「いやいや、ありがとうごぜぇます……」
そう言いながら調理場から出てきたのは白髪頭の老人だった。老人は、みつに向かって深々と頭を下げた。右手にはもりそばの乗った器を左手には汁の入った椀とを手にしている。
「あいつら、毎日来ちゃあ、酒ばっかり飲んでさ、それでお代も払わないで帰っちまうんだ」老人の後ろから、赤い頬のおてるが、同じくもりそばの器と汁の椀とを手に現われた。「でも、お侍さん、強いんだね!」
「こら、おてる! お侍は男に使う言葉だ!」老人がおてるをたしなめ、申し訳なさそうな顔をみつに向ける。「すんません、何しろ学のねぇ小娘でして……」
「いえ、それは気にしてはいません。わたしを知る者は『女侍』と言いますので」みつは答え、頭を下げる。「……わたしは荒木田みつと申します」
「もったいねぇ! 頭をお上げくだせぇやし」老人は慌てて言う。「こんな老いぼれに、おやめ下せぇ!」
「太助のおじじがえばるのは、あたいにだけだもんな」おてるは言うと笑う。太助は叱るようにおてるを睨むが、おてるは平気な顔をしている。いつもの事なのだろう。「……それにしても、おみつさんは本当に強いんだな」
「こら、荒木田様と申し上げろ!」太助はさらにおてるを叱る。「そんなんだから、誰も構ってくれねぇんだぞ!」
「おじじが毎日店を手伝わせるから、遊ぶ暇がねぇだけだ!」
「まあまあ……」みつは二人を制する。「とにかく、お蕎麦を頂きましょうか」
「おっと、そうでやした」
太助はみつの横に蕎麦の器と汁の椀とを置いた。それに並べるようにおてるも器と椀とを置く。
「あっしらのお礼の気持ちでやす。お口に合うか分かんねぇけど、召し上がって下せぇ」
もりそば二枚はさすがに多い。しかも、それぞれが、うず高く盛られている。しかし、みつは頭を下げた。
「そうですか、では頂きましょう」みつは椀を手にすると、箸で蕎麦を一口分を摘まみ、椀の汁にさっと浸して啜った。ぱっと顔が明るくなる。「美味い! 江戸でもこれほどの蕎麦は食べた事がありません!」
みつの言葉に嬉しそうにしながら太助は調理場へと戻って行った。おてるは、親しく話す相手がいないせいなのか、みつの前に立ったままで宿場の話を始めた。
この宿場は元々、松吉と竹蔵の二つの勢力で仕切っていた。この二人はこの宿場生まれで、子供の頃からワルだった。二人は仲が悪く、少しでも自分を優位にしようと躍起になっていたそうだ。それが高じて、それぞれが一家を構える事になった。
「……でもね、二人とも馬鹿だから、集まるヤツらも馬鹿ばっかり」おてるはうんざりした顔で言う。「頭が悪くて乱暴だから、みんな困っているの。おかげで、悪い噂が立っちゃって、旅人さんたちは誰もが素通りするようになっちまってさ」
「そうだったのか……」みつは答える。「じゃあ、ここに来る者は、そんな事を知らぬ、わたしの様な者だけだな」
「そうなんだけど(「これ、おてる、失礼な事を言うんじゃねぇ!」調理場から太助の叱る声が飛ぶ。しかし、おてるは平気だった)、何も知らずにこの宿場へ来ても、あいつらを見ると立ち去って行くんだ。そりゃそうだよね、見るからに乱暴そうだから、何かされるんじゃないかって思うもんね」
事ある毎に松吉と竹蔵は小競り合いを繰り返していた。そうしているうちに、梅之助の一家が進出してきた。
「三年前くらいかなぁ、梅之助とさっきの文吉、その他これも乱暴そうなヤツらがやって来てさ、居付いちまったんだ」
「どうしてそうなったんだ?」
「噂じゃ、前の縄張りを奪い取られて、流れ渡っていたんだってさ。そして、ここに来てみたら、馬鹿そうなのが一家を張っている。こりゃあ、オレ様が奪い取ってやろうっと思ったそうなんだ」おてるは言うと、ぷっと吹き出した。「でもさ、梅之助も松吉と竹蔵に負けず劣らずの馬鹿でさ、何時まで経っても奪い取る事が出来ずなんだ」
「それじゃ、この宿場には、三つの一家があると言う事なのだな?」
「そうそう。こんな狭い田舎の宿場町なのにさ。他の宿場じゃ『松竹梅の三馬鹿』って言われているらしいよ」
「他の宿場では笑い話でも、ここの者たちには迷惑な話だな……」
みつは、おてるの置いたもりそばに手を伸ばす。
「そうそう、最近松吉の所で用心棒を雇ったんだってさ。それもお侍だって」
「ほう……」みつの手が止まる。「侍が……」
「まあ、浪人って言うのかな? 薄汚い格好だけどさ、腕は立つんだって」おてるはまたぷっと笑う。「そうしたらさ、竹蔵も梅之助も浪人を雇ったんだよ。馬鹿だよね、高い銭払って雇ってんだってさ。互いに本気で喧嘩をするわけじゃないのにね」
「でも、用心棒のお蔭で喧嘩が起きていないと言う事も考えられるだろう?」
「そうなんだけど、そのせいで、あいつらあたいらに好き放題しやがるんだ。『逆らうと、うちの先生が黙っていねぇぞ』って脅すんだ」
「それはいけないな……」みつは箸を置く。器は二つとも空になっていた。「……さて、おてるさん、この宿場の旅籠に案内してくれないか?」
「うわっ、やだあ! おてるさんだってぇ!」おてるは赤い頬をさらに赤くして大きな声を出した。「おじじ、聞いたかい? おてるさんだってさあ!」
さん付けで呼ばれたのがよっぽど嬉しかったようだ。
「やかましいぞ、おてる!」太助が調理場から出てきた。それからみつに頭を下げた。「どうにも、躾のなってねぇガキでやして…… 両親とも早くに亡くし、こんなじじいが育てたもんで……」
「いいえ、お気になさらず」みつは、はしゃぐおてるを優しく見つめている。「それで、宿はどこですか?」
「実は、宿は潰れておりやして……」太助が申し訳なさそうに言う。「客が全く来ねぇもんで……」
「そうですか…… それは困りました」
「じゃあさ、この店の二階に泊まりなよ」おてるが割って入って来た。「あたいとおじじで寝起きしているだけだからさ。使っていない部屋がまだあるし」
「こら、おてる! こんな汚ねぇ所にお泊めするわけにはいかんだろうが!」
「じゃあ、どこがあるってんだよ?」
「そりゃ、おめぇ……」
「二階ではなく、ここで結構ですので、お願いいたします」
みつは太助に頭を下げる。
「こんな汚ねぇところ、いけやせん!」太助は慌てる。「そうだ、ちょいと離れていやすが、知り合いの伝二の家にめぇりやしょう。あそこなら、広い家だからゆっくりと出来ましょう」
「いえ、ここで結構です」みつは言うと、太刀に手を伸ばした。「先程の連中が戻って来て、腹いせに暴れるかもしれません。わたしがここの用心棒を致しましょう」
つづく
そう言いながら調理場から出てきたのは白髪頭の老人だった。老人は、みつに向かって深々と頭を下げた。右手にはもりそばの乗った器を左手には汁の入った椀とを手にしている。
「あいつら、毎日来ちゃあ、酒ばっかり飲んでさ、それでお代も払わないで帰っちまうんだ」老人の後ろから、赤い頬のおてるが、同じくもりそばの器と汁の椀とを手に現われた。「でも、お侍さん、強いんだね!」
「こら、おてる! お侍は男に使う言葉だ!」老人がおてるをたしなめ、申し訳なさそうな顔をみつに向ける。「すんません、何しろ学のねぇ小娘でして……」
「いえ、それは気にしてはいません。わたしを知る者は『女侍』と言いますので」みつは答え、頭を下げる。「……わたしは荒木田みつと申します」
「もったいねぇ! 頭をお上げくだせぇやし」老人は慌てて言う。「こんな老いぼれに、おやめ下せぇ!」
「太助のおじじがえばるのは、あたいにだけだもんな」おてるは言うと笑う。太助は叱るようにおてるを睨むが、おてるは平気な顔をしている。いつもの事なのだろう。「……それにしても、おみつさんは本当に強いんだな」
「こら、荒木田様と申し上げろ!」太助はさらにおてるを叱る。「そんなんだから、誰も構ってくれねぇんだぞ!」
「おじじが毎日店を手伝わせるから、遊ぶ暇がねぇだけだ!」
「まあまあ……」みつは二人を制する。「とにかく、お蕎麦を頂きましょうか」
「おっと、そうでやした」
太助はみつの横に蕎麦の器と汁の椀とを置いた。それに並べるようにおてるも器と椀とを置く。
「あっしらのお礼の気持ちでやす。お口に合うか分かんねぇけど、召し上がって下せぇ」
もりそば二枚はさすがに多い。しかも、それぞれが、うず高く盛られている。しかし、みつは頭を下げた。
「そうですか、では頂きましょう」みつは椀を手にすると、箸で蕎麦を一口分を摘まみ、椀の汁にさっと浸して啜った。ぱっと顔が明るくなる。「美味い! 江戸でもこれほどの蕎麦は食べた事がありません!」
みつの言葉に嬉しそうにしながら太助は調理場へと戻って行った。おてるは、親しく話す相手がいないせいなのか、みつの前に立ったままで宿場の話を始めた。
この宿場は元々、松吉と竹蔵の二つの勢力で仕切っていた。この二人はこの宿場生まれで、子供の頃からワルだった。二人は仲が悪く、少しでも自分を優位にしようと躍起になっていたそうだ。それが高じて、それぞれが一家を構える事になった。
「……でもね、二人とも馬鹿だから、集まるヤツらも馬鹿ばっかり」おてるはうんざりした顔で言う。「頭が悪くて乱暴だから、みんな困っているの。おかげで、悪い噂が立っちゃって、旅人さんたちは誰もが素通りするようになっちまってさ」
「そうだったのか……」みつは答える。「じゃあ、ここに来る者は、そんな事を知らぬ、わたしの様な者だけだな」
「そうなんだけど(「これ、おてる、失礼な事を言うんじゃねぇ!」調理場から太助の叱る声が飛ぶ。しかし、おてるは平気だった)、何も知らずにこの宿場へ来ても、あいつらを見ると立ち去って行くんだ。そりゃそうだよね、見るからに乱暴そうだから、何かされるんじゃないかって思うもんね」
事ある毎に松吉と竹蔵は小競り合いを繰り返していた。そうしているうちに、梅之助の一家が進出してきた。
「三年前くらいかなぁ、梅之助とさっきの文吉、その他これも乱暴そうなヤツらがやって来てさ、居付いちまったんだ」
「どうしてそうなったんだ?」
「噂じゃ、前の縄張りを奪い取られて、流れ渡っていたんだってさ。そして、ここに来てみたら、馬鹿そうなのが一家を張っている。こりゃあ、オレ様が奪い取ってやろうっと思ったそうなんだ」おてるは言うと、ぷっと吹き出した。「でもさ、梅之助も松吉と竹蔵に負けず劣らずの馬鹿でさ、何時まで経っても奪い取る事が出来ずなんだ」
「それじゃ、この宿場には、三つの一家があると言う事なのだな?」
「そうそう。こんな狭い田舎の宿場町なのにさ。他の宿場じゃ『松竹梅の三馬鹿』って言われているらしいよ」
「他の宿場では笑い話でも、ここの者たちには迷惑な話だな……」
みつは、おてるの置いたもりそばに手を伸ばす。
「そうそう、最近松吉の所で用心棒を雇ったんだってさ。それもお侍だって」
「ほう……」みつの手が止まる。「侍が……」
「まあ、浪人って言うのかな? 薄汚い格好だけどさ、腕は立つんだって」おてるはまたぷっと笑う。「そうしたらさ、竹蔵も梅之助も浪人を雇ったんだよ。馬鹿だよね、高い銭払って雇ってんだってさ。互いに本気で喧嘩をするわけじゃないのにね」
「でも、用心棒のお蔭で喧嘩が起きていないと言う事も考えられるだろう?」
「そうなんだけど、そのせいで、あいつらあたいらに好き放題しやがるんだ。『逆らうと、うちの先生が黙っていねぇぞ』って脅すんだ」
「それはいけないな……」みつは箸を置く。器は二つとも空になっていた。「……さて、おてるさん、この宿場の旅籠に案内してくれないか?」
「うわっ、やだあ! おてるさんだってぇ!」おてるは赤い頬をさらに赤くして大きな声を出した。「おじじ、聞いたかい? おてるさんだってさあ!」
さん付けで呼ばれたのがよっぽど嬉しかったようだ。
「やかましいぞ、おてる!」太助が調理場から出てきた。それからみつに頭を下げた。「どうにも、躾のなってねぇガキでやして…… 両親とも早くに亡くし、こんなじじいが育てたもんで……」
「いいえ、お気になさらず」みつは、はしゃぐおてるを優しく見つめている。「それで、宿はどこですか?」
「実は、宿は潰れておりやして……」太助が申し訳なさそうに言う。「客が全く来ねぇもんで……」
「そうですか…… それは困りました」
「じゃあさ、この店の二階に泊まりなよ」おてるが割って入って来た。「あたいとおじじで寝起きしているだけだからさ。使っていない部屋がまだあるし」
「こら、おてる! こんな汚ねぇ所にお泊めするわけにはいかんだろうが!」
「じゃあ、どこがあるってんだよ?」
「そりゃ、おめぇ……」
「二階ではなく、ここで結構ですので、お願いいたします」
みつは太助に頭を下げる。
「こんな汚ねぇところ、いけやせん!」太助は慌てる。「そうだ、ちょいと離れていやすが、知り合いの伝二の家にめぇりやしょう。あそこなら、広い家だからゆっくりと出来ましょう」
「いえ、ここで結構です」みつは言うと、太刀に手を伸ばした。「先程の連中が戻って来て、腹いせに暴れるかもしれません。わたしがここの用心棒を致しましょう」
つづく
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