岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

小説、各記事にしても、生涯懸けても読み切れないくらいの量があるように作っていきます

闇 53(地獄のカルマ編)

2024年10月07日 09時03分52秒 | 闇シリーズ

2024/10/07 mon

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新宿コンチェルト01 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

2010年11月23日~原稿用紙?枚『新宿コンチェルト』クレッシェンド第7弾、2010年11月23日より執筆開始過去から逃げちゃいけない業を背負ってまで、俺はま...

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二週間が過ぎた。

西武新宿からも百合子からも連絡は何もない。

駅長の峰はあれでもういいと思っているのかもしれない。

しばらく放っておく事にした。

変わった事といえば、ようやく『ガールズコレクション』が店としてオープンに近づいた事ぐらいである。

有木園はオーナーである弟に金を回してもらい遊んでいるのか、何一つ動きはない。

「當間さん、印刷屋から連絡あって、明後日には割引券等注文した品が全部届くそうです。有木園さんは情報館とかの手配頼んであるんですよね?」

「ああ、それで今日これから情報館の人間連れて来るらしいよ」

この頃歌舞伎町に情報館という新たな商売がポツリポツリとでき始めた時期だった。

無料案内所と謳い、中には風俗店やキャバクラなどのパネルや割引券を置く店である。

情報館の料金はこの当時格別に高かった。

パネルを貼るだけで月に十八万から二十万の料金を取られる。

この値段の違いはパネルの位置が上段にあるか下段かの違いしかない。

店内は電光掲示板のパネルが貼れるよう作られ、客が来た時の案内として従業員が数名待機している。

そこで割引券を渡しながら店に客を送るという仕組みだ。

そんなものに月二十万の金を払うなんて馬鹿馬鹿しいと思ったが、有木園がオーナーたちを説得させてしまったものだからしょうがない。

時代はインターネット主流になりつつあるので俺はその重要性を訴えたが、機械に疎いオーナーたちはいい顔をしなかった。

当初二百万あった経費は、俺がインターネット作成料として二十万、パソコン一式で二十万以外の百六十万は、ほとんど當間と有木園で無駄遣いをしてしまったようだ。

パソコンを『ガールズコレクション』店内に設置し、経費の詳細を調べてみるとほとんどが二人の食事代と称し、高級料理店の領収書だけで五十万円ほどあった。

「當間さん! 何ですか、これは?」

「だって給料だって出てないんだし、経費でうまいものぐらい食わないとやってらんないじゃん」

「當間さんが店内の改装を遅れさせたからオープンできないんじゃないですか! いい加減にして下さいよ!」

「岩上ちゃんも一緒に来れば良かったんだよ。パソコンの件でっていつも一緒にいないじゃん」

これに呆れた俺は怒ったが、責任感の欠片もない二人には効果があまり無いようである。

こんな奴らのせいでこっちに一円も給料が出ていないという現実。

何の為に頑張ってきたのかまるで意味がない。

こんな事なら村川に言った時点で強引に辞めればよかったのだ。

一人で真面目に取り組んできた自分が馬鹿らしくなった。

はなっから穴の空いていた沈没船に乗り込んだような気がする。

一生懸命海水が入らぬよう穴を見つけては塞ぐ作業をするが、他の乗組員たちはのん気に酒盛りをして酔っ払い、俺一人が海水を掻き出している。

そんな感覚だ。

家に帰ると久しぶりに百合子からメールが届く。

 

《今週子供をおろす事になりました。同意書にサインしてほしいのですが、明日の都合はどうでしょうか? 百合子》

 

読んでいて悲しくなる簡潔で冷たい文章だった。

ここまで俺は彼女を追い込んでしまったのか。

精神的に疲れが溜まっていた。

自分の主義主張を押し通した結果がこれか?

だとしたら俺はどれだけの罪を背負ってしまったのだろう。

百合子との物語は俺のエゴで終わりにしてしまった。

周りを巻き込み迷惑を掛け、そこまでして自分を押し通す必要性はあったのか?

色々と自分に問いかけても答えは出なかった。

彼女のメールに対する返事だけでもしておこう。

 

《分りました。つらい思いをさせてしまい、申し訳ないです。明日、仕事が終わってからなら問題ないです。明日、仕事が終わったら電話します。 岩上智一郎》

 

メールで送る文章でさえ敬語になっている。

もはや恋人とは言えない。

完全に他人同士になってしまったのだろう。

いや、他人のほうがまだマシだ。

ここまでお互いを傷つけ合わなくてもいいのだから……。

すべてから逃げ出したかった。

今の自分に押しかかる現状がとてもつらかった。

西武新宿の件ですらどうでもいいように思える。

あの駅員からは相変わらず連絡がないが、面倒でどうでもよくなった。

自暴自棄……。

この言葉が今の俺には一番お似合いだ。

 

もうオープンも秒読み段階に入ったところで、有木園がいきなり口を挟んできた。

何でも知り合いに風俗を経営している人間がいて、うちのシステムはまるでなっていないとの事らしい。

「俺の知り合いが言うにはね、やっぱ料金も見直さないといけないし、女の子に渡す取り分もさ、良くなきゃいい子来ないしね。だから岩上君、至急割引券の料金直して作り直してくれる?」

今さら何を抜かしてんだ、この馬鹿は?

ここまで来るのにどれだけの経費と手間を掛けたと思っているのだ。

「もう印刷屋に頼んで明日には届くんですよ? この段階になって何を言ってんですか」

「そんなのまた作り直せばいいじゃん」

「……」

気付けば俺は壁を思い切り殴りつけていた。

今まで何をしていたのか経費の無駄遣いばかりしていた男が、土壇場で邪魔をする。

よくも簡単に言えるものだ。

「な、何だよ、そんな怒らないでよ」

「怒りたくもなりますよ。知り合いだか何だか知らないけど、もうじきオープンなんですよ? 今さら言う事ですか? 何で打ち合わせの時言わないんです? みんなで決めた料金でしょ? やっている事かなりズレていますよ」

「だって俺の知り合いがね……」

「知り合いはしょせん知り合いじゃないですか。ただ同業ってだけでうちとは何の関係もないじゃないですか」

「とりあえず岩上君はまた新しい割引券と、パネルのデザイン作ってよ」

「おい、何だって?」

こいつ、いくら年上でオーナーの兄という立場だからって、ちょっと図に乗ってんじゃないのか?

「まあまあ…。とりあえず岩上ちゃん、万が一って事もあるから新しいの作るだけ作っといてよ」

當間が間に入ってくる。

よく簡単に作ってよなんて言えるものだ。

実際におまえがやってみろと言いたいが、下手に言うと「じゃあ業者に出せばいいんでしょ」とか抜かし、また無駄な経費を使うだろう。

「いくらの設定なら気が済むんですか? 早く言って下さい。とっとと作りますから」

プライベート、仕事、親父、そして西武鉄道……。

苛立ちは募るばかりだった。

今週に百合子が俺の子供をおろす……。

この日は打ち合わせの最中も上の空で、まるで仕事に身が入らなかった。

時間を気にしてばかり俺は、オーナーの村川にもたるんでいると怒られた。

事情を話す訳にはいかず、ただ俺は頭を下げた。

六時を過ぎた頃彼女へメールをする。

 

《今日、八時頃には川越に戻れそうです。着いたら連絡します。 岩上智一郎》

 

五分もしない内に返事は来た。

 

《分かりました。着いたら連絡下さい。待っています。 百合子》

 

俺は何度もメールを読み直す。

近くに誰もいなければ泣きたかった。

仕事を終えて、七時三十分の小江戸号に乗って川越に向かう。

着くのはだいたい八時十五分ぐらい。

百合子に会ったら何て言葉を掛けたらいいのだろう。

これで本当に俺たちの子供をおろしてしまう事になるのか?

電車の中で思い直せないかどうか考える。

しかし名案など思い浮かばない。

小江戸号は高田馬場、所沢、狭山市と、俺にお構いなく通過して行く。

同意書……。

それにサインするという事は、一人の尊い命を消す事だ。

今まで感情的になり酷い言葉を容赦なく浴びせてしまった。

そして周りの人々もたくさん巻き込んでしまった。

本当に子供をおろしたほうがいいのだろうか?

俺から悪かったと頭を下げれば……。

何が正しい判断なのか分からなかった。

車内アナウンスで本川越駅に到着する声が聞こえてくる。

逃げ出したい気分だった。

 

本川越駅に着くと、すぐ百合子に電話をした。

十回ほどコールが鳴り、留守電に切り替わる。

昨日向こうから言ってきた事なのに何故電話に出ないんだ?

少しばかりの苛立ちを感じる。

この寒い中ここで待っていても仕方がない。

俺は家に帰る事にした。

道を歩いていると携帯が鳴る。

百合子からのメールだった。

 

《ごめんなさい。二時間ほど残業でした。今、仕事が終わったのでこれからそちらにすぐ向かいます。二十分ぐらいで着くと思います。 百合子》

 

それならちょっと前に連絡をくれてもいいものを……。

苛立ちがどんどん募る。

家に着いても、俺は彼女が来るのを外で待っていた。

もう十二月半ば。

あまりの気温の寒さに体が震えたが、少しも気にならなかった。

家の前の道路を走る車を眺めていると、百合子の車が到着する。

「おい、残業になるなら前もって言ってくれてもいいだろ?」

「すいませんでした。これにサインして下さい。お願いします」

冷静な百合子の台詞に、電車の中で色々と考えていた言葉がすべて吹っ飛ぶ。

「分かったよ。サインすればいいんだろ?」

「ええ、お願いします」

岩上智一郎と、自分の名前を同意書に書き、続いて判子を押す。

あれだけあった躊躇いは、不思議となかった。

「もう俺たち、やり直せないんだろ?」

つい、質問口調で卑怯な言い方をしてしまう。

「だって私たち、やり直せないでしょ?」

お互いいつも先に相手の答えを求め合う堂々巡り……。

これ以上何の言葉も見つからなかった。

これで百合子は病院で、俺たちの子供をおろす事になったのだ。

俺と彼女のエゴで一人の命が消えていく。

それでも俺は百合子に何の言葉を掛けてやれない。

お互い無言のまま別れた。

別れ際一筆書けと書かせた紙切れを取り出してみる。

 

『子供は責任もっておろします。 十二月十一日 百合子』

 

感情的な口論からとうとうここまできてしまったんだな。

自問自答を繰り返す。

俺は何もできなかった。

何かしら言ってやれないのか?

言えないからこうなった。

子供が可哀想だ。

いや、この状態で無理に産んでも不幸なだけだ。

どちらが悪いのか?

両方に責任がある。

完全に噛み合わなくなってしまった歯車。

修復不可能だ。

今後、本当に苦しいのは俺ではなく百合子である。

俺は精神的だけだが、彼女は精神的プラス肉体的苦悩も加わる。

精神的な面でも俺の数十倍は上なはずだ。

あまりの辛さに俺は親父の部屋のドアをノックしていた。

「何だ? テメー」

親父の部屋にはまた加藤皐月もいた。

「何だよ、黙って」

「い、いや……」

何故俺は親父のところになんか……。

雀會の一件であれほど大喧嘩したばかり。

俺はまるで軸が無い。

すべてが中途半端だ。

「顔色悪いぞ?」

「お、俺さ……」

「あ?」

「こ、子供おろす事にしたんだ……」

「あのバツ一のか?」

親父は軽蔑した目で俺を見ていた。

「あ、今何て言った?」

「智ちゃん、あなたはまだ一度も結婚していないんだし、ちゃんとした子としたほうがいいわよ」

いきなり加藤皐月が口を挟んでくる。

「うるせぇっ!」

俺はドアを思い切り叩きつけていた。

あんな女に何でそんな事を言われなきゃいけない?

おまえらが今まで何をやってきたんだ。

怒りが全身を包んでいた。

壁を思い切り蹴ると、大きな穴が開く。

おじいちゃんの建てた家を壊してどうする……。

そのまま階段を降りると、居間でおばさんのピーちゃんがコーヒーを飲んでいた。

「何だい?」

俺の姿に気付くとピーちゃんは声を掛けてくる。

「お、俺さ……」

「何だよ?」

感情だけが先走り、大粒の涙を流していた。

「何をいきなり泣いてんだ」

「こ、子供をお、おろす事にした……」

それだけ言うと、その場に突っ伏して泣き出してしまった。

「何だよ、何を泣いてんだ? 自分のした事だろ? ちゃんとしな」

「う、うん…。ちゃんとする……」

それだけ言うと、俺は自分の部屋に戻った。

ちゃんとするって一体何だ?

どうすればちゃんとしたって事になるんだ?

どうしたらいい?

今から百合子に……。

馬鹿、電話したって出てくれる訳ないじゃないか。

じゃあ、どうするんだよ?

おじいちゃんに相談を……。

馬鹿、これ以上おじいちゃんにいらぬ心配を掛けさせるつもりなのか?

じゃあ、どうしたらいい?

分からない。

答えが出ない。

もう俺には何も分からない。

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁーーーーーーーーーーーーっ!」 

無意識の内に叫んでいた。

部屋の壁に何度も頭を叩きつけた。

このまま壊れてしまえばいいんだ。

目の前の壁がどんどん赤くなっていく。

気にせずさらに強く頭をぶつけ続けた。

不意に視界が暗くなり、意識が遠退く。

後頭部に衝撃を受けた。

目を開くと天井が見える。

俺は地面に倒れたのか?

それで少し我に帰る事ができた。

錯乱する一歩手前。

このまま気が狂ってしまったほうが、どんなに楽か……。

馬鹿野郎!

そのあとどうするんだ?

親父は絶対に面倒など見やしない。

おじいちゃんに迷惑を掛けてしまうだけなんだぞ。

自分のしでかした不始末なんだ。

もっと冷静になれ。

自分でケツを拭け。

「……」

お互いが納得して同意書に判子を押したのだ。

何もできないだろう。

俺がこれ以上何か百合子に行動すると、彼女自身が嫌な思いをするだけなんだ。

早く忘れろ。

考えても暗くなるばかりだ。

早く忘れよう……。

 

翌日、暗い気分のまま新宿へ向かう。

こんな給料も出ない状態なのに、俺は本当に馬鹿だ。

店の中では當間と有木園の馬鹿コンビがくだらない会話をしていた。

いつもならせっつくのにどうでもよかった。

「あれ、岩上ちゃん。額どうしたの? 赤いじゃん」

「何でもないです……」

「そんな事ないでしょ。喧嘩でもしたんじゃないの?」

しつこく絡んでくる當間。

「何でもないですよっ!」

つい、怒鳴ってしまう。

しばらくシーンとなる。

當間と有木園は、「俺たち飯食ってくるよ」と店を出て行った。

あまりにも簡単にサインしてしまった同意書。

もっとほかにやり方があったんじゃないのか?

もっと優しく接していたら今頃は……。

昨日の夜の事を思い出しては深い溜め息をつく。

突然三時半になって携帯が鳴る。

聞き覚えのある音楽。

百合子からの着信だった。

もう彼女から連絡はないと思っていたので、正直ビックリした。

今になって一体何の用だろう?

電話に出る。

「もしもし……」

途切れそうなほど弱々しい百合子の声。

「何だ?」

それでも彼女に対し、冷たい声しか出せなくなっていた。

「これから病院へ行くところだけど、明後日…、おろす事になりました。あなたも責任はあると言ってたし、報告だけはしておかないとって思って……」

百合子からの突然の電話に、動揺を隠せなかった。

充分理解していたつもりでも心が苦しかった。

気持ちの整理はついていたんじゃないのか……。

「明後日…、俺も病院に付き合うよ。一番大変でつらい思いをするのも、辛い思いもするのもおまえなんだ…。でも、俺は何もできない。それでもその子は俺にも責任はあるんだ。だから明後日は俺も一緒に行きたい。これは逃げちゃいけない事だと思う。それでも百合子が来るの嫌だと言うなら、俺は我慢する……」

今の自分で考えられるすべてを精一杯彼女に伝えた。

どんなに嫌がられようとも俺は、最後を見届ける義務がある。

自分のしでかした責任。

それについて逃げては人間として失格だ。

自分でもビックリするぐらい正直に言えた。

ただ、相手の返答を聞くのが怖かった。

「分かりました…。明後日、九時に病院に行きます」

「どこの病院なんだ?」

「愛和病院の産婦人科です……」

あそこの病院なら家から車で十分ぐらいだ。

「分かった。明後日の九時にそこへ向かうよ。それでいいか?」

「はい……」

電話を切ると、オーナーの村川にすぐ用件を伝えた。

言い難い事だがこの際仕方がない。

「すみません。明後日、実は自分の子供をおろすんです。それで一緒に病院へ付き合うので休みをもらえますか?」

いきなり話を繰り出す俺に対し、村川はジロリと一別する。

「別にいいけど、今、うちの店、オープン前で忙しいの分かってるだろ? しっかりしてくれないと困るよ。まあ状況が状況だからしょうがないけど」

「すみませんでした」

本当は怒鳴りつけてやりたかった。

給料だってこの間五万円をもらっただけで、どれだけ人をタダ働きさせていると思っているのだ……。

しかし、今ここで揉めても何もならない。

ポケットの中に右手を入れ、右の腿を強くツネる事で懸命にこらえた。

 

家に帰ると、以前百合子が渡してくれた俺たちの子供の写真を手にとって眺めた。

二枚のエコー写真。

俺の子供の写真……。

彼女と楽しく過ごしてきた少し前の会話が頭の中に思い浮かんでくる。

「何だ、これ? 全然どこに写っているのか分かんないじゃん」

「ほら、ここ。ここに写ってんのが私たちの子供よ。まだそら豆太郎だけどね。これエコー写真っていって、特殊なカメラで撮ってんだよ」

「何だよ、そら豆太郎って?」

「まだ小さいからちゃんと人間の形してないの」

「それで、そら豆か」

「えへへ……」

「ここに写ってるのが、俺の子供か…。見てもいまいちピンとこないな」

「何、言ってんの。あなたの…、智ちんの子よ。ねえ…、男の子かな? 女の子かな?」

「絶対に男だ!」

「そんな事言って、もし女の子だったら可哀相でしょ」

「いや、俺には分かるんだ。絶対に男だってね」

「もう少ししたら性別分かるみたいだけど、聞きたい?」

「百合子は?」

「できたら私は聞きたくないなー…。現実的な話だと、男か女か分かっていれば準備もできるだろうけど、産まれてきて初めてどっちか分かるっていうのも良くない?」

「まあ、産むのはおまえだ。好きにしなよ」

「ありがとう」

気付くと俺は涙を流していた。

二枚の写真を持ちながら静かに泣いた。

 

十二月十八日。土曜日……。

朝の五時に自然と目が覚める。

これから九時に百合子と愛和病院の産婦人科で会う。

愛し合っていたからこそできた愛の結晶。

それを消し去ってしまおうとしている。

そう考えると非常に心苦しい。今、彼女はどんな心境でいるのだろうか?

男には一生掛けても理解できないほどの辛さなのだろう。

風呂に入り、ゆっくりと湯船に浸かる。

のぼせるぐらい湯に浸かってから、シャワーを浴びる。

温度調節のつまみを一気に下げて、水のシャワーを体に掛けた。

全身が一気に冷える。

こんなもんじゃないんだ。

あいつの辛さは……。

俺は水のシャワーをしばらく浴びていた。

いつから俺はこんな風になってしまったんだろう?

昔は本当に身体を鍛えてきた。

今の身体は鏡で見て、本当に情けない。

俺に何かできないのか?

こんな水を身体に掛ける事しか思いつかないのか?

風呂場の窓を開けると皮肉な事に外はとてもいい天気だった。

 

車で九時二分前に愛和病院の産婦人科に到着する。

入り口の自動扉を開けると、左手に受付があり百合子が椅子に座っていた。

同意書にサインしてからたったの四日間だが、遠目に見ても彼女の姿は酷くやつれているように見えた。

軽く深呼吸をしてから俺は近付く。

「大丈夫なのか?」

何か言わなくてはと思って口を開いてみたものの、馬鹿な台詞を吐いてしまったものだと我ながら後悔する。

ここまで百合子を追い込んでしまったのは俺自身なのだ。

それを会うなり大丈夫かはないだろう。

それでも彼女は少し微笑みながら軽く頷いてくれた。

受付を済ませてから、エレベータを使って二階に行く。

看護婦が彼女に色々細かい説明をしているのを俺はただ見ているだけだった。

看護婦が去り、並んで椅子に腰掛ける。

「ほ、本当にごめんな…。こんなになっちゃって……」

「ううん…、しょうがない事だったんだよ」

「受付でお金払ってたけど、いくら掛かったんだ?」

「え…、ううん…。それはいいの……」

「全然良くないって。俺にだって責任はあるし、何言ってんだよ!」

「お願いだから…、ね?」

「百合子…。お願いされても、そういう問題じゃないだろ?」

「お願い。今は…。お願いだから私の言う事をきいて……」

これから手術に臨む百合子。

真剣な眼差しで俺を見ている。

今は言う通りにしておいたほうがいいだろう。

そう判断した。

これ以上百合子に負担や嫌な感情を抱かさせては絶対にいけない。

「分かった。ごめんな……」

「智だけが悪い訳じゃないの。お互いが無理し過ぎちゃってたんだよ。きっと……」

「うん……」

「ずっと待ってるの?」

「当たり前だ」

「でも一時ぐらいまで手術、掛かると思うよ?」

「何時になったって待つよ。そのぐらい当たり前だろ? そんな気遣いなんかより、もっと自分自身を大事にしてくれよ。俺なんかより、ずっとおまえのほうが辛いんだ」

「……」

「百合子…、本当に…、ごめんな……」

我慢していたが、つい目から涙がこぼれる。

「ううん……」

「こんな風にさせるつもりじゃなかったんだ…。ごめん……」

それだけ言うのがやっとだった。

俺はその場でボロボロと泣いた。

「うん……」

十五分ほどお互い黙って待っていた。

ちょっとして看護婦が近付いてくる。

いよいよ子供をおろす時が来てしまったんだ。

今の気持ちをどう表現すればいいのだろう?

いや、それよりも彼女に俺は何も言葉を掛けてやれないのか?

彼女と共に椅子から立ち上がり、看護婦の説明を聞いた。

俺は看護婦が百合子に何を言ってるのか何も聞こえなかった。

拳をギュッと固め力を入れる。

「それでは行きましょう」

看護婦が百合子に言った瞬間、身体が勝手に動いた。

「本当にいいのか?」

俺は百合子と看護婦の間に割って入り、目を見て聞いた。

彼女に俺が掛けてやれる最後の言葉だった。

百合子は少しはにかみながら、ゆっくりと頷いた。

どんな気持ちで頷いたのだろう。

俺には分からない。

分かっているのは俺が男として最低な奴だという事だけだ。

「よろしくお願いします」

俺は看護婦に頭を下げた。

もう自分には何もできない。

せめて彼女に負担掛からないよう誠心誠意心の底からお願いした。

少し戸惑った表情で看護婦は俺を見ていた。

看護婦について遠ざかっていく百合子を見て、胸に穴がポッカリ開いた感じだった。

 

闇 54(募るばかりの苛立ち編) - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

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