2024/12/23 mon
前回の章
みゆきの『パパンとママン』の出演依頼。
俺は彼女へ電話をして話を聞いてみた。
「あ、みゆきさん? どんな感じで出たいの?」
「智さんが私を出してくれるなら、どんな汚れ役でもいいです!」
「いや…、それは俺が嫌だ…。傷心を俺を勇気付けてくれ、また執筆しようって原動力になったからね、みゆきさんは」
「でも、本当にどんなキャラクターでもいいですよ、私」
「分かった。書こう! もうみゆきさん以外、誰もこの作品なんて興味示していないだろうけど」
この子には感謝がある。
俺だって人間だ。
みんなにそっぽを向かれ、いじける事だってあるさ。
そんな暗闇の中にいる俺に明かりを照らしてくれたみゆき。
『鬼畜道 ~天使の羽を持つ子~』とは真逆にあるジャンルであるこの作品。
また書こうじゃないか。
第十章《初恋の人》
とうとうあの理不尽で女癖の悪い先輩、ムッシュー石川が退院してきた。
彼は性質の悪い場末の飲み屋『兄弟』の女将とできている男でもある。
女将は五十を過ぎているというのに……。
僕が食堂を一人できりもみしている時に、ムッシュー石川は突然やってきた。
「は~い、ワテもようやく退院したわ。おぬし、快気祝いでただ飯食わせろや」
「はあ? 何をいきなり無茶言ってんですか」
以前スナック『月の石』で飲んだツケはちゃんと回収したが、この男と付き合うとろくな目に遭わないのは実証済みである。
「シャーも冷たくなったもんだなあ」
「何ですか、シャーって?」
「タガログ語であなたという意味じゃ」
「タガログ語なんて、いつの間に覚えたんですか?」
「入院中、時たま抜け出してフィリピンクラブ行ってのう。そん時教えてもらったんだわ」
「病院を抜け出したんですか? 駄目じゃないですか」
「ええの、ええの。細かい事なんて置いといて。もう退院したんだからね。アチキは過去を振り返らぬ男なんぞよ。そんな事よりも、はよワシに何か食わせやがれってんだ」
何を急にエバっているのだ。
「無理ですよ。売上の管理はママンがしてますから誤魔化せないんです」
「はん、お高くとまりくさってからに」
「そういう問題じゃ……」
「何や、ボケナスがぁ~! この店で暴れるど?」
面倒臭い男だ。
相手にしていると図に乗るだけ。
僕は無視をしながら料理を作り、他の客へ愛敬を振り撒く。
「お客さま、お待たせしました。『私、営業の田中です、パスタ』です」
この恥ずかしい料理名はもちろんママンが考えた。
いや考えたというよりも、適当にその場の思いつきでつけたネーミングだろう。
一見普通のミートソースだが、何故このようなネーミングになるのか意味不明である。
他の二品料理は『ウルトラマンを倒したゼットンの好んだコロッケ』と『コオロギも食べたがったオムライス』だ。
ウルトラマンとかコオロギとかまったく関係ないのになあ。
実際に客の対応するのは僕なのだから、ママンも少しは真面目に考えてほしいものである。
僕に無視をされたムッシュー石川は、一人でイジケながら爪楊枝を持ち、自分の指先をチクチクと刺していた。
その姿を見て哀愁を感じた僕は、氷入りの水道水を出しながら声を掛けてしまう。
「ムッシューさん、あと一時間ぐらいでお店終わりますから、一緒にゲーセンでも行きますか? 何なら快気祝いで牛でもしばきに行きますか?」
「何でめでたき日に、牛飯なんぞ喰わにゃあかんのよ?」
「え?」
「もっとええとこ連れてけや!」
こいつ、とんでもねえ男だ。
人の好意を舐めやがって……。
「無理ですよ。今週の日曜日に同窓会があるんですから。僕は無駄遣いできないんです」
「ああ、夕方六時に『月の石』でやろ?」
「え、何でムッシューさんがそんな事知っているんですか?」
「ああ、ワイの弟が教えてくれたんやで」
「え、ムッシューさんに弟なんていましたっけ? 一人っ子じゃ……」
その時僕は忌々しい過去を思い出していた。
僕の同級生の悪友である武田五郎。
そしてこのおぞましい先輩であるムッシュー石川。
この二人はいい師弟コンビだったのだ。
彼らは中学時代『蝿さえたからない者たち』と呼ばれていた。
本人たちは馬鹿だから何故かその呼び名を喜んでいたが、本当の意味は蝿さえとまる価値がない、野グソ以下の存在というものだった。
先日までランバラルは北海道の自衛隊へ行っていたから、この街も少しは平和だったのである。
しかし神の悪戯かランバラルは帰郷。
そして同時期にムッシュー石川まで退院というとんでもない状況が訪れたのだ。
「ランバラルはほんまええ奴や。どこかの定食屋の小坊主と違ってな」
「ずいぶんな言い方ですね」
「おい、火は? 火ー、チャッチャとつけんかいっ!」
いつの間にかムッシューはタバコを口にくわえ、僕に火をつける事を強要している。
この男、人の店に来て注文もせずに何様のつもりだ……。
「……」
他の客がこちらを見ていたので仕方なく黙って火をつける。
ムッシュー石川は鼻から大量の煙を吐き出し、ニマッと笑った。
もの凄い屈辱感が全身を覆う。
「火と来たら?」
「はあ?」
「火と来たら、次は水やろうが! チャッチャと持ってこいや。この店は客に水すら出さへんのかいな。もうワイのグラスは空やで」
「い…、今出しますよ……」
この男、一体その自信はどこから来ているのだ?
次からは出入禁止にしないと駄目だな、こいつ。
「そんでのう、おまえらの同窓会。ワイも参加決定したで」
「え…、だって同窓会って僕らの学年だけのものじゃ……」
「堅い事抜かしなさんな、ボーイ」
「だってムッシューさんは学年違うじゃないですか!」
「ムフフ、来るのよ、あの子が……」
「あの子って?」
「おい、兄ちゃん。『ウルトラマンを倒したゼットンの好んだコロッケ』はまだかよ?」
いけない。
今は仕事に集中しなきゃ。
「はい、今すぐお持ちします」
僕は小汚い定食屋の中をところ狭しと動き回った。
ランバラル曰く同窓会には豆タン子しか女は来ないと言っていたが、先ほどムッシュー石川の言った台詞「ムフフ、来るのよ、あの子が……」。
とても気になる。
先輩のムッシューは何も注文しないのに、水だけを何度もお代わりし、酔ったふりをしていた。
本当にウザい男だ。
一日の仕事が無事終わり、店内を片付ける。
ママンが作った料理は適当に見えるけど、いつも計算したようにキッチリなくなるのが本当に不思議だ。
さて今日の売上を計算しておしまいだけど……。
「ムッシューさん…、いつまでうちにいるつもりですか……」
「いい寝かせ方をしておるのう、ヒック」
「あの~…、水しかあなたは飲んでないじゃないですか。いい加減酔ったふりをして居座るのやめてもらえませんか? もう閉店の時間なんですよ」
「おぉ、努リン。あならは分身の術でも使ってるのですかいなあ。三分身の術を使って、ワイを騙そうたって、そうは問屋が卸しませんよ」
「……」
早く帰れよ、このゴミめ。
そうだ、追い払う前に、あの子とは誰の事ぐらい聞いておくか。
どうせ今日でうちの敷居を跨ぐのも最後だし。
「おぉっ! 四分身。おぬし、いつの間に腕を上げよったのだ」
「ムッシューさん、そんな事よりも、同窓会に来るあの子って誰ですか?」
「あの子って決まっとるがな。我が学園の絶望のマドンナや」
「絶望のマドンナ…。ひょっとして、それは……」
「そうや、みゆきはんや」
「えっ!」
ハンマーで頭を殴られたようなショックを受ける。
僕らの学年、いや、在学生歴代で最も美しくエレガントと言われたみゆきちゃん。
僕の初恋の人だった。
「あのあだちみつるの『みゆき』ってあるやろ?」
「ええ、『みゆき、セプテンバーラァーラァー』ってやつですよね?」
「いや、それは違うやろ」
「そうでしたっけ」
「小学館の漫画でも、実写で映画にもなったあの『みゆき』や」
「ええ、知ってます。知ってますとも」
「あの作者のあだちみつるもな、みゆきはんを偶然町で見かけて漫画にしようと思ったらしいで」
「本当っすか? すげー」
「いや、それは嘘やけどな」
「くっ……」
じゃあここまで無駄に引っ張るんじゃねえよ、クズ野郎が。
「みゆきはんが来るからワイも出る。これは人としての常識である」
「だってムッシューさんは学年違うから、来ちゃ駄目ですよ」
「何やて、おはん? 何故ワイが行っちゃあかんのかい! 具体的に言ってみいや」
「具体的にも何も、学年が違うから出席するのは無理だって言っただけですよ。同窓会って同じ学年同士の者がやるものですから」
「いいんや、そんなちっちゃい事はのう。おぬし、チンポコちっちゃいのう」
「全然話題と関係ないじゃないですか!」
「まあ、そう怒るな。確かにワイは努やランバラルとは違う学年や。でもな、それならそれで方法はあるんやで」
「方法? どんな?」
どうせロクなもんじゃないだろう。
「ワイが留年すればええんや!」
「留年って、もうとっくに僕らは中学を卒業しているじゃないですか」
「ええんや、そんなもん。これからはダブリのムッシューと呼びなはれ」
「……」
「はよ、牛しばきに行くで。もうこっちゃ腹ペコペコなんや」
信じられない奴だ。
この男、ずっとその為に粘っていたのか……。
「まだ店の計算があるから、先に行ってて下さいよ。好きなもの注文してていいですから」
「だって券売機やから、前金やないか。先に金だけくれや」
「はあ……」
しょうがなく僕は五百円玉を一枚渡した。
「おいおい、何や、これ?」
「五百円玉ですけど?」
「これじゃ好きなもん喰えん」
「だって大盛りや得盛り喰えますよ?」
「ちゃうねん。せっかく退院したんや。牛焼肉定食や、ハンバーグ定食とか二つぐらい喰いたいねん」
「ほら、これで文句ないでしょ」
仕方なく千円札を一枚握らせた。
「おう、サンキュー。ビバ、努しゃん! 食べ終わったらまた帰ってくるから、あそこの飲み屋でも行こうや」
「あそこって?」
「れっこはんのいるところやで~」
「はあ……」
これ以上相手にしていても時間の無駄だ。
僕は適当に生返事をして、ムッシュー石川を追い払った。
今日の売上でもらった僕の給料は何と三万円。
これ、結構ヤバいでしょ。
毎日こんな感じで稼いじゃったら、一ヶ月で九十万。
年収にしたら、一千万プレイヤーだ。
まあ、あの哀れなムッシューに、こうなったら酒の一杯でもくらい振舞ってやるか。
人生勝ち組と負け組みがあるが、勝ち組というスターダムにのし上がった僕は、道の端っこを歩く敗け犬にも情けは忘れたくない。
でもあとちょっとで、あの絶望のマドンナみゆきちゃんに会えるのか……。
中学生の時初めて見た瞬間、全身に電撃が走った美しさ。
誰にでも分け隔てなく笑顔で接する彼女は、常に女子生徒から嫉妬の対象だった。
みんなに優しいだけなのに、本当に美人だから『八方美人』なんて言い触らしていたけど、本当にみゆきちゃんは美人だったから、他の女共なんてしょせん、負け犬の遠吠えぐらいにしか聞こえなかったよなあ。
同窓会、あまり興味がなかったけど、彼女が出席するのなら話は別だ。
気が重いのが、あの豆タン子も来るというぐらい……。
待てよ?
それならあの男をうまく利用すればいいじゃないか。
『兄弟』の女将とも付き合っちゃうぐらいのゲテモノ好き。
奴ならきっと豆タン子さえも大丈夫だろう。
あとの問題は、場所が『月の石』だから、あそこのママのパイナポーだよな。
あんなババーに「好きなの」なんて言われたって、冗談じゃない。
あれもムッシューにうまく押し付ければいいか。
ただランバラルとムッシューの『蝿にもたかられない者たち』が復活したら、嫌だなあ。
久しぶりのみゆきちゃんと再会に、肥溜めをぶっ掛けられるようなもんだ。
そういえばムッシューの奴。
僕から五百円と千円札を持っていったけど、あいつの事だ。
並を頼んであとはポッケにお釣りを入れる可能性もある。
今後は気をつけないと。
奴の快気祝いなんてこれ一度きり、まあ今日だけの我慢だ。
定食屋のドアが勢いよく開く。
「只今、石川ダブリー、食事より戻ってまいりました」
「……」
何か嫌だなあ。
テンションが猛烈に高いぞ、この馬鹿。
「さあ、ド軍曹。次はいかがいたしましょう」
「何ですか、そのド軍曹って?」
「努を音読みで読むと『ド』。今日は酒までご馳走してくれるから『軍曹』。それでド軍曹やで」
「嫌ですよ、そんな言われ方なんて」
「まあ、細かい事はええ。今日はお客はんたくさん入っとったのう。たんまり銭っ子もらえたんやろうが。行くで、行くで、行くで!」
こうして僕は、強引に引っ張られる形で『スナック 月の石』まで行く事になった。
そういえば退院したばかりなのに、自分の女がやっている『兄弟』の女将のところへ顔を出さなくてもいいのだろうか?
「ムッシューさん、『兄弟』には顔を出さないんですか?」
「大丈夫マイフレンド。あのバシタは完全にワイに惚れてるさかい。あとでしこたまギャフンギャフン言わせたるわいな」
本当にこいつ、お下劣な野郎だな……。
「それよりムッシューさん。あの店でれっこさんに襲い掛かったら、僕は言いつけますからね、『兄弟』の女将に」
「分かっとるがな。今日はあんさんが大蔵省でっからのう。ワイは終始オマケみたいなもんでっせ、ド軍曹」
「……」
どうでもいい会話をしながら僕らは『月の石』まで到着する。
ドアを開けると店内には常連客のチョーさん一人しかいない。
相変わらず暇な店だ。
店サイドはパイナポーを始めとして、人妻れっこに看護婦の新道貴子。
「ん?」
店の隅に黒いピアノが置いてあり、一人の男が演奏しているぞ?
いつの間にこんな洒落た店になっていたんだ?
あれ、どこかで見た事あるような……。
「いらっしゃい、ダーリン」
僕にもたれ掛ってくるママのパイナポー。
慌てて僕は引き離す。
油断も隙もあったもんじゃない。
「ひゅー、ひゅー、お暑いね、お二人さん」
れっこが意地悪そうに大笑いしながらひやかす。
「勘弁して下さいよ、れっこさん……」
頬に痛みが走る。
気がつけばれっこに叩かれていた。
本当に手の早い女だ。
一応僕は客なんだけどな。
「ここでは麗華って呼べと言ったでしょ!」
「ご、ごめんなさい……」
「そうそう、新しいピアニストがうちに入ったのよ」
新道貴子がピアニストを紹介する。
迫力のあるボインは健在だ。
「はあ」
「紹介するわ。ピアニストの神威龍一さんよ」
ピアニストは礼儀正しく立ち上がり、軽く会釈をしている。
あ、思い出した。
パパンが入院し、あの小汚い定食屋を僕が一人できりもみした初日にいた男だ。
ゴッホというゴリラ顔の男と一緒に来たっけ。
だいたいあんなデカい図体してピアノなんて弾けるのか?
「あんたたち、何を飲むんだい?」
「わぁっ! や、やまて下さいよっ!」
ポイナポーは僕の耳元に息をフッと掛けながら言ってくるので、全身に鳥肌が立ってしまう。
「そうやな…、ヘネシーでも入れとくかいなあ」
「ム、ムッシューさん! 冗談じゃないっすよ。あんた、金なんて一銭も持ってないじゃないですかっ! ヘネシーがいくらするか知ってんですか?」
「おいおい、世知辛い事を抜かすな、田吾作! 夜の遊びは、男がいくら格好つけるかってところに真価が問われるんだぜ、ベイビー」
「もう…、冗談じゃないっすよ!」
「ちょっと静かにおし! これから神威ちゃんの優雅な演奏タイムなんだよ。おまえらみたいなデクノボウでも感動を覚えるような素敵な演奏なんだ。いいから席に座ってな」
パイナポーが怒鳴りつける。
この女も抱きついてきたり、息を耳に吹き掛けたり、怒鳴ったり、一体客を何だと思ってんだ。
神威がマイクを握る。
「えー、この度は『スナック 月の石』までお越し下さりありがとうございます。本日演奏する曲は二曲…。『ザナルカンド』とドビュッシー作曲の『月の光』。これをお送りしたいと思います」
静まり返る店内。
一瞬真っ暗になり、ピアノのあるステージだけにスポットライトが当たる。
神威はゆっくりと目を閉じ、ひと呼吸してから指を動かした。
彼の奏でるメロディは、音楽など分からない僕の心の中にも染み渡ってくる。
なるほど、何故こんな店でもピアノを入れようと思ったのか。僕はそれが少しだけ分かるような気がした。
ゆったりスローに流れるリズム。
れっこは涙ぐみながら彼を眺めている。
「ん?」
急に音程が外れたような……。
神威は演奏をやめ、ガタガタ震えていた。
「ちょっと神威さん、どうしたの?」
新道貴子が近づく。
「デュークが…、デュークが力を貸してくれない……」
「何よ、そのデュークって?」
「お、俺の前世だ…。彼は無名だが凄腕のピアニストだった。ずっと世に出たいって、いつもそう願いながら屋根裏部屋で毎日ピアノを弾いていたんだ」
「ちょっと神威さん、落ち着いて」
「デュークはあの時『力を貸しましょう』って言ってくれた。あの時俺は、体が急に温かくなったんだ。でも、今は何も聞こえない……」
何かとんでもない事態になっていないか?
パイナポーやれっこまで、ステージに駆け寄る。
客のチョーさんはいびきをかいて爆睡していた。
「どうしちゃったの?」
「分からない……」
「神威さん! しっかりして」
「分からない……」
「神威さんってば!」
「分からない、分からない、分からない……」
「いいから落ち着きなさい。大丈夫だから落ち着いて!」
「何故、秋奈は発表会に来なかった? 何故……」
何か危ない奴だな、あいつ……。
「神威さん、もう今日は上がっていいから落ち着いて」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ秋奈ーっ!」
何だ、あいつ……。
すげー怖い……。
僕の横にいたムッシューが立ち上がった。
「せ、先輩……」
「努よ、ワイに任せとけや」
そう言ったムッシュー石川の顔は妙に頼もしく見えた。
何故か僕の目の前でラジオ体操第二を始めたムッシュー。
「あ、あのー…、先輩…。何をしてんですか?」
「話し掛けるな。今、精神を集中しとるんや……」
「だって……」
「まさかこんな場所で再び再会するとは運命の悪戯だのう」
ムッシューは遠い目をしながら、ピョンピョン飛び跳ねていた。
「先輩」
「奴とは同じ高校だった…。『怪獣』と呼ばれたあの男がピアノを弾いているなんて、全然ピンとこんかったわ」
「え、あの人と同級生なんですか?」
「ああ…、当時若かった俺は、あいつに『目障りだ』という理由でぶっ飛ばされた過去がある。奴はそんな理由で簡単に人を殴れる男だったのさ」
「……」
でも、それってただ単にあなたが苛めに遭っていただけじゃないのかな。
「永かった…。ここに来るまで…。しかし、昔と今は違う。ワイも成長したんや」
何か今日のムッシューは一味違うぞ?
悠然とステージへ向かって歩くムッシュー。
その後姿は妙に格好良く見えた。
「神威…。ワイを覚えているか?」
取り乱す神威のそばへ近づいた時だった。
「知るか、ボケッ!」
あっという間にパンチを食らい、ムッシューは弾き飛ばされる。
「……」
え、あれだけ格好つけて、もう終わり?
「痛い痛い痛ーいっ!」
メガネも割れ、頬もお化けのようになったムッシューは、顔面を両手で押さえながら床を転げ回っていた。
ここにいたらヤバい……。
そう感じた僕は、そっと忍び足で『月の石』を逃げ出した。
まだ何も飲んでいないのだ。
金など払う必要はない。
ムッシューに神威。
あの二人がうちに食べに来る事あれば、すぐ出入禁止だと入れないようにしないと……。
今週の日曜日、あの店で同窓会だけど、神威って奴、また演奏で来るのかな?
「はあ~……」
みゆきちゃんとの再会する楽しみが、どんどん壊れていくような気がした。
早速小説のデータをみゆきへ送る。
俺の作品の中で、過去のキャラクターを適当に散りばめたハチャメチャな小説。
すべてをコメディに変換したどうしょうもない作品である。
鬼畜道の神威が錯乱する様子は、過去実際に俺が受けたトラウマ的な怖い思いをそのまま使ってみた。
あの身震いしたあの頃。
時は二千六年。
俺が初めてブログを始めた『新宿の部屋』。
当時は牧師やちゃち、うめ、カイコチャン、トライ、ぴよ、望、気まぐれマダム、あすなろ先生、くー、らん、ツトムなどいろいろなブログをやっている人たちが集まっていた。
誰かがMSNチャットを使って、俺とチャットをしたいと言い出した。
俺も自分の作品を読んでくれる人たちと、生の会話を楽しんでみたいという思いはある。
当時の彼女の百合子は、俺が人気者になり、他の様々な人たちとの交流を面白く思っていなかった。
百合子が傍にいる時は、さすがにできない。
なのでグループチャットをいついつにやると告知した。
集まった人数は二十三名。
俺の指定した時間に集まってくれた人たちへ感謝を覚える。
しかしそれは最初だけだった。
みんなが俺と話したがり、収拾がつかない状況になる。
別の日にチャットをすると、誰と誰とは一緒にチャットをしたくない。
この人は空気を読めないから入室制限したほうがいい。
十人十色とはいうが、本当にいい例えだ。
俺はチャットというものに、少しウンザリし始めた。
その頃知り合ったばかりのらぷゅたという女性がいた。
九州で教師をやり、俺より少し年上でもちろん結婚はしている。
現在休職扱いで仕事を休んでいるようだ。
教育委員会と町長がねんごろの仲で、邪魔者扱いされた彼女は精神を病んだと説明してくる。
顔も名前も知らないインターネット上なので、話半分で聞いておいた。
刺激しないよう「色々と大変ですよね。今はゆっくり休み、心を癒して下さいね」程度の返事をしておく。
ある日部屋で寝ていると、ティロリンというチャットメッセージが届く音で目覚める。
送ってきた主は、らぴゅた。
寝起きでボーっとしていた俺はパソコンの画面を眺めていると、メッセージは何度も届く。
「ねえ、いるんでしょ? 返事くらいしなさいよ」
妙に威圧的な文面のらぴゅた。
あまりいい感じはしない。
俺が返事をするまで、彼女は似たようなメッセージをしつこく何度も送ってくる。
仕方なく返事をしてみた。
「智さん、あなたとても人気があるのね」
「ありがとうございます。たまたま『新宿クレッシェンド』を先日載せたので、それを読んでくれた人たちが色々感想を言ってくれただけですよ」
「私、沼男と付き合ってたじゃん?」
ん、何をいきなり言っているのだ、この人は?
「え…、あの…、らぴゅたさんって、ご結婚されていますよね?」
「うん、一応いるけど、あれは駄目だからね」
「え、えーと……」
「それでさ、沼男とは別れるからさ、智さん、私と付き合ってよ」
「え、あの……」
いきなり何を言っているのだ。
意味がまったく分からない。
「何? 智さんは私が嫌なの?」
「いえ、嫌とかそういうのではなく、らぴゅたさん、旦那さんいらっしゃいますよね?」
「いるよ」
「それで私と付き合うという、意味が分からないのですが……」
「あんな屑野郎の事を持ち出すんじゃねえよ」
「は?」
この人、かなりヤバい人なんじゃ……。
俺はチャットの向こうにいるらぴゅたへ脅威を覚えた。
「だから付き合ってよ」
「あ、あの…、自分には付き合っている彼女がいると公表していますよね?」
「いいから付き合ってよ」
「らぴゅたさんはお子さんもいらっしゃいましたよね?」
「分からない」
「何が分からないんですか! それに結婚だってしている」
「分からない」
「それに沼男って誰ですか?」
「分からない」
「大丈夫ですか? 私はあなたの言っている事が何一つ理解できない」
「分からない」
「らぴゅたさん!」
「分からない」
「ひょっとして馬鹿にしていますか?」
「分からない」
「ちょっと……」
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「……」
画面に広がる「あ」の文字だけ。
俺は怖くなり、チャットを切った。
そしてらぴゅたをブロック設定にする。
絶対に関わってはいけないタイプの人だ。
それ以来『新宿の部屋』繋がりのチャットは二度と辞めた。
みゆきから感想のメールが届く。
岩上先生ではなく、岩「神」先生ですねと絶賛してくれた。
まだみゆきの存在をチラつかせただけで、実際に作品へ出した訳ではないのだけどな。
それでも彼女が喜んでくれたのは良かった。
俺はみゆきが読むなら続きを書こうと『パパンとママン』の第十一章を早速書き始める。
頭を空にして書けるこの作品は、本当に気楽だ。
しほさんという俺の小説最大の理解者が去った今、みゆきが読んでくれるという行為だけがすべてだった。
俺は彼女が気に入ってくれた作品をA5サイズでプリントアウトし、一冊の本を作る。
実際に本にしてみて、もう一作品分くらい厚くはなるが入るだろうと『忌み嫌われし子』だけ印刷した。
せめてものお礼代わりだが、世界に一冊しかない本。
みゆきへのプレゼント用とした。
『鬼畜道 ~天使の羽を持つ子~』のデータ……。
何とかならないものだろうか?
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