2024/10/07 mon
俺の家から徒歩一分て行ける喫茶店ポケットマネー。
我が連雀町の雀會に兼ね合いがある人間なら理解できる。
俺は雀會の若い衆たちへ、親父やタンベさん、始さんたちが和気藹々と楽しそうに酒を飲む姿を見せたかったのだから。
先輩の知子は、俺自身がここへ呼んだから分かる。
しかし何故ここへ長子を連れてくるのだ?
彼女は雀會とまったく無関係だし、しかも他町内の人間。
何でまたこの場へこんな女を連れてきたのだろうか?
しかも当然のように知子と共に俺たちの席へ来た。
これは責任持って松永さんに対応してもらわないといけない。
「松永さん…、松永さん……」
小声で囁くように言うも、松永さんはまったく気付いてくれない。
俺は松永さんの左太腿上段を指でつねった。
「痛っ! いてえーなっ、この野郎!」
俺は小声で「早く責任取って下さいよ」と囁く。
「ふざけんじゃねえ!」
まったく身勝手で乱暴な先輩だ。
親父、タンベさん、始さん、松永さんは四人で勝手に盛り上がり、こっちの事など気にもしない。
「智一郎さんがこの場にいるって、レアですね!」
まだ十代の花屋のシュンが話し掛けてくる。
「雀會の上層部連中がわがままだから、俺が少ししゃしゃり出ただけだ」
明らかに俺は拗ねていた。
「いやー、でも何か昔みたいで見ていて本当に嬉しいですよ!」
妙に興奮しているシュン。
それだけ雀會のバラバラ具合に対し、心に来るものがあったのだろう。
そう…、みんな祭りが好きで参加しているんだから、派閥だとかつまらない事しないで、和気藹々と素直に楽しめばいいのだ。
「シュン、世代も違うし俺は雀でもないから話す事も無かったけどさ。おまえが大きくなったら、この光景をおまえが下の世代に引き継ぐんだぞ」
「ありがとうございます、智一郎さん!」
うん、レッスンスリーまで手応えバッチリ。
次はチビ会長の高橋さんか……。
これは親父の協力があってこそ成功する。
いや、親父主導でいかせないと、まとまる話もまとまらない。
俺は刺身のツマみたいなもんでいい。
高橋さん、そして澄夫さんへの謝罪、最後に栗原名誉会長。
ここまでシナリオ通り。
今日は遅いし、俺は明日もガールズコレクションのまったく金にもならないクソみたいな仕事が待っている。
高橋さんは合間見て今度だな……。
「智一郎さん、また来年も祭り出ますよね?」
シュンも話し相手がいないのか、直々声を掛けてきた。
「ああ、もちろん出るよ」
「今日は来て良かったですよ!」
俺はニヤリと口元を釣り上げ、タバコに火を点ける。
ゆっくり煙を吐き出して天井を眺めている時だった。
「いい? これからはもうちょっとしたら、シュンたちの時代になるんだから、もっとしっかりしないと駄目だよ!」
突然長子が、シュンに対して大きな声でしゃしゃり出てくる。
何だ、こいつ……。
会に無関係のおまえが言う事じゃねえだろ……。
友達のはずの知子は、止めようともしない。
意味不明な長子の剣幕に、始さんも気付いたようで俺の顔を見てくる。
俺はメールを打った。
『何なんですかね? あの女。まったく関係ないじゃないですか 智一郎』
始さんは吹き出すのを我慢しながら、携帯電話をいじる。
『まあ面倒臭いだけだから、あんま気にすんな 始』
『こうなったら早く松永さんに責任取ってもらいましょう 智一郎』
始さんは我慢できなくなったのか、立ち上がりトイレへ向かう途中、俺の頭を軽く叩く。
来た時はあれだけ苛立っていたのに、今はある程度気持ちの整理がついたのだろう。
気付けばまだ若いシュンに、長子と知子二人でギャーギャー言っている。
耳を傾けると知子がシュンへ、文句を言っているようだ。
「あんたが若い子たちまとめなきゃいけないのに、シュンは私の事みんなの前で知ちゃんって呼ぶでしょ? だからみんなに示しがつかなくなるのよ!」
「だって知ちゃんは知ちゃんじゃん……」
「いい? シュンはそういう言い訳が多過ぎる!」
長子がまた余計な口を挟む。
ウザい。
ウザ過ぎる。
ただシュンも不満を顔に出しながら言い返すものだから、永遠にやり取りが終わらない。
かなり耳障りなので、俺はシュンへ声を掛けた。
「シュン……」
「はい、何でしょうか、智一郎さん」
「一応さ、親しい間柄だとしてもだ。最低限の礼節は必要なんだ」
「は、はあ…、分かってはいるんですけど……」
納得がいかない顔をしている。
「分かった。おまえがそうしたいなら、そう呼べばいい。但し俺にも智一郎さんなんて、さん付けするな。俺には智一郎…、もしくは智一郎ちゃんってこれからは言いな」
「む、無理ですよ、そんなの……」
「筋の通らない自分の主張が、その程度ならとりあえず組織の年上の言い分は聞いておけ。そのほうが男が上がるぞ」
「はい、分かりました!」
少し強引だったが、物事の筋道だけは年上として教えといてあげたかった。
言う人、言い方で人間は様々な取り方をする生き物だから。
「そうだよ! シュン、この人の言う事をちゃんと聞いたほうがいいよ!」
また長子が口を挟む。
だからまったく関係ないくせに、一体何なんだよ、こいつ……。
横で松永さんは始さんや知子と酒を飲みながら談笑していたので、また太腿をつねった。
「痛っ! テメー、さっきから痛えじゃねえかよ!」
「ここの太麺の焼きそば奢るんで、早く責任取って下さい」
長子に聞こえないよう小声で囁く。
「ふざけんじゃねえぞ! まあ焼きそばは食うけどな」
松永さんは本当に突っ込みどころ満載の面白い先輩だ。
最後に別れ際、始さんに「皐月ちゃん…、もういいっすよね?」と小声で尋ねる。
「分かったよ……」
仕方ないという表情をしながら、始さんは返事をしてくれた。
最後に松永さんへ「ほんと頼みますよ」と強く言う。
「頼むって何をだよ?」
「決まってんじゃないですか、長子ですよ」
「ふざけんじゃねえぞ!」
俺は案外松永さんを弄る事に快感を覚えてしまったかもしれない。
松永さんは一人残ってポケットマネーの太麺焼きそばを貪り食べていた。
部屋に帰って寝転がる。
タバコの煙を吐き出しながら、その流れをジッと目で追う。
気付けば朝になっていた。
いつの間にか寝てしまっていたのか。
昨日俺が雀會の為にと動いた事は、単なる自己の現実逃避。
結局のところ百合子からはまったく連絡も無いし、あの仕事の状況が変わる訳でもない。
一体俺は何をしてんだろうな……。
強烈な自己嫌悪に陥っている。
いや、俺が精神的にキツいじゃないだろ?
百合子はもっとキツい状況なんだ。
それでも俺からできる事は何一つないジレンマ。
子供か……。
絶対男だと思ったんだけどな……。
両腕を天井へ向かってゆっくり突き出す。
右手の掌を顔へ近付ける。
色々な事をしてきた手だよな……。
自衛隊時代、7.62mm小銃を打ち、日本で一番大きな大砲の重迫撃砲で玉をぶっ放した。
射撃検定は一級。
二百メートル離れた的だって当てられる。
重迫撃砲に関しては特級。
三キロから五キロ範囲内なら狙って砲弾を落とす事ができる。
浅草ビューホテルでのバーテンダー。
この手で様々なカクテルを作った。
拳を握り、親指を真横へ突き出す。
そして全日本プロレス時代編み出した打突。
極端に鍛え上げた右腕。
全盛期で握力は96kgあった。
二十九歳の総合格闘技が、戦ったのは最後。
今は三十三歳だから四年経ち、俺はどれだけ身体能力が落ちたのだろうか。
強さだけが俺の誇りだった。
春美と出会ってピアノ。
そして絵。
小説まで書き出した。
それらに時間を割いた分、俺はその分だけ弱くなった。
「……」
だから何だ?
現実の俺はどうだ?
自惚れるなよ、こんな程度で……。
俺は満足に自身のケツすら拭けていない。
「ちくしょう! 何にも役に立ってねえじゃねえかよっ!」
頭が悪いから、これからどうしていいか思いつかない。
百合子に対し、もっと優しく言葉を掛けられていたら……。
いや、それならあの時、小江戸号なんて乗りさえしなかったら……。
ワールドワン時代、番頭の佐々木さんの好意で入ってきた無数の金。
何も気にしないでパーパー遊んで使ってしまったから、あんな金も出ないクソみたいな職場に縛られている。
そもそも金があったら、あんな滅茶苦茶な風俗の誘いなんて乗ってないだろ?
その前にあのクソ北中の裏ビデオなんかで働いてもいない。
オマケにあんな恥ずかしい商売で警察に捕まるわ、ロクなもんじゃない。
猥褻図画で罰金刑。
経歴にクソくだらないクソみたいなものがくっついた。
一体どこで俺は選択を間違えた?
全日本プロレスのあの合宿行く前か?
酒乱の大沢なんぞ、放っておけば良かったんだ。
俺の夢を…、いや夢なんかじゃない。
プロテストまで受かったのだ。
現実だろ。
あんな酒乱に、現実まで壊されてしまった。
違う……。
そもそも出て行ったお袋と親父を離婚させようと、大学への進学など考えず、一番早く就職できるというくだらない理由で考えも無しに自衛隊なんて選んだ事から失敗だったのだ。
社会人への出発の時点で、俺は歪んでいる。
馬鹿だと自覚している。
もっとシンプルに考えろ。
俺は何もできない。
無力なんだ。
だからせめて今の雀會の件で動いている。
澄夫さんの説得。
始さんとタンベさんの仲。
そして親父と始さん。
ここまでうまく行ったんだ。
次は高橋さん。
あれだけ仲違いしていた親父だけど、今ならうまく話せるんじゃないか?
人はそう変わらない。
俺も親父も譲らないから、こうなっている。
ならば、俺から変わろう。
うん、こういう風にできていなかったから、百合子とはああなってしまったのだ。
あとは前にも始めた題名の無い小説。
書くって決めたのだ。
シンプルに……。
今は小説を書こう。
何かしてないと落ち着かなかった。
パソコンを起動させる。
その時下から俺を呼ぶ親父の声が聞こえた。
部屋を出て階段を降りて居間へ行く。
親父が俺を見るなり近寄ってきた。
「おい、おまえは一体、何をやったんだ?」
「はあ?」
すごい剣幕で怒鳴りつける親父を見て、こいつは何を考えているのだろうと思った。
昨日の夜、ポケットマネーに一緒にいたじゃねえか。
それから家に帰り部屋で寝ていただけだ。
絶対俺に対して何か誤解している。
「西武新宿駅の人から電話が全部で三回もあったぞ」
「それで向こうは何て言ってたの?」
「いや、おまえが家にいらっしゃいますかってだけで、ハッキリと用件は言わないんだよ。それで朝からだけで三回も電話があるだろ?」
それはそうだ。
向こうにしてみれば、何の用件かだなんて言える訳がない。
言えば言っただけ、自分自身の首を絞めるだけなのだから。
仮に家に三回電話を掛けていないなら、何故俺の携帯電話に掛けてこないのだろう?
本当に悪いと思っていたら、そのぐらいの誠意を見せなれないのか。
俺ならまず連絡して平謝りに謝るしかないと思う。
「ああ、それはね……」
俺はこの間の小江戸号での一部始終を詳しく親父に説明した。
そして昨日の西武新宿駅での出来事まで。
「うーん…、それは確かに向こうに落ち度があるな」
「でしょ? 本当はそんなに引っ張りたくないんだ。でも今日だって家に三回も電話しときながら、俺の携帯には何もない訳でしょ? そんなんでいいのかって」
「まあ、あまり変な風に絡むなよ」
「俺だって面倒臭いんだ。もっとちゃんとした対応してくれてれば、次は気をつけて下さいで終わりにできるんだ。でも今の状態だと許す訳にはいかないでしょ? 謝るにしても誠意が足りな過ぎるし、礼儀に欠けてるよ」
「おまえの立場ならそうなるな」
「酷い事はしないけど、ガツンと言ってやらないと気が済まないからね」
「穏便に済ませろよ」
「分ってるよ」
その日は一日中家にいて、小説の続きを書いていた。
もちろん彼女からの連絡はあれからない。
部屋に戻り掛けながら、ついでに親父へ高橋さんかの件で協力仰ぐよう言っておくかと気付く。
今仕事中だから、昼休みの時でも親父の部屋へ行けばいいか。
俺はまた小説の続きを書き始めた。
どうしても百合子の事を考えてしまい、執筆に身が入らない。
甘えるなって……。
今のこの心境を文字に。
辛かろうが文章にしろ。
自分で決めた事なんだ。
すべてを書き記せ。
自身で招いたこのクソみたいな現状。
ひたすら書き続けろ。
昼になり、親父の廊下を歩く音が聞こえる。
よし、雀會の件で話に行くか。
ドアをノックすると、甲高い声が聞こえる。
嫌な予感がした。
中へ入ると親父だけでなく、物の怪加藤皐月の姿も見える。
最近この女、よく家に出入りしているな……。
親父も散々逃げ回っておきながら、どういうつもりなんだ?
まあいいや、今は雀會の事が優先。
「何だ?」
「いや、昨日はありがとう」
まずはポケットマネーに来た事のお礼を伝える。
そして昨日澄夫さんと、雀會の件で話し合った事も言う。
「昨日のポケットマネーでタンベさんや始さんと話して、親父も分かったと思うんだけどさ。次は高橋さん呼び出して、色々話そうと思っているんだ。それで親父の協力も必要になるからさ……」
「おいっ!」
会話の途中で怒鳴る親父。
何故か親父の顔つきがおかしい。
俺の事を明らかに睨みつけている。
「テメー、一体どういうつもりだ!」
「何だよ? 雀會の件で俺が動いているの分からないのかよ?」
「おまえ! 誰にそそのかされやがったんだ?」
「誰にもそそのかされてなんかねえよっ!」
「智ちゃん、あなたのお父さんはね、雀會でも……」
忌々しい加藤皐月が口を挟んでくる。
「うるせえよっ! 関係ねえのに横から出てくんじゃねえよっ!」
この女が出てくると余計にややこしくなる。
「親父だって仲のいい澄夫さんが今の状態でいいのかよ? みんなが自我を少し収めりゃ、うまくいくんだよ! 昨日タンベさんと始さんがうまくいった。親父も始さんと普通に仲良く話してたろ? 次は高橋さん。俺なりに手順踏んでやっているつもりなんだよ」
「だからおまえが何でそんな事してんだよ! 雀におまえなんか関係ねえだろが!」
「……」
そう…、親父の言う通り、俺は雀會と関係ない。
タンベさんが知子の店で泣いていたからと言うのか?
そんなの言えるわけがない。
親父は俺が誰かに操作されていると完全に猜疑心を抱いている。
澄夫さんは理解してくれた。
タンベさん、少しは安心しただろう。
始さんもわだかまりが、少しは無くなったはず。
次は高橋さん呼んで、雀會をどうしたいのか、何を考えているのかを聞く。
但しそれには親父の協力が必要だ。
雀會とは関係ないか……。
百合子との子供をおろす件。
風俗ガールズコレクションの件。
西武新宿の件。
自分の山積みの問題は何一つ片付いてやしないのに……。
「誰にそそのかされやがった?」
敵意剥き出しの親父。
「そんなのいねえよっ! 親父たちの件で少しは良くなるように動いてんのに、それなら勝手にしろよ、馬鹿野郎っ!」
すべてが阿呆らしくなった。
一円だって何も得していない。
「おう、テメーなんか雀に関わんじゃねえっ!」
売り言葉に買い言葉。
俺と親父は水と油だ。
「智ちゃんもあなたも落ち着いて」
また加藤がしゃしゃり出てくる。
思い出した。
この女が真夜中大騒ぎしたせいで、俺は総合格闘技の試合前日、まったく寝れずに徹夜で行ったのだ。
あの時私はお父さんに捨てられちゃうとか抜かし、親父は親父で埼玉医大の看護婦を家に連れてきて修羅場だった。
「おい…、おまえ、前に俺の試合の前日、看護婦の女連れてきてぶち壊しにしてくれたよな?」
「古い話してんじゃねえっ!」
「祭り終わったら殺すって言ったよな? 今まで生かしてやった恩も忘れやがってよ、クソ親父が」
「何だ、テメーッ!」
「だいたいおまえら、くっついたり離れたり気持ち悪いんだよ」
「智ちゃん! 言っていい事と悪い事あるのよ!」
「うるせえよっ! おまえなんか悪い事だらけじゃねえか! おい、親父!」
俺は親父を睨みつける。
「何だ、貴様!」
「昔若い頃はモテてしょうがねえと偉そうにほざきながら、捕まえたのがこれかよ?」
「何だと、貴様っ!」
「せいぜい乳繰り合ってろ……」
俺は乱暴に親父の部屋のドアを閉めて部屋へ戻った。
雀會改造計画も終わりか……。
せっかくうまく行っていたつもりなのにな。
澄夫さんにとりあえず謝りに行こう。
昨日の今日でこのザマじゃ、どんな顔して会いに行けばいいんだよ……。
家から一分も歩けば澄夫さん家。
通りの突き当たりにある喫茶店ポケットマネーのT字路を左へ曲がる。
澄夫さん家のインターホンを押すと、すぐ出てきてくれた。
「おう、智ちゃん。昨日はありがとな」
満面の笑みの澄夫さん。
奥さんの加代子おばさんがお茶を出してくれる。
「何かあったのかい、智ちゃん?」
黙っていた俺の顔を覗くように澄夫さんは口を開く。
「申し訳ございません…。実は……」
先程の親父とのやり取りを説得した。
やり取りというよりただの喧嘩だ。
しばらく澄夫さんは何か考えているようだが、俺の肩に手を置いて優しく微笑む。
「しょうがないって、智ちゃん。こんだけ人間がいりゃあ、色々な考えだってある。でもよ、智ちゃんが俺の為に動いてくれたのは嬉しかったんだ。俺はそれで満足してる」
澄夫さんの気遣いに、自身の無力さに涙腺が滲む。
「ほら、元気出しなって。いいじゃねえかよ、どんな風にしてたって、また来年になりゃ祭りはやってくるんだ」
「そ…、そうですよね……」
「ありがとう…、ありがとな、智ちゃん」
弁解しに行ったはずの俺が逆に励まされている。
そう…、俺はこうやって昔から優しく接してもらったのだ。
こうなったものは仕方がない。
気持ちを切り替えて、またこれから臨もう。
俺には問題がいっぱいあるのだから。
翌日西武鉄道から電話が入った。
あれから四日間経つ。
その間、色々なものを失った気がする。
「こちら西武新宿駅の朝比奈と申します。連絡が大変遅れて申し訳ありません」
「ええ、本当に遅過ぎです」
できる限り冷めたトーンで言った。
「申し訳ありません」
ここは相手も謝るしか方法はないだろう。
「いいかい?」
「はい……」
「今さら電話でそんな謝られ方されても、何も誠意が伝わらないよ。俺はあの日の内に自分の連絡先まで教えたし、次の日新宿まで直接行くとも言っておいたはずだよ」
「すみません……」
「その事は伝わってなかったの?」
もし、これで相手が聞いていなかったと誤魔化したら、その責任は本川越駅駅長の村西さんの責任になるだけだ。
「いえ、本川越駅の駅長から連絡は受けていました」
「じゃあ、要するに俺を馬鹿にしてるって事だ? ただの若造がほざいたぐらいだから、別に気にする必要もないだろうって思ってるんだ?」
「そういう訳ではないです」
「ふざけんな! そうじゃないなら何なんだ? 俺の立場からしてみたら、そう思うの当然だろう? 新宿行ったらすっぽかされ、連絡も今日やっとあったぐらいで」
「おっしゃる通りです。申し訳ありませんでした」
「一昨日、三回も家に電話したからもういいだろうと思ったの?」
「いえ、違います」
これ以上彼を責めてもどうにもならないか。
話題を変える事にしよう。
「あんただろ? 最初に電車の中で俺に応対したのは?」
「そうです」
朝比奈の声は明らかにか細くなっている。
こうなるしかないのを承知で私は続けた。
「何だ、あの対応は? 俺が何か間違っていたのか? それともあの女が間違ってるのか? こんな馬鹿にされて、公衆の面前であんな赤っ恥かかせられてよ」
「申し訳ございません……」
「とりあえず電話じゃ、いくら謝られても気が済まない」
「はい……」
明日、いや明日は店のシステムを決める打ち合わせだから変に時間は取れない。
「明後日…、そっちの駅に顔出すからその時に話し合おう。それでいい?」
「はい。本当に申し訳ございませんでした」
電話を切る。
一人の勘違い女の騒ぎから始まったくだらない騒動も、これで終わりになりそうだ。
百合子の件も、今話したところでいい方向へ行くとは思えない。
物事が混乱したら一つ一つ片付けていけばいい。
まったく親父の野郎……。
雀會バラバラのまんまじゃねえかよ。
澄夫さんへ筋は通したし、今できる事…、うん、小説を書くしかないよな。
その時ピンと頭の中で何かが閃いた。
俺はすぐパソコンのフォトショップを起動させ、電車の絵を描いてみる。
うん、こんな感じだ。
デザイン的に黒い感じの暗い表紙にしたい。
見た目は地味だけど、ちょっと気になる程度の表紙。
思いつくままに色々作ってみた。
二時間ほど時間を掛けて、自分で納得する扉絵ができあがる。
あとはタイトルを入れるだけだ。
題名を考えるのにまた三時間ほど掛かる。
『トレイン』
誰でも電車の事だと分かるだろう。
もし、これをひらがなに直してみると……。
『とれいん』
これだ。
これしかない。
この小説のタイトルは、『とれいん』。
これでいこう。
時計を見ると夜中の三時を回っていた。
表紙にタイトル名を入れ完成させる。
西武新宿線に乗り新宿歌舞伎町へ。
店のシステムを決める打ち合わせ。
料金はいくらにするか?
女の子の取り分は?
広告媒体はいくら掛け、どこに出すか?
そういった事を念入りに話し合う。
店がオープンした際、當間と有木園が従業員として店内にいるので彼らの意見を尊重させてみる。
周りの風俗店の相場を考えると、三十分で早い時間なら六千円から一万円ぐらいが相場だ。
あまり高い料金設定にしても客は寄り付かないだろうし、安過ぎても足元を見られてしまう。
自分が客の立場で考えてみると、料金なんて最初の時だけで、あとはどれだけ自分好みの女がいるかどうかに尽きる。
気に入った女がいれば、男はいくらだって金を落とす生き物なのだ。
始めるに当たって不安材料は腐るほどあった。
肝心の働く女がまだ集まっていないという現実。
俺の作成するホームページもまるで進まない状況だ。
料金はいくらにするかとそれぞれが言い合い、二時間ほど過ぎる。
俺は割引券や店の広告などをデザインし、決まった料金を入れた。
印刷屋にすぐ連絡し、データを送るので各十万枚ほど刷るようお願いする。
當間のせいで、ただでさえオープンが遅れているのだ。
あまり時間を掛けられない。
「當間さん、女の子の写真は?」
「いや~、有木園さんの弟さんのほうが知り合いの女の子を連れてくるって言ったきり……」
「今まで何をしてたんですか? 女の子入ったら、デジカメ買っといたからこれ使って何ポーズか写真撮っておいて下さいよ。これじゃいつまで経ってもオープンなんかできる訳ないじゃないですか!」
「そ、そんな怒らないでよ」
「じゃあ、ちゃんとやって下さいよ!」
そもそもの混乱の原因は、俺がこんな馬鹿な連中と組んで風俗をやるなんて決めたのがいけなかったのだ。
あの時百合子は嫌がった。
これから赤ちゃんが生まれるのだ。
まともな仕事をしてほしいと思っていただろう。
様々なストレスから俺は相当酷い事を言ってしまった。
言葉は形としては残らないが、心をエグる事もある。
取り返しのつかない事をしてしまったのだ。
店の看板をデザインしながら、俺はこんな事何でしているのだろうと悔やんだ。
あれから数日経つが、百合子からの連絡はまったくない。
悶々としながらようやく寝て、次の日に備える。
目覚めの悪い朝を迎え、熱い風呂に入って気を引き締めた。
これからようやく駅長の峰とご対面だ。
一つ一つ片付けていこう。
自作の小説『とれいん』の執筆途中までをプリントアウトし、以前デザインした表紙もつけ、本の形に作る。
まだ数ページしか書けていないが、これを見たら何て思うだろう。
西武新宿駅に到着すると、改札口のところに見覚えのある顔があった。
一昨日電話で話した助役の朝比奈だった。
俺の表情が険しくなる。
すでに朝比奈は私に気付いているようで真剣な顔で近付いてきた。
「先日はお客さまに対し、本当に失礼な応対をしてしまい申し訳ありませんでした」
「あのさ、あんたたちの行動を見てる限り、どう見たってそうは思えないよ」
「もし、よろしかったら、こちらへどうぞ」
以前駅長の間壁さんと話す際に通された改札口横の駅員室へ入る。
促されるまま予め用意してある椅子に腰掛けると、あの時の駅長である峰も近付いてきた。
思わず峰に睨みつける。
「先日は本当に申し訳ありませんでした」
二人とも平謝りだが、あれから時間が経ち過ぎている。
親父との口論を思い出す。
そのせいも手伝ってか素直に許すという気持ちにならなかった。
「あなたが駅長の峰さんですね?」
「はい……」
「私的には先日の件について、迅速に動いたつもりです。その日の内に連絡先を教えて、次の日にここに来ると言ったはずです」
「ええ、お客さまの事はちゃんと聞いていました。本当に失礼な真似をして申し訳なかったです。すみませんでした」
峰の横で立っている朝比奈も同時に頭を下げる。
「いいですか? 私はあなたに公衆の面前で赤っ恥をかかされたんです」
「い、いえ。別に私はそんなつもりで言った訳ではないんです」
「じゃあ他にどんな意味があるんですか?」
俺は目を剥き出して、峰を見つめた。
「あの状況で…、あの時、あの場に立ってたのは私なんです。お客さんのせいでこれ以上電車を遅らせる訳にはいかないと言いましたよね? あの女は席に座ってます。電車の中からだって外からだってはたから見たら、私が誤解されますよ。違いますか? あれで赤っ恥をかかせるつもりじゃない? いい加減な事を言わないで下さい」
「いえ、そんなつもりは……」
「峰さんはあの時お客さんのせいでこれ以上電車を遅らせる事はできないと言ったじゃないですか? その台詞はあの時言いませんでしたか?」
「言いました。ただ、そういう意味で言った訳では……」
「あなたがどういうつもりで言ったか私には分かりません。ただ誰が聞いたって、みんなそれはそう思いますよ? 誤魔化さないで下さい」
聞いていて非常に見苦しい峰の台詞。
心の奥の静かな炎が一気に燃え上がってきた。
「それに朝比奈さんはあれからしばらくしてからだけど、謝罪の電話をしてきた。でもあなたはその間何をしてたんですか?」
相手の痛いところをガンガン突いてやった。
百合子との事でやり場のない怒りをぶつけていた。
自分の口から出てくる言葉が情けなかった。
分かっていながらそれでも言葉は止まらない。
「私が間違ってるんですか? 事の始まりはくだらない件で、しかもすぐに治まる事なんです。私は何回か治まるチャンスは作ったつもりです。簡単に言えば、あの女に『この席はこちらのお客さんのですからどいて下さい』って言えば済む問題なんですよ。席に置いてあった荷物だって勝手にどかすと、セクハラだって騒ぐ馬鹿な女がいるから立って待っていたんです。それをあの女は戻ってきても、すいませんのひと言もなしに知らん顔。当然私に席の荷物をどかせぐらい言われてもしょうがないでしょ?」
「は、はい……」
「そしたらあの馬鹿女、逆切れじゃないですか。それで駅員さんを呼ぼうと。あの女も呼べとか偉そうに抜かしてたんで、こちらの朝比奈さんを呼んだんですよ。そうですよね、朝比奈さん? 何か今までの状況で違うとこありますか?」
「おっしゃる通りです……」
「あの時駅員さんがあの馬鹿に、席の荷物をどかせと言ってくれれば問題になる事も何もないんです。でも朝比奈さんの対応は、明らかにあの女寄りの対応でしたよね?」
朝比奈は戸惑った表情をしながらも俺から視線を逸らさなかった。
俺の心の中はどんどん残虐的な気分に支配される。
「いえ、そのような……」
「あの状況であの女の目線に沿って座って応対してたじゃないですか? 何時に切符買ったのかって、どうでもいい事をわざわざ聞いてくるし…。駅員なら切符の大きさ見れば、一目瞭然でしょ? 客である立場の私にだって見れば分かりますよ。大きい切符は事前じゃ変えないって。前もって切符を購入している証拠でしょ? あの馬鹿は切符もないくせに身勝手にエスカレートしてギャーギャーうるさいし」
これだけ言ってもまだ言い足りない。
自分自身の気が済まなかった。
「そこで峰さんがあとから来てようやく話の分かる人が来たと思ったらあれでしょ? あんな赤っ恥かかされるとは思わなかった。ずっとこの小江戸号に乗ってて、こんなの初めてだよ。それから謝罪の電話があったのも結構時間が経って。その二日ぐらい前に自宅には電話あったらしいけど、私は自分の携帯番号もちゃんと教えていましたしね。どう考えても馬鹿にしてんじゃないのかって思うでしょ?」
「携帯のほうはですね、お仕事中だったら大変失礼にあたると思いまして、自宅へ掛けた次第です。」
苦しい言い訳をする峰。
もちろんそんな言い訳が私の耳に届いても納得する訳にはいかない。
「ガキの使いじゃないんですよ。ガキの使いじゃ…。携帯番号を教えたって事は普通、そっちに連絡をしろって意味でしょ? 仮に仕事中で大事なようだったら、今は無理だって言えば済む話だし、そんなのは言い訳にしかならないですよね?」
俺はあの時の状況を再度説明してから、その後の対応が悪いと繰り返し責めた。
何度同じ言葉を使っただろう。
自分でもウンザリするぐらい怒りをぶつけた。
「ではお客さん。あの時の乗車券代、四百十円をお返しします」
峰の言った台詞が心に刺さる。
本川越駅駅長の村西さんも同じ事を言ったが、峰が俺に対して言うのは絶対に間違いだ。
「ふざけんなって。馬鹿にしてんのか? 俺はそんな四百十円が欲しくて、こんな事してる訳じゃねえんだ。いらないですよ、そんなもん。あんまり馬鹿にしないで下さい」
「決してそういう訳では…。会社の規則でそう決まってるんです」
「もういい。どっちにしても今日はこれから仕事だし、俺はもう行きますから」
「お客さん……」
俺は興奮しながらも、持ってきた『とれいん』の途中まで印刷したものを見せた。
「今回のこの事はノンフィクションの小説として書き始めてます。これがその小説の一部です。良かったら見て下さい」
「いや、結構です」
駅長の峰は俺の差し出した小説を受け取ろうともしなかった。
「そうですか。まあ、今日の話し合いはこの辺で止めときます。あなたたちの出方次第で、私はどう出るか考えさせてもらいます」
交渉は決裂。
できれば温和にいきたかったが、言い訳ばかりなので素直に許す気になれなかった。
今の心境では余裕がない。
どうケリをつけてくれよう。
プライベートでもうまくいかず、この件もこんなザマだ。
今の俺は憎悪の炎でいっぱいになっていた。
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