2024/11/10 sun
前回の章
どこ行っても何をしても駄目。
だけど今は、落ち込む暇なんて無いだろ?
では、どうしたらいいか……。
家でまた親父や加藤皐月が無茶をして、おじいちゃんを困らせるかもしれない。
だから地元川越から離れる事はできない。
どうする?
サラリーマンには向いていない。
人に使われるのも難しいと思う。
自分自身は身勝手だけど、人から理不尽な事をされるのは嫌い。
いつも自分のしている事を多くの人に分かってほしいと思っている。
夢中になれる事には常に没頭。
ずっとそうやってやってきた。
頭の中に風景が浮かんでくる。
久しぶりに俺は、その風景の絵を描いてみた。
星の上にポツンと一人で立つ変な絵。
小説も書かず、数日に渡って何枚もの絵を描いた。
自分で商売をするしかない……。
地元で何をすればいいか?
バーテンダーのスキルを活かしてバーをやるか?
いや、このご時勢でやっていけるのか自信が無い。
理想は暇な時、小説を書きながらできる職業がいい。
考えろ。
過去やってきた事を思い出す。
どうしても格闘技時代にぶつかってしまう。
待てよ……。
人の身体を散々壊してきた。
喧嘩で骨を折った事もある。
ナイフで切られた事もあった。
人体の構造。
壊す事に掛けてはリアルにシミュレーションができる。
しかしそれはあくまでも破壊行為に過ぎない。
逆は何か?
治す事だ。
壊してきたからこそ、治しも分かる。
以前総合格闘技復帰する際、近所の腕のいいTBB総合整体の先生から五年に渡って手ほどきを受けた時代もあった。
人の治し方は、ある程度把握している。
人のいい先生だった。
俺とは気が合い。
当時新宿から仕事で帰ると、毎日のように顔を出した。
施術を受けるだけでなく、お茶を飲みながら話す。
先生は俺に自分の技を惜しみなく教えてくれた。
中周波の器械も入れ、よくこれで筋肉トレーニングをした。
俺からは正規の金額を取ろうとしない先生。
いつも「五百円でいいです」と笑顔で言っていた。
悪いからたまに「受け取って下さい」と、一万円札を置いていった。
しかし人の良さが災いし、整体の経営が行き詰まってしまう。
今にして思えば、暇な整体だったのだろう。
もう何年前になるだろうか?
先生は整体を閉め、連絡も取れなくなってしまった。
何か事情があったのだろう。
いや、整体という商売を失敗したあの場所、そして関わった人間ともう関わりたくなかったのかもしれない。
俺が巣鴨警察にパクられ、出てきた頃の話だ。
近所のおばさんたちに、「あそこの先生、本当に腕良かったのにね~」と惜しまれていた。
「智ちゃん、肩凝りとか治すの上手いから、自分でやってみたら?」
そんな事もよく言われた。
マッサージのような相手を気持ち良くするようなもんじゃなく、本当に具合の悪い人を治してあげたい。
それで喜んでもらう仕事っていいんじゃないか?
整体……。
もう俺が習った整体の先生はいない。
再び連絡をしてみたが、繋がらない。
ではどうしたらいいか?
決めた。
俺は自分で整体を開業しよう。
患者がいない時は小説を書き、いる時は誠心誠意接する。
いい仕事だ。
自分でブログにこの決意を書き込んでみる。
この頃、百合子のチェックが厳しい『新宿の部屋』はたまにしか記事を書かず、新しく『智一郎の部屋』というブログをこっそり作っていた。
知り合いにも言ってみた。
ほとんどの人が、「いいんじゃない」と笑顔で賛成してくれた。
保健所へ行き、どうすれば商売をできるか聞いてみる。
すると整体は特に免許がないので、自由に開業できるらしい。
特別に申請をする必要もないようだ。
やっちまうか……。
俺はこの日から不動産を回る事にした。
外に出た瞬間、大雨が降る。
大きな雷まで鳴っていた。
ずぶ濡れのまま街を歩き、いい物件がないか探す。
前に技を伝授してもらった整体の先生の失敗は、二階の物件を借りた事だったんじゃないか?
エレベータもなく、急な階段しか移動方法がない。
元々身体の悪い人が来るのだ。だから一階の物件じゃないと話にならない。
その時、暗い夜空に一陣の雷がピカッと光る。
その雷の運命的なものを感じた。
その方向を眺めていると、本川越駅前に空き物件があるのを見つけた。
本川越駅ビルのぺぺ入口から真正面。
駅の改札を出て、真っ直ぐ歩けば到着する場所でもある。
俺のよく行くJAZZ BARスイートキャデラックはすぐ裏手だ。
ぜひ、ここを借りたい。
自分でムチャクチャな考えと勢いでの行動なのは自覚していた。
しかし、俺がサラリーマンをやってどうする?
また不平不満を理由に辞めるだけだ。
俺は物件を管理する不動産へ電話を入れた。
十一月半ば。
寒い日だった。
不動産へ電話を掛けた俺。
探した物件から見える位置にあったので、俺は不動産屋トヨタハウス興業へ向かう。
坪数五・二坪の狭さ。
見取り図も渡された。
ベッドを一台置ければ充分である。
「この物件、家賃いくらですか?」
「え~とね~。十三万六千五百円だね」
「え、そんな高いんですか?一坪二万六千円もするんですか?」
「駅前で人気ある物件だからね」
こちらが年下かもしれないが、こっちは客である。
その客である俺が敬語を使い、礼儀を払っているというのに、この不動産のオヤジは何でこうも態度がデカいのだろう。
「もう少し負けて下さいよ」
「う~ん、無理だね~」
「じゃあ分かりました。ここ、抑えて下さい。俺、借りますから」
「結構金掛かるよ?」
「どのくらいですか?」
「ちょっと待ってね」
オヤジは電卓を取り出して叩き始める。
「そうだね。八か月分掛かるから、百万飛んで九万二千円だね」
「え~、そんな高いんですか?」
「しょうがないよ。人気物件だから。嫌なら借りなきゃいいんだよ」
こいつ、本当怒鳴りつけてやろうか。
人を舐めた態度取りやがって……。
いや、これから自分で開業しようというのに、こんな事で怒ってどうする。
堪えておけ。
「金を用意すればいいんですね。すぐ契約したいんですけど」
「ん~、大家には連絡入れておくから。十二月ぐらいになるかな?」
「まだ十一月は二週間残っているじゃないですか。早めにお願いしますよ」
「相談してみるよ」
「分かりました。では、よろしくお願いします」
「保証人も用意してもらって、あと審査も必要だからね」
「今日中に用意しますよ。そうすればすぐにでも借りれますね?」
俺は親戚のおじさんに保証人を頼みに行った。
頭を下げ、必死にお願いした。
親父に頼む訳にはいかない。
あの男に何かしらの借りを作る訳にはいかなかった。
親父の五人兄弟の二番目の姉の京子おばさんとその旦那ボイラー会社の三進産業のおじさんは嫌な顔をせず、保証人の書類にサインをしてくれた。
心から感謝である。
その日の内に不動産へファックスを送った。
俺は馬鹿だ。
本当の大馬鹿だ。
不動産にあんな啖呵切っておいて、金が無い。
数十万程度しか持っていない。
百万ちょっと掛かるとか言っていたよな…、あの偉そうなデブオヤジ。
あー、どうしよう?
恥を偲んでおじいちゃんのところへ行った。
「おじいちゃん…、俺ね、整体をやろうと思う。でも…、金が足りないんだ……」
本当に申し訳なかった。
でももう整体を開業する以外考えられなかった。
「何でまた整体なんだ?」
「急に閃いた。それで外出たら雷がゴロゴローって鳴ってさ」
「おまえの言う事は、さっぱり分からん」
「ごめん…。でもね、整体やって色々な人を治したい!」
「いくら必要なんだ?」
「ひゃ…、百? いや、他にも色々用意するようだから……」
おじいちゃんは黙って二階へ上がっていく。
そりゃそうだよな……。
馬鹿な孫を持ったと思うよな……。
自分でも馬鹿だと思うもん。
タバコに火をつけ、居間にある仏壇を眺める。
おばあちゃんの写真。そして戦争時亡くなったおじいちゃんのお兄さんの写真。
ごめんね、祖父不幸な孫で……。
線香を二本あげた。
おじいちゃんが二階から降りてくる。
「ほら、まったくおまえは……」
テーブルの上に置かれた二百万の束。
「え、何これ?」
「ちゃんとやるんだぞ」
「ありがとう、おじいちゃん!」
三十四歳にもなって、まだおじいちゃんへ借りを作ってしまう。
「ちゃんとやるからね! 不動産行ってきます!」
俺は深々と頭を下げ、家を飛び出した。
勢い良く出たはいいが、まだ考えなきゃいけない事たくさんないか?
整体を始めるに当たって、何が必要か一度家に帰って考えた。
ベッドは必須。
それと高周波の器械もほしい。
あとは病院にある移動式カーテンみたいなやつ、パテーションって言ったっけな。
医療用品を扱っているところなんて知らないし……。
そういえば介護用品の店ならあったっけ。
俺は実際に行ってみる事にした。
ベッドはいくらぐらいするのか?
そういったものを把握しとかなければ駄目だ。
物件は何とかなる。
次に中身だ。
思い立ってからすぐ開業。
無茶苦茶な事をしているのは百も承知だ。
しかしこの勢いで突っ走りたかった。
人を治し本当の意味で笑顔にさせながら、空いた時間を小説の執筆にも当てられる仕事。
実現すれば、最高だ。
周りから見れば半ばヤケクソに見えるかもしれない。
しかしどう見られようと構わない。
俺の人生なのだ。
やるのは俺。
成功しようが、失敗しようが自分でケツを拭くしかない。
地元川越でずっと育ってやってきた。
みんながどう俺に対し考えているかなど、本音の部分は分からない。
今までの自分を信じよう。
三十四歳にして大きな賭けでもあった。
家の目の前にあった映画館ホームランの社長であり、俺の六つ上の先輩でもある櫻井さん。
彼に医療メーカーを紹介してもらう。
中周波の器械もあれば、高周波の器械もある。
実際に器械を自分の身体で試させてもらった。
治療として使えるだけでなく、筋肉トレーニングとしても大丈夫。
やり方次第でダイエットにも使えた。
人間の手だけで人を治すのは限界がある。
自分の手技と高周波の連動治療。
俺は二百万弱する高周波をリース契約する事にした。
それとズボンのように履き、エアーによって足のむくみ、血行を良くしたり、冷え性を改善したりするエアーマッサージ機。
ハイパーメドラーという器械も契約する。
これで治すとかでなく、純粋に気持ちいいのだ。
患者の嬉しそうな顔が思い浮かぶ。
案外高いもので、八十万した。
うつ伏せになった際、息ができるように穴が開いた医療ベッド。
これも一台十万円もとられる。
医療用品は高いと噂で聞いた事あるが、本当に高いものだ。
二台購入したので、単純にベッドだけで二十万である。
移動式カーテンのようなパテーション。
一枚でこれも一万円。
部屋の配置を考えると、最低五枚は必要だ。
だからこれだけで五万円。
金が飛ぶように飛んでいく。
仕方ない。
自分で店を開業するとはこういう事なのだ。
メーカーの人間は、俺の事を何度も「先生」と呼んでいた。
「あの、その先生って言うのやめませんか? 別に大した事をしている訳じゃなく、器械を契約しているだけなんですから」
「いえいえ、先生ですよ。白衣も似合いそうで」
「よいしょとか嫌いなんですよ、俺。岩上って名前あるので、名前で呼んで下さい」
「でも……」
「お願いしますよ。先生って呼ばれると背中がむず痒くなり、気持ち悪いんです」
「分かりました、岩上さん」
医療関係はこんなもんでいいか。
あとは実際に使う備品や冷蔵庫などを買いに行かねば……。
ご利益も必要か。
そう思った俺は、先輩がお坊さんをやっている成田山川越別院へ向かう。
この先輩とは俺が高校生時代、ガソリンスタンドの山口油材いる時に出会った。
ケンタッキーをクビになったあとだから、高校二年生の頃。
坊主のくせに小遣い稼ぎとしてアルバイトをしていたのだ。
自分で「生臭坊主」と言っているぐらいだから、さばけた性格である。
つき合いはこの頃から現在まで続いていた。
俺が成田山へ着き、受付に向かうと坊主であり先輩有原照龍の姿が見える。
向こうも俺に気づき、隣の坊主に「あれが有名な岩上智一郎だぞ」とニヤニヤしながらほざいていた。
ご利益アップとして俺も受付に座り、有原に写真を撮るようお願いする。
「有原さんもこっち向いて。俺のブログへ載せますから」と言うと、生臭坊主は背を向け逃げだす。
その写真を俺はブログで載せてみた。
家に帰り、俺は絵を描いてみる。
駅前の物件を見つけた時に光った雷。
その様子を想像画として書き残しておきたかったのだ。
曇った空に光る一陣の雷の絵。
自分で描いておきながら、しばらくこの絵を眺めた。
整体をやっている自分の姿がリアルに想像できる。
白衣を纏い、患者に誠心誠意接しながら治す自分の姿を……。
そうだ。
白衣も購入しないと駄目か。
トイレはウォシュレットにしよう。
自分の店の構想を考えるのは楽しみであるが、実際やるのは大変だった。
早く物件の契約を済ませようと、不動産をせっつくが、オヤジは「まだ待って」としか言ってくれない。
「物件の中ぐらい見せてくれ」と言うと、女性事務員が鍵を持って案内してくれた。
前は金券ショップだったらしく、散らかったままである。埃の溜まった棚や、ビニール袋にまとめられた無数のゴミ。酷いありさまだ。
「契約したら、ちゃんと清掃して奇麗にしてくれるんですよね? 空にした常態で?」
「ええ、それはもちろんです」
「写真撮らせて下さい。悪用はしませんから」
「構いませんよ」
数日後、ここが俺の城になる。
不動産屋のオヤジの余裕ある態度が気に食わないし、心配でもあった。
「事務員さん、俺、どんな手を使ってもここを借りますからね」
「え……」
「この場所は俺が絶対に借りますから。今日俺、白のロングコート着ているじゃないですか? これって歌舞伎町時代、俺のトレードマークでもあったんです。何で今着てるかと言うと、気合い入れる時は未だに着るんですよ」
「は、はあ……」
事務員は俺の迫力に押されたのかキョトンとしていた。
サラリーマンはできない。
みんなから器用だ、何でもできると言われるが、食っていく為の特殊なスキルなどない。
だからここで自分の居場所を築くしかないのだ。
一坪二万六千円以上もする十三万六千五百円の高い家賃。
他に電気代など経費は色々と掛かる。
それらすべてをやり繰りしながら、やっていかなければならない。
新宿に十年いようが川越から通っていた。
浅草までホテルへ仕事に行った時も、川越から通いである。
片道一時間半も掛けてだ。
俺は地元が大好きなのだろう。
周囲の人たちと仲良くしながら関係を築いてきた。
整体をここで開業するのが楽しみである。
色々大変な事はあるだろう。
覚悟はしている。
自分でやるという事はそういう事だ。
契約まで必要なものをすべて揃えておこう。
とりあえずする事といったら、それぐらいだ。
俺は十一月末まで整体準備で駆けずり回った。
あと三日で十二月に入る。
それなのに不動産から連絡は無い。
焦った俺は、トヨタハウス興業へ向かった。
「早く契約させて下さいって言ったじゃないですか? 何でまだ駄目なんですか?」
「ですから審査があると言ったでしょ?」
金を借りる訳でもあるまいし……。
百九万二千円の代金はとっくに用意してあるのだ。
中には敷金も入っている。
保証人までその日の内に揃えた。
それが何故、十日近く経つというのに未だ審査とか抜かしているのだろう?
不動産の怠慢にしか見えなかった。
翌日になり、不動産屋が言った。
あの物件の管理は元々うちではないと……。
「管理会社へ行くので、必要な書類を明日までに揃えといて」
鼻につく偉そうな態度。
契約するまでの我慢だ。
「分かりました」
住民票や実印証明書など必要な書類を揃え、明日に備える。
女性事務員が車を出してくれ、管理会社へと向かう。
行き先は我が母校である富士見中学校の目の前にある『池田不動産』というところだった。 車内で事務員が言ってくる。
「岩上さん、前に言ったような台詞は気をつけて下さいね」
「何をです?」
「どんな手を使っても借りるとか」
「だってそれはそちらがこうやって、ズルズル契約を引き伸ばしたから言ったまでです」
「でもですね……」
「いいですか? 俺は金を払う客。管理会社と言ってますが、ただの不動産でしょ? 何で客の俺が、そんな気を使わなきゃいけないんです? まあ馬鹿な事はしないですから安心して下さい」
気まずい雰囲気のまま、池田住宅へ到着した。
中へ入ると、社長が俺の事は知っていると言ってくる。
詳しく聞くと親父の弟、俺にとって修おじさんと同級生だったらしい。
これなら話は早い。
契約を急かせたが、契約日は十一月三十日。
十二月からじゃないと貸すつもりはないようだ。
契約を迎える前日の夜。
前の会社の上司である佐久間から電話があった。
また愚痴かと思ったが、千葉の支社へ転勤となったようだ。
酷い事に決まったのを言われたのが、異動二日前。
しかもメールで言われただけだったらしい。
店長はあらかじめ知っていたそうだが、直前まで教えてくれなかったそうだ。
「最初は一ヶ月だけ本社勤務だからと言われ、川越で一年半。今度は千葉。北海道に子供いるのに全然帰れないですよ……」
気の毒に思ったが、今の俺には話を聞くぐらいしかできない。
今、神経を傾けないといけないもの。
それは整体の開業である。
全身全霊を懸け、精力を注ぎたい。
家の問題。
目の前の駐車場で管理をしていた伊藤久子が、家で仕事をする事になった。
俺の小説を罵倒し、一年ほど作品を完成させられないほどスランプになった原因の人。
彼女は俺の姿を見掛ける度、声を掛けてくる。
「私にも私の生活というものがあってね……」
懸命に家へ来た言い訳をするが、俺にとってどうでもいい事だった。
親父と理解し合うのは、もう無理だろう。
昔の時ならまだ良かった。
やっている事がメチャクチャだったが、みんなから好かれる親父を見るのは嫌いじゃなかったのだ。
ここまでの憎悪に何がこう変えたのだろうか?
加藤だ……。
あの女の存在が、殺しかけてしまうぐらい決定的なものにしてしまった。
人のせいにするのはよくない。
だが、そうでもしなければ俺の精神は持たない。
生理的に嫌いだった。
昔から……。
あの女の存在を知ったのは、俺が小学三年生の頃。
親父の配達につき合わされ、お客さんの家を一緒に回った。
この頃親父は、まだ俺を可愛がってくれていたのだ。
配達と称し、最後のお客さんの家に向かう。
「ほら、智一郎。おまえも降りろ」と車から出て、行った先が加藤の家だった。
「あ~ら、僕ちゃん。いらっしゃ~い」
高音の猫なで声で話し掛けてきたのが最初だった。
加藤を見た瞬間、何故か分からないがどうも好きになれない自分がいた。
加藤の家へ入れられ、テーブルの上にはご馳走が並べられていた。
ミートソース、ハンバーグ、ポテトフライなど俺の大好物のものばかり。
「ほら、遠慮しないで好きなだけ食べろ」
親父は笑顔で言うが、何故か喉を通らない。
帰り道、ほとんど下を向いたまま黙っていた俺は、親父に殴られた。
長男である俺を加藤に懐かせようとした。
それを失敗したのが気に食わなかったのだろう。
これで俺は、さらに加藤が嫌いになった。
今思えば、これが因縁の始まりだった。
あの様子じゃ、お袋が家にいた頃からつき合いはあったはずである。
小学六年生の時、盲腸で入院した。
動けない俺がクソをすると、親父はケツまで拭いてくれた。
情けないやら恥ずかしいやらで何も言えなかった。
でも感謝だけはした。
夜中寝ていて、ふと目を覚ます。
誰かが俺の額に手を当てたからだ。
化粧品臭い手の匂い。目を開けると、そこには親父と加藤の姿が見えた。
「あら、起こしちゃったかしら」
加藤のキンキン声が響く。
俺はそのまま目を閉じ、寝たふりをした。
五年前の総合格闘技に出る前日に起きた騒動。
親父が昔からつき合ってきた加藤を捨てようとした日でもある。
親父の考えより、加藤はしぶとかった。
一緒に連れてきた女を蹴散らした。
それから親父は加藤から怯えるように逃げ回った。
俺が新宿から帰ってくると、いつも家のすぐそばで加藤の車が停まっていた。
俺の姿を見ると、「智ちゃん、お父さんは?」とワンパターンのように繰り返し聞かれる。
ほとんど毎日こんな調子だった。
うんざりした俺は、いつからか加藤を無視するようになる。
おじいちゃんは世間体を気にするので、加藤の行動をとても「外聞が悪い」嫌がった。
弟の徹也は、「また加藤の奴、張り込みしてたぜ?」とブツブツ言っていた。
和菓子屋の始さんは、加藤に車の中へ拉致され、親父の事をあれこれしつこく聞かれたらしい。
近所の人たちと酒を飲むと、決まって加藤の話題になる。
まだこの頃ストーカーという言葉がメジャーでなかった時代だ。
「ねえ、聞いてよ、智一郎君。私なんかさ、お父さんに頼まれて、俺の部屋の窓際に立ってくれって。何でか分かる?」
現雀會会長の高橋さんの奥さんである貴子さんが問い掛けてくる。
「いえ」
「加藤さん、いつもあそこで見張っているでしょ? だから私を窓際に立たせる事で、女性のシルエットになる訳でしょ。それで頼んできたの」
こうまでして親父は、一時的に加藤を拒絶していたのだ。
雀會のメンバーが集まって飲んでいる店に加藤が姿を現すと、「Mが来た」とみんな逃げたそうだ。
このMの由来。
加藤の名前は『皐月』。
皐月は五月。
英語にすると、メイ。
その頭文字を取って、Mと呼んでいたらしい。
それだけ雀會の人たちからも嫌われていた訳だ。
それなのに親父は何故、あんな女と結婚したのだろうか?
不思議でしょうがなかった。
何かの弱みを握られたのか?
そうでもないと、あの豹変振りは理解できない。
いくら考えても答えなど出るはずがない。
親父と冷静に話せる関係では無くなってしまっている。
その謎は半永久的に分からないままなのだ。
解決できない事を無理にしようとしても、時間の無駄だ。
俺は開業準備の為、頭を切り替えた。
物件契約の日がようやくやってきた。
指定された金額も用意しているので、スムーズに交渉は決まった。
不満なのが、事務員へ家賃の値下げを伝えてくれと頼んでおいたのに、まるで無視された点である。
まあこの状況でジタバタしても仕方ない。
帰り道、管理会社の池田住宅には、明日までにキチンと中の清掃をお願いしますと言っておく。
前に物件を見た時と変わらず、何一つ掃除をした形跡が無いのだ。
「いや~、前の借主がなかなかやってくれないんですよ」
「あのですね。何の言い訳にもならないですよ? 明日の十二月一日に切り替わった瞬間、俺に権利があるんですから。俺には何の関係もないじゃないですか」
「でももう夕方だし、せめて明日のお昼まで待ってもらえません?」
「俺はですね、医療機器メーカーにも器械を頼んであるし、明日の十時には整体に到着予定なんですよ? 何の為に今まで契約を遅らせてきたんですか?」
金を取るだけとって、やるべき事は何もしない。
明日から本当の意味で開業準備となるのに、これではさすがに文句も言いたくなる。
「まあそうなんですけど……」
池田住宅の社員が困った表情で煮え切らないので、しょうがなく俺は医療機器メーカーへ電話をした。
明日十時に高周波やベッドを持ってくるのをお昼にと無理を言う。
客である俺からの願いなので、メーカーは渋々了承せざる得ない。
翌日朝の九時頃、物件に行くと、何も片付けた様子がなかった。
怒った俺は池田住宅へ電話をし、呼び出す。
「何で全然やらないんですか? もう十二月一日ですよ? いい加減にして下さいよ。無理言って俺が昨日メーカーに電話して、到着時間を遅らせたの聞いているでしょ?」
「もうちょっとしたら、職人が来ますので」
初日からふざけた真似しやがって……。
この社員を殴りたかったが、とりあえず我慢した。
五・二坪の狭い物件なのに、何故早くやらないのだろうか?
不思議でしょうがない。
一度家に帰り、十一時頃また整体へ向かった。
ようやく清掃が始まったようで、中にはギッシリとゴミがある。
イライラが増した。
しばらくすると、前の借主である金券ショップのオーナーがトラックで荷物を引き取りに来た。
俺は不機嫌さを隠さず、「このままじゃ困るんですけど?」と嫌味を言う。
「すみません、すみません。すぐやりますから」
腰が低いのでそれ以上文句を言わず、俺も片づけを一緒に手伝った。
お昼になり、医療機器メーカーの車が到着する。
まだ中に物を入れられる状態じゃないので、俺は平謝りに頭を下げた。
「先生、どうなってんですか? 全然片付いていないじゃないですか」
その台詞を俺が池田住宅に言いたかった。
それに先生と呼ばれるのは嫌だと言ったのに。
まあ今回は俺のせいではないが、こちらの落ち度である。
誤魔化すように「焼肉でもご馳走しますから」と二階にある焼肉屋の炙り屋へ連れて行く。
ここのおばさんはとても無愛想である。
しかし何度か行く内にちょっとした表情の違いに気付くようになった。
「おばさん、俺下で整体開業しますんで、よろしくです」
「えー、お兄さんが一階借りたんだ?」
無表情なおばさんの鼻の穴が少し開く。
これは少し驚いている証拠だろう。
自腹でご馳走し、医療機器メーカーの社員の機嫌を直してもらう事にした。
食べ終わって下へ戻ると、ようやく中は空になっている。
金券ショップのオーナーは何度も頭を下げ、「もし何かほしい物があれば自由に使って下さい」と言うので、テーブルや椅子、そして棚をもらう。
「私、腰が悪くてですね。近い内お邪魔させてもらいますよ」と調子のいい事を言っていたが、結局彼は一年経っても来なかった。
完全な社交辞令である。
ベッドや高周波を運び、奇麗に並べる。
しかし物件の中が酷過ぎた。
壁はヤニで薄汚れ、床はコンクリートのまま、タバコの焦げ跡があちこちにある。
話にならないのはトイレだった。
便器に溜まる水は濁った黄土色に染まり、何度水を流しても奇麗にならない。
歌舞伎町の裏ビデオ屋メロンの倉庫、野路の汚い部屋を思い出す。
池田住宅に文句を言い、壁紙とカーペットを新しくするよう伝えた。
トイレの件も言うと、「歯ブラシみたいなもので擦れば落ちますよ」と言われ、トイレはこの日、一日掛けて掃除をしたが、まったく奇麗にならなかった。
仕事を終えた百合子が来て、一緒に掃除を手伝ってくれる。
「智ちん、不動産本当に酷いねー」
普段大人しい百合子ですら文句を言う。
あとになり、「やっぱりブラシであまり擦らないで下さい。便器に傷がつき、余計に汚れてしまうので」と電話があったので、俺は「おい、うちは整体をやるんだぞ? あんな汚ねえ便器で商売できるかよ? 便器ごと交換しろよ!」と、さすがに最後の最後で怒鳴ってしまった。
二千六年十二月二日。
壁紙やカーペットの種類を決め、発注する。
俺は家に帰り、看板のデザインを考えた。
まず整体の名前だ。
分かり易く『岩上整体』に決める。
パソコンを起動し、レイアウトを考え色々作ってみた。
変わった感じにしたかったので、右から左に掛けて『岩上』。
下に『整体』と判子を押したようなデザインにする。
看板を見た人が一瞬、「何だ、こりゃ?」とじっくり眺めるように意味を持たせたつもりだ。
フォントは『昭和モダン体』が一番しっくりきた。
珍しい字体であるが、自分の好きなようにしたい。
早速看板屋へ頼むと、『昭和モダン体』のフォントがないと言われる。
開業日を四日と決めネット上でも告知していた俺は、仕方なく断念しなければならなかった。
足りない買い物をしに駆けずり回り、時間だけが過ぎていく。
百合子や娘の里穂と早紀まで、色々手伝ってくれる。
しかし忙しいのはいい事だ。
あれだけ憎しみを感じた親父や加藤を思い出す暇さえない。
道を歩いていると、三十歳からピアノを習ったくっきぃずの斎藤弥生先生にバッタリ会う。
この先生とも四年近くのつき合いになる。
本当に時が経つのは早い。
市民会館でピアノ発表会をやってから、三年も経ったのだ。
「オープンする日にちが決まったら、教えて下さい」
「とりあえず明後日の四日ですよ。でもそんな気を遣わないで下さいね」
俺は簡単に挨拶だけ済ませ、買うものを整理してみた。
電話の権利も買わないと、話にならない。
整体用のパソコンも必要だ。
俺は久しぶりに新宿へ向かい、パソコン本体、スキャナー付きプリンターを購入。
ラミネートする器械も必要だ。
光沢紙も。電気屋へ行き、冷蔵庫、オーブントースター、電子レンジ、電話機を買う。
立地条件は本川越駅の目の前なので、文句なし。
あとはどう宣伝をしていくかだ。
自分の店だ。
好きなようにしたい。
今まで描いた絵や小説をプリントアウトし、整体へ飾る事に決める。
『十二月四日よりオープン』と書き、入口の扉へ貼っておく。
治療料金はどうするか?
相場は三十分三千円で、六十分五千円から六千円。
俺はクイック整体として二十分二千円。
三十分で三千円。
一時間で五千円と決めた。
料金表を作り、印刷をする。
ラミネートを掛け、いつでも外に貼り出せるようにしておく。
この整体の名刺のデザインもしないといけない。
自分でデザインし、知り合いの印刷屋へ発注する。
この一ヶ月でとても金を吐き出した。
あとはどうやって回収するかだ。
自分の店である。
しばらく休みを取るのはやめよう。
正月も近いが、それも返上。
高周波があるから、ダイエットコースも作ったほうがいいだろう。
料金設定が難しい。
エステなどである低周波によるダイエット。
大した効果もないのに、いい値段を取っているのだ。
ぼったくりな商売はしたくない。
なので整体と同じ料金設定にした。
次に客層だ。
飲み屋のお姉ちゃんがよく来る整体にすれば、自然と男性患者も増えるだろう。
俺は夜になると、キャバクラやスナックなどの飲み屋を六軒ほどハシゴした。
「整体をこれから開業するんだ」と公言しながら飲み歩く。
「ねえ、店終わったら飲みに行こうよ?」と誘ってくる女もいたが、下手に知り合いにでも見られたらマイナスイメージにしかならないし、百合子にバレたら殺されるだろう。
「落ち着いたらね」とだけ答えておいた。
今回の目的は女を口説く事ではなく、岩上整体の宣伝なのである。
最後に行ったキャバクラでは、当時俺のプロテスト入りを壊した同級生の大沢史博が飲んで酔っ払っていた。
嫌な奴に会ったものだ。
向こうは俺を見るとビクビクしながらも、「い、一緒に飲まないか」と機嫌を取ってくる。
冷酷な視線を浴びせながら俺は「失せろ」とだけ言った。
ワンタイムだけ飲んで帰ろうとすると、酔い潰れた大沢のデカい図体が入口横のソファーで寝転がっている。
相変わらず何歳になっても酒癖が悪いままか。
「店員さん、こいつ迷惑でしょ? 起こしてやろうか?」
「あ、お客様、この方とお知り合いですか?」
「ああ、小学からの同級生だ」
「ではお願いしてもよろしいですか?」
「任せな」
俺は寝ている大沢の顔面を蹴飛ばす。
飛び起きる大沢。
「テメー、さっき失せろって言ったろが!」
「あ…、あ…、岩ヤンごめん……」
大沢は顔を押さえながら店を出ていく。
これで運が落ちなければいいが……。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます