2025/01/04 sta
前回の章
「オーバーワーク気味じゃないですか?」
「少しは休みましょうよ、頑張り過ぎです」
最近みんなから、そんな気遣う声がよく掛かる。
頑張り過ぎ?
本を出して試合に出てから約三年以上過ぎた。
じゃあその間、俺は何をしていた?
小説は書いていたものの、支離滅裂な行動に陥り、被害妄想にも駆られ、何の努力もせずに、俺はただイジけていただけだ。
考えて行き詰ったら、おそらくそこが自身の限界。
だからそれ以上考えたってしょうがない。
それよりもまず動く事から始めよう。
それから徐々にではあるが、コンディションが良くなっていく事を感じられるようになれた。
自身を悩ませるようなマイナスの類の物事からは、自然と考えず関わらないスタンスを取るようになり、ようやく本来の自分というものを取り戻していけた気がする。
孤独な中のひっそりとした自室でのトレーニング。
そんな環境の中、日に日に体内の細胞が歓喜の悲鳴を上げる声を感じた。
あの頃から約十年間……。
俺は何も努力などせずに、ピアノや小説、パソコンなどを始めだし、今まで現実逃避してきた。
ずっと後悔していた。
あんなに鍛えてきたのに、俺は一体何をしていたんだって……。
約三年前の試合では、何の準備もせずに負けて、周囲からは嘲笑を浴び、以来俺はずっといじけていたのかもしれない。
これだけ時間が経ったのに…、まだ悔しがる自分がいる。
ちゃんとコンディションさえ取り戻していれば、俺ってもっと全然強いはずじゃねえかよって……。
周りから見れば、ただの言い訳に過ぎない。
女々しい性格だなって自分でも自覚している。
なら、もっともっと自身を追い詰めて、あの頃の…、いやそれ以上の自分を作り上げよう。
ズボンまでびっしょりになって汗掻いて、でもどんどん調子がまた良くなってパワーアップしている自分が今いる。
本当にその準備ができたら、幼い子供たちへ夢や希望を与えられるような闘い…、それをしてみたい。
本当はこんな言葉も文章も何も必要はないんだ。
自身の身体で周囲に証明させればいいだけ。
さて、今日もまた一日頑張ろうじゃないか。
『頑張り過ぎ』なんてそんなものは無い。
今日はジム初日。
昨日の昼十一時頃からずっと起きっ放しで行ったので、さすがに眠い。
主にウエイトトレーニング中心に始める。
トレーニング中、トレーナーのメガネを掛けた女の子が「すごいですね~、重りマックスでやっている人初めて見ました」と声を掛けてきたので、他愛ない世間話をした。
う~ん、やっぱ自分のトレーニング室にはない設備が色々あるので、非常にいいものである。
シャワーのあとジャグジーに入り、体重計に乗ると、八十八キロ。
ゲッ…、食う量を二、三倍に増やしているのに体重減ってんじゃん……。
最低でもあと八キロは増量するようにしないとね。
そんな訳で帰り道中華料理屋に入ったあと、八百屋で茄子とジャガイモを購入。
昨日水を一滴も使わないレッドソースカレーと大根の味噌煮込みを作ったので、今日は茄子の味噌炒めにポテトサラダを作ろうではないか。
近所のコロボックル真紀美に連絡をしてレッドソースカレーを食べるか聞いてみる。
彼女は食べたいというので届けた。
祭りの着物を和裁で直してくれた恩があるので、どうも俺は真紀美に弱い。
休みの日はジムへ行ってひたすら鍛え、家でもひたすらベンチプレス。
そのあとは街をブラブラと、目的も無くひたすら歩く。
とにかく身体を動かしていたいのだ。
食べて運動して、また食べて……。
若かりし頃のあの感覚をもう一度。
最近酒も飲まなくなった。
小説も書かなくなった。
ただ身体を研ぎ澄ます。
「あ、智一郎だ!」
蓼沼さんと落合さんに遭遇する。
親父の弟である修叔父さんの親友。
いつもこの人たちは飲み歩いているよな……。
「おら、智一郎。飲みに付き合え」
また強制的にキャバクラへ連れて行かれる。
前回と同じく『クラブ蓮』へ。
蓼沼さんたちはお気に入りのキャバ嬢を指名して、ワイワイ騒ぐ。
俺は適度に会話を合わせつつ酒を嗜む。
二人目の女がついた時だった。
「岩上さん…、お久しぶりです」
「あ、君は……」
前回も俺についた福田真奈美。
源氏名は美咲、二十六歳。
とても美人な子である。
小学高学年の時週刊少年ジャンプで連載していた小谷憲一の『スキャンドール』の若菜里香をイメージさせるような外見。
前回は格好つけて断った。
福田真奈美はまた連絡先を書いた紙を渡してくる。
「君は二十六歳だろ? 俺は三十九だけど、九月で四十になる。こんな金の無いオヤジなど相手にしないで、もっと若くて格好いい人を選んだほうがいいよ」
そうアドバイスをすると、彼女は怒ったような表情になった。
「こういうお店で知り合ったから、営業だと思ったんですか? 私…、それなりに真剣に伝えているつもりなんですけど……」
「いや、君のような美人に迫られて嫌な男はいないと思うよ。ただね、年だって離れている。一緒にいる蓼沼さんとかは確かに金を持っているけど、俺なんて本当にどうしょうもないんだよ。君をがっかりさせたくないんだ」
正直に飾らず自分の現状を伝えた。
それでも真奈美はプライベートで会いたいと言ってくる。
百合子と別れ、本気になったのは品川春美…、そして望だけだった。
春美は結婚し、望は新たな生活を選んだ。
だからこれ以上俺は一人で生きて行くつもりだった。
過去に飲み屋の女とは色々遊んだ。
例外は妹代わりに可愛がったミサキのみ。
顔だけでいえば春美やミサキに匹敵する。
でも無駄な期待はしない。
佐川急便で働く俺。
それ以上でもそれ以下でもないのだ。
「本当に君は俺を買い被っているだけだって。いつも食事だって、自分で弁当を作って持って行ってるぐらいなんだから」
蓼沼さんのように大きな会社を持ち、キャバクラでも優雅に遊べる身分と俺はまったく違う。
真奈美が俺に何を期待しているのか分からない。
だから過度な期待など持たせないよう事実のみを話す。
「え、岩上さんって料理もされるんですか? 素晴らしいですね!」
料理というキーワードに食いつく真奈美。
彼女の話を聞くと、フードコーディネーターの資格を取ろうとしているようだ。
口説く口説かないでなく、純粋に料理の会話を楽しむ。
「岩上さんの料理、一度食べてみたいです」
帰り際に言われた台詞。
俺は彼女と連絡先を交換する事にした。
ストイックに過ごすだけだった日常に、福田真奈美という異性からの連絡。
あれほどの美人である。
悪い気はしない。
何度も料理を食べたいというので、凝った弁当を作ってみた。
■お献立■
●レッドソースカレー
●茄子の味噌炒め
●ほうれん草の胡麻和え
●最強唐揚げ
●大根の味噌煮込み
●フライドポテト
写真を撮りメールを送ると、すぐに真奈美から返信が来た。
『凄い美味しそう! 私、どうしても食べたいんですけど……。 福田真奈美』
家族は誰一人食べてくれない俺の料理店……。
冷蔵庫へ入れていても、誰一人口にしない。
一週間も放置され、やがて白いカビが生える。
それでも叔母さんのピーちゃんは、そのまま放置だった。
料理を褒められたかった。
作ったものを食べて欲しかった。
川上キカイの時も、今の佐川急便でも…、だから俺はみんなの分を無償で作ってしまうのだ。
あんな奇麗な子が、俺の料理を食べたいって言ってくれている。
この日、休みだった事も手伝い、俺は真奈美のいるクラブ蓮へ弁当を持っていった。
高級キャバクラなので料金は高い。
彼女を指名すれば一万円以上は簡単に飛ぶ。
それでも俺の料理を食べて欲しかった。
突然弁当を持って現れた俺を見て、真奈美はとても嬉しそうな表情を見せる。
その場で食べてくれ、料理を絶賛してくれた。
「私、この最強唐揚げに感動しました。年を取った人でも食べられるような唐揚げなんて発想自体斬新です。味付けも美味しいし…。何かとても幸せ」
素直に嬉しかった。
感覚でいえば俺の執筆した小説を読んで、感想をみんなが興奮して話してくれるような形に近い。
ジッと俺を見つめる真奈美。
多分俺は、この子にとても惹かれている……。
彼女の誕生日を聞くと、五月でもうじきだという事が判明。
特に金も無い俺は、久しぶりに絵を描いてみた。
二千十一年五月七日。
ジェミニ(双子座)の絵と名付ける。
もちろん福田真奈美の為に、描いた絵だった。
こんな俺が異性を求めてもいいのかな?
しばらく恋愛などしていない。
どこかでブレーキを掛ける自分がいる。
ストイックに身体を鍛えるんじゃなかったのか?
それはいつだってやっている。
彼女とのやり取りは、あくまでもトレーニングの合間でやっているだけだ。
自問自答する日々。
ジムへ行く。
一番重いメモリにしてのトレーニング。
周りの会員たちが驚いて俺の様子を眺めてくる。
徹底的に自分をまた虐め抜け。
筋肉は…、細胞は俺を裏切らない。
体重計に乗る。
今から約三年前の二千八年一月十四日。
この時はヘビー級の試合だったので、公式体重が百四キロ。
それが今計ると、何と十八キロも落ちてしまい、八十六キロになっていた……。
あ~、どうすんだよ……。
体重上げるのって、昔から本当に大変なのに。
食事量も前より二、三倍に増やしている。
それなのに、どんどん落ちていくこの身体。
思わず出る溜め息。
ふと福田真奈美の事を思い浮かべた。
どんどん俺の中で存在が大きくなっていく彼女。
馬鹿げている。
俺は最近どうかしている。
信念を…、座右の銘を思い出せ。
百聞は一見にしかず…、ならば『百見は一実にしかず』。
百回聞くよりも実際に見たほうがいい。
なら、百回見るよりも、実行に移し自ら動いたほうがもっといいはず。
自身で作った座右の銘。
周りに小馬鹿にされようが、どんなに笑い者にされようが、信念を持ってずっと生きてきたつもり。
何度か彷徨い、他の人間たちに対し迷惑を掛けた事はあるけれど、基本的な信念は変わっていない。
うん、なら…、そのままずっと行けばいいじゃないか。
『仁義礼智信、厳勇』
儒教の五常からきた仁義礼智信。
仁とは思いやりの心、相手の立場に立って物事を考えられる優しさ。
義とは義侠心、人の歩む正しい道、私欲に捉われず為すべき事を為す、正義、道理、筋。
礼とは礼節の心、親や目上に対し礼儀を尽くし、相手には敬意を持って接する心。
智とは人や物事の善悪を正しく判断し、善悪を真に理解する知恵。
信とは嘘をつかず、心と言葉、行いが一致している、約束を守り、誠実である事。
この五常を守れる者は人間としての強さを得る。
この五常を守る上で必要なのが、厳勇。
厳とは自己を厳しく諫める。
勇とは勇気、勇敢さを持つ。
『正々堂々』
『成せば成る。成さねば成らぬ何事も。成さぬは人の成さぬなりけり』
俺に向かって、おばあちゃんはそう言っていた。
成せばとは、行動するという意味。
成るとは、結果として得られる状態。
願いの成就とは勝手に訪れるものではなく、自らの力で作り上げるもの。
思い通りの結果が得られないのは、自分が実現に向けた努力をしないからだ。
福田真奈美から休みの日に誘いがあった。
飲み屋の女なんだぞ?
自分自身へ警告をする。
自分の店のキャバクラに来いと言われている訳じゃない。
プライベートで俺と飲みたいと誘っているのだ。
別に騙されたとしても、いいんじゃないか?
あれほどの美人である。
影原美優にフラれた以来、異性と会うのも久しぶりだ。
俺は彼女の誘いを受け、バーへ連れて行く事にした。
真奈美の真意は分からない。
しかし彼女と共有する時間は楽しかった。
「岩上さんて前にホテルのラウンジでバーテンダーをやってらしたんですね」
酒も入り、饒舌になる俺。
気付けば過去の話をしていた。
「オリジナルカクテルとかも作ったんですか?」
微笑む真奈美の顔。
とても綺麗だなと思う。
彼女がホテル時代の話を聞きたがるので、俺は昔を思い出しながら口を開く。
岩上智一郎オリジナルカクテル『ミューテーション』。
当時浅草ビューホテルでバーテンダーをしていた俺は、オリジナルカクテルを初めて作ろうと思い、色々試行錯誤していた。
ある日仕事を終え、ホテルのスカイラウンジ『ベルヴェデール』のカウンターで従業員同士酒を飲んでいると、ホテルに滞在しながらショーステージを行っている歌手の『エスカペイドデュオ』のピエールとキャサリンもやってきた。
彼らはまったく日本語が話せず、会話はほとんど片言の英語で何とかするようだから大変。
その時ピエールは俺に、ブルドックを作って欲しいとリクエストしてきた
ブルドックとはソルティードックのスノースタイルを除いたカクテル。
彼は二杯目をお願いする際、塩でなく砂糖でソルティードックを作ってくれないかと頼んでくる。
確かにグレープフルーツに砂糖を掛けて食べる人はいる。
うん、カクテルでも合うかもしれないなあ。
そんな事をぼんやりと考えながら、待てよ…、ベースの酒をウォッカではなく、ジンにしてみたらどうだろうか?
グレープフルーツジュースに杜松の香りがするジン…、案外合うかもしれない。
俺はそれで一度作ってみて飲んでみた。
うん、結構いける。
ここから改良するには……。
まずグラスの淵に塩や砂糖をつけるやり方をスノースタイルと呼ぶが、通常はレモンを使ってつける。
それをレモンでなくブルーキュラソーでやったら青い綺麗な感じになるんじゃないか?
早速試してみる。
なかなかいい感じ。
せっかくならレインボウのようなプースカフェスタイルで何層かに色合いをつけたほうがお洒落かもな。
グレープフルーツジュースとジンで色合いは黄色になる。
なら、まずブルーキュラソーを垂らせばアルコールと糖分の比重比で勝手に下へうまく沈殿するはず。
やってみると二層になった。
どうせならもう一色加えたほうが見栄えもいいだろう。
黄色、青ときたら…、次は赤。
グレナデンシロップを少量そっと注ぐ。
ザクロを使った赤いシロップは一番下へ沈殿する。
全日本プロレス上がりの俺は、ホテルでも常に色眼鏡の視線で見られ、途中から入ってきたというだけで、いつだって軽く見られてきた。
そんな変わった経歴を持つ俺が初めて生み出したカクテル……。
突然変異みたいなもんだな、これって。
なら、英語で『ミューテーション』と名づけようじゃないか。
色合い鮮やかでアルコール度数も低めなこのカクテルは、お客さまから大好評を受けた。
「一度飲んでみたいです、ミューテーション」
俺は店に無理を言ってシェーカーを借りる。
何年ぶりになるんだろうな、俺がシェーカーを振るなんて。
カクテルを作りながら、久しぶりにホテルマン時代を思い出していた。
今日は少し酒に酔ったみたいだ。
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