224/10/01 tue
前回の章
コマ劇場裏側にある通称『ビデオ村』と呼ばれる場所があった。
ほとんど裏ビデオ屋のみしかないところである。
ちょっと前まではビデオでなくゲーム屋だった。
そのビデオ村の一軒の店が警察にやられたという情報が入る。
俺は五店舗に指令を出し閉めさせ、ビデオ村へ向かう。
野次馬のほとんどが各ビデオ屋のオーナーや名義人たちばかりだ。
俺の顔を見ると、「まったく商売にならないよね~」と愚痴をこぼしてくる。
とばっちりが怖いから、みんな自分の店を閉めるようだった。
そんな時、北中の姿が見えた。
手に札束を持っている。
「いや~、みんな店を閉めてるのか。おかげで俺のところは客がわんさか来るだよ」
そう言うと北中は、持っている札束を嫌味たっぷりに数えだす。
とばっちりを恐れ、みんなが閉めているのに北中の店だけは気にせず営業をしていた。
無数にある店が一斉に閉めているから、北中の店は一人勝ち状態である。
捕まるのは自分じゃない。
そんな不条理な感覚でやっているから平気でそう言えるのだろう。
各オーナー連中は、煙たそうに北中を見るだけで何一つ言い返そうとしない。
「ん、岩上…。おまえ、よくこの街にいられるな」
俺に気づいた北中は近づき、脅すように言ってきた。
あの時よくも人の命を消そうとしたな?
このクズが……。
「天下の往来歩くのに、何でおまえの許可がいるんだ? ヤクザ者に俺を消せって言ったらしいじゃねえか。どこも動かなかったようだけどよ。いつまでも余裕こいてんじゃねえぞ!」
これ以上何か言ってくるようなら顔面に一発お見舞いしてやる。
俺は右拳をギュッと硬く握り締めた。
トレーニングをやめしばらく経つが、まだまだ一般人離れした俺の肉体。
こういう悪に対抗できるように、俺はこれまで身体を鍛え抜いてきたのだ。
他のオーナー連中は、俺と北中のやり取りを見てニヤニヤしている。
「おまえ、誰に向かって口を利いて……」
「おまえだよ、北中。おまえに向かって口を利いているつもりだけどな?」
「くっ、覚えてろ」
北中が逃げるように消えると、オーナー連中は俺を見て拍手してきた。
「いやー、岩上ちゃん。見ててスッキリしたよ」
「いつもあの馬鹿、偉そうにしやがってね」
「いい気味だ。一昨日きやがれってんだ」
みんな、北中にはストレスを感じていたのだろう。
今まで背後に見え隠れするヤクザのせいで何も言えなかったが、俺がハッキリと北中へ言ったせいでスッとしたようだ。
しかしこんなもんじゃ俺の恨みは消えやしない。
いずれあの時の借りはちゃんと返してやる。
俺は北中が消えた路地の向こうを睨みつけた。
「おい、岩上。どうした? ボーっとして」
オーナー村川の声で現実に引き戻される。
ちょうど数ヶ月前の出来事を思い出していた。
「いえ、何でもないです」
「お、出てきたぞ。あいつ、余計なを事喋らなければいいけどな」
ビデオ屋『フィッシュ』の名義人、浜松が手錠を掛けられた状態で出てくるのが見える。
両脇には警官がガッチリガードを固め、今にも泣き出しそうな顔で辺りを不安そうにキョロキョロとしながら、パトカーへ強引に乗せられた。
「浜松……」
「よせ、それ以上は近づくな。おまえまでパクられるぞ。捕まる時はこんなもんだ。それよりあいつ、警察に情報を謳わなきゃいいけどな」
「それは大丈夫ですよ」
名義人はビデオ屋の売り子をする前に、簡単な対警察シミュレーションをする。
実際に捕まった時、あの手この手を使って警察は名義人を事情聴取するのだ。
警察だって馬鹿じゃない。
裏稼業の名義人を使ったからくりなどお見通しなのである。
要は名義人が警察の策に引っ掛からず、どこまで自分がすべてやったと言い切れるかなのだ。
言ったら保証金として二百万円。
すべて喋った瞬間、二百万円はパー。
損得勘定が普通にできる人間なら、まず警察に謳う者はいないだろう。
刑事たちが二台の覆面パトカーと箱車へ乗り込むと、俺はカメラをすぐシャッターが押せる状態なのを確認して、あとをつけた。
どこの警察署が浜松を捕まえたのかを調べ、すぐ弁護士を手配しないといけない。
歌舞伎町で働く住人たちの多くは見得を張る。
「俺は昔何々をしていた」
「前にあったあの事件で俺は何々しててな」と必要以上に自分を大きく見せようとする傾向があった。
数年この街にいる俺も、様々な人と出会い接してきた。
裏稼業は特別難しい商売ではない。
むしろ簡単で楽な商売である。
働く上で一番大切な事。
遅刻せずキチンと来る事は当たり前だが、それ以上に対警察、ヤクザが来た時に初めて真価が問われるだろう。
予めしておいたシミュレーション通りにちゃんと接する事ができるか。
それが大事なのだ。
大口を叩く人間に限って、いざとなると本性を曝け出す。
以前俺に対抗意識を持っていた奴がいた。
何かにつけて張り合ってくる。
仕事にそんな事まるで関係ないのにと思うが、そいつは必要以上に自分をよく見せたいのだろう。
たまたま店にヤクザ者が二人やってきた。
するとその男は顔を真っ青にさせて隅っこでガタガタ震える事しかできなかった。
警察が来た時もそうだ。
錯乱状態になり、「俺だけは絶対に捕まりたくないんですよ」と必死に訴えだす。
警察になんか誰だって捕まりたくない。
みんな同じなのだ。
それを表に出すか出さないかで、その人間の中身が見える。
大抵は警告しにくるだけで、パクリに来た訳ではない。
それを必要以上にビビリ、怯える姿を見るのは滑稽である。
要はどんな時でも、平常心を保つという事が大切なのだ。
裏稼業は法に違反し、捕まる仕事をしている。
だから警察が来るのは当たり前。
ヤクザ者が嫌がらせに来るのも日常茶飯事。
そんな事で取り乱すぐらいなら、真面目にサラリーマンをすればいい。
理屈では分かっていても、仲間が目の前で捕まっていく様子を見るのは辛かった。
今の俺にできる事。
それは浜松をパクった警察署がどこかを突き止める事。
覆面パトカーが走り出すと、俺は見失わないようにあとをつけた。
浜松が捕まった先は池袋警察署だった。
そこの留置所へ送られる訳である。
自分の身代わりになって捕まったオーナーの村川は、何度もこういう事を経験しているせいか落ち着き冷静だ。
「弁護士料で二百万か…。まいったな」
大金を払わねばならない村川の気持ちも分からないでもないが、もう少し捕まった浜松の事を考えてほしいものだ。
彼にしてみれば、初めて警察に捕まったのである。
いくら事前にシミュレーションをしていたとはいえ、しょせん仮想に過ぎない。
どれだけ不安で怖い思いをしているかと想像すると、俺はやりきれない気持ちになる。
池袋警察署と分かると、組織お抱えの弁護士に早速手配をした。
浜松は警察の中にいるので、俺たちは誰一人接する事ができないのだ。
留置所へ面会しに行く時、弁護士だけは一対一で話す事ができた。
普通に面会へ行ったとしても、必ず横に警官が一人ついた状態で何を話したかメモを取りながらの面会となる。
俺は村川に命じられ、浜松に送る為の差し入れを買い出しに行った。
あいつはマイルドセブンを吸うので、まずタバコをワンカートン。
パンツや靴下、ティーシャツ。歯ブラシなどの洗面用具。
そしてジャージを三着。
ズボンについている紐やゴムは、すべてこちらで切っておく必要があった。
何故なら留置所内では、中で自殺をする事ができないように首を吊る為の紐などが差し入れ禁止なのである。
だいたいこのようなものを用意した。
多少の金は持っているだろうが、弁護士に差し入れ品と共に五万円を手渡す。
中で金を使う事といったら、タバコに土日祝日を除いた平日の自弁代。
通常毎日三食出るが、平日の昼だけは金を払う事で、業者の作る自弁を任意で注文する事ができた。
タバコは一日二本しか吸えないので、そんな金を使う事もない。
「先生、浜松をよろしくお願いします」
俺は差し入れの品と金を渡しながら、深々と頭を下げた。
浜松の接見禁止が解けたら面会へ行っていいかと、オーナーの村川に聞いてみる。
「気持ちは分かるけど、こっちからは一切行っちゃ駄目だ。おまえまで万が一やられたら、組織が命取りになるからな」
関係者は面会にもいけない。
歯痒いが仕方ないのだ。
パトカーへ乗り込む前に辺りをキョロキョロ見回し、泣き出しそうな浜松の表情を思い出す。
これから自分がどんな目に遭うのか不安でしょうがないのだろう。
顔だけでも見せて、少しは安心させてやりたかった。
それさえも叶わない現実。
俺は浄化作戦を発動させた石原都知事を恨んだ。
様々な手配をしながら動き回る俺。
この日俺はほとんど徹夜で家に戻ったのは朝だった。
ドッと疲れながら家に帰る俺。
八月二日。
今日は待ちに待った念願のデートだった。
俺が出逢った女の中で、どうしても手に入れたかった女、品川春美……。
彼女の為に絵を描き、ピアノを奏で、小説を書いた。
ピアノ発表会へ来てくれなかった春美。
俺はその日、部屋で一人寂しく膝を抱えて泣いた。
しかしやはり諦める事はできなかった。
初めて執筆した小説『新宿クレッシェンド』を俺は、何度も時間と金を掛けてプリントアウトした。
最初の一ヶ月は、うまく方法を思いつかずインク代を十一万円も使う。
一冊の本という形にするまで、まずプリントアウトで二時間掛かり、液状の糊を塗って乾かすのに約半日という工程を踏まねばならない。
何日も掛けて何冊も本という形に仕上げ、その度自分で満足いくよう手直しをする。
どのくらい本を作ったのか数も分からなくなったぐらい作り、ようやく満足の行く形として完成した。
俺は完成した初めの一冊を春美に贈りたいが為に、メールを打ってみた。
ピアノ発表会すら来てくれなかったのだ。
返事など何も期待はしていない。
しかしそれでも春美へ俺が、今度は小説を書いて一つの物語を完成させたという事実を知っておいてほしかった。
《久しぶり。小説というものに挑戦してみる事にした。自分の中にある暗い闇、それを少し主人公へプレゼントする形で、処女作『新宿クレッシェンド』は完成した。クレッシェンドとはピアノの音楽用語でだんだん強くなる。または成長するという意味なんだ。文学の勉強など何一つしていないけど、魂込めて、ピアノを弾いた時と同じように熱を込めて作品を完成させたんだ。春美、君にぜひ読んでほしい。迷惑じゃなかったらでいいんだ。何をしたって君の事が忘れられない。こんなメールばかりでゴメンね。 岩上》
自分が何をしたからこうしてくれた。
自分がこう言ったから、相手がこう言ってくれた。
そんな見返りなど何もいらない。
俺はまだ春美の事が好きだから、ただこうしてしつこく自分の気持ちをメールで書いているだけ。
本当はまだまだいくらでも書けた。
でもあまり長くなり過ぎても向こうにとって迷惑にしかならないから、あえてこのようにまとめただけだった。
非常に女々しい俺。
だけどしょうがない。
まだ彼女の事が好きなのだから……。
予想に反してすぐ春美から返事が届く。
信じられないような現実に、俺はドキドキしながらメールを見た。
《お久しぶりです。発表会観に行けなくてごめんなさい。岩上さんの小説、ぜひ読んで見たいです。 春美》
そして彼女は、自分の住所までメールに書いてあった。
何度も春美とデートした時のプリクラを眺めた。
俺はすぐ『新宿クレッシェンド』を丁寧に包み、春美の元へ贈る事にした。
数日後、春美からメールが再び届いた。
《『新宿クレッシェンド』読ませていただきました。何ていうか、すごく良かったです。こんなありきたりな表現じゃなく、えっと、今度逢いませんか? 直に逢って感想を言いたいなあと思っています。 春美》
あの春美が俺と逢いたい?
俺はしばらくメールをボーっと眺めていた。
何をしても駄目だと思っていた。
相手にされず、泣いた事もあった。
でも諦めず頑張る事で報われる事だってある……。
俺は携帯電話を握り締めながら、静かに泣いた。
春美を自分の女にとかそういう事でなく、実際に逢って話をする事ができる。
彼女との時間の共有。
これでピアノをザナルカンドを捧げる事ができる。
彼女と逢ったらどうしよう?
いきなり抱き締めちゃうか?
いや、そんなんじゃない。
春美のあの笑顔を見られるだけで幸せなんだ。
今、彼女の心が少しかもしれないが、俺の方向を向いてくれているという事実。
それが何よりも嬉しかった。
この『新宿クレッシェンド』を書き終え、自分の心の奥底にあった何かの黒い歪み、それがスッと消え、楽になった気分がした。
おそらく書く事で、自分の一部分を浄化したのだろう。
それと同時に彼女の心も再びこちらへ向かせる事ができたのだ。
こんな幸せな事ってない。
そして俺と春美は何度かメールのやり取りをして、逢う日にちを決める。
八月の二日。
俺と春美の運命の再会の日。
捕まってしまった浜松には悪いが、必然と俺の心はウキウキしていた。
インク代を十一万も掛けただけあり、本はたくさん手元にあった。近所やビデオ屋メロンの常連客で欲しがる人には『新宿クレッシェンド』を配り歩く。
そうなると当然中学時代の友人ゴリにも本を渡そうとした。
物語の準主役の『岩崎』。
元はと言えばゴリの苗字の岩崎をそのまま使ったのである。
それに彼の生き方を何とか格好悪く表現しようとホモの設定を思いつけた。
それについては勝手に少しばかりの感謝を感じている。
ゴリを食事へ誘い、自家製で作った『新宿クレッシェンド』を目の前に出す。
「おい、ゴリ。前に言ってた小説が完成したぜ、ほら」目の前で本にした『新宿クレッシェンド』を渡そうとすると、ゴリは「別にいらないよ」と受け取ろうとしない。
「おまえの苗字がこの物語に入っているんだぞ? せっかく三時間掛けてこの本を作ったのにいらねえのかよ?」
これを作るのにどれだけの時間が掛かったと思っているのだ。
カチンとした俺は怒鳴り口調で言う。
感謝の印と記念として、友人にこの本をプレゼントしておきたかったのだ。
「ああ、いらない。前に言ったろ? 俺は活字を読まないって」
よく恥ずかしげもなくそんな台詞を言えたものだ。
飲み屋の女からのメールは、隅から隅まで読み尽くすくせに……。
「おまえさ…、俺がどれだけの思いをしてこれを書いたと思ってんだ?」
「それはしょうがねえだろう。俺とおまえはタイプが違う。それぞれ価値観だって違うんだ。無理に人に自分の考えを押し付けるのはよくないぜ」
「くっ……」
これ以上話をしてもイライラするだけと分かり、俺は本を渡さずゴリと別れた。
春美にはプレゼントできたし、こんなクズ野郎なんて別にいいか。
春美と逢う約束を決めた俺は、仕事帰り最近行きつけのスナックへ向かう。
ずっと一人でいた寂しさからか、俺はこのスナックで一人の女を口説いていた。
その子に断らないといけない事があったからである。
名は『百合子』。
春美と似ている点は、どこかしらある陰りの部分。
顔立ちの整った奇麗な女だった。
付き合った訳ではないが、店が終わると食事へ行き、別れ際にキスをするぐらいの仲になっていた。
彼女は俺の書いた作品『新宿クレッシェンド』や『でっぱり』を読み、絶賛してくれた。
第四弾として執筆していた『フェイク』を完成させ見せると、この作品だけは「う~ん、ちょっとこれは読める事は読めるけど、内容的にすごい矛盾あるんじゃない?」と言われ、『フェイク』は俺の中でお蔵入りさせた。
この頃新しいジャンルのものを書いてみたかった俺は、中学時代の友人岩崎努ことゴリとその後輩川出をそれぞれ主人公とした物語『歯車 一章 ゴッホ』と『歯車 二章 出川』を連続で完成させた。先日ゴリにせっかく『新宿クレッシェンド』をあげようと思ったのに、くだらない理由で本を受け取る事さえしなかったゴリ。
それを恨みに感じた俺は、一気に彼のくらだない生き様を書き上げる事ができたのである。
ついでに出川も行っちゃえという感じで書けた。
しかし出川自身の生き様は、ほぼ愚痴りだけだ。
ゴリほどドラマ性はない。
その為ゴリの作品は原稿用紙で百四十二枚に対し、出川作品は原稿用紙で六十四枚という半分にも満たない短さだった。
彼らの駄目っぷりをそのまま小説という形で正直に書いた作品。
執筆時、自分で書きながら何度も吹き出した。
小説を書いていて自分で笑ってしまったのは、この忌々しい駄作が初めてである。
彼らの今までをまとめれば、自然とテーマはブラックジョークになるのだ。
百合子に完成した『歯車』の二作品を見せると涙を流しながら大笑いしてくれた。
自信を持った俺は集英社のヤングジャンプ編集部に電話を掛け、『歯車 一章 ゴッホ』を送り、漫画の編集者に読んでもらった。
漫画の原作に使ってもらおうと思ったのだ。
「岩上さん…、悪いけど、あなたの作品は小説であって、漫画の原作じゃないんですね。だからうちにこういうものを送られても困りますよ。それにゴッホって言うんですか? あなたは私に自信満々に見せましたが、何を言いたいのか分からないです」
確かにそれはそうだ。
ゴリの作品を見せた俺は、一体何をしたかったのか?
せめて処女作の『新宿クレッシェンド』や『打突』辺りを読ませればよかったのだ。
「じゃあ柳田さん。俺の自信作を今度はちゃんと送りますから読んで下さいよ」
「あのですね……。こっちは本当に忙しいんです。そんなに自信作なら、小説の賞にでも送って下さいよ。うちはヤングジャンプ。漫画の編集部なんです!」
ふん、このケチめ。
現実はシビアなものだ。
もうヤンジャンなど買わないぞと言いたかったが、読めなくなるのが辛い俺は、歯を食い縛って屈辱に耐えた。
「もう週間ジャンプなんて絶対に買わないからな」と言うのが精一杯の強がりだった。
よくよくあとになって思えば、ヤングジャンプの編集者に向かって、違う部署の週間ジャンプを買わないと言っても、何の意味もないんじゃないのかと感じ、余計に悔しくなった。
百合子はそんな俺をいつも元気づけてくれる。
そんな百合子から八月二日は少しでいいから会えないかと事前に言われていた。
もちろん了承していたが、そんな時に振って湧いた春美とのデート。
百合子には悪いと思ったが、俺は春美をどうしたって最優先してしまう。
酒を飲みながら頃合いを見て、俺は声を掛ける。
「百合子、悪いんだけどさ。八月の二日、この日どうしても仕事が入っちゃって…。悪いけど次の日にできないかな?」
「え、だって…、その日…、私の誕生日なんだけどな……」
そう言って下をうつむく百合子。
「……」
何というタイミングの悪さだろうか?
春美の為に色々頑張り、すべてを捧げようとした。
それでも駄目で諦め掛けた時、出逢った百合子。
彼女は寂しかった俺を癒し、心の空洞を見事に埋めようとしている。
感謝さえしていた。
しかし春美は俺にとって特別な存在だった。
だから春美を優先させ、今回百合子とのデートは断ろうと思っていたのだ。
皮肉にも百合子の誕生日だったなんて……。
百合子は下をうつむいたまま、しばらく無言で寂しそうにしていた。
無理もない。
彼女にとってその日は特別な日だったのだから。
一緒に祝ってもらいたかったのだろう。
俺は時間を掛けてゆっくりタバコを吸った。
一本吸い終わる間に酒を三回胃袋へ流し込み、無言のまま彼女が口を開くのを待つ。
しかし終始彼女は黙ったままである。
自分の誕生日を一緒に祝ってもらえるつもりで、これまでいたのだ。
悪いのは俺である。
二人の女に対し、俺は失礼な事をしていた。
どうする?
春美との約束を断るなんてできっこない。
しかしそれを優先させると百合子の誕生日が……。
俺は春美と会ってどうしたい?
理由なんてない。
ずっとあいつと逢ってみたいという一心で、ピアノを弾き、小説まで書き始めたのだ。
できれば百合子の想いも叶えたい。
だけど春美との約束は反故にできない。
春美との待ち合わせ時刻は昼の十一時。
長くなったとして夜中までにはなるまい……。
そう思った俺は申し訳ないと思いつつも、出来る限り優しく百合子へ声を掛けた。
「百合子、仕事で遅くなってしまうかもしれないけど、夜だったら時間は空いている。それで良かったら逢わないか?」
「ほんと?」
俺のつく嘘の誤魔化しに対し、嬉しそうに顔を上げる百合子。
心が痛んだ。
昼は春美と、そして夜は百合子とのデートである。
ずいぶんと俺も調子のいい事をできるようになったものだ……。
こんな俺と逢うというだけで笑顔を見せる百合子。
俺はクズだ。
しかし、それしか方法がなかった。
百合子にはすまないと思いつつも、やはり俺は春美との時間を無下にできない。
そんな最中、七月になって新宿歌舞伎町浄化作戦は開始された。
浜松の件で色々駆けずり回った俺は、疲労感いっぱいのまま家に戻った。
部屋に着くなりグッタリと横になる。
時計を見ると朝の九時になっていた。
待望の春美との約束の時間まであと二時間。
鏡を見ると自分でも疲れた顔をしているのが分かるぐらいだ。
こんな疲れきった表情を彼女に見せたくなかった。
一時間ほど軽く休んでおこう。
横になるだけで、眠るつもりはなかった。
ハッと目を覚ます。
いけない。
つい眠ってしまったのか……。
恐る恐る時計を見る。
無情にも針は昼の三時を指していた。
「え、馬鹿な?」
俺は起き上がり、もう一度時計を確認する。
壊れていない、正常だ……。
こんな時間まで俺は、寝てしまったというのか?
携帯電話をチェックすると、春美から着信履歴が三回あり、二通のメールが残っていた。
《岩上さん、どうかしましたか? 今、私は川越市駅を出たところにいます。先ほど電話を鳴らしましたが出なかったので、少し心配しています。改札を出たところで待っていますので、連絡下さい。 春美》
「……」
昼の十一時半に届いたメールだった。
《何かあったのですか? 私、ずっと待っていましたが、連絡がないのでこの辺で帰らせてもらいます。 春美》
昼の二時半に届いたメール。まだ三十分前……。
すると俺は三時間半も春美を待たせた挙句、すっぽかしたという事になる。
タイムマシーンがあったら。
何度もそう思った。
しかし現実はそんな甘くない。
慌てて春美へ電話を掛けた。
だが十数回鳴らしても、春美は電話に出ない。
急いでメールを打つ。
《春美、本当にゴメン。実は昨日仕事でとんでもない事があって、朝まで色々動き回っていたんだ。それで家に帰って軽く寝ようとして、今まで寝てしまった。こんなに待たせてしまって本当にゴメン。今から逢えないかな? 電話にとりあえず出てほしい。 岩上》
メールを送信すると、再度電話を掛けた。
しかし電話は無情にもコール音を鳴らすだけだった。
あれだけ彼女と逢う事を心待ちにし、三十歳になってピアノまで始めた。
やっとザナルカンドを春美へ捧げられる。
その最大の機会を俺は寝過ごすという、とんでもない理由でふいにしてしまったのだ。
悔やんでも悔やみきれない。
昨日、浄化作戦でうちの店が捕まり、部下が警察に捕まったなんて春美へ言えやしない。
いや、仮に言えたとしたところで言い訳にも何もならない。
俺が彼女を三時間半待たせ、すっぽかした事は事実なのだから……。
泣きそうな気分だった。
何でこう俺は馬鹿なんだろう。
今までいい加減に生きてきたからだろうか?
神様がいるというなら、俺と春美は永遠に結ばれる事のないよう悪戯をしたのか?
違う。
要は自分が悪いだけなのだ。
何かのせいにしたところで、何の解決にもならない。
それは自分が一番分かっている。
ボーっと座りながら、ただ時間だけが過ぎた。
自分のしでかした不始末。
自己嫌悪に陥っていた。
昼は春美。
夜は百合子と都合よく帳尻を合わせようとした俺に、天罰が下ったのだ。
何で俺はこんなにもついていないのだろう……。
いや、そんな風になってしまうぐらいなら、九時に寝てしまう前、川越市駅まで行ってずっと待っていれば良かったのである。
ついているとか、ついていないの問題ではない。
自分が駄目なだけなのだ。
夜になり、俺は百合子へ連絡をした。
そしてこの日、百合子の誕生日に俺と彼女は結ばれ、正式に付き合う事になった。
もう春美は忘れるしかないんだ。
長い期間恋憧れた春美への想い。
そろそろこの辺で区切りをつけないといけない。
春美からはもう卒業しなきゃ。
必死にそう自分へ言い聞かせた……。
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