岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

04 擬似母

2023年03月01日 00時13分52秒 | 擬似母

 貴子との初体験。それは僕にとって生涯忘れられないような思い出となるだろう。

 知子の顔を見るのが辛かったので、僕は母さんと幼き頃一緒に過ごしたマンションへ戻る事に決めた。

 数年間誰も住んでいなかったマンション。少しだけかび臭さを感じる。風呂場へ行くと、母さんが倒れていた辺りをしばらく黙ったまま見つめた。

 ここで僕は初めての殺人を犯した……。

 ゆっくりと手首を見る。もうあの時の傷跡など何も見えない。殺されまいと必死に抵抗した結果、母さんは代わりに命を落とした。言い替えればこの時は殺人ではない。しかしもう違う。僕は藤岡をこの手で殺意を持って殺害してしまったのだから……。

 ゾワッと全身に鳥肌が立つ。

 誰も僕の正体を知らない。

 こんな僕の事を貴子が知ったらどう思うのだろう?

 知子は?

 貴子とはまったくタイプの違う知子。一度でいいから抱いてみたかった。

 でも、その願いは叶わないだろう。あれ以来知子とは会話をしていない。お互いが避け合う形になり、視線すら合わせないような関係になってしまったのだから。

 僕はここで新たな生活が始まり、知子も別の生活が始まる。こうやって人間は、別々の人生を歩んでいくんじゃないだろうか。

 一度すれ違ってしまった人間とは、もう二度と関わる事がないかもしれない。幼馴染の直樹君や幸子ちゃんとも全然会っていない。隼人兄ちゃんだってそうだ。施設で出会った留美子先生も努君とも……。

 貴子や知子ともそうなっていくのだろうか。そう考えるとやるせない気持ちになった。いつも二、三人の仲のいい人間ができては消え、またできては消えていく。

 同級生のみんなより少し早く社会に出て働く僕は、みんなと違う道を歩いていく事になる。でもそれが自分の選んだ道だし、考えてもしょうがない。明日からの初出勤に備え、早めに休む事にした。

 土木の仕事が始まる。初日からこってりしぼられた僕は、弁当を買ってマンションへ帰ると泥のように眠った。朝早くに目を覚まし、また仕事へ行く。きっと平日はこんなつまらない日常の繰り返しなんだろう。

 貴子とのセックスを思い浮かべた。知子が無理なら貴子だけでも……。

 仲のいい人間が一人だけなら、もう消えていく事はないかもしれない。

 施設へ何か理由をつけて行き、貴子と話せる機会を見つけ、一度ここへ連れてこよう。そして母さんを殺してしまったこの忌々しい場所で、貴子を抱いてやる。

 もう一人ぼっちは嫌だった……。

 休みの日になり、僕は施設へ顔を出してみる事に決めた。忘れ物を取りに来たという名目で向かい、貴子の姿を探した。あまり目立った行動を取りたくなかったので、誰にも聞かず淡々と施設内を歩き回る。

 食堂のおばさんが僕の姿を見掛けると嬉しそうに近づいてきて、「元気でやっているかい? まだ一週間ぐらいなのに随分と久しぶりに感じるよ。良かったらご飯でも食べてきな」と明るく声を掛けてくれた。素直に嬉しく思う。

 好意に甘える事にして食堂へ向かうと、あれほど探していた貴子が隅の席で一人ポツンとご飯を食べているのが見えた。忍び足で近づき、ポンと貴子の背中を叩く。ビクッとしながら振り向く貴子。彼女は僕の顔を見るなり嬉しそうに「次郎ちゃんっ!」と大声を出して席を立ち上がった。

 周りの目もあるので、僕は住んでいるマンションの場所を簡潔に説明して、あらかじめ容易しておいた地図と一万円札を彼女へ手渡した。

「次郎ちゃん、こんなに……」

「しっ! 声が大きいって…。僕のところへ来るのに電車を使うようだろ? だからその電車賃代わり。お菓子とか食べたきゃ勝手に食べていいからさ」

 はしゃぐ貴子を大人しくさせてから、僕は食堂をあとにした。

 帰りの廊下を歩いていると、対面から知子の姿が見えてくる。一瞬だけ彼女は僕と視線を合わせると、すぐ反らしながら廊下をすれ違う。

 しばらく立ち止まり、知子の後ろ姿を見つめていたが、彼女は一度もこちらを振り返らずにそのまま食堂へと消えた。

 

 それ以来、貴子は頻繁に会いに来るようになった。人がいないのを見計らい、セックスに没頭する僕たち。時折、寂しそうな知子の顔が頭の中をよぎる。

 知子からはまったく連絡はない。完全に僕を避けているのだろう。といっても彼女には、ここの場所も電話番号も教えてないから当たり前か……。

 同室の貴子は居心地が悪いだろうな。そんな事を考えていると、玄関のドアが開く音がした。

「次郎君……」

 貴子が暗い声を出しながら入ってくる。彼女にはマンションの合鍵を渡してあった。いつもの明るい笑顔とは打って変わり、泣き出しそうな表情で僕に近づいてくる。

「どうしたんだ、貴子?」

 貴子は目に涙を溜めながら、施設の話をした。

 要約すると、二人だけの秘密のはずが、施設内では僕たちができているという噂が飛び交うようになっていたようだ。みんな、貴子を汚いものでも見るような素振りをしているらしい。まだ中学生の貴子には堪えられないものがあるだろう。

「私たち、そんなみんなから白い目で見られるような悪い事をしているのかな……」

「さあね…。自分たちの日常がつまらないから、ヤキモチを妬く事で解消しているつもりなんだろ」

「多分私たちの事、知子ちゃんが喋ったんだと思う……」

 今にも貴子は泣き出しそうだった。先日施設に行った時、帰りの廊下ですれ違った知子の表情を思い出す。

「そんな事どうだっていいさ」

「でも……、知子ちゃん、あれから一度もまともに話をしてくれないんだもん……」

 一人で施設を出たまではいいが、少し予定変更だ。貴子と二人で暮らしていく。もうそれ以外の選択肢がないように思えた。

「なあ、貴子……。おまえもさ、ここで一緒に住むか?」

 安心させるよう優しく笑顔で言った。

「え?」

「そんなどうしょうもない連中たちと一緒にいたら、こっちまで頭がおかしくなってしまうよ。それだったら僕と新しい生活をしてみないか?」

「で、でも……、私、まだ中学生なんだよ……」

「ああ、そんな事分かってる。じゃあ。貴子はまだあそこに一人でいるのかい?」

「それも嫌……」

「僕と二人きりじゃ嫌か?」

「ううん……」

 貴子の両肩にゆっくり手を置いて、僕は優しくキスをした。

「じゃあ、一緒に住もうよ。中学生だからって我慢なんてしなきゃいけないって事はないだろ?」

「う…、うん……」

 下をうつむきながら短い返事をする貴子。きっと罪悪感でいっぱいなのだろう。

 僕だけの空間に、貴子がやってくる。

 これで誰の目も気にせず、毎日のようにこの体を抱けるのだ……。

「最近の中学生は、ほんと発育がいいよな。この間、あの子の体育の授業を偶然見てよ。あの揺れ動くおっぱい見ちゃ、やりたくなるだろうがよ」

 目を閉じると殺したはずの藤岡が、いやらしそうな表情を浮かべながら卑猥な台詞を喋っていた。

「ああ、何回抱いたって飽きる事ないね。残念ながらあんたはやれなかったけどな。僕が殺しちゃったから」

 心の中で笑いながら藤岡に返事をしていた。

 

 新しい生活は、想像していたよりも楽しい事ばかりじゃなかった。

 施設から何度も連絡があり、貴子が行方不明でこちらにいないかと聞かれた。ドキドキしながらも僕は知らないふりをして、その度電話を切った。もちろん彼女には学校へ行かせず、いつも部屋にいるよう命じた。自分がいない時、いくら電話が鳴ったとしても出ないようキツく言い利かせておく。ゲーム機を買い与えると、貴子は嬉しそうに「ここは天国だ」とはしゃいでいた。

 貴子と暮らしだして一ヶ月ほど過ぎ、僕の感覚は徐々に変わっていく。

 まず現実的に生きているという事は、お金が必要だという事。お金がなければご飯だって食べられないし、風呂だって入れない。

 今行っている土木の仕事は、正直嫌気が差していた。中卒の僕は一番若い。だからいいようにこき使われる。汚い仕事ばかりだから体も服も汚れるし、給料だって一番安い。

 一人でいた時はまだ我慢できた。誰にも格好をつける必要がなかったからだ。でも今は違う。仕事から帰れば、マンションには貴子がいる。食事代も自分だけでなく、貴子の分まで稼がなきゃいけない。

「ねえ、次郎ちゃん。たまには私、ファミレスとか行きたいな」

 僕の苦労など分からず、勝手な事を笑顔で話す貴子。そりゃあ僕だって行って好きなものを好きなだけ食べたいさ。でもそんな贅沢をしたら、次の給料までもたない。

「我慢しろよ。給料だって安いんだし……」

「だって毎日あそこの弁当ばかりじゃ飽きちゃうよ~」

 料理も何もできない貴子と一緒にいる生活に対し、ストレスが溜まっていく。こんなにわがままだったのか、この女は?

「貴子は毎日ゲームして遊んでいればいいんだから気楽でいいよ。でも僕は違う。働いて今の生活を維持しているんだぞ」

 イライラしているせいか怒鳴り口調で言った。毎月一万円を超える電気代。そのほとんどが貴子のせいでもある。

「何か最近の次郎ちゃんって怒りっぽくて嫌だな……」

「じゃあさ、たまには料理でもしてうまいご馳走でも作ってみろよ。毎日ただゲームだけやっているだけじゃんか」

「何よ、次郎ちゃんがここで僕の帰りを待っていればいいさって、言ったんじゃない」

「少しは気を利かせろって言いたいだけだ」

「ふん、次郎ちゃんの馬鹿!」

 貴子は一瞬だけ僕を睨みつけると、背を向けて床に寝転がった。

「おい、貴子!」

「……」

 まったく返事もしようとしない。

「貴子!」

「……」

 仕事で疲れて帰ってきたというのに、何故ここでまた疲れなきゃいけないのだろう。体だけは立派な女でも、中身はただのガキだ。

 こんな女に僕は今まで欲情していたのか? 貴子のふてくされた姿を見ていると、イライラがどんどん募ってくる。

 食事だってそうだ。貴子の分の弁当など余計な食費がなければ、僕は毎日だってファミリーレストランへ行けているんだ。何もせず、ゲームばかりしやがって……。

「痛いっ!」

 気付けば僕は、貴子の背中や足を無差別に蹴り始めていた。

 必死に両腕で顔をガードする彼女。それでも僕は構わず問答無用でメチャクチャにその上から何度も叩いた。

 

 部屋の隅で小さく丸まりながら膝を抱えている貴子。心なしか肩が小刻みに震えているようだ。肩で息をしながら僕はその姿を見下ろしていた。

 自分の中にこんな残虐なものがあったとは……。

 意識して人を殴り、蹴ったのはこれが初めてだった。幼き頃、何故母さんが無抵抗の僕に対しあのように暴力を毎日のように振るったのか。その気持ちが少しだけ分かった気がする。自分の意のままに相手を殴る。何とも言えない快感が全身を包み、その波が引くと同時に今度は後悔が押し寄せてきた。快感のあとの後悔。人を殴るという事は自分が無意識に本能的に望んでした行為なのだ。その行為を振り返り、傷ついた相手を見て激しい後悔を感じる。だから母さん散々殴ったあとで、時たま僕を抱き締めながら「ごめんね、ごめんね」と泣きながら謝ったのだろう。

 声を殺しながら泣く貴子を置いて、僕は外へ出掛けた。自分がしでかした行為に何とも言えない歯痒さを感じ、やり切れない思いのままブラブラと街をただ歩く。

 ボーッとしながら昔の事を思い出していた。幼い頃育った街並みはあまり変化がないように見える。よくこの公園で直樹君や幸子ちゃんと一緒に遊んだっけな……。

 公園に入り、鈍い光を放ちながら周囲を照らす街頭の下にあるベンチに腰掛けた。明かりの周りを無数の虫が元気よく飛び回っている。目の前に見えるシーソー。そしてその横にあるブランコやすべり台。すべてが懐かしく感じた。

「ん?」

 僕のいるベンチとは逆方向にあるトイレの壁に、二人の人影が見えた。どうやらカップルのようである。

 貴子を殴ったせいでやさぐれている僕は、妙に苛立ちを覚えながらその影を睨みつけた。すると男の方が抱きつこうとして、女に拒まれている。

「やめてっ!」

 女の声が聞こえる。

「何だよ、いいじゃないかよ?」

「嫌だって言ってるでしょ!」

 パシッという渇いた音が公園に響き、男は頬を叩かれていた。

 女は早歩きでその場を去ろうとするので、方向的に僕のいるベンチに向かって歩いてくる。街頭の明かりが女の顔を徐々に照らし始め、目鼻立ちがハッキリした奇麗な表情が見えてきた。どこかで見た事のあるような顔だけど、誰だか分からない。制服を着ているので女子高生なんだろう。

 慌てて後ろから顔を押さえながら男が追い駆けてきた。

「待ってくれよ、幸子!」

「……!」

 幸子? 今、幸子って言ったよな……。

 自然と僕はベンチから立ち上がり、二人に近づいていた。幸子と呼ばれた女が僕の存在に気付き、足を止める。僕の顔をジッと見つめると、ゆっくり口を開いた。

「じ…、次郎ちゃん?」

 こんな形で再会するなんて……。

 幼馴染の幸子との久しぶりの遭遇。そしてあとから追い駆けてきた男の顔にも見覚えがあった。

「え、次郎……?」

 幸子の声で男もビックリした表情で足を止める。僕は彼の顔を見て、とっさに呟いていた。

「な、直樹君……」

 

 運命の悪戯なのか、ひょんな状況で再会を果たした僕ら三人は、駅前のファミリーレストランでドリンクを飲みながら向き合っていた。

 誰も口を開かず、時間だけが過ぎていく。

 僕の中では久しぶりに会えた嬉しさと、この二人が付き合っていたかもしれないというジェラシーの入り混じった不思議な感覚だった。なので素直に喜んでいいのか、どう話を切り出せばいいのか分からないでいる。

「じ、次郎君。何故今ここに? あの時、急に学校じゃ次郎君は家の都合で引越しちゃってってそれっきりで……」

 沈黙を破り、幸子が話を切り出してきた。僕はすっかり一人の女として成長した彼女の顔を見て、内心ドキッとしながら顔に出さないよう動揺を抑える。

「まだ一ヶ月ぐらいだけどさ。僕、以前母さんと一緒に住んでいたマンションに、一人で戻ってきたんだ」

「だったらうちに顔ぐらい出せばよかったのに……」

「そ、そうだったね、ごめんね」

 本当は貴子との生活で、そんな事思いつきもしなかった。そういえばこの二人は母さんが死んだって事、知っているのかな?

「次郎……。いきなり変なところ見られちゃったけどさ…。俺、おまえに会えて何だかすごい嬉しいよ」

 直樹君が僕に握手を求めようとすると、幸子が口を挟んできた。

「ちょっと、次郎君が誤解するような事を言わないでよ?」

「何だよ? おまえ、俺と付き合ってるんじゃなかったのかよ?」

「冗談言わないで! 直樹君がバイト代入ったから、一緒にご飯食べに行こうっていつもしつこく誘ってくるから付き合っていただけでしょ」

「チェッ、何だよ……」

「ごめんね、次郎君。久しぶりに会ったっていうのにねえ」

 幸子は昔と変わらず優しい。横で直樹君はふて腐れた表情で天井を眺めている。何だか母さんがいた頃に戻った気分だった。いつも三人で一緒に遊び、空が暗くなるまで帰らなかったっけなあ……。

 でも、僕だけは違う。健全な親の元で健全に育った二人。親をこの手で殺し、一人で生活をするようになった僕。

「次郎君さ、今はどうしているの?」

「ん、僕は高校は行かず、働いているんだ」

「へえ、もう社会人かあ~。そうだ! これからさ、三人で次郎のところお邪魔してもいいか?」

「ん、えっと……」

 マズい。今は貴子が部屋にいる。暴力的な衝動に駆られ暴行を加え、部屋の片隅で膝を抱えながら……。

「どうしたの?」

 幸子が不思議そうな表情で覗き込んでくる。彼女のいい匂いがして胸の奥がムズ痒い。直樹君はともかく幸子に貴子の存在を知られるのは何故か嫌だった。何とか誤魔化さないと。

「ほ、本当ならいいよって言いたいところなんだけどさ、明日も僕は仕事なんだ。だから今度日にちを改めてじゃ駄目かな?」

「そうだよな。俺らみたいに気楽な学生生活じゃないもんな」

「じゃあさ、次郎君。今度連絡するから遊びに行ってもいい?」

 昔のイメージのままで思っているのか、幸子は屈託のない表情で明るく微笑みながら聞いてくる。

「うん、それは全然構わないよ。仕事が休みなら結構暇しているしね」

 二人の連絡先を教えてもらう。僕は幸子と直樹君に電話番号を教えながら、頭の中で卑猥な事を想像していた。ひょっとしたら、幸子といい関係になれるかもしれない……。

 

 帰り道歩きながら、施設にいた頃知子と図書館に行った時の事を思い出していた。

 豊満な肉体を持つ貴子とは対照的に線の細い知子。僕のファーストキスの相手だ。自然と成り行きでキスをしてしまい、それ以来ギクシャクした関係になってしまった。何度知子を思い浮かべながらマスターベーションしたか分からない。

 幼馴染の幸子と知子は雰囲気がどこかしら似ている部分があった。

 直樹君がいない状況で、幸子と二人で会う機会を作る。

 知子にキスをした時、貴子を抱いた時の状況をゆっくり思い返す。そう、僕がうまく自然とそういう感じで迫れば、幸子だってきっと……。

 頭の中で卑猥な想像をすると、久しぶりに会えた直樹君の存在などどうでもよくなってくるから不思議だ。男って結局女をどうやって抱くか。そんな事しか興味の持てない動物なのかもしれない。

 どうやって幸子と二人きりの状況を作るか? それには一緒に住んでいる貴子が邪魔だ。

 初めて異性に手を揚げた。まだ貴子は部屋の片隅でガタガタと体を震わせているのだろうか。

 憂鬱な気分のままマンションへ帰る。ドアノブに掛ける手が鉛のように重く感じた。貴子にどんな表情をして顔を合わせればいいのか。考えただけで面倒臭い。

「ただいま……」

 声を掛けながらドアを開け、中へ入る。

 いつもなら「おかえり」とすぐ声が聞こえるのに、当たり前だけど今日は何も返事がない。シーンとした空間。人の気配がしなかった。

 靴を脱ぎゆっくりと廊下を歩く。部屋に貴子の姿はいなかった。辺りを見回すほどの広さはないが、どこにも彼女の姿は見えない。

 おそらく今日暴力を振るったせいで、ここに居辛くなり、どこかへ行ったのだろう。施設にでも戻ったのか。

「……」

 ほぼ毎日獣のようにお互いの肉体を貪り合った仲。しかしここ最近僕の心は窮屈さと苛立ちを感じていた。いなければいないで、一人のゆったりとした時間が作れる。あんなわがままな女など放っておけばいい。

 かつて母さんがいた部屋へ向かう。僕がこの手で殺した母さんは、ここで体が腐るまで放置してあった。遠い親戚の人が業者を入れて掃除をしてくれたせいか、以前引かれていた絨毯はなくなりフローリングの床になっている。

 僕は母さんが倒れていた場所に行き、しばらく床に手をつけた。

 こんな事をしても何もならないのは分かっていたけど、それでも僕はしばらく目をつぶりながらそのままでいた。

 母さんを偶然殺してしまったこの手。

 藤岡に殺意を持って殺したこの手。

 知子を抱き寄せたこの手。

 貴子の体を思う存分まさぐったこの手。

 貴子の体を殴りつけたこの手。

 手の平をジッと見つめる。

 一体僕の手は、どれだけ罪深くできているんだろう……。

 

 一人で過去を振り返っていると、妙に人恋しくなってくる。もう貴子はいない。僕が叩いたから出て行ってしまった。

 明日もまた仕事。自分の時間と肉体だけを会社に与え、その代償に金を得る行為。非常にくだらない。しかし行かないと、生活ができない。食べ物だって食べられない。だからしょうがなく行くのだ。

 居間の床に寝転がり、天井を眺める。

 目を閉じると幼き頃が昨日の事のように思い浮かぶ。

 テーブルに突っ伏しながら肩を震わせて泣く母さん。幼い僕が心配そうに近づくと、乱暴に押され倒れる。

「大丈夫かい、次郎……」

 慌てて抱き起こす母さん。僕は泣きそうになりながら顔を見上げた。すると母さんの表情は急に変わり、僕の髪の毛をつかんでくる。

「何て情けない顔をしているんだい、あんたは」

 そう言いながら何度も容赦なく頭を叩いてくる母さん。

「……」

 気付けば視界が滲んでいる。

 今と同じように僕は、こうして床に大の字になっていつも泣いていたんだ。

「別に…、殺すつもりなんてなかったんだよ、母さん……」

 思っている事を口に出してみる。そう…、あの時本当に殺すつもりなんてなかったんだ。あれは偶然に過ぎない。

 違う…、それは違うだろ?

 藤岡に対してはあきらかに殺意を抱き、その通り殺してしまったのだから……。

 そんな血塗られた自分を未だ誰にも知らない現実。何とも言えない重圧に、いつの日か押し潰されそうだった。

 こういう事を業が深いというのだろう。

 床に散らばった数冊の雑誌が視界に入る。僕は憂鬱になった気分を誤魔化そうと手に取ってみた。いつもなら…、貴子と一緒の時なら夢中で読み返していた漫画。それがどういう訳かまるで面白く感じない。雑誌を放り投げる。完全な八つ当たりだ。

 ピンポーン……。

「ん?」

 入口のインターホンが鳴る音が聞こえた。こんな時間に誰だろう? ひょっとして貴子が戻ってきたのかもしれない。さっきは乱暴な真似をして悪かったと謝るか……。

 でも、もし貴子自身が反省しない状態で、ただ戻ってきたらどうする? それじゃまた同じ事の繰り返しで僕がイライラするだけだ。正直あいつの分まで食わせるような稼ぎじゃない。ここは一つ、心を鬼にして、施設へ帰るよう諭すか。

「……」

 そうすると僕はセックスをする相手がいなくなる。

 貴子の体を思い出してみた。迫力のあるボリューム満点の胸。初めて手で触れるまでは、どんな事をしても触ってみたいと思っていた。しかし何度も抱けば、その魅力は半減する。

 ピンポーン……。

 もう一度インターホンが鳴った。しょうがない。とりあえず中へ一度入れて、それから考えよう。

 ドアの鍵を外し、そっと開く。貴子はすぐ飛び込んでくるかと思ったが、そうでもないようだ。僕はサンダルを履き、ちゃんとドアを開けた。

「あっ!」

 想定外の実物が、そこには立っていた。僕はしばし声を失ってしまう。

 

 透明のタッパを両手で持ちながら、僕を笑顔で見る女性。ドアの向こうには幼馴染の幸子が立っていた。

 ポカーンと口を開ける事しかできない僕。

「やだ…、どうしたの、次郎君?」

「ん、いや…、ハハ…。突然幸子ちゃんがいたからビックリしてね……」

 貴子だとばかり思っていたので、その場で固まってしまっていたようだ。

「あ、これ…、良かったら食べて」

 そう言いながら幸子はタッパを手渡してきた。

「え、これって……」

「うちのお母さんにね、さっき久しぶりに次郎君と再会した事を話したの。そしたらとても喜んでね。夕食ですき焼き作っていたから、『ちょっとこれ待ってなさい』ってそれを次郎君にって渡してきたの」

 まだ熱いぐらいの温度がタッパを通して手に伝わってくる。

 彼女とはどのぐらい会っていなかったのだろう。僕が小六の時だったから、もう四年ぐらいになるのか。

「あ、ありがとう」

「いいのよ、うちのお母さん、誰かに自分で作った料理あげるの大好きなんだから」

「でも、幸子ちゃん…、何でこの場所が分かったの?」

 僕がそう質問すると、幸子はクスッと笑う。

「嫌だなあ~、次郎ちゃんってば。小さい頃よく一緒に遊んだでしょ? それでよくお互いの家に行きっこしたじゃないの」

「あ、そっか……」

「こんなピチピチギャルが独身男の家に料理を持って訪ねてきたんだぞ。コーヒーの一杯ぐらいご馳走しようって気にはならないの?」

「あ、じゃあ、コーヒーでも淹れようか? インスタントになっちゃうけど……」

「ゴチになりま~す」

 とても陽気な幸子。その笑顔は常に暗い道の中を歩いているような僕にとって、眩い光が差したような感じだった。

 玄関で靴を脱ぎ、スリッパを出す。短い廊下を歩きながら思った。まさか幸子自ら二人きりになれる環境にやってくるとは……。

 今、僕の後ろを彼女がついてきている。幸子はどこを見ながら歩いているんだろう。ドキドキしながらキッチンの前を通り過ぎ、自分の部屋へ入る。僕はもらったタッパをテーブルの上に置いた。

「へー、もっと散らかっているかと思ったら、案外綺麗にしているのね」

 部屋の中を楽しそうに眺める幸子。密室に男と女二人きり……。

 キュッと締まったカモシカのような細い足首。運動を欠かさずしているのか、程良く筋肉のついたふくらはぎ。ムッチリとした太腿。この数年の間で彼女は女の子から、立派な女へと変貌していた。背後から脚を見ているだけで興奮している自分がいる。

「ねえ、早くコーヒーを淹れてよ。喉渇いているんだから。あ、別に冷たいのがあるなら、そっちでもいいよ」

「じゃ、じゃあ麦茶にしようか?」

「そうだね、よろしく~」

 どうも元気いっぱいの彼女の前だと調子が狂う。昔のように気軽に話せない。とりあえず僕はお茶を入れにキッチンへ向かった。

 

 グラスを取り出し、中へ氷を入れる。冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出しながら、色々考えていた。

 こんな時間に女一人で僕の部屋まで来るなんて、男として意識されていないのか?

 もしくは抱かれるのも計算で明るく来ている?

 では、そのまま押し倒してしまっても大丈夫なのか?

 しかし、それで勘違いだったら大変な事になる……。

 じゃあ何故彼女は?

 今日偶然的に僕と幸子は公園で再会した。いや、あと一人、直樹君も。あの時幸子と直樹君だと知らず、僕は恋人が痴話喧嘩をしているというような感じで眺めていたのだ。

 キスをしようとした直樹君。

 それを拒んだ幸子。

 直樹君の一方的な想いだけの関係? なら何故あのように二人でいたのだ?

 当然あのやり取りを僕が見ていたって事は、彼女も気付いているはず。それでもこうして一人でここへ来たという事は、幸子もそれなりに覚悟して……。

 深読みし過ぎだって!

 数年ぶりに偶然再会した幼馴染。その事を自分の母親に伝えたら、すき焼きをタッパに入れて持たせてくれた。そう、幸子自身が言っていたじゃないか。

 変に女として意識するな。僕から迫ったらいけない。

「あれ、次郎君。どうかしたの~?」

 部屋から幸子の声が聞こえてくる。いけない。麦茶を用意するだけなのに、時間を掛け過ぎだ。慌てて僕は注ごうとしてグラスを倒してしまう。何てドジなんだ。近くにあった雑巾で床を拭く。すると廊下から足音が聞こえてきた。

「あらあら、こぼしちゃったんだ。ごめんね、急がせちゃったみたいで。次郎君、あとは私やるから」

 拭いていた雑巾を取り上げるようして幸子が横に座る。ほのかに石鹸のいい匂いがした。

 チラリと横顔を見る。外見的に似ている訳でないが、雰囲気が非常に施設にいたあの知子に似ていた。違うのは性格的な部分。暗く自己主張が苦手な知子。明るく気さくな幸子。

 久しぶりの再会だというのに、僕は完全に異性として彼女を意識してしまっている。

 高鳴る心臓の音。それが聞こえやしないかとドキドキしていた。

「ちょっとキッチン借りるね」

 手馴れた感じで掃除を終えた幸子は、キッチンでよく雑巾をゆすぎ、丁寧に折り畳んでいた。貴子ではあり得ない光景のせいか、ジッとその動作を眺めていた。

「やだ、黙ってそんな見つめないでよ~。恥ずかしいじゃん」

「い、いや…、申し訳ないなあと……」

「私が催促しちゃったからこうなっただけでしょ。あ、グラス借りるよ。それと麦茶」

「う、うん……」

 昔から顔立ちの整った綺麗な子という印象があったが、こうまで美しくなるとは。

 僕に対し、昔のように普通に接してくる幸子。彼女の話し方はごく自然で、何の違和感もなかった。

「さ、部屋に行こうよ」

 麦茶の入ったグラスを二つ持ったまま、先へ進む彼女。

 そういえば先ほどは制服姿だったけど家で着替えてきたのかな。今は白いTシャツにミニスカートというラフな格好でいる。さっきは健康的な脚を見ていたからそんな事すら気付かなかった。

 

「今日は何て日なんだろうね」

 目の前にあるグラスを持ち、一口飲んでから、幸子は口を開いた。

「え、何が?」

「私ね…、ずっと次郎君と昔は遊んでいたでしょ? 急にいなくなっちゃって、学校で聞いても転校したって言われるだけで、どこに行ったのかも分からなくてさ。中学校も一緒だって思っていたからさ、しばらくショックだったし…。それがさ、いきなりあの公園で再会できるなんて、夢にも思っていなかったから……」

「それは僕も一緒さ」

 幸子は僕の母さんが死んだ事は知らないのだろうか? まだ僕は一人でここに戻ってきたという言い方しかしていない。

「あのね…、うちのお母さんから聞いたんだけど、次郎君のお母さんって亡くなってしまったの?」

「う…、うん……」

 やっぱりそのぐらい知っているか。

「ごめんね、嫌な事を思い出させちゃって」

「ううん、もう随分と前の事だし」

 ここで僕が殺したと告白したら、幸子はどんな顔をするのだろう?

「食事とかっていつも一人で?」

「いや、ふ…、そ、そうだよ。弁当とか買ってくる事が多いかな」

 危なく二人と言い掛けてしまうところだった。今日さっきまで貴子はここにいたのだ。

「それじゃ栄養偏っちゃうでしょ。でも…、男の子だから料理なんてしないよね……」

「幸子ちゃんからすき焼きもらえたし、大丈夫だよ」

「そんな一食だけの話じゃないでしょ。う~ん、あ、そうかっ! 私、週に一回ぐらいだけど、料理を作りに来る」

「え?」

 いきなり何て事を言い出すのだろうか?

「だって弁当だけとか、あとはカップラーメンぐらいでしょ? さっき台所拝見させてもらったけど、とても自炊しているようには見えないし」

「まあ……」

「私も実は学校に内緒でアルバイトしてるのね、喫茶店で。だから週に一回ぐらいになっちゃうと思うんだけど、それでも何もしないよりはいいし」

「気持ちは嬉しいけど、悪いよ…。そんな気を使ってもらったら」

「もう…、何を変な遠慮してるのよ? 昔からの仲でしょ? 次郎君にお母さんがちゃんといたら、私だってこんな事言わないわよ。あなたの体とか食生活とか考えると、さすがに心配でしょ。任せてよ。私、こう見えて何気に料理得意なんだから」

 何だかこうして話しているのが夢の中にいるような感じがする。

 少し行き過ぎた感じのする彼女の親切心。こんな僕に好意を寄せてくれるからなのか。それとも母親のいない現状に対するただの同情からか。僕にはその真意が分からなかった。

「あれ? ひょっとしてそういうの迷惑だったりする? もう彼女が実はいて、作りに来るからとか……」

「いや、彼女だなんてそんなのいないって」

 一瞬貴子の顔を思い浮かべる。あいつはもうここに来る事なんてない。

「じゃあさ、最低でも週に一回はここに来るから、楽しみにしててよ。あ、それとね、うちのお母さんも次郎君の顔を見たがってたよ。だからさ、今度うちに顔を出しにおいでよ」

「幸子ちゃんのお母さんは綺麗だったもんなあ。今も変わらず綺麗なんだろうね」

「あら、次郎君って年上好みなの? 全然私の事なんて気にしてくれていないみたいだけどさ」

 少しすねたような表情になる幸子。そんな顔も魅力的だった。

「いや、そんな事ないって! 久しぶりに会った時、あまりにも綺麗になってたから、恥ずかしくてすぐ言えなかったんだよ……」

「もう~、そんなストレートに言わないでよ~」

「いて……」

 照れているのか赤面しながら幸子は肩を強く叩いてくる。そういえば直樹君との仲はどの程度なんだろう。幸子は何もないと言っていたけど、それなのにあんな公園のトイレの裏に男女二人でいるものなのか。

 いや、二人がどの程度なのかなんて気にする必要なんてないか。だって幸子はこれから週に一度はここに来てくれるのだから。

「あ、私さ、すき焼きしか持ってこなかったけど、次郎君って炊飯ジャーとかあるの?」

「ううん、いつもほとんど弁当だし」

「じゃあさ、うちにこれからおいでよ」

「えっ!」

「そんな驚かないでよ~、やだな~。持ってきたすき焼きは冷蔵庫に入れておいて、明日にでも食べたら? 今日は今日で、うちにご飯食べにおいでよ」

 これから幸子の家に? いきなり過ぎる。心の準備がまるで整っていない。

「わ、悪いから今度にするよ」

「だってご飯ないんじゃ、可哀相じゃん。明日も仕事なんでしょ? できたらお弁当も用意してあげる」

「そ、そんな気を使わないで大丈夫だって。気持ちだけで充分嬉しいから」

 僕がそう言うと、幸子は軽く頬を膨らませた。

「チェ…、いきなり次郎君を連れて帰ったら、お母さんのビックリする顔が見れると思ったのになあ~」

「あはは……」

「じゃあ、今度ここに来れる日はね…、う~んと……、明後日っ! 明後日ならバイトも休みだから、私の十八番の料理を振舞ってあげる。大丈夫、その日?」

「た、多分……」

「何よ、多分って? ひょっとして私が来るのは迷惑?」

「そんな事ないって。ただ、女の子に料理作ってもらうなんて、生まれて初めてだからさ」

 どうも調子が狂う。僕はタジタジになっていた。

「へへん、じゃあ私がその第一号になる訳だ。楽しみにしててね。今日はそろそろ帰るよ。明日の予習しなきゃいけないところもあるしね」

 玄関まで彼女を見送る。ここから幸子の家までは歩いて五分も掛からない距離だ。なので幸子は玄関先で見送りはいいと微笑む。

 彼女の後ろ姿が見えなくなるまで僕は立ち尽くしていた。

 

 家に戻るとキッチンへ向かう。明後日には幸子が来るのだ。何かしらの調理器具がないと話にならない。

「……」

 改めて何もないと実感した。生前母さんが使っていたであろう中華鍋と普通のフライパン。それと包丁や食器の類はある。ガス台は古くなっているが、ちゃんと火も使える。炊飯ジャーは当時残ったままの少しのご飯がカビだらけになり、業者を入れた際処分してしまったそうだ。今度給料出たら買っておくか。

 それにしても何であそこまで彼女は、僕などに構いたがるのだろう。単なる幼馴染として? それとも一人の男として接してくれているのか?

 いくら考えても答えなど出なかった。

 どちらにしても、貴子がここにいない状態で助かった。もしも貴子がいたら、ああして幸子を家の中へ招く事などできやしないのだから。

 何故ああまで彼女は明るいのだろう。施設にいる人間にはない陽気さと元気の良さ。ある意味羨ましくも感じる。

 貴子は一見何も考えていないような明るさを持っているが、心の根底に深い闇があった。幸子に似た知子の性格はまるで逆で、ひと言で表現するなら暗い。

 異性として初めて意識したのが知子。彼女とはキスをした仲。

 次に意識したのが年下である貴子。セックスまでした仲だ。

 このタイミングで再会した幸子。まだ何の関係にもなっていない。いや、料理をしに来るような仲?

 施設を出てからどうも環境が目まぐるしく変わっていく。

 貴子を散々抱いた僕は、知子も抱いてみたいと思っていた。でも、貴子ともああなってしまった以上、あの二人とはもう接点はない。

 幸子と再会したあと、同じように抱いてみたいと考えた。さっき、そのチャンスはあったはず。でも、僕はあの明るさに押され、何一つできなかったのだ。

 頭の中で想像してみる。

 知子を抱く。容易に想像がつく。

 幸子を抱く。まるで想像が湧かない。

 今度あの調子では彼女の家まで連れて行かれる事になりそうだ。なのであまり変な行為は避けたい。幸子の親も僕の事は知っているのだ。

 ゴトッ……。

「ん?」

 隣の部屋から物音が聞こえた気がした。

 隣は母さんを殺して寝かせていた寝室……。

 まさか、誰かがいる? さすがにそれはないだろう……。

 テレビを消し、耳を澄ませる。

「……」

 ゴトッ……。

 また聞こえた……。

 音は隣? いや、ちょっと違うような気がする。

 泥棒がいるのか? 家には僕一人しかいない。誰にも頼れない。どうする?

 辺りを見回し、武器になりそうなものを探す。何かないか。ホウキ…、これじゃちょっとな。何もないよりマシか。僕はホウキを手に握った。

 ソーッと足音を立てず、慎重に部屋のドアを開ける。静かに廊下へ出た。つま先に全神経を集中し、体重を乗せる。こういうのを忍び足って言うのだろう。

 カチャ……。

 また音が聞こえる。しかし隣の部屋からじゃなく玄関のほうからだ。ゆっくりキッチンへ入り、包丁を取り出す。これでいざって時は何とかなるだろう。これまで二人も人間の命を奪っているんだ。命のやり取りは誰よりも僕のほうが上だ……。

 でも、僕のは偶然と不意をついた卑劣なやり方…、馬鹿、こんな時にどうでもいい事を考えたって駄目だろ。今は物音を立てる主に注意しないと。

 廊下には人の気配はしない。

「……」

 電気をつけない状態のまま玄関の前まで来て、しばらく様子を見る。あれから物音は何もない。

 ゆっくり玄関のドアの鍵を回し、そっと開けてみた。隙間から見える夜空。そして近所の変わらぬ景色。徐々にドアを開け、周囲を探る。

 誰もいないようだ。外へ出てみるが、特に異変はない。

 気のせいだったのかな? でも音が聞こえたんだけど……。

 戻ろうとしてドアノブのところにビニール袋が掛かっている事に気付く。何だろう? 僕は中身を確認してみた。

「あ……」

 中にはまだ暖かいラップに包まれたおにぎりが三つ入っていた。あと小さなタッパに入ったお新香。そしてピンクの柄が入った可愛い便箋がある。誰かが持ってきてくれたのか。

 一度中へ戻り、僕は中身をテーブルの上に広げた。便箋の封を開け、手紙を読んでみる。

【親愛なる次郎君へ

 今日は久しぶりに出会えて本当に懐かしくもあり、嬉しかったよ。すき焼き食べるのにご飯ないとあれかなと思って、おにぎりを握ってみました。それとお母さんが漬けているぬか漬けのお新香も良かったらどうぞ。明後日楽しみにしててね。 幸子】

「……」

 先ほどの物音の正体は幸子だったのか。道路へ飛び出し辺りを見るが、幸子の姿は見えない。当たり前か。あいつ、憎い真似を……。

 再び戻り、手紙を何度も読み直す。僕は読んでいる内に視界が滲んでいた。常に空洞で暗かった心に、一つの明るいロウソクが灯ったような感覚。こんな人殺しの僕に対してこうも気遣ってくれる人間がいる事に、感動を覚えたのかもしれない。

 

 先ほどの幸子の行為。僕にとって、とてもありがたく嬉しいものだった。思えばあのような涙を流した事って、今までにないように思う。

 幼少期流した涙。それは母さんの虐待による怖さで……。

 施設に行ってからは、苛めによる悔しさで泣いた。

 他には? 思い出せ。もっと嬉しくて泣いたとか、悲しい映画、感動する本を見て泣いた事はなかったっけ。母さんをこの手で殺してしまった時、僕は涙を流しただろうか?

「……」

 泣いた記憶がない。

 では打たれた痛みの涙と、悔しさから出る涙以外、僕はこれが始めてなのか……。

 優しさに触れ、自然と流した涙。それはとても心の芯が温まるような感じだった。胸が締め付けられるような苦しみなど何もなく、ゴツい塊がじんわりと溶けていくような感覚。

 おにぎりをラップから取り出し、一口齧ってみる。ちょっとしょっぱかった。でも、おいしい。こんなしょっぱいのにおいしいおにぎりは初めてだ。

 あれから急いで帰り、塩加減の調整を失敗しつつも懸命に握ってくれたのだろう。

 この目から溢れ出る涙の十分の一ぐらいは、幸子の握ったしょっぱいおにぎりのせいにしたかった。

 小さなタッパのフタを開け、キュウリのお新香を食べてみる。

「うまい……」

 思わず出る声。幸子のお母さんがぬか漬けにしたキュウリは絶品のうまさだった。そうだ、すき焼きも持ってきてくれたんだ。一緒に食べよう。

 舌鼓を打つという表現があるけど、今まさにこれがそうなんだ。

 幸子の家に招かれたら、こんなおいしいご飯をご馳走になれるのか……。

 素直にそんな環境に身を置く幸子が羨ましい。こういうのをお袋の味って言うんだよな。

 待てよ、僕の母さんの作ってくれた料理を思い出そう。何を作ってくれたっけ?

「……」

 駄目だ…、まったく思い出せない。いつもお菓子やカップヌードルを食べていた記憶しかない。それかビニール袋に入ったままの菓子パン、そのぐらいしか分からない。

 母さんが死んだ最後の日、一緒に行ったドイツ食堂のオムライス。あの味は鮮明に今だって覚えているのに……。

 何か作ってくれた事ぐらいあるだろう。思い出せよ。

 ほとんどパンとかそんな買い置きのものばかりだったけど、たまには何か作っていたじゃないか。

 ゆっくり目を閉じてみる。しかし、常にピリピリして怒鳴りつけてくる母さんの顔しか思い浮かばない。違うって…、そうじゃないよ。母さんだってたまには優しい顔をした事だってあるだろ?

「ぅ……」

 吐き気を催し、トイレに口を押さえたまま駆け込む。便器に手をついてゲーゲー吐いた。

 風呂場のタイルの床にカッと目を見開いたまま倒れた母さんの顔。何でそんなものしか僕は思い出せないんだ……。

 仕事から帰り、普通に毎日入る風呂。僕は人殺しをした現場で、いつも体を洗っているのだ。当たり前にしていた自分の行動が、酷く怖く感じた。

 何度もうがいをして、口の中をゆすいだ。

 せっかく幸子が持ってきてくれた料理…、これは明日まで大事にとっておこう。

 居間の床に手を置く。僕と貴子が何度も性行為をした場所。でも、数年前ではここで母さんが見知らぬ不特定多数の男と同じ行為をしていた場所でもある。

 よく呪われた場所とかの特集をテレビでやっているけど、このマンションもそうだ。亡くなって成仏できない霊が、新たに住もうとする人間に嫌がらせをする話はよく聞く。無関係の人がそんな怖い目に遭う。なら、この手で殺した僕は、もっと怖い目に遭うのだろうか? とてもじゃないが、母さんが成仏できたとは思えない。

 やめろって…。これからもここに住んでいくようなんだぞ、僕は……。

 誰か一緒にいるならまだいいが、ずっと一人でここにいるようなんだ。変な想像はやめろ。貴子を追い出すような形になってしまった事を今になって悔やむ。でも、もう遅い。

 ゴトッ……。

「……っ!」

 どこから物音が……。

 変な事を考え過ぎだって! 気にし過ぎだ。明日も仕事なんだぞ? 今日はもう大人しく寝よう。僕は電気を消すと布団を頭から被り、丸まって寝た。

 目を閉じると、亡くなった時の母さんの顔が鮮明に頭に浮かんでくる。何で? 僕が母さんを殺したから恨んでいるの?

 起き上がり、電気をつける。シーンとした空間。また物音が聞こえたらどうしよう?

 テレビをつけ、ボリュームを大きめにする。これなら大丈夫。

 再び布団に包まって目を閉じる。今度は母さんの姿が思い浮かぶ事はなかった。

 

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