2024/12/24 tue
前回の章
携帯電話が鳴る。
珍しい人から掛かってきたものだ。
先輩の中野英幸さんから。
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くらづくり本舗の副会長。
何でこんな俺に電話など?
とりあえず出てみる。
「おう、智一郎か」
「秀幸さん、どうしたんですか?」
「ん、いや、ちょっと昼飯でも一緒に食べないかと思ってさ」
どういう風の吹き回しだ?
「別に構いませんが……」
「五分もしないで車で迎えに行くよ」
「分かりました。外で待っていますね」
英幸さん、今度の県会議員の選挙に出るんだよな?
俺などの相手などしている場合じゃないだろうに……。
外へ出てタバコを吸っていると、すぐに迎えの車が来る。
英幸
もちろん運転手付きだ。
ドアを開け、中へ招かれる。
秀幸さんとは岩上整体以来だ。
「どうしたんですか、急に?」
「いやいや、すぐそこのいちのやで席取ってあるから」
「え? いちのやじゃ、歩いて一分も掛からないじゃないですか。わざわざ迎えに来なくても」
「まあまあ、智一郎。たまにはいいじゃねえかよ」
逆に歩いた方が近かったんじゃないかというくらいの時間で、車は鰻のいちのやの裏にある駐車場へ停まった。
入口を入ると社長の市ノ川昌也が出迎える。
彼は俺より一つ年上の先輩。
家から徒歩一分の近さなのに、小学も中学も別々だった。
鰻のいちのやは、総合格闘技イベントPRIDEのスポンサーでもあり、昌也の親父さんとうちの馬鹿親父は近所なので子供の頃から仲がいい。
「智一郎さん、お久しぶりです。試合の時以来ですよね?」
昌也の代になってから、いちのやは支店を増やし、今でも俺が以前出場したDEEPなどの格闘イベントへ出資を行っている。
「そうですね」
「智一郎さん。前田日明のアウトサイダー知っていますか?」
「ええ、名前くらいは」
「良かったら、アウトサイダー出ませんか?」
前田日明がリングスから、素人の喧嘩自慢を集めた大会のアウトサイダー。
リングから降りた身とはいえ、その辺の格闘技情報は色々入ってくる。
「おいおい、今日は俺が智一郎と飯食いに来ているんだ。その辺の話はあとでやってくれよ」
中野英幸さんが間に入ってきた。
「奥の個室取ってあるんだ。智一郎、行こう」
豪華な造りの個室へ案内される。
「智一郎、おまえ、鰻は大丈夫だよな?」
「ええ、大丈夫ですけど…。秀幸さん、今日はどうしたんですか?」
「まあ、座れって」
促され椅子へ座る。
鰻の豪華なセットが運ばれてきた。
「ま、食いながら話そう」
「ええ、頂きます」
「智一郎。聞いているとは思うけど、この度県会議員選挙に出馬させてもらう」
面倒見のいい俺より十歳年上の英幸さん。
この人が政治家になるなら、心から応援したい。
俺が岩上整体を開業している時も、来てくれた。
「英幸さん、俺…、本当に応援します!」
鰻を食べながら他愛ない世間話をして、食事を終える。
「智一郎…。おまえは岩上家の長男なんだ」
そう…、俺は岩上家の形だけ長男。
「おまえが岩上家を継げ。それで俺の陣営に来い」
「……」
昔から家の内情を多少は知っている英幸さん。
今回俺などをこんな場所へ招待し、わざわざ出馬する事を伝えたのには、背後におじいちゃんの孫という立ち位置があるからだ。
英幸さんの父親、中野清さん。
おじいちゃんは、清さんの名誉会長を務めていた。
その兼ね合いもあるのだろう。
それに無名に近いが、俺には元プロレスラーと本を出した小説家という顔もある。
地元川越辺りでは有名な話だ。
ただ、俺はぶっちゃけ政治にはまるで興味が無い。
そして常に蚊帳の外扱いだった家業。
あの家には親父や妹の叔母さんであるピーちゃんも住んでいるのだ。
継ぐなど、到底無理な話である。
それは家の内情を簡単に英幸さんへ説明した。
「智一郎…、親父さんを許してやれよ……」
「いや、無理です!」
英幸さんは親父の実態まで知らない。
だから簡単に言えるのだ。
「許してやれって、智一郎。俺もな、親父が今社長だろ? 俺に会社は引き継ぐけど、金は自分が見るとか言うんだぜ? そりゃあないだろって。だからこの機会だ。おまえが岩上家の跡取りになるしかないんだよ」
英幸さんはそのまま家業を継ぎ、今度は選挙にも出馬する。
正に絵に描いたようなレールを敷かれ、その道を歩んでいた。
俺はどうか?
幼少時代を思い出すと、おじいちゃんが小学生の俺へ「養子にならないか?」と言われた事があった。
別にお金が欲しい訳じゃないから、このままでいいと答えた俺。
笑顔だったが、おじいちゃんはとこか寂しげだった。
思えばあの時からボタンの掛け違いが始まったのかもしれない。
昔からレールを外れ、アウトローな道程を歩んできたのだ。
英幸さんと、俺はまるで違う。
親子の繋がりも、家族間の繋がりもすべて違う。
だから現時点の俺が置かれている環境など、絶対に分かりはしないだろう。
「でも、英幸さんが選挙に出る事に関しては、心から本当に応援しますし、逆にようやく出るんだなと思っているくらいです」
英幸さんはしばらく俺の顔を見たあと、笑顔になり「分かったよ、ありがとう」と握手を求めてきた。
帰りも運転手に送らせると言うが、それはさすがに断り丁重にお礼を伝える。
家に戻り、家族の繋がりというものを考えた。
英幸さんに誘われた鰻のいちのや。
あそこの昌也さんも、親父さんから店を継承され現在も上手くいっている。
現在川越市長の船橋家もそうだ。
息子であり、俺の同級生一浩は現時点で基盤を受け継ぎ、今や県会議員だ。
親から子へ流れるルーツ。
本来それが当たり前なのだから……。
何故俺の親父は、ああなのだろうか?
昔からただ家の金で遊び回り、育児放棄のまますべてを周りに人任せできた。
加藤皐月の補助により、家業の社長を強引に継ぎ、店を衰弱させた馬鹿。
しかも加藤皐月の娘婿などをこの家に入れて、働かせる始末。
伯母さんのピーちゃんが俺に冷たい態度や酷い対応をするのも、原因の一つに、俺が親父と一番顔が似ていると言われる部分もあるだろう。
岩上智の長男。
元から忌み嫌われる存在なのだ、俺は……。
だから先日ミクシィでも、しほさんを始めみゆきもセクラクララも、みんな去っていく。
お袋の時とはまた違ったドス黒い憎悪。
親父を憎んだ。
そしてピーちゃんも憎しみの対象になっている。
このドス黒い感情を文字へ……。
そう…、『パパンとママン』の最終章にこの今の気持ちを込めろ。
コメディ?
ふざけんなっ!
「おまえの小説は読んでいて暗くなるから嫌な気分しかしない。こんなものを買う人間の神経が分からない」
伯母さんのピーちゃんから言われた台詞。
上等だよ。
暗く嫌な気分にさせる小説しか書けないで悪かったな。
嫌な奴は読むな。
俺は書きたいから書いている。
最終章
※ 始めにお断りしておきます。ホラーが嫌いな方は、これ以上読むのをお勧めしません。
※ もしお読みになられて気分を害したと言われても、責任取れません。
※ それでも構わないという方のみ、このあとの話をお読み下さい。
「はぁ~……」
俺、『パパンとママン』の作者神威龍一は、深い溜息をつきながら布団へ寝転がった。
どうもこの作品を書いていると、壮大なカオスの中に取り込まれていくようで、頭の中が混乱してくる。
セブンスターに火をつけ、大きく煙を吐き出した。
もうこれ以上書くと、おかしくなる。
自分で何となくそう感じていた。
結局マドンナにみんながフラれて帰る。
うん、これでいいじゃないか……。
いや…、すげえつまらないし、これで終わりじゃ、読者を裏切るようなもんだ。
この作品は第九章の『同級生』まで勢いよく書いていた。
強がりでも何でもなく、この程度の内容ならいくらでも書ける。
そんな自負があった。
二千八年六月十日までは……。
この当時、俺は読者参加型の作品にしようと、インターネット上で参加者を募集する。
何人か出たいと申し出があったので、俺は名前だけをリアルに使い、性格は勝手なキャラクターとして自由に表現した。
すると『月の石』で初登場したれっこさんは、めでたく妊娠……。
ここまでは良かった。
現実の俺の部下であったムッシュー石川は、登場させてすぐ、お父さんが脳溢血で倒れてしまうという自体に遭遇する。
何だか薄気味悪いな。この時はそのぐらいにしか考えていなかった。
二章の『兄弟』で出てきた居酒屋。
もちろん近所にモデルがちゃんとあり、こちらが現実で実害を受けた為、パロディとして『パパンとママン』に登場させた。
この店は昔からある訳ではない。昔は『きね屋』という普通の食堂だった。
豚にそっくりなお姉さんがいつもいて、幼かった俺を見る度「家は継がないの?」と同じ事を聞いてくる変な人だった。
俺が二十代後半になった頃、『きね屋』は無くなり、しばらくしてから『兄弟』モデルの店ができた訳である。
この頃歌舞伎町で深夜働き、人と真逆の生活を送っていた俺は、近場で飯を済ませたいと思い、初めてその店へ食べに行く。
まあ値段も安かったので二回目も行こうと中へ入ると、女将が俺をギロッと睨まれ、「うちは酒を飲まない人はお断りだから」と追い出された事があった。
変わった店だなぐらいにしか、この当時は思っていなかった俺。
しかし、それからあの異様な店は近所に様々な被害を及ぼすようになっていた。
小松菜泥棒は、うちのおじいちゃんが育てていた花壇から実際に盗まれたのをあのように表現。
定食屋へ盗みに入ったオカマの話も、ちゃんとエピソードがある。
俺が歌舞伎町時代、裏稼業で一時期多額の金を稼いでいた事があった。
おじいちゃんに恩返ししようと思った俺は、五百円玉貯金を開始して、毎日買い物をする際も必ず五百円玉がお釣りでもらえるように心掛けた。
だから三ヶ月間で、三十万円の貯金箱はいっぱいになる。
それをおじいちゃんにプレゼントした夜、家に泥棒が入った。
三階にいた弟が、深夜に一階から物音が聞こえたので下へ降りる。
すると外で「泥棒よ、泥棒よ」と大きな声で騒いでいたオカマのオヤジがいたらしい。
そして俺がおじいちゃんにプレゼントした五百円玉貯金箱は無くなっていた。
実はそのオカマが泥棒だったというのを後日、警察から聞く。
何でもうちは泥棒仲間の中では有名なぐらい盗みに入りやすい家らしく、内部の見取り図まで出回っていたようだ。
そんな経緯もあり、『兄弟』のモデルになった店は、近所でも評判がとても悪い。
うちの隣にあったとんかつ屋でも、『兄弟』モデルの女将は客と一緒に来て、たらふく飲んで食った事があるそうだ。
途中一人の客だけを残し、女将らは金も払わず帰ってしまう。
残された男は一銭も持っていないようで、そこで働いていた俺の先輩は、女将に文句を言いに行く。
しかし「あの人、うちの客じゃないし、ご馳走するからってついていっただけだから」とまるで支払う意思がなかったようだ。
まったく悪びれる様子もない無銭飲食の男を先輩は、警察へ連れて行こうと車へ乗せる。
向かう途中その男は「おまえ、ずいぶんと生意気な若造だな」と何度も先輩の頭を叩いたらしい。
警察官の話によると、その男は無銭飲食の常習犯らしく、一円も取れなかったそうだ。
頭に来た先輩は、「お巡りさん、もうお金いらないから、こいつを一度だけ蹴らして下さい」と蹴りを入れて帰ってきた。
れっこさんやムッシュー石川の件に加え、奇妙な連続に対し、俺は気味悪さを感じていた。
気づけばあれだけ乗りに乗っていた『パパンとママン』はいつの間にか書かなくなっていたのである。
しかし、『兄弟』モデルの店の悪行はそれだけじゃない。
すぐ先にあったラーメン屋の幼馴染の店があった。
あの女将は客層がかぶっていたという理由で、一度幼馴染の店の周りにガソリンを巻き、火をつけようとした騒ぎを起こす。
怖がった幼馴染に、一度この件で相談された事があるが、それが本当にあったとは思えないでいた。
シャブをやっているという噂も絶えず、家の横にある一方通行の道に植木鉢を並べ、通ろうとした車の前で大の字になって立ちはだかり邪魔をした事もあった。
さすがにこの時はパトカーがやってくる大騒ぎになる。
夜中、飲み屋から帰ってくる途中、『兄弟』モデルの店の前にパトカーが二台停まっているのが見えた。
何だと思い、近づくと幼馴染のお袋さんが警察に事情聴取されていたので、俺も話に加わる。
何でもあの女将の店の客が、嫌がらせで暴れたらしい。
俺はおばさんに「俺、こっちにいますから、変な目に遭わされそうだったら連絡下さいね」と自分のプライベート名刺を渡しておく。
結局その名刺が役に立つ事はなかった。
何故なら二千八年十二月三十日。『兄弟』モデルの店は、大火事で全焼してしまったのだから……。
この当時夕方だったので、近所でもかなりの大騒ぎとなった。
俺もちょうど家にいたので、外へ出て燃えさかる炎をただジッと見つめていた。
隣のカバン屋のおじいさんは自分の店に火が燃え移り、何度も中へ入ってカバンを取り出そうと行ってしまうので、近所の人たちに取り押さえられていた。
その隣の後輩の家は、新築したばかりなのに、外壁は煙でやられ、消防車の強烈な水が三階の家の中まで入り、散々な目に遭ったそうだ。
翌日の読売新聞では、死傷者二人を出す火災として紙面を飾っている。
あの燃えさかる炎の中で男が二人も焼け死んでいたのだ……。
この火事に、おかしな点はたくさんあった。
あれだけ近所を騒がせ悪名を轟かせたあの女将の名前や姿が、新聞にもどこにも出てきていないという事実。
それに夕方なので、あの店はオープン前である。
女将がいないというのもおかしい。
消防団では、この件に対し、かん口令が敷かれたという噂も聞く。
謎だらけの火事だったのだ。
あれから一年以上経つが、女将は隣やその隣の家まで迷惑を掛けたのに、お詫び一つもなく、その場所から存在を消したままである。
どっちにしても、これで二軒目だ。
俺がモデルにした店が、火事で全焼してしまったのは……。
薄気味悪さを感じていた。
俺の現役時代を書いた作品『打突』に出てくるラーメン屋があった。
頑固一徹の癖のあるマスターだったが、俺は何故かとても気に入られ、いつも愛想よくサービスしてもらっていた。
俺の書いた小説を本にしてプレゼントすると、目を細めながら「いや~、神威さんはいいもん書くねえ」と言ってくれるようなマスターだった。
客が「マスター、おあいそ」と言うと、「うるせー、今俺は神威さんと話してんだよ。ちょっと待ってろ」と啖呵を普通に切ってしまうマスターを見て、みんなゲラゲラ笑っている。
そんな店だったのだ。
しかし、二千六円十月十三日。明日の川越祭りに備えようと、ラー油を作っていたマスターに不運が起きる。
火を掛けっ放しで、ちょっと目を離した隙の事だった。
建物へ一気に燃え移った店は、あっという間に全焼してしまう。
マスターは無事と話を聞いたが、あれ以来マスターの姿を見る者はいない。
もう一度マスターの作ったガーリック丼食べたいなあ……。
俺は『兄弟』モデルの店が燃えるのを見ながら、自分の作品は呪われているのではという錯覚に陥っていた。
一年半前の冬を思い出す。
『新宿クレッシェンド』シリーズ第四弾に当たる『新宿フォルテッシモ』を執筆していた時の話だ。
二千七年十一月十三日から執筆開始したこの作品、十日後の二十二日まで原稿用紙三百枚まで書けていた。
内容は主人公神威龍一のゲーム屋の話から、新しい裏稼業である裏ビデオ屋の話。
そして神威龍一自体が物語の中で『新宿クレッシェンド』を書き始めるというものである。
あと百枚ほどで完成させるつもりだった。
歌舞伎町時代、仲が良かったヤクザの組長から電話が入る。
仲がいいと言っても一緒に何かをするような仲ではない。
あの街で会えば「おう、神威はん、久しぶりやな」と笑顔で立ち話をする程度である。
連絡先は聞いていたが、こっちからも向こうからも電話のやり取りなど一度もなかった。
だからこの電話には何か大事な意味があると感じながら出た。
「お久しぶり、神威はん」
「お久しぶりですね。どうかしましたか?」
「ん…、いや……。○○さん、知ってるやろ?」
「ええ、もちろんですよ。一緒に働いていたぐらいですからね」
「あの人な、北中はんのところを辞めたあと、うちの紹介で今まで仕事していたんや」
「そうでしたか」
嫌な予感がした。
○○が親分のところをバックレて、こちらに頼っていないかという探りの電話かと思ったのである。
「あの人な、元々持病みたいの持ってたやろ?」
「ええ、確か鼻血が出ると、医者行かないと自分じゃとまらない体質でしたよね」
「ああ、そうなんや」
「あと以前に網膜剥離になった事もあるって聞いた事ありますよ。顔を洗っていたら、目の中にパリッて水が入ってきて何も見えなくなったって。医者に行ったら網膜剥離だと診断されたって当時聞いた事あります」
現在彼は、また具合でも悪くなり持病でも発したのだろうか?
「その○○さんやけどな…、実は昨日亡くなってしまったんや……」
「え……」
「よくワイのところで仕事しててもな、神威はんの話題をニコニコしながら言ってましたんや。だから亡くなった事ぐらい、神威はんに伝えとこと思うてな」
「そうでしたか…。ありがとうございます……」
電話を切ると、俺は両手で頭を抱え、彼の事を考えた。
思い出すのはニコッとした笑顔しか浮かばない。
いや、一回だけ彼は俺の前で泣いた事がある。
十年ぐらい前までは金持ちだったと笑いながら話していた○○。
始めはとてもじゃないが信じられなかった。
何故なら彼の住居兼裏ビデオ屋の倉庫を見た瞬間、俺は吐き気がしてまともに入れなかったからだ。
物ぐさな人間はこれまで嫌ってほど見てきた。
もちろん俺の部屋だってかなり汚い。
しかし○○の部屋は、そういった常識を覆すような部屋だった。
まず悪臭がもの凄い。
あの中でまともに空気を吸う勇気はなかった。
入り口のすぐ右手にある小さなキッチンには常にフライパンが乗せられ、その上でゴキブリが数匹仰向けになって死んでいる。
かろうじて入り口の通路だけは通れるが、左手にあるトイレと風呂場は強烈なアンモニア臭が漂い、便器の底が見えないぐらい真っ黒で、いつも溜まっている水が濁っていた。
部屋に入ると四隅に本棚がたくさん敷き詰められ、そこにすべての裏ビデオがジャンル別に置かれてある。
一番奥にテレビとビデオデッキが三台ずつ二ヵ所に設置され、左側にあるテレビの手前にコタツ机が置いてあった。
床には常にゴキブリが徘徊し、慎重に歩かないと足で踏んづけてしまう可能性があるぐらいだ。
○○が「コーヒーでも飲んだら」と気を利かせてくれ冷蔵庫を開けると、ビデオ屋『レモン』から持ってきた二缶百円の安い缶コーヒーの上をゴキブリが歩き、中も無数のゴキブリでいっぱいだった。
一度携帯電話の電池が無くなりかけ、充電しようと蛸足のソケットに充電器を差し込もうとした時だった。
床の汚れかなと思った黒いシミのようなものが、四方八方にガサガサと動く。
その黒いシミのようなものは、暖まったソケットの下に固まっていたゴキブリの群れだったのである。
俺は○○が食事で部屋を出ると、あらかじめ買っておいた粒状の芳香剤を取り出し、十袋をすべてそのまま部屋にバラ撒いた。
そして窓を全開に開く。
そうでもないと失神しそうなぐらいの臭いだったのだ。
それでも部屋にいられず、外へ出てタバコを吸って時間を潰した。
世界一不潔な人というイメージだった○○。
しかし働いていく内に次第に打ち解け、色々な話をするようになる。
そこで分かったのが、元々裏ビデオ屋の『レモン』は○○の持ち主だったらしい。
そこへ現在のオーナーである北中が人づてに紹介され入ってきた。
当時金を持っていた○○は、新宿歌舞伎町のさくら通りにも一店舗の店を構えていた。
彼はフィリピン人女性と結婚し、部下に店を任せ、一ヶ月おきに日本とフィリピンを往復しているような贅沢な暮らしをしていたそうな。
帰国すると北中が「○○さん、今月も赤字だった。二十万円の金を補充してほしい。俺が代わりに立て替えといただよ」と毎月のように金を要求し、○○はそれを馬鹿正直に払っていた。
気づけば数千万あった金は、五年間で無くなり、北中から「共同経営で一緒に頑張らないか」と持ち出された。
人のいい○○は騙されていたとも知らず、その話へ簡単に乗ってしまう。
お互いの給料を月二十万と決め、あとは売上次第で分けようとなった『レモン』。
最初の一ヶ月だけはボーナスとして十三万円を別途にもらえたらしい。
しかしあとの五年間は、一度もプラスで金をもらえる事がなく、月二十万円で生活をせざるえなかったようだ。
二十万と言っても、フィリピンに奥さんと子供のいる状況なので、人のいい彼は毎月半分の十万円を仕送りしていた。
北中のうまいところは、自分のポケットマネーで○○を年に一回だけフィリピンへ十日間ほど行かせてあげた事だ。
そんな状況が続く中、そこへ俺が入ってきたのである。
裏稼業にパソコンを導入した俺は、ビデオ屋だけでなく、ゲーム屋などすべての系列店の管理を任されるようになった。
俺が目を光らせる事で従業員の不正を見抜き、組織全体の売上は二千万円も上がる。
北中は仕事を俺に任せ、自分は月の二、三週間をタイや中国へ旅行に行き、女を買うようになった。
そのぐらい儲けさせていたのに俺や○○の給料など、一円も上がらなかった。
一度俺が仕事を終え帰る間際、○○が「昨日は久しぶりに酒を飲んだよ」とニコニコしながら話し掛けてきた事があった。
「どこかのスナックでも行ってきたんですか?」
明るく返すと○○は「馬鹿言えよ…。そんな金ある訳ないじゃん。発泡酒を二本買って部屋で飲んだだけだよ」と照れ臭そうに答えた。
以前のあんたなら腐るほどそんなところへ行けただろうが……。
「○○さん…。少ないけど、たまにはビールでも飲んで下さいよ」
俺はそう言って五千円札一枚を渡した。
「な、何だよ、これ…。何かあったの?」
「ああ、先日競馬で偶然デカいの取れたんですよ。だからちょっとした幸せのお裾分け」
「エヘヘ、何だか悪いなあ……」
「いいんですよ。俺、○○さんが色々気遣ってくれるから、すごい働きやすいし、感謝しているんですよ、これでも」
「そう…。じゃあお言葉に甘えるね」
ずっと終始笑顔だった○○。
とても嬉しそうだった。
立場だけで言えば、俺は雇われの従業員であり、彼は共同経営のオーナーである。
別に金銭的な余裕など俺にはない。
それに俺がこのような嘘をついて金をあげるのは、普通ならふざけた行為だろう。
しかし、見ていられなかったのだ。
翌日になり『レモン』へ来た○○は「昨日はご馳走様でした。ビールをたらふく飲めたよ」と深々とお辞儀をするような礼儀も持ち合わせていた。
これまでに至る流れを赤裸々に語ってくれた○○。
寂しそうな表情をしながら、床に置いてあった二リットルの烏龍茶をラッパ飲みしている。
俺は感情的になり、人が良く騙された事にさえ気づかない甘過ぎる性格の○○へ強い口調で言った。
「○○さん! 北中にあんないいようにやられて悔しくないんですか? 一時はあなただって金を持ち、あの店だって自分のものだったんじゃないですか。俺はすべての店の収支計算もしているから、どこがどれぐらい儲かっているかすべて把握しています。○○さん、あなたの給料が二十万円のみってあきらかにおかしいんですよ。いいんですか、このままで。悔しくないんですか?」
○○は何も答えず、急に背中を向け、小刻みに肩を震わせていた。
騙されている事に、気づいていない訳じゃない。
悔しいに決まっている。
だけどどうする事もできないから、いつもニコニコしているしかなかったのだ。
そんな状況の中出会った俺。
徐々にだけど、心を開ける相手ができていたのだろう。
彼の最低限のプライド。
それは年下の俺に、泣き顔を見せたくないというものだったのである。
「……」
あんな形で人生を終わってしまった○○。
悲しみとやりきれなさを感じる。
こんな人生であんた、本当に幸せだったのかよ……。
俺は原稿用紙三百枚まで書いていた『新宿フォルテッシモ』が、それからまるで書けなくなってしまった。
二千九年一月十八日。
俺はまた『新宿フォルテッシモ』を新たに書こうと執筆を始める。
前のフォルテッシモでは○○を登場させたが、あまりにも哀れに感じ、今回はゲーム屋だけの内容で書く事を決めた。
皮肉にも処女作『新宿クレッシェンド』を書き始めた二千四年一月と同じ日にちだった。
賞を獲り、世に出たあの処女作は、裏ビデオ屋『レモン』で生まれた作品だった。
裏ビデオの話は、次回作の第五弾『新宿セレナーデ』で書けばいいと思う。
『パパンとママン』とは無関係だが、呪われたという共通点で見ると、処女作の『新宿クレッシェンド』もそうだ。
二千四年一月十八日。
まだパソコンを覚え始めの俺は、教えてくれる先輩をどうしてもパソコンで抜きたくて何かをしたかった。
パソコンのスキルで言えば、遥か先を行く先輩。
のめり込めばのめり込むほど、そのスキルの差が圧倒的なものに気づく。
ならばパソコンを使って先輩ができない何かをやれないか?
行き着いた結論が小説だったのである。
人間を飼うといった表現がピッタリ合う北中の下で働いていた俺は、あの男の悪の所業を小説にしたら面白いんじゃないかと考えるようになっていた。
ある日、一人の従業員へ「小説を書いてみようと思うんだけど、北中の所業をそのまま書いたら面白い作品になると思わないか?」と訪ねてみる。
「神威さんならきっとできますよ」
何の確証もないのに、その従業員は笑顔で答えた。
憎き北中を懲らしめる為、文字にこのやるせない魂を投入する。
もし、その作品が世に出たら、あいつをギャフンと言わせる事ができるだろう。
そう考えたが、もし北中の所業をそのまま書いても、果たして世間は信用してくれるだろうかという疑問も沸く。
漫画や小説の中だけの話じゃないかって思われてしまう可能性が高い。
なら、最初はこの歌舞伎町という街を読者に知ってもらう必要がある。
そう決めた俺は、本当に書きたい事を百分の一に抑え、『新宿クレッシェンド』を書き始める。
当時は漫画喫茶に行っても店員を呼び出し、「おい、ドットってどこを押すんだよ?」と怒鳴っているような頃だ。
当然キーボードの配列など分からないぐらい無知だった。
だから母音の『a』が三回も入るよう主人公の名前を『赤崎』にした。
文字を打つのもキーボードを見ながら一語一句、人差し指で探しながら書いた作品だった。
そんな『新宿クレッシェンド』も当然モデルにしている店がある。
一つは新宿コマ劇場の中にあったキッチン『フライキッチン峰』。
そして新宿プリンスホテルの最上階ラウンジ『シャトレーヌ』である。
当時、色々とお世話になった店に対し、もしこの作品が世に出たらいい恩返しができると思いながら執筆をしたものだ。
二千八年一月十日。
『新宿クレッシェンド』は賞を獲り、全国書店発売となる。
しかし二千八年の終わりは酷いものだった。
新宿コマ劇場は無くなり、中の『フライキッチン峰』も同時に閉店。
プリンスホテルの『シャトレーヌ』も名前を変え、現在は『和風ダイニング フーガ』となってしまう。
二千八年だけで、俺の作品に出てきたモデル人や店が、こうまで変わってしまう現実。
オマケに『兄弟』モデルの店の死人二人を出した火事……。
俺は自分の書く文字に、薄気味悪さを感じていた。
だから『パパンとママン』を一人の素敵な女性から「また書いてほしい」と言われるまで、ずっと封印していたのだ。
二千十年四月八日まで……。
最終章と謳いながら、俺は何故こんな内容を書いているのだ?
自分でもよく分からない。
まだパパンと竹花さんの『肥溜めブラザース』など書ける事なんて、いくらだってあるのになあ……。
でも、これがもし世に出たら、○○もちょっとは気が晴れてくれるかな?
いや、「人の生活をここまで書きやがって」と顔を真っ赤にして怒るかもしれないな。
まあ、いいさ。
あの時俺はあんたにビールを奢ってやったんだ。
これで貸し借りをチャラにしようぜ。
―了―
同じ作者が書いたのかと思うくらい違う作風。
コメディタッチなノリを期待していた読者には、思い切り裏切るようなラストだ。
いつまでもこんな作品で、お茶を濁してちゃいけない。
忌み嫌われし小説家。
俺の立ち位置など、そんなものだ。
憎悪が根底に眠っていたから、作品を書けた。
憎悪を込めた処女作の『新宿クレッシェンド』を書き、そんなものがまぐれで賞を取り、全国の本屋に出回った。
だからお袋への憎悪は消えたのだ。
しかし憎悪は、次から次へと新しく生まれる。
親父への憎悪……。
ピーちゃんへの憎悪……。
加藤皐月への憎悪……。
この三人が俺にとって、最も憎むべき存在。
細かいのを入れればキリがない。
内緒で養子縁組をし、問いただしても白を切った貴彦。
勝手に試合の事前にセコンドへ付いただけで「いい赤っ恥を掻いた」と抜かした徹也。
俺を二度も裏切ったター坊。
俺が大人しくしてりゃあ、みんな頭に乗りやがって……。
法律など関係無ければ、全員この手で殺してやりたい……。
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