2024/11/24 sun
前回の章
裏ビデオ屋名義人伊田。
やっぱり裏稼業の奴は、とんでもない奴が多い。
まともに祝儀をくれてサッと帰ったのは、長谷川昭夫と斉藤裕二コンビくらいだ。
こしじの岩沢さんが来たので、丁重に施術を済ます。
「あら、先生。まだお酒飲んでいらっしゃらなかったのですか?」
綺麗に間隔を開けて並べた七本のグレンリベット。
この内の六本はお祝いで岩沢さんがプレゼントしてくれたものだ。
「いえ、何か勿体なくてしばらく飾っていたいなあと思いまして。あの時は本当にありがとうございました」
「いえいえ、先生にはお世話になっていますからね」
この人が突然飛び込みで岩上整体へ来てくれて、本当に良かった。
何より心遣いがとても嬉しい。
岩沢さんを入口まで見送る。
姿が見えなくなるなって、ドアを閉めようとしたところだった。
「岩上さーん!」
大きな声で俺を呼ぶ声が聞こえる。
ん、誰だ?
元気のいい女性が、こちらに向かって走ってくる。
常にニコニコした笑顔。
小さな身体。
ワールドワン時代の従業員、小山の元彼女だった緑。
本当に川越まで来たのか。
「岩上さん、お久しぶりー。あ、本当に看板に岩上整体って書いてある」
「ほんと久しぶりだね。緑ちゃんは相変わらずだね」
こんな子が本当にシャブをやっているのかと思うほどだった。
ん、いつの間にか緑の隣に男性が立っている。
「はじめまして、岩上さん」
「はい? えーと……」
「あ、紹介しますね、私の旦那さんなんです」
「えー!」
これには本当驚いた。
小山と別れたまでは聞いていたが、結婚?
風俗は?
もちろん辞めているよな……。
でも待てよ?
小山と別れ、結婚したという緑が俺に一体何の用だ?
「はい、これお菓子です」
「あ、ありがとう」
一応整体内へ招き入れた。
「岩上さん、聖教新聞ってご存知ですか?」
聖教新聞…、どこかで聞いた事があるような……。
ゲッ、宗教じゃん!
元従業員の元彼女から風俗嬢プラスシャブ中、そして結婚して創価学会?
え、何なのその華麗なる転身ぶりは……。
「一応知ってはいるけど……」
「岩上さん、聖教新聞取りませんか?」
「い、いや…、大丈夫」
「聖教新聞は、ちゃんとした作家さんを使って、ちゃんとした小説の連載も載っていて……」
いやいや、私も一応プロなんですけど……。
ガラガラ……。
ドアが開く。
小輪瀬絵里さんが立っていた。
天使にしか見えなかった。
「あ、患者さんいるのでしたら……」
俺は彼女の手首を掴み、強引に中へ入れる。
「大丈夫ですよ! 知り合いなだけで。さ、どうぞ、小輪瀬さん」
「岩上さん、聖……」
「緑ちゃん、ごめん! 患者来たから」
慌てて声を遮った。
こんな駅前で宗教どうのこうの何て噂立ってみろ。
うちなど一撃で潰れてしまう。
小輪瀬さんの施術を開始する。
あれ、緑たち待合用の椅子に座っているぞ……。
あの…、患者様が今来ているんですけど……。
またドアが開く。
見た事のない顔。
新規の飛び込み患者か。
「小輪瀬さん、高周波このままにしておくので、ちょっと待って下さい」
「はい、本日はどうされましたか?」
「首を寝違えてしまって…、広告見て来ました」
「あ、それでは問診票を書いてお待ち下さいね。只今他の患者さんいますので」
急いで小輪瀬さんの施術を続ける。
「忙しそうな時に、先生ごめんなさい」
「何を言ってるんですか、小輪瀬さん。そんな事全然気にしないで下さい」
彼女の身体を楽にしていく。
美容師って立ちっ放しだから、肩とか凝るよね。
あなたからもらったオリジナルグラスは、とても大切にしています。
気持ちを込めて施術していると、入口方面から声が聞こえてくる。
「選挙、春先に終わってしまいましたが、どこか押している党とかって、あったりするんですか?」
え、うちの患者にいきなり何を言っているの?
「いや…、ちょっとそういうのは……」
「私たちはとても勧めているところなんですけど、日本を素敵な方向へ変える政党があるんですね。お時間あったら……」
「おい、緑ちゃん、頼むから止めてくれっ!」
気付けば大声を出していた。
「え、岩上さん聖教新聞は……」
「ほんとごめん、緑ちゃん。俺のところは無宗教だし、この中で宗教を勧めるのは本当に止めてくれ。…で、患者さんいるんで帰ってもらえないかな」
「岩上さん、私たちは導きによって……」
「ふざけんなっ! 創価だか聖教だか知らないけど、宗教活動は仲間内だけでやれ! 関係ない人間は、宗教なんて迷惑なだけだ。立派な教えがとか言うんだろ? そんな立派な教えが、何故人をここまで怒らせるんだ? おまえらみたいな存在は本当にクソ迷惑なだけだ。聖教新聞なんか取ったところで、クソ拭く紙にもならねえよ」
緑は発狂したように喚き出す。
俺は旦那の胸倉を掴み、片腕で持ち上げた。
「おい…、宗教だか何だか知らねえけど、これ以上俺の城で騒いでみろ。目玉繰り抜くぞ? 早く嫁連れて出ていけっ!」
宗教夫婦に続き、飛び込みの新規患者まで一緒に出て行ってしまう。
俺は創価学会自体、気にした事はなかったが、これで大嫌いになった。
それにしてもシャブ中の風俗嬢を結婚させ、あそこまで前のめりに宗教活動するようになった訳を無関係な立ち位置で知りたいなあとは思う。
俺は入口から外に向かって、一袋分塩を撒いた。
秋葉原でやった裏ビデオ屋『アップル』。
その店の名義人をやった山下から、電話が掛かってきた。
この男は、過去に二度俺に殴られている。
つまり真正の馬鹿という訳だ。
長谷川の新宿の事務所以来の連絡。
愛の鞭が今になって、ようやく理解できたのかもしれない。
「岩上さん、整体始めたんですって?」
「始めたんじゃなくて、もうちょいで一年になるよ」
「俺、岩上さんの整体受けに行きますよ!」
「いつ?」
「そうですね、明日なら時間作れそうなんで」
そういえば山下の近況をまったく知らなかった。
猥褻図画で起訴され、執行猶予四年。
二千五年の話だから、あと二年は最低でも執行猶予中なはず。
「今山下は何を仕事してるの?」
「風俗の受付です」
「大丈夫なところなの? 警察にパクられたら問答無用で懲役行きだぞ?」
「それは問題ありません。俺、あの時凄い給料もらっていたじゃないですか。あの時つるんでいた後輩連中は、俺の金目当てなだけだったすよ。金が無くなった今、ようやく物事の真理が分かって来た気がします」
何が物事の真理だ。
月に百万の金を上げていたのに、裁判の時点で二百万くらい借金してやがって……。
まあ痛い目に遭い、心を少しは入れ替えたのなら見方を変えてやるか。
「分かったよ。明日は何時頃、俺の整体へ来るの?」
「えーとですね…、お昼頃には」
「山下。あのさ俺のところ予約とか、急に患者が飛び込みでとかある訳ね。お昼頃とか曖昧な時間じゃ困るんだよ。何時に来れるの?」
「じゃ、じゃあ十二時には行きます」
「分かった。昼の十二時に予約で取っておくからね。他の患者来ても、その時間帯は受けないようにするから」
分相応外の金を得て、狂った山下。
図に乗った馬鹿は本当に質が悪い。
長谷川の事務所に呼び出し、加減はしつつも殴り蹴り飛ばした。
あれで山下は身元引受人を務めてくれた先輩の岡部さんの店『とよき』にも顔を出したと聞いたし、人間的に少しはマシな方向へ進んだのだろう。
こうしてつい気に掛けてしまうくらいだから、俺にとって山下は馬鹿だけど可愛い後輩なのだ。
一年数ヶ月ぶりの再会。
少しだけ楽しみではある。
この日は常連患者の中原さんや渡辺信さん、森昇のお袋さんが来てくれた。
夜になり、仕事帰りの飯野君が顔を出す。
馬鹿な後輩山下の事を簡潔に話をする。
「岩ヤンは本当面倒見がいいと言うか…、僕ならとっくに相手にしていないですけどね。まあそこが岩ヤンのいい部分でもあるんですけど」
確かに普通なら山下との付き合いなど、とっくに縁を切っているだろう。
ワールドワン時代から遡ると、不思議な腐れ縁のようなものを感じた。
岩上整体を開けてすぐに小川京子こときょうちんが入ってくる。
旦那が休みで子供を見てくれているらしく、羽を伸ばす前に腰をやりに来たようだ。
「そういえば先生のブログ見ましたけど、あれ凄いですね!」
春美への気持ちを書いた記事を言っているのだろう。
「まあ、彼女のおかげでピアノと小説が生まれたようなものですからね」
「もう先生にそんな一面があったなんて、読んでいて本当にビックリですよ」
第三者から直接このように言われると、やはり気恥ずかしいものだ。
しかし今さら自身の気持ちを誤魔化してもしょうがない。
待てよ……。
去年別れた百合子があの記事を見ていたら、どんな気持ちでいるのだろうか……。
いやいや、やめよう。
群馬の先生にも言われたじゃないか。
あなたはステージを降りたと。
もう今の俺に百合子、そしてその娘の里帆と早紀の事を心配する権利は無いのだ。
きょうちんと雑談し、もう少しで昼になる。
山下の奴、こっちへ向かっている頃だろう。
時計の針は十二時を過ぎる。
タバコに火をつけ、金魚に餌を与えた。
動く魚たちをしばらく眺める。
十二時半を回る。
あいつ、十二時に来るって言ったのに……。
俺は山下へ電話を掛けてみた。
「あ、岩上さん、すみません! 今向かっているんすけど、電車が遅れちゃって」
「何だよ…、それなら連絡くらいちょうだいよ」
「すみません、すみません」
「じゃあ待ってるから」
電話を切り、橋口さんと雄太から頂いた観葉植物へ、霧吹きで水を吹き掛ける。
ドアが開く。
「あ、先生。歩いていたら色々なお店に広告貼っていますよね? それを見て来たんですが……」
新規患者か。
しかしタイミングが悪過ぎだ。
これから山下来るし、まあ二時間くらいは何だかんだいそうだしな。
「すみません。予約一杯でして、二時間後でしたら……」
「えー、じゃあまた来ますね」
「大変申し訳ございません」
まあ仕方ないか……。
『新宿クレッシェンド』の印刷した原稿の束を見る。
先日二度目の校正作業が終わったばかり。
校正時、『乞食』や『ビッコを引く』は差別用語だから、使えない表現らしく、では『ルンペン』でいいか聞くと、それさえも駄目らしい。
「じゃあどうしろって言うのよ?」
「うーん、ボロを纏った男とか、足を引き摺るとか…、そのような表現になりますよね」
面倒臭いが『新宿クレッシェンド』を本にする為、我慢して指摘された箇所を訂正した。
次もあると編集の今井が言っていたが、これで最後にしてほしいものだ。
ドアが開く。
また飛び込みの患者だった。
「すみません…、これから予約の患者が来るんですよ」
「どのくらいなら大丈夫そうですか?」
「そうですね…。二時間後でしたら……」
「うーん、ではまた改めますね」
「大変申し訳ございません」
山下の馬鹿のせいで、新規患者を二人も逃した。
ん、一時を過ぎているじゃん。
山下の奴、何をしてんだ?
また電話を掛ける。
「あーすみません、すみません。もうちょいです」
「こっちは来た患者断ってんだよ? 早くしろよ!」
苛立ちを覚える。
いやいや、冷静に……。
小説の続きでも書いて待つか。
クレッシェンド第四弾『新宿フォルテッシモ』をワードで起動した。
あの裏ビデオ屋の北中の腐った所業を描く為に、俺はこの作品を書き始めた。
人間を飼うという表現がピッタリな北中。
俺が小説にしてやろうと最初に思った時期でもある。
『新宿クレッシェンド』はあくまでも歌舞伎町という街がどんなものか可愛く書いた入門編。
本当に書きたいものはフォルテッシモだった。
筆が進むとは、このような事を言うのだろう。
次々と文字が頭に浮かび、俺はそれを必死に文章へ変換する。
もっとあのクソ野郎の所業を文字にしたい。
一心不乱にキーボードを叩きまくる。
その時ドアが開いた。
やっと山下の奴が、来たかのか。
執筆を中断し入口へ行くと、見た事も無い人が立っている。
三人続けて新規患者だった。
平謝りして予約で一杯と断る。
時計を見ると三時になっていた。
あの野郎、何がもうちょいだ?
あれから一時間半は経っているぞ。
電話を掛ける。
「テメー何やってんだよ!」
「すみません、すみません。岩上さん明日じゃ駄目ですか?」
「はあ? おまえさっきもう少しだって言ってたじゃねえか!」
「いえ、あの…、実は手持ちが少なくて……」
「おまえから金取ろうなんて思ってねえよ! いつ来るんだよ!」
「あ、明日になれば……」
「おい…、おまえのせいでこっちは三人も患者帰してんだよ! 山下、おまえさ、自分のした行動で、相手がどれだけ迷惑被っているか、考えた事あるの?」
「は、はい…、ですなら明日でしたら……」
「オメーは二度と俺の前に面出すな、馬鹿野郎!」
電話を切った。
馬鹿は馬鹿でしかない。
駄目だ、あんなのと絡んでいたら、こっちまでおかしくなる。
この日俺は、山下哲也と決別する事を決めた。
今の俺は表の社会の人間なのだ。
いつまでも裏稼業でフラフラしているような奴を相手にしてはいけない。
偏見かもしれないが、概ね正しい。
先日の山下哲也との事が、教訓になった。
人は石ころ一つ見ても、学ぶものがある。
そう…、俺はまた一つ学んだのだ。
ドアが開く。
三十代の背の小さい女性が入ってくる。
「初めてですか?」
「あ、あの…、先生のところ、色々なところにここのチラシ貼ってますよね?」
「ええ、川越だけで九十六軒貼っていますよ。みなさんに、色々協力して頂いてまして」
「それで、千円と書いてあったので……」
初診千円と謳った広告は全部手直しして変えたはず……。
どこか剥がし忘れた店があったのかな?
「いえ、もうそのキャンペーンは終わりまして、現在は通常料金となっておりますが……」
「そんな! 私、家で旦那にも虐められて、会社でも虐められて、ここでも虐められて…。あー、もうどうしたらいいの!」
突然発狂する女性。
何だ、コイツ……。
一人で喚き出したので、駅前を通る人々がみんなジロジロと見ている。
見栄え良くないよな、確かに……。
「と、とりあえず中へ入って。話は聞きますよ」
俺は中へ招き入れた。
座らせてお茶を出すとようやく落ち着き、その女性は自分の事を淡々と語りだした。
親から虐待で虐められていた過去。
そこを今の旦那が守ってあげるからと、二年前に結婚。
それが最近になって急に旦那も冷たくなり、家にも金を入れなくなったようだ。
仕方なく働きに行くと、同僚からは嫌がらせされる毎日。
川越の街を歩いていたら、各店に貼ってある広告を見て、岩上整体の存在を知って来た。
「状況は分かりました。ただもう数ヶ月前に初診千円のキャンペーンは辞めているんですね」
「そんなー、ここでも私は虐められて、帰っても旦那からは罵倒され、会社に行っても……」
「分かった! 分かりましたから! 落ち着いて! 今回だけ特別千円でいいですから!」
また発狂しだしたので必死に宥めた。
何かヤバいの来ちゃったな……。
問診票とかもいいや。
凝った箇所だけちょちょっと治して、とっととお帰り願おう。
「辛いところはどこですか?」
「首です。もう毎日が嫌で嫌で、明日も会社に行くと……」
「分かりました、分かりました。首ですね? ではそこのベッドへうつ伏せで寝て下さい」
「あ、コート脱いでいいですか?」
「はい、そこに衣服入れるカゴあるんで、そちらへ」
施術を開始する。
確かに固い首ではあるが、この程度なら大した事は無い。
高周波を肩甲骨下側へ二つ、外側へ二つ装着した。
首元へ指を入れ、岩上流三点療法を始める。
うん、すぐ凝りなど取れるな。
指先で血行の流れを確認、少しずつ箇所をズラして血流を良くしていく。
三十分ほど高周波を流しておくか。
そういえば何故守ってあげると言った旦那は、急に冷たくなったのだろう?
ふと疑問に思い、聞いてみた。
「私…、実は処女なんですね」
「ええ…、えっ! 処女? おかしくないですか、それ……」
「親からの虐待で、人に触れられるのが駄目で……」
え、今さっき俺はあなたの首元へ触れましたよね?
「よくそれで、旦那さんも結婚しましたね」
「それでもいいから結婚しようって言ってくれたんです」
「へえ、いい旦那さんだ。でも何故その旦那さんが冷たくなったんですか?」
「この二年間、一度もそういう行為をしていないんですね」
「失礼ですが、向こうから求めて来たりは?」
「もちろんありました」
「それで?」
「気持ち悪いって、その度断って」
「ごめんなさい。ハッキリ言いますね。それはあなたのほうが悪い。だって旦那さん働いてあなたを食べさせて二年でしょ? それを求めようとしたら気持ち悪いだなんて……」
手首に違和感。見ると女性は俺の手首を触っている。
「な、何ですか!」
慌てて飛び退く。
「先生ならよく分からないんですけど、触れられて大丈夫だったんです。先生なら」
「いやいや、施術でしただけですよね?」
全身に鳥肌が立つ。
俺は高周波をすべて外し、カゴを目の前に置いた。
「施術はもう終わりましたので、お帰り下さい」
「え、あの……」
「ごめんなさい。初診の代金千円になります。次回からは正規料金になりますが、完全予約制になりますので」
「あ、でも……」
「すみません。そろそろ次の患者が来ますので、お帰り願えますか」
何か言いたそうだったが強引に外へ出し、ドアの鍵を閉めた。
パテーションを移動し、外から俺の姿を見えないようにする。
身の危険を感じたのだ。
関わってはいけない人種というものがある。
パテーションの隙間から、外を覗く。
「……」
まだ入口の前に立っているじゃん……。
透明のガラスのドアに足元が見える。
怖いよー。
誰か来てくれないかな……。
あんなセックスもした事が無くて結婚したというイカれ女、もう二度と関わりたくない。
ここ最近で一番怖いと思った。
近くで誰でもいい。
俺はゴリへ電話した。
「いやー、今友達と飲んでるから無理だよ」
肝心な時にあの馬鹿使いものにならねえな……。
仕方なくチャブーへ電話する。
「ややや、何だよ何だよ。え、岩上が怖い? 何だ、それ?」
「お願いだから、すぐ整体に来てよ! ね、頼むから」
前回追い出したくせに、俺はチャブーに縋った。
そーっと外を見ると、まだ足元が見える。
「お願い! 早く来てよ!」
結局チャブーが岩上整体へ駆けつけるまで十五分。
来た時には入口に誰もいなかったらしい。
念の為、次の日岩上整体を緊急休業にした。
降って湧いた一日の休み。
群馬の先生のところへ行こうと連絡するも、その日は予約で一杯だった。
普段常に岩上整体へ居るので、何をしていいか分からなかった。
上福岡市にある岩沢さんのこしじへ食事に行き、ゆっくり過ごす。
帰っても時間は有り余っている。
川越の街をブラブラして、幼稚園の頃から通っているジミードーナツへ入った。
昔から俺は街を彷徨くと、何かしら食べてばかりだな……。
「整体のほうは上手くいっていますか?」
ジミードーナツ…、それは旧名か、ジミーカフェのマスターが声を掛けてくる。
「ありがとうございます。まあ何とか食べていける程度には」
昔から金が入ると、ここのミートソースを食べに来た。
結婚する前の先輩の坊主さんが家に入り浸っている頃も、金さえあればジミードーナツへ行ったものだ。
浅草ビューホテル時代、喉が腫れて三井病院へ入院した時も、見舞いに来た後輩の川手に頼んでジミードーナツのミートソースを持ち帰りしてもらったほどである。
今でこそ週に一度程度になってしまったが、二十代の頃は週に四、五回は通った店だ。
店を出ても、まだ暇を持て余す。
たまには先輩の神田さんがいるゲームセンターのモナコへ行くか。
UFOキャッチャーをするところを神田さんに撮ってもらう。
「あれ? 神田さん、あれ何ですか?」
「何か古代魚らしいよ。あまり生き物をこういう風に扱うのは好きじゃないんだけどね」
「よし、それじゃあ俺が取って、岩上整体で飼いましょう」
見事取ると、魚を水槽に入れる為岩上整体へ戻った。
水泡眼のプクプクや、金魚のリンとバットに囲まれて颯爽と泳ぐ古代魚。
しばらく眺めていると、岩上整体の電話が鳴った。
まあここに居るし出るか。
「あ、先生ですか?」
「えーと、どちら様でしょうか?」
「昨日そちらへ行った者です」
ゾワッとした冷たいものが、背中を走る。
「えーと…、初診千円の……」
「はい。今からそちらへ……」
「いや、今日はお休みなんです。この電話も転送でたまたま出ただけなので、只今出先なんですね」
「昨日忘れ物してしまったんです!」
「え、何をです?」
「コートを脱いだ時カゴへ入れましたよね? その時コートの紐を置いてきてしまったみたいで。あ、黒い紐です、コートの」
診察ベッドの傍に置いてあるカゴを見る。
うわ、本当に忘れている……。
「あ、あり……」
馬鹿、今は整体にいない設定だろ?
「今ですね…、出先なので確認できないんですよ」
「今から取りに行くので、整体へ行ってもらえますか?」
え、出先だと言っているのに、何無茶言ってんの、この女……。
「ですから、今は出先なので……」
「私はあと十五分くらいで先生のところ行けますから」
ヤバい、タイムリミットはあと十五分しかないのか……。
「だから…、出先で遠くにいるので、整体へ今から行くのは無理です!」
「じゃあ、どうしたら?」
「明日にして下さい。ただ明日は予約一杯なんですね。だから入口でそのコートの紐を渡すだけになります。取りに来る時間も明確に決めて下さい。患者の施術に支障出るといけませんから」
「え、じゃあ夕方の六時頃に……」
「分かりました。六時ですね? では、その頃お待ちしております」
電話を切った。
明日の時間帯、誰かに来てもらわないと……。
俺はカゴの中にある黒いコートの紐を恨めしく見つめた。
さすがに二日続けて休めないので、岩上整体を開ける。
夕方六時にあの女がやって来る。
五時近くになったら、またチャブーでも呼び出すか。
長澤ビルオーナーの長澤さんが来てくれる。
「昨日来たのにお休みだったので、今日来たら開いていたから良かったです」
「あ、長澤さん昨日いらしてくれたんですね。大変申し訳ございませんでした」
これも、あのクソ女のせいだ。
施術を終え、また次の患者。
このまま患者が切れずに来てくれたらいいんだけどな……。
夕方四時、患者が途切れる。
誰か来てくれないかな。
金魚を眺めながら一時間が経つ
そろそろチャブーへ連絡してみるか。
ドアが開く。
「先輩、どうも」
「おお、ター坊!」
後輩の保坂忠弘が入ってくる。
救世主に見えた。
「ほら、ター坊見てみ。おまえのところで買った金魚たち。ちゃんと元気にしてるでしょ」
「あはは、ありがとうございます。智さんの事、うちのお袋褒めてましたよ。小説の事で」
「おまえのお袋さんにはほんと感謝しているよ。今日はどうした?」
「自分、柔道やってるじゃないですか。受け身で右肩おかしくちゃって」
「柔道じゃ、骨接ぎあるだろ? そこで診てもらえばいいじゃん」
「いや、それが何度診てもらっても全然良くならないんですよ」
「分かった、俺が診るよ。無料にするから七時までは絶対ここに居てね」
「え、七時? まあ別にいいですけど」
「絶対に肩良くするから頼むよ!」
若干骨の位置ズレてんじゃん。
周りの筋肉も、そのショックでか固まっている。
高周波で固くなった筋肉を柔らかくして、指先で血流を変え電気を流してやってと……。
うん、柔らかくなってきた。
「ター坊、ちょいと痛いぞ。我慢しろ」
右肩の調整。
骨を動かす。
「どうだ?」
「あれ? 痛く無いっすよ、智さん!」
「一応まだ高周波しばらく流しとくか。そこへ座って」
つける位置を変えながら高周波を流す事一時間。
ドアが開く。
来た、あの女だ。
俺は黒いコートの紐を持ち、即座に入口へ向かう。
「あ、先生。私、あの……」
「ごめんなさい! 今施術中なんですよ。紐ってこれですよね? それでは」
何か言っていたが構わずドアを閉めた。
これで、二度と来なくなってくれればいいが……。
校正作業三度目がやって来る。
自分の書いた小説をこれで何回見直したよ?
うんざりする。
ところどころ貼ってある付箋と赤ペン。
俺って勢いで執筆するタイプだから、誤字脱字多いんだよな……。
何々…、俺は心の中で思った事を黙ったまま、そっと呟いた。
あ、確かに凄い矛盾しているな……。
黙ったまま呟いたって何だ?
しかし編集の今井貴子も仕事とはいえ、本当によくこんなところまで、よく見ているよな。
「私は、世界で一番新宿クレッシェンドを読んでいます」
そんな事を堂々と言い切っていたもんな。
一冊の本にするという事。
それは作者がこれを書いたってだけじゃなく、編集者だって真剣にやっているのだ。
俺も彼女へ少し文句言い過ぎているよな。
反省すべきところは反省しないと。
あと半分くらいの量か、校正は。
「……」
途中で紙をめくる手が止まる。
またドビュッシーのところに赤線が引かれ、『ドビッシー?』と赤ペンで書かれていた。
ドビッシーじゃねえよ。
ドビュッシーだよ。
彼作曲の月の光を実際に弾いた俺が書いているんだから、間違う訳ねえだろ!
ページを進めると、また同じ箇所で『ドビッシー?』と書かれている。
「ふざけんじゃねえって!」
俺は校正原稿を派手にぶち撒けた。
間違ってないから、直していないんだろ。
だいたいあの女、こっちはエリートだぞって感じのエリート意識丸出しなんだよ。
この作品を一から作ったのは俺なんだ。
あの上から目線がムカつくんだよ。
だいたいこんな校正作業を何回やらせんだ?
散乱する原稿。
俺はタバコに火をつけ、そのまま放置した。
ドアが開く。
「えー、何々、何でこんな先生のところ散らかっているのー」
患者のきょうちんだった。
俺は校正作業でイライラしている事、そして上から目線の編集者の愚痴を言った。
「だからって原稿に当たっちゃ……」
「いや、もう本になんかなんなくたっていいですよ。本当に毎度毎度くだらない指摘してきて、しかもその指摘、向こうが間違ってんですよ? これでまたもう一回校正作業しますなんて言われたら、もう俺は嫌です。だから本になんてしなくていい」
駄目だと分かりながらも、俺の愚痴は止まらなかった。
「先生!」
きょうちんが真面目な顔で、俺を見ている。
「先生が本を出さないと、私が困ります! 私、みんなに…、友達に旦那にだって…、本当色々な人に自慢しちゃってるんです! だから嫌なのは分かります。でも、頑張って本を出して下さいよ!」
「……」
言葉が出なかった。
彼女が人様の奥さんなんかじゃなかったら、絶対に抱きしめてしまっただろう……。
俺は何か勘違いして図にのっていたようだ。
きょうちんの言葉は、馬鹿な俺の頭をハンマーで思い切り殴られたような衝撃を受けた。
俺はきょうちんだけじゃなく、本当に色々な人たちに支えられて、今だってこうして生きている……。
「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」
おじいちゃんが賞を取ったと報告した時に言った言葉。
気付けば俺は、きょうちんへ向かい深々と頭を下げていた。
「ほんとごめんなさい。俺がどうかしてました。本に…、本にしなきゃ…、ですよね……」
「そうですよ! ほら、私も一緒に紙拾いますから。ほら、早く先生も拾って」
俺は泣きそうになるのを必死に堪えながら、床へ散らばった原稿を拾った。
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