岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

新宿セレナーデ 8

2019年07月19日 12時37分00秒 | 新宿セレナーデ

 

 

新宿セレナーデ 7 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

浅草には、浅草寿司屋通りと呼ばれる寿司屋の密集した通りがあった。お目当ての緑寿司が休みなので、そこへ向かう事にした。先ほどの台詞のせいか、秋奈はまだ顔を真っ赤に...

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 演奏が終わり、席に戻る。
 たった二名だけの小さな演奏会。
 マスターと阿波野は、俺を見て驚き、小気味いい拍手を送ってくれた。
「すごいじゃないですか。いつの間にそんな……」
 興奮しながら驚くマスター。
「いや~、いい曲だ。素晴らしい……」
 阿波野も絶賛の嵐だった。以前、この人に俺は署名運動の頼みを聞いた事があった。詳しくは分からなかったが、知り合いの音楽家が、大麻所持で逮捕された件についてだった。
「神威君ね、彼は私のかけがえのない友人で、絶大な音楽家でもあるんだ。そんな彼が誤解で捕まってしまった。だから署名運動に協力してほしい」
 当時、阿波野は必死な形相で俺に頼み込んできた。大麻所持で捕まっているのに、誤解も何もないだろうとは思った。しかし阿波野の顔を俺は立ててあげたかった。だから新宿の店に署名運動の紙を持っていき、五十名の名前を集めてあげた事があった。
 自分では楽器を弾かないが、音楽全般に詳しい阿波野。そんな人に絶賛されて、素直に嬉しかった。
「神威さん、随分と頑張ったんですね。音を聴いていれば分かりますよ」
 マスターがグラスを磨きながら、真面目な顔で言ってくる。
「ありがとうございます」
「ほんと、たいしたもんですよ」
「そんなに褒めないで下さいよ。照れます……」
 ピアノを始めて良かった。本当に心からそう思えた。
「まだ曲は一曲だけなの?」
 阿波野が聞いてくる。

「ええ、俺はやり始めたばかりなので、まだこれだけなんですよ」
「何て曲なの? さっきのは……」
「ザナルカンドです」
 自信を持って答えた。
「何だろう。聴いた事がないなあ~」
「そうですか。プレステーション2のゲームで、ファイナルファンタジーⅩってゲームがあるんですよ。それのオープニングテーマとして使われている曲です。CMとしてテレビでも何度か流れていますよ。ゲームしていたら、すっかりハマってしまいましてね」
 俺の台詞に、阿波野は何故か気難しい表情に変わっていた。
「何、ゲームの音楽だって?」
「ええ、そうです」
「駄目駄目…。ゲームなんかの音楽じゃ駄目だよ」
 急変した阿波野の態度。さすがにカチンときた。
「お言葉ですが、ザナルカンドの何が駄目なんですか?」
「だってゲームでしょ。たかがゲームの音楽に過ぎない」
 ザナルカンドは俺の魂そのもの。秋奈への想いだ。
「さっき素晴らしいって言ったのは誰ですか?」
「ゲームの曲だなんて知らなかったからね。音楽というものは、歴史ありきでもっと神聖なものなんだよ」
 何が神聖なものだ。それなら何でもいいから楽器の一つでも弾いてみやがれ……。
「俺がどんな思いでピアノをやったかなんて、阿波野さんには分からないでしょうね」
「いや、そのぐらい分かるさ。ただ選ぶ曲のセンスが悪い。私に言ってくれれば、ちゃんとアドバイスぐらいしたのにさ。よりによってゲームに使う曲を選ぶなんて……」
 俺の崇高な想いの中に、土足で踏み込んでくる阿波野。
「ふざけんなっ!」
 一気に火がついてしまった。
「さっき自分でこの曲いいねとか、抜かしたじゃねえかよ。それを俺がゲームの曲だって言っただけで、態度を急変…。悪いけどあんたみたいな人は、二度と音楽を語らないほうがいい。自分じゃ何もしないくせに、演奏者については偉そうに批評か? そんなのな…。誰にだってできるんだよ」
 怒りだした俺をマスターがなだめる。阿波野が許せなかった。俺のピアノは確かに未熟かもしれない。しかし一生懸命頑張ってきたんだ。
 阿波野は何も言い返せず、ポカンと口を開けていた。
 一気に酒がまずくなった。こんな下種野郎に曲を聴かせた自分が間違っていたのだ。俺は会計をして、ジャズバーをあとにする。
 もの凄く気分が悪い。秋奈に癒してほしかった。

 朝起きると、秋奈からのメールが届いていた。
《私があの服を着た姿が見たいなんて、そんな表現の仕方…。好きじゃありません 秋奈》
 短いメールだった。
 しかしこの短い文面ながら、俺は彼女のスタンスが少し分かったような気がする。二人の仲が進展しない理由。まだ秋奈がガキ過ぎるのだ。
 好きな相手なら抱きたい。裸をみたいという感情は誰でも当たり前だと思う。俺の彼女へ対する想い。ただおまえを抱きたいといっている訳ではない。秋奈のすべてを包み込みたいだけなのに……。
 それに店を休んだ事で時間が空いているなら逢いたいという意味合いで書いた事には、何も触れてくれない。
《気に障ったら、ごめん。悪かった。でも悪気があって言ったんじゃないって事を分かってほしい。女のエッチな服装がただ見たいというのではなく、秋奈だから見たいと素直に言っただけなんだ。下心とは違う、素直な俺の気持ちです 神威》
 返事を返すのを一瞬、躊躇った。何度か文面を読み直してから、送信ボタンを押した。俺のスタンスを少しでもいいから理解してほしい。
 結局この日、彼女からの連絡はなかった。
 何日か経ち、秋奈からメールは来るものの、内容は普通の日常話のみ。
 このままでは駄目だ。焦りを感じた。
 再び休みの日に、秋奈の店へ行く事にする。
 俺はまだ彼女に、ザナルカンドを捧げていない。近い内に、プライベートで逢わないといけない。そんな危機感もあった。
 席に着いた彼女は、相変わらず綺麗で可愛かった。顔を見ただけで幸せな気分になる。またそんな秋奈がこんなキャバクラで働くという現実に苦しさを感じていた。
「神威さん、少し疲れているんじゃないですか?」
 相変わらず秋奈は優しい。そんな言葉一つで、俺は癒される。
「今のオーナーって人間的に失格と言うか、本当に酷いオーナーでね…。でも、秋奈の顔を見たら癒されたよ」
「もう、相変わらず口がうまいですね」
「そんなんじゃないって、必死だよ。まだ君にピアノを聴かせていないし、やってない事がたくさんある。まだ、君を抱いてもいないし……」
 俺の台詞に秋奈は表情を曇らせた。
「そんな言い方は、好きじゃありません」
 また、秋奈の機嫌を損ねてしまったようだ。ここが正念場である。俺は覚悟を決めた。
「仕方ない。俺は秋奈が好きなんだから……」
「……」
「好きだから君を抱きたいっていうのは当たり前だ。もちろん心も一緒にね。知り合えて嬉しいけど、店でしか逢えないもどかしさも正直感じている。秋奈も俺も忙しい。やらなければいけない事があるのも分かっている。でも、俺は現状を思うと少し寂しい。だから焦っているのかもしれない。好きだから、焦るのは仕方がないんだ」
「……」
 秋奈は無言で黙っていた。俺はかまわず話した。
「君が好きだ。何度だって言う。だからピアノだって始めた。一つの曲を完成させた。それもすべて君に捧げたかったなんだ。迷惑かい、俺の気持ち……」
「迷惑なんかじゃありません。もちろん嬉しいです。こんな私の為に神威さんが頑張ってくれるなんて……」
「ありがとう」
「お礼を言うのは私のほうです。いつも色々してもらって……」
 俺の待ち望んでいたムード。彼女をとことん理解したかった。頭の中ではザナルカンドが鳴り響いている。
「まだまだ…。君に色々するのは、まだこれからだよ。カクテルだって作ってあげていない。デートだって一度しかしていない。しかも最期は俺の格好悪いところを見せてしまっている。名誉挽回もしたい」
「やだ…。まだ、気にしていたんですか?」
「それだけ、真剣なんだ……」
 秋奈は頬を赤らめた。黙って下をうつむいている。

「すいませーん、お客さま、そろそろ延長のお時間となりますが……」
 従業員が、俺たちの甘いの桃色の空間を台無しに土足で上がり込んできた。俺はジロリと睨みつける。いいところを邪魔しやがって。
 黙って財布から一万円札を取り、テーブルの上に放った。金を受け取り、その場からいなくなる従業員。
「駄目ですよ。お金を投げるなんて……」
 秋奈が怒った表情で俺に言ってきた。優しいだけでなく、こういうしっかりした一面もあるんだ。注意された事すら心地良く感じる。
「ごめんよ。以後、気をつけるよ」
 確かに金をそういう風に扱う点で言えば、北方と変わらなくなってしまう。
「ええ、そのほうがいいですよ。粗末に扱わないほうがいいです」
 俺が謝ると、秋奈はにっこり天使の微笑みをプレゼントしてくれた。
「でも、神威さんってすごいですよね」
「何が?」
「バーテンダーってだけでもすごいのに、ピアノにまで弾けるようになっちゃうなんて…。私は何もできませんから」
 罪悪感を覚えた。そう、俺は秋奈に対し、バーテンダーだと一つだけ嘘をついている。今、裏ビデオ屋の仕事をしているなど、口が裂けても言えやしない……。
「酒の事に関しては、俺はとても大事な事として、とらえているからさ。ピアノに関しては前にも言ったろ。秋奈…、君と出逢えたからこそ、俺はピアノを聴かせたいと思ったってね。他の連中など、どうでもいい。君さえ聴いてくれればいいんだ」
「私のどこが、そんなにいいんですか? 私には分かりません……」
「どこがって全部さ。顔立ちも、性格も髪型も、目も鼻も唇も耳も、目の下のホクロもすべてが気に入っている。何よりも君の存在そのものが好きだ。君の声は俺を優しく癒してくれる。反対に君がその気になれば、俺を簡単に傷つける事もできる。どんなものにも代えられない世界でただ一人の大切な人なんだ」
「……」
「どうしたの?」
「恥ずかしいです…。そんな事、言われたら……」
「そっか。でも、どんどん恥ずかしがってほしい。俺はそんな君の表情も大好きだよ」
「もう…。話題変えましょう……」
 プチトマトのように真っ赤な顔をした秋奈。ここが店なのかじゃなければ、抱きしめたいぐらいだった。
「少し私の兄に似てるんです。神威さんって……」
「顔?」
「いえ、考え方というか…、持っている雰囲気というんですかね…。うまく言えないですけど」
「どうだろう。でも、俺はね。秋奈がここで働いているのを知りながら、怒るだけの兄って違うと思う。自分は就職だって決まってないのに、秋奈を責める兄貴は馬鹿野郎だ。あと、俺に好きだとちゃんと言ってくれない秋奈も馬鹿野郎だ」
 どさくさに紛れて我ながら、とんでもない事を言ったものである。
「そうですね…。でも、ここじゃ、言いたくありません」
「ありごとう。それだけで俺は満足だよ」
 キャバクラとは本来、客と女の騙し合いの場所である。男は女とセックスしたいが為に金を使う。女は男からうまい具合に心を切り売りして金を貢がせる。例外もあるだろう。俺はその例外の一つになりたかった。こんな場所だって、ちゃんとした恋愛ができる。俺は秋奈と出逢ってそう感じた。いや、そう思いたいというほうが適切か。
 いい雰囲気のまま、俺は店をあとにした。

 仕事へ向かう途中、秋奈へメールを入れた。今日の内容は一味違う。この間、秋奈との話し合いで、俺はある確信があった。そろそろちゃんと付き合ってもいいだろう。そんな想いが日に日に強くなっている。
 秋奈は俺に好印象を抱いてくれている。それについて自信があった。
 だから、いい意味でメールを送ろう。何度も俺の気持ちは伝えたつもりだ。
《これから仕事だよ。今日は雨が降って嫌だね~。秋奈と相々傘をしながらなら、きっと楽しいんだろうね。秋奈、突然だけど、俺と付き合ってほしい。好きだというのは言った。ただ、君とどうしたいかをちゃんと言ってなかった。俺と正式に付き合ってほしい。君は俺の宝物だ。それでは仕事へいってきます 神威》
 送信ボタンを押すと、心臓がドキドキした。焦りはあったが、タイミング的にちょうどいいと思う。
 久しぶりに電車から見える外の景色に、目を向ける事ができた。いつも見慣れているはずの景色が新鮮に映る。この駅と駅の間には、こんな田舎っぽい部分もあったのかと、改めて感じた。
 今日は中番の小坂が休んだので、久しぶりにゲーム屋『グランド』へヘルプに行くようだった。タイ人のブンチャイと組んでの仕事。
 この店の従業員も俺に慣れたせいか、ほとんど自分たちでは動かない。すぐどこかへ出掛けてしまったり、食事に行きますと言ったきり、二時間も戻ってこなかったりする事が多かった。
 自分たちの店なんだから、もっと真面目にやればいいのに……。
 北方のやっている事は確かに酷いが、自分たちの行動はどう映っているのだろう。みんな、自分の欠点はなかなか気がつかないものである。暇な店だから何とか成り立っているだけで、前の店『ワールド』のように忙しい店だったら、ここの従業員は誰も役に立たないだろう。
 秋奈からの返事は、まだこなかった。
 いつもならさほど気にならない事が、今日はピリピリしている。心に余裕がないのだ。
 ブンチャイは先ほど「ちょっと外へ行ってくる」と言ったきり、三時間も戻ってこない。いい加減なタイ人である。
 店内は誰も客がいないので、俺は家から持ってきたノートパソコンを開き、昔のゲームをする事にした。
 しばらくしてインターホンが鳴る。モニタを見るとブンチャイだった。俺は扉を開け、彼を中へ入れると、再び鍵を閉めた。ブンチャイは右手に黒いバックを持っている。
「神威さん、家に帰ってパソコン持ってきた。ゲーム入れてほしい」
「はあ?」
「俺、パソコン持ってきた。ゲーム入れて」
 何とも図々しい男だろうか? 仕事中なのにブンチャイはわざわざ家まで帰り、パソコンを取りに行ったのだ。ひと言俺に断ってならまだいい。彼は何も言わず、ただ外へ出掛けただけなのである。こいつ、俺を舐めているんだな。じゃなきゃ、普通そんな行動はしない。
「う~ん、ゲームをブンチャイさんのパソコンに入れるって事ですか?」
「そう、入れて」
「悪いですけど、いまいちやり方分からないんですよ」
 嘘をつく。本当はすぐにそんな事ぐらいできた。ただブンチャイの態度が気に食わなかっただけである。
「嘘。神威さん、山田に入れた。俺知ってる」
 この野郎。妙な事だけはチェックしていやがるのか。以前山田が俺のパソコンを見て、ゲームを自分のパソコンでもできるようにしてほしいと頼まれた事があった。俺は仕方なく了承し、山田のパソコンへゲームを入れてやった事がある。
「せっかくパソコン持ってきた。早く入れて」
「分かりましたよ……」
 この店にいると、どうも調子が狂う。『ワールド』の頃なら考えられない事だ。ストレスが毎日のように蓄積されていく。

 ようやく『グランド』の仕事を終え帰ろうとすると、北方が店に来た。俺を見るなり、「神威、ちょっと下で店番をしてくれ」と言い、俺の返事も聞かずにどこかへ行ってしまう。
 今朝秋奈へ告白したメールの返事はまだ来ない。地下の『マロン』は携帯の電波状況がいちまいち悪く、今日はできればいたくなかった。仕方ない。北方は命令するだけして今下には誰もいないのだ。俺は階段を降りて、地下へ向かう。携帯電話の電波が圏外になった。ほら、だから今日は嫌だと感じたのに……。
 裏ビデオのファイルを貪るような客を相手にしながら、俺は『マロン』で二時間ほど働く。ようやく北方が帰ってきた。
「おう、もう帰っていいぞ。売り上げよこせ」
 そう言いながら北方はいつものように札を一枚一枚丹念にチェックし、一番汚い一万円札を放り投げてくる。以前秋奈の前で俺は札を放り投げた事があり、それを注意された事があった。この北方と俺は同じ事をしていたのだ。自分が恥ずかしい。
 地下から出て一階へ行くと、携帯の電波が通常に戻る。俺は早速メールが来ていないかチェックしてみた。
「……!」
 秋奈から待望のメールが届いている。思わず心が躍った。疲れきっていた精神がシャキンと回復する。男って本当に単純な生き物である。悲しいぐらいに……。
《神威さん、メールありがとうございます。神威さんの気持ち、とても嬉しいしく思います。でも今の私は学業、アルバイトとプライベートの時間も少なく、ある自分の目標というか目的もあります。まだ、それについては実現していないし、まだ目標の段階なので詳しくは言えません。私の現状が忙しくいっぱいいっぱいなのです。もう少し考えさせて下さい。時間を下さい。お願いします。私のわがままかもしれませんが、本当に余裕がないのです。 秋奈》
 秋奈にしては長いメールだった。俺は何度も何度も読み返す。秋奈の気持ちがよく理解できないでいた。
 忙しいのは分かる。俺だってそれは同じだ。だからこそお互いを支え合っていきたい。何故そう言ってくれないのだ?
 ある目的……。
 確か初デートの時も言っていたが、何も言わないんじゃ俺には分かるはずがない。知り合って三ヶ月以上は経っている。俺はピアノをまだおまえに捧げてないんだぞ。俺の何が不満なんだ?
 神経がピリピリ苛立っていた。
 近くの焼鳥屋へ入る。俺はウイスキーのストレートとチェイサー代わりにレモンハイを注文した。
 酒を飲む事で落ち着かせたかった。俺は何杯もお代わりをして、胃袋へまずい酒を流し込む。
「お兄さん、酒強いんだね~」
 捻りハチマキを頭に巻いた店のオヤジが声を掛けてくるが、無視をする。今の俺はそれどころじゃない。秋奈からのメールを何度も読み返したあと、メールを打ち込んだ。
《秋奈、心して返事してほしい。イエスかノー。俺が聞きたいのはどっちかなんだ。それぐらい真剣に聞いている。お茶を濁したような言い方はしないでほしい。俺は君の本心が聞きたいんだ。 神威》
 もう一度ウイスキーを一気飲みしてから俺は、メールを返信した。
 目の前へある焼鳥をがっつきながら食べる。すると秋奈からの返事が届いた。
《ごめんなさい。神威さんが私の気持ちを理解せず、そのような事を言うのなら、私たちもう逢わないほうがいいみたいですね。何かガッカリしました。 秋奈》
 携帯を持つ手が震える。何だ、このメールは……。
 何故、こうなるんだ? 俺が悪いのか? 違うだろう。
 秋奈は何故こんな事を言ってくるのだろう。この間までうまくやってきたじゃないか。それとも他のキャバ嬢みたいにいい加減な子だったのか。俺を都合のいい客として、心の中でせせら笑っていたのか。
 頭の中で色々考えたが、ネガティブな発想しか浮かばない。
「何だい、お兄さん。顔が青褪めてるぞ。ちょっと飲み過ぎじゃないのかい?」
 店のオヤジがまた声を掛けてくる。
「うるせえ! 少しは黙ってろよ」
「……」
 シーンとなる店内。回りの客は一斉に俺を見ている。
「すみません、少し苛立ってました……」
 別にこのオヤジが悪い訳じゃないのに俺はどうかしている。こういう時こそ落ち着かなきゃ駄目だと自分に言い利かせた。会計を済ませ、外に出る。先ほど届いた秋奈からのメールを何度も読み返した。
 もう終わりだと言うのか? 何故だ……。
 すっかり熱くなった頭が感情を暴走させる。俺は返信メールを打ち出した。
《分かったよ。とても残念だ…。秋奈の本音がよく分かったよ。俺にもっと真剣に向き合ってくれてると思ったよ。俺の単なる自惚れだったみたいだね。まあ、君の本音が聞けて良かったよ。だったらもっと早く言ってくれよ。無駄な時間、使わなくても良かったのに……。 神威》
 あえて酷い内容を書いた。頭の中を血が激流のようにグルグルと回っている。ヤケクソだった。こいつもしょせん、他のキャバ嬢と同じだったなんだ……。
 ふざけやがって……。
 言いようのない怒りが全身を覆う。打ったメールを送ろうとした。でも、送信ボタンを押せないでいる。
 これを送れば、秋奈との仲は終わる……。
 それだけは分かっていた。
 何度も深呼吸をした。落ち着きたかった。自分でも混乱しているのが分かる。帰りの電車に乗っても、自分の打ったメールを何度も読み直した。
 男として俺は生きてきた。自分の言いたい事を相手に伝え、別れになるかもしれない。逆に言えば、これだけ真剣なんだと分かってほしい気持ちもあった。秋奈なら俺のこのメールの本意が分かってくれるんじゃないか。
 目を閉じ満身の想いを込めて、俺は送信ボタンを押した。

 家に到着しても、まだ秋奈から返事はこない。
「勝手にするがいいさ……」
 俺はキーボードの電源をつけ、ザナルカンドを弾きだした。荒んだ心を音色は優しく癒してくれる。
 演奏をやめ、考えてみた。
 今、俺は何の為にピアノを弾いている?
 誰の為に始めたんだ?
 自然とザナルカンドを弾いていたが、自分を癒す為だけにこの曲を必死にマスターしたのか?
 いくら自問自答を繰り返しても、答えは出なかった。
 もう何も考えたくない……。
 再び俺は、ザナルカンドを弾き始めた。
 目の前が滲む。いつの間にか俺は泣いていた。視界が曇る中、指の感覚だけでピアノを弾いている。こんなに努力してまで弾けるようにしたんだぞ、俺は……。
 あれだけ好きだった秋奈。
 すぐに倒れそうな積み木を集中して一つ一つ丁重に積み上げる。そんな感じで秋奈には接してきたつもりだ。ちょんと押しただけで簡単に積み木は崩れてしまう。俺は焦るあまり、信頼という積み木を自分で崩してしまったのかもしれない。
「まだおまえにザナルカンドを捧げてないんだぞ!」
 思い切り叫んでみた。
「秋奈、おまえに聴かせたいからこんなに頑張ったんだぞ!」
 俺は一心不乱に鍵盤を叩き出す。
 目を閉じたって弾ける。それぐらい練習した。視界が涙で曇っても、俺には関係がない。この曲だけは、精魂込めて弾ける。
 こんな時、電子音は悲しい。これだけ感情を込めているのに鳴る音は同じ。いつもと変わらない。自分の感情がストレートに出る弦楽器のピアノで弾きたかった。
 携帯を手に取り、秋奈にメールを打ち出した。
《何故返事一つくれない? そんないい加減な気持ちで俺に接していたのかよ? 神威》
 送ろうとして思い留まる。やめておこう。これ以上、俺の怒りの感情をメールで送っても虚しさを感じるだけ。
 俺に対し、秋奈は完全に心を閉ざしてしまったのだ。
 永久にザナルカンドを聴かせる日など来ない……。
 仕事明けで疲れているはずなのに、なかなか眠れないでいた。
『ノクターン』に行ってみようか……。
 先生にグランドピアノを弾かせてもらおう。
 一人で考えていると、頭がおかしくなりそうだった。

 夜の九時過ぎだというのに、先生は嫌な顔一つせず、グランドピアノを弾かせてくれた。
 俺は目を閉じて、一つ一つの鍵盤を丁寧に叩く。自分の感情の乗った綺麗で寂しい音が、耳に流れ込んでくる。耳を澄ませながら、心を込めて弾いた。
「随分と頑張ったのね……」
 真面目な顔で先生は話し掛けてくる。俺は一瞬だけ微笑んで、左右逆にして弾く。
 曲が弾き終わるまで室内は、俺のせつなさを乗せた音だけが飛び回っていた。
 グランドピアノは残酷である。
 弾いた演奏者の心を丸裸にしてしまう。
 泣きそうになるのをグッと堪え、最後までザナルカンドを弾いた。
 パチパチパチ……。
 演奏が終わった途端、先生が拍手をしてくれる。
「驚いたわ。そんな弾き方までできるなんて……」
「俺…、これしか弾けないですから……。でもこの曲だけは、世界で一番俺がうまく弾きたかったんです……。もうどうでもいいんですけどね……」
「神威君、ちょっと私に弾かせてくれるかな?」
「はい……」
 俺は椅子から立ち上がり、先生の演奏を後ろから眺める事にした。
 指が魔法を唱えるように動き出す。俺には絶対に真似できない動きだった。
 先生の奏でるメロディは力強く、そして元気を与えるような曲だった。初めは細かく小刻みに。テンポも凄まじい速さだった。指があっちこっちに飛び乱れ、激しい曲を形成していく。
 その姿を見て素直に感動した。先生って本当にすごいんだ……。
 どこか引っ掛かるような感じの音が、俺の沈んだ気持ちを徐々に奪っていく。削られた部分に暖かい血液が注ぎ込まれ、暗雲漂う魔界のようだった心に光が差し込んでくる。
 あれだけ激しかった指先がピタリと止まり、先生は静かに口を開いた。
「ショパンの英雄ポロネーズって曲よ」
「へえ……」
 もっと他の曲も聴いてみたい。素直にそう思った。俺もまだピアノを続けていきたい。
「神威君、もう一曲だけ、先生が弾いてもいいかしら?」
「え、はい。お願いします。」
 俺の心を読み取ったのか、先生は優しく微笑み、視線をピアノに向ける。
 耳を澄まさないと聴こえないぐらいの小さい音。丁寧に細かく奏で、リズミカルにだんだんと音がはっきり聴こえてくる。白と黒だけの鍵盤で、指を縦横無尽に走らせる先生。俺なんかとは、レベルが違い過ぎる……。
 似たようなメロディをこれでもかというぐらい繰り返し、曲は一気に爆発した。俺の体に電撃が走る。音に俺は圧倒されていた。
 一つ気づいた事がある。先生はピアノを弾いている時が、本当に一番楽しそうだった。まさにこの人にとって、ピアノの仕事って天職なんだ。これじゃ、亡くなった時、ピアノで棺桶を作ってちょうだいとか、言い出しそうだ。
「格好いい曲ですね」
「でしょ?」
 先生は少女のように、はしゃいで喜んでいる。
「迫力があって、曲の強弱も……」
「元気出た?」
「はいっ!」
「ドビュッシーの舞曲、スティリー風のタランティアって曲」
 非常に綺麗で鮮やかさを感じさせ、なおかつ力強い曲だった。
「先生って、ピアノ弾いている時、本当に楽しそうですよね」
「うん、だって本当に楽しいもん」
 嬉しくて仕方がないといった表情の先生。まるで無邪気な子供のようだ。
「先生って、得意なジャンルは何になるんですか?」
「私はもちろんクラシックよ」
 それなのにザナルカンドも受け入れ、俺をここまで弾けるように仕上げてくれたのか。感謝しても仕切れない。
 傷ついた俺の心を癒したのはザナルカンドではなく、先生の力強いクラシックだった。
 ザナルカンドは、せつなさや悲しみを感じさせる曲。今の俺を元気づける事は難しい。
 一曲でいい。クラシックの曲を弾けるようになりたかった。

 先生にお礼を述べてから『ノクターン』を出ると、ジャズバーへ向かう。前回の阿波野との揉め事。気になったが、あの程度の事でここへ来られなくなるのは嫌だった。
 中へ入ると、カウンターに一人の女性客が座っているのが見える。
 マスターに俺は申し訳なさそうに会釈をして、カウンター席に腰掛けた。
「いらっしゃいませ」
 マスターは先日の阿波野との一件に何も触れず、黙ったままグレンリベットを静かに置く。
「先日はすみませんでした……」
「いえいえ、あれはしょうがないですよ」
 軽く微笑みながら酒をグラスに注ごうとするマスター。
「あ、マスターごめんなさい。俺、さっきまで新宿で散々酒を飲んできたんです。アイスコーヒーをもらえますか」
 ここのマスターのアイスコーヒーは絶品だった。
「アイスコーヒーなんですが、まだ豆を選別しているところなので時間掛かりますよ?」
「じゃあ、とりあえずトニックウォーターもらえます」
「すみませんね、神威さん」
 口当たりもよく、軽い甘味を感じさせるトニックも好きだった。これを使った有名なカクテルは、ジントニック。ジンを四十五ミリグラム入れ、トニックウォーターを適量注ぎ、カットしたライムを添える。非常にシンプルなカクテルだが、人気は高い。
 マスターはコーヒー豆を一粒一粒丹念に見分け、大きなザルヘ選別している。
 いくらコーヒー通だと言っても、俺から見れば異常である。しかし、その異常なまでのこだわりが、うまいコーヒーを作り出す秘訣なのかもしれない。
 二十分ほどして、マスターは豆の選別を終える。次は選別した豆を炒める作業だ。この時、店内いっぱいに漂う優雅なコーヒーの香りが溜まらなく好きだった。
 ポケットに入れていた携帯のバイブが振動しだした。電話かな?
 携帯を取り出し見てみると、秋奈からのメールだった。
 俺の心臓はドキッと大きな音を鳴らしていた。
《随分と自分勝手な人だったのですね。こんな人だったのかってガッカリしました。私、本当にいっぱいいっぱいで余裕がないんです。今の現状が…。でも神威さんとの時間作りたかったから二十歳の前日、時間を作りました。付き合ってくれって言われ、一人でずっと真剣に悩んでいたのが、何だか馬鹿みたいですね。自分中心な意見、どうもありがとうございました。もうメールしないで下さい。 秋奈》
 時間がすべて止まったような感じがした。何だ、この感覚は……。
 自分であんな酷い内容のメールを送り、割り切ったつもりでいた。それでも秋奈からのメールは深く心に突き刺さった。まるで鋭利な刃物でズブッと突き刺されたようだ。
 一人でずっと真剣に悩んでいた?
 何故それを早く言ってくれないんだ……。
 何度も秋奈のメールを読み返してみた。こんな気持ちを持っていてくれたなんて……。
 勝手に焦り、自分で墓穴を掘ったのか、俺は?
 呼吸が荒くなっていた。
 落ち着け……。
 冷静になれ……。
 気が動転している。
 おかしい。
 どうかしている。
 秋奈が俺との事を真剣に考えていてくれた。嘘だろ……。
 何でこんな事、書くんだよ。
「マスターすみません。すぐに戻りますから……」
 俺は慌てて店の外に出て、電話を掛ける。
 何度コールを鳴らしても、秋奈は出なかった。俺はいたずらに彼女を傷つけたのか。また電話をする。二十回コールを流しても出てくれない。
 諦めてジャズバーに戻った。これで完全に終ったのか。そんなのは嫌だ。席に着き、メールを打ち始めた。
 俺は土壇場になると女々しい……。
《本当にごめんなさい。どうかしてた。とても反省してる。君の気持ちを考えていなかった。秋奈に逢いたいよ。今すぐにでも……。 神威》
 メールを送る。自分の馬鹿さ加減にうんざりした。頭を抱え込み、カウンターに突っ伏すと、「ねえ、あなた、ピアノを弾くの?」と横の女性が声を掛けてきた。俺のいない間、マスターに何か聞いていたのだろうか。
「え? 弾くってそんな大層なレベルでもないですよ」
「ぜひ聴いてみたいわ。あなたのピアノ」
 人が塞ぎ込んでいるというのに、この女性はどういうつもりだ?
「こちらのお客さん、ピアニストなんですよ。色々な場所で語り弾きをしているんです。今日はプライベートでいらしてますけど」
 マスターが、間に入り説明してきた。
 プロのピアニストか……。
 本来、秋奈に捧げるはずだったザナルカンド。もう俺にとって意味のないものになってしまった。このままじゃやるせない。このまま一人で考え込むぐらいなら、プロに演奏を聴いてもらうのも悪くないか。
「分かりました。俺、弾いてみます」
 席を離れる前に、トニックウォーターを一口飲む。ジュワッとした炭酸が、喉を刺激する。店内の音楽がふとやんだ。俺は席を立ち、ピアノの方向へ歩き出した。

 ここのピアノを弾くのは何度目だろう。今の心境に、ザナルカンドはしっくりくる。何も考えず、今の気持ちを指先に込めて弾けばいい。
 ジャズバーに似合わない音楽がこだまする。
 秋奈……。
 こんなにも俺は、おまえを思っているんだぞ。
 このピアノの音色、秋奈に届け……。
 聴こえているかい。俺のザナルカンド……。
 清らかな夜空を通って、秋奈にプレゼントしてくれ。
 そして彼女を癒してほしい。
 威風堂々、力強く。この想い、天まで届け……。
 いつものせつないメロディが、心なしか力強く聴こえた。俺だけのザナルカンド。この想いを鳴り響かせろ。
 演奏が終わると拍手が起きた。俺は立ち上がり、頭を下げる。たった二人の拍手が今の俺に、優しく染み渡る。
「綺麗な曲を弾くのね。聴いた事ないだけど」
「ゲームの曲なんです。オープニングの……」
 以前、阿波野がゲームの曲だと知った瞬間の豹変ぶりを思い出しながら、あえて言ってみた。
「いいじゃない。へえゲームの曲なんだ? 本当に素晴らしい曲だわ」
 素直に嬉しく感じた。ザナルカンドをいい曲と言われると、自分まで褒められているような気がする。
「何で急にピアノを始めたの?」
 ピアニストが素朴な質問をしてきたので、俺は秋奈との出会いから、今までの事を簡単に説明した。人に話す事で、随分と気も紛れる。
「ふ~ん、そういう情熱があの演奏の裏側にあった訳ね」
「もうどうでもいいですけどね……」
「ピアノはもうやめちゃうの?」
「う~ん、それとこれはまた別だと思うんです。素人だった俺が、ここまで弾けるようになったんです。ピアノを弾く楽しさ、面白さは分かりましたからね。自分を教えてくれた先生ってクラシック専門なんですよ。だから恩返しという意味合いでも、いつかクラシックの曲を弾きたいなあって思ってはいます。何か俺に似合って弾けそうな曲って何かありますか?」
「そうね、ドビュッシーなんかいいんじゃないかしら」
 ドビュッシー……。
 今日、先生が弾いてくれた曲の一つもそうだった。確か舞曲のスティーリー風だか何だか、フランス料理みたいな名前の曲だったっけ。
「ドビュッシー……」
「私、何か弾いてみようか?」
「え、いいんですか?」
「その代わり、ビール一杯ぐらいは奢ってよね」
「了解です。マスター、こちらの方にビールをお願いします」
 ピアニストはニコリと笑い、ピアノへ向かう。
 綺麗な音色が不規則なリズムで聴こえてくる。俺レベルでも右手で主音を奏で、左手で伴奏をしているの分かる。ザナルカンドみたいな左右の共同作業とは、まったく種類の違う複雑な曲だった。
 ザナルカンドは右も左も、同時に押すタイミングは同じだ。だがこの曲は、別々のリズムで奏でられている。
 強弱はちゃんとあるのに、すべての音色が一定の美しさを保っているように聴こえた。今の俺には、どう足掻いても弾けないレベルの曲だ。
 それにしてもどこかで聴いた覚えのある曲でもあった。どこで聴いたんだっけ……。
「……!」
 以前見た凄腕のピアニストであるデュークの夢。あの時、彼が弾いていたものの一つがこの曲だ。体の中を電気が駆け抜けるような気がした。どこか懐かしい感覚。あれほど苛立ち歯痒かった気持ちが、自然と穏やかになっていく。
 目を閉じると、彼の一心不乱に弾く姿が浮かび上がる。
 デュークの夢を一度見ただけなのに、何故俺はこんなにもハッキリ覚えているのだろうか?
 ピアニストの演奏が終わる。俺は盛大な拍手を送っていた。久しぶりに心の底から手を叩いていた。

 得意げな表情でピアニストは、俺の横に座る。
「すごいうまいです。左右の手が別々の生き物のように思えましたよ。綺麗な曲ですね」
「アラベスクの第一番。いい曲でしょ?」
「ええ、本当にいい曲でした。俺じゃ絶対に弾けない曲ですけどね」
 ドビュッシーの曲は、これで二つ聴いた事になる。全然感じの違う曲同士だったが、俺は両方とも甲乙つけがたいぐらい好きになった。
「そうですね。マスター、そろそろチェックいいですか」
 明日も仕事だ。さすがに今日みたいな日はゆっくり休みたい。秋奈の一件は俺の心をズタズタに切り裂き、絶大なダメージを与えている。
「あなた、仕事は何をしているの?」
「バーテンダーです」
 また嘘をつく。それは五年以上前の話だろうが…。どうでもよかった。
「へえ、格好いいなあ……」
「ピアニストのほうが格好いいですよ」
 怪しげな瞳で俺を見つめるピアニスト。顔立ちは綺麗だが、少し酒に酔っているようだ。
「もっと飲んで行きなさいよ」
「明日に差し支えますから」
「大好きな子に振られて悲しいんでしょ? こういう時はヤケ酒もいいんじゃない」
 ヤケ酒か。確かに今日ぐらいグデングデンになるまで飲んでいたかった。
「そうしたいのは山々ですが、今は一人になりたいんですよ……」
 マスターからお釣りを受け取ると、席を立ち上がった。
「じゃあ、ピアニストさん。演奏、ありがとうございました。ビール、もう一杯分払っておいたので、ゆっくりして下さい」
 店の外に出ると軽く伸びをした。あれから秋奈の返事は何もない。いくら謝っても取り返しつかないのかもしれないな……。
 秋奈の事を思うと、やるせない気持ちになってくる。
 ピアノを弾いている時は、このやるせなさを音に代えて表現できた。これから俺はどうすればいいのだろう。
 その時、背後でドアの開く音がした。
 振り返ると、ピアニストが微笑みながら近付いてくる。
「本当に家へ帰るのかしら?」
 二人の距離がどんどん近付く。
 やばい……。
 ピアニストは俺の首に両腕を回してきた。息が顔にかかる。少し酒臭い。女の匂いが鼻をつく。嫌いな匂いじゃなかった。ひそかに興奮している。
 唇と唇が触れ合う。俺はそのままの状態で立っていた。不思議と秋奈に悪いという罪悪感はない。このまま流されたら、どんなに楽だろうか。
 口の中に女の舌が捻り込んでくる。アルコール漬けの匂いを染み込ませながら、女の舌は激しく俺の口の中で動いていた。気持ちがいい……。
 長いキスを終え、ピアニストは妖艶な瞳で俺を見つめていた。
「ねえ……」
「……」
「あなたのピアノを分かる女のほうがいいわよ」
「どういう意味です?」
「あなたがどれだけ苦労して、あそこまでピアノを弾けるようになったのか。その努力を理解できる女のほうが、あなたにはいいんじゃない?」
 その通りかもしれない。何もない状態から、秋奈に聴かせたい一心で頑張った。それなのに彼女は一度も聴いてくれない。その事が一番悲しかったのだ。
 今、俺はこの人から誘われている。このまま流されたほうがどんなに楽な事か。他の女を抱けば、秋奈を忘れる事ができるかもしれない……。
 美人ピアニストを抱く。悪くない。
「ね、そう思うでしょ?」
 再びピアニストの両腕が俺の首に巻きつく。この女なら俺を理解してくるかもしれない……。
 その時、秋奈の悲しい顔が頭の中に浮かんだ。咄嗟にピアニストを突き飛ばす俺。
「な、何すんのよ!」
 俺の行動に女は醜く顔を歪める。
「これ以上、俺を汚すな…。ピアノを始めたんだって、一人の女に…。秋奈に聴かせたかっただけなんだ! それ以外の女に、俺の弾くピアノを分かってもらおうとは思わない。俺は努力なんてしてない。ただ、秋奈に捧げたかっただけなんだ……」
 俺はいつの間にか泣いていた。こんなにも俺は秋奈が好きなのだ。自分が情けなかった。
「ふん、ばっかじゃないの。どうぞ、ご勝手に……」
 ピアニストは不機嫌そうにジャズバーの中へ戻っていった。

 

 

新宿セレナーデ 9 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

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