛び込んでくる。
「何だ、お前は!」
男は怒鳴る。相手は何も言わない。男は枕を振り回した。相手に当たっているはずなのだが、空を切っているだけで全く手応えが無い。
「何だ、何なんだあ!」
男は飛び起きると玄関へ走った。震える手で鍵を開け外に出た。黒いそれは出て行く男を見ながらゆっくりと立ち上がった。
アパートを出た男は走った。近所の公園に来た。息を切らしながら立ち止まり、恐る恐ると言った態で後ろを見る。何も居ない。ほっとして前を見る。街灯を背から受け、すっかりとシルエットになっているそれが、少し先に立っていた。ゆっくりと男の方へ歩いてくる。男は悲鳴を上げながら走りだした。
公園を抜け、四つ角を曲がる。男はそこでも悲鳴を上げた。曲がったすぐの所にそれが立っていたからだ。男は自棄気味に叫ぶとそれに突進した。しかし、何の手応えも無かった。振り返るとそれが立っていた。通り抜けてしまったようだった。それはゆっくりと男の方へと歩いてくる。男はまた悲鳴を上げて走った。
途中で通行人にぶつかった。罵られながら突き飛ばされ座り込んだ。その通行人を見ながら男は悲鳴を上げた。通行人の背後にそれが立っていたからだ。男はよろよろと立ち上がると走り出した。通行人は呆れた顔で男の後ろ姿を見ていた。
「何だ、何だ、何なんだあ!」
男は走る。左右を見る。見る先々にそれが立っていた。いや、そう見えるだけかもしれない。男は悲鳴を上げながら走る。
路地に入る。路地の先にそれが立っている。男は慌てて踵を返して走る。路地を出て左右を見る。左側にそれが立っていた。男は右に走り出す。涙を流し涎も流している。
前方にそれが見えた。男は悲鳴を上げながら右に曲がった。
男の記憶はそこまでだった。
赤信号で飛び出したのだ。男は大型トラックに撥ねられた。
翌日の部活の時間、千代美と信子がひそひそと話をしている。
「先輩、聞きました?」
「ええ、聞いたわよ」
「トラックに撥ねられた男の人が、有紀のストーカーだったって……」
「その人のアパートに、わたしのショルダーバッグがあったって警察から知らせがあったわ」
「うわあ…… 有紀の写真を壁中に貼ってあったとも聞きました。怖い話ですね……」
「見つかったショルダーバッグは薄気味悪いから処分をしてもらう事にしたわ。新しいのを作ろうと思うの」
「それが良いと思います。そうだ、わたしも何か作ろうかな?」
「それが良いわ」
「でも、これでもう安心です! 有紀にも連絡しました。近々学校に出て来ると思います!」
「そうね、楽しみだわ」
千代美は一礼すると自分の席に戻って行った。
「……ふふふ、とことん追いつめる『人影縫い』は強力よね。バッグをひったくられなかったら、別の方法も考えていたんだけど、結果としては良かったわ。でも、トラックに撥ねられたのは予想外だったわ。……まあ、同情はしないけどね」
信子はハンカチに刺繍をしながら呟いた。左の口の端が少し上がった笑みを浮かべながら。
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