2024/09/ 29 mon
前回の章
北中が夕方に出勤してきて、倉庫へ行けと命じてくる。
正直こんな日常にもウンザリだった。
階段を上がり一階のフィールドのインターホンを鳴らす。
あの臭い倉庫へ行く前に、一息ついてからにしたかったのだ。
山本がドアを開け、中へ招き入れてくれる。
俺は北中の愚痴をこぼしていた。
「確かに岩上さんの事、みんな可哀相にっていつも言っていますよ。あんな奴の下でいつも一緒にいるじゃないですか」
別に同情されたい訳ではないが、山本の台詞が素直に嬉しかった。
小説にも行き詰まり、春美からは相手にされない現状。
誰でもいいから話す事で、この辛さから逃げたかったのかもしれない。
「そういえばメロンって十年以上もやっているらしいですね」
あんないい加減な体制で、よく今まで続いてきたものである。
「最初はあの倉庫にいる汚い人いるじゃないですか」
「野路さんの事ですか?」
「ええ、元々はあの人の店だったんですよ」
「え? 何ですか、それ?」
初耳だった。
「俺も噂でしか聞いた事がありません。でも確かうちのオーナーの金子さんが言っていた事だから、本当だと思いますよ」
これから倉庫に行く。
ちょっとこれはどういう事なのか、野路自身にさり気なく聞いてみるか……。
俺はフィールドを出ると、倉庫へ向かう。
途中でビールを一ダース買い、バックの中へ入れておいた。
「お、今日も来てくれたんだ。じゃあ、飯に行ってくるかな」
野路は笑顔で外へ行く準備をしている。
別に帰ってから聞けばいいか。
せっかく楽しみにしている飯をあえてマズくさせる必要なんてない。
ビデオのダビングをセットして、注文があると配達を済ませる。
裏ビデオ屋は売り子も倉庫も単純な仕事だ。
二時間経ち、野路が帰ってきた。
「お疲れさま。店に戻ってもいいよ」
「一服してからじゃ、駄目ですか?」
「全然構わないよ」
俺は頃合いを見て、バックからビール一ダースを取り出した。
「あれ、どうしたの?」
「いや、野路さんに飲んでもらおうかなって」
「何だか悪いなあ~」
「ちょうど知り合いからビール券もらったんで。よかったらどうぞ」
「ありがとう」
「ところで野路さん、ちょっと小耳に挟んだんですけど」
「ん、どうしたの?」
「いや、メロン、あれって野路さんの店なんですか?」
「……」
それまで笑顔だった野路が、急に黙りだす。
「野路さん、どうしたんですか?」
「あ、ああ……。確かにあの店は俺の店だったよ……」
彼の表情は暗い。
「じゃあ何で?」
「話すと長くなるんだけどさ……」
そう言いながら、野路は淡々と喋り出した。
まるで誰かに聞いてもらいたかったとでもいうように……。
十年前、野路は金を持っていた。
何故持っていたかまでは知らない。
今のメロンとさくら通りにもう一軒、そこ二店舗のオーナーだったのだ。
俺はちょうどその頃全日本プロレスを目指し、毎日トレーニングに励んでいる時期でもあった。
二年ほどして北中が、知り合いの紹介で売り子として入ってきたそうな。
この事実に俺はビックリした。
あの北中が始めはただの雇われだったのである。
従業員を信用し店を任せっ放しの野路は、一ヶ月間は嫁さんのいるフィリピンへ。
そして一ヶ月は日本でという優雅な暮らしをしていた。
北中が入って最初の一年間、店は順調だったらしい。
ちょうどそんな時だった、野路と嫁さんの間に子供が生まれたのは。
その辺りから店の調子が急激に落ち始め、日本に帰ってくると北中は店が赤字だから、今月二十万補てんしてほしいと言ってきたそうだ。
人のいい野路は任せていたという気持ちもあり、素直に金を出す。
それから一ヶ月置きに戻る度、金を補てんするようになり、気がついた時、野路の金が底を尽きていたらしい。
ある日北中が話を持ち掛けてくる。
「野路さん、こうなったらさくら通りの店は畳んで、俺と野路さんの二人で店を切り盛りしよう」
ピンチになった野路は、これまでの平和ボケから簡単に北中の話を鵜呑みにしてしまう。
それからだった北中の横暴ぶりが始まったのは……。
給料は二人とも二十万円ずつと固定し、売り上げが良かったら歩合で分け合う。
そう言った北中。
しかしここ数年間で歩合があったのは初めの一ヶ月のみで、それからは一切ないらしい。
北中の巧妙なところは、一年に一度だけ奴のポケットマネーでフィリピンへ二週間だけ行かせているというところだった。
そこまで話し終わると、野路さんは仕事中なのにビールを飲みだした。
目の前にいる野路は、北中の毒牙に掛かった犠牲者なのだ。
俺はあんな腐った奴の下で働いているのか……。
しばらく言葉が出なかった。
いつか北中は、これまでの報いを思い知る時がやってくるだろう。
いや、今の小説が完成したら、どんどん先の話まで書き上げ、いずれ北中の所業を絶対に書かなきゃいけない。
そしてそれを世に出さないと……。
しかし今、小説を書く事に限界を感じている俺……。
怒りだけじゃ、小説を完成させる事は無理なのである……。
「野路さん……」
「あ、ごめんごめん…。いただくよ、ビール……」
完全に負け犬の目になっている野路。
ビールをちびりちびり飲んでいる。
「野路さん、悔しくないんすか? 北中さんにいいようにされて!」
俺がそう言うと、野路は下をうつむき、声を押し殺しながら泣いていた。
これ以上俺は、彼に対し何も言えなかった。
そろそろメロンへ戻らないといけない。
黙ったまま俺は倉庫をあとにした。
完全なモチベーションの低下。
物事を何も考えたくなくなっていた。
メロンの仕事を終え、店を出る。
コマ劇場まで行くと、坊主さんが壁に寄り掛かりながらタバコを吸って待っている姿が見えた。
「坊主さん、すみません。今、仕事終わりました」
「お疲れ。じゃあ、漫画喫茶行こうか」
今日はパソコンのレッスン、どうも気が乗らない。
「坊主さん、その前に飯でもどうです? いつもこうして世話になっているんです。たまには俺に、ご馳走させて下さい」
「そういえばそうだね。毎回漫画喫茶でカップラーメン啜っているんじゃ身体によくないか」
「焼肉でも行きましょうよ」
「いいね~」
俺たちは焼肉屋へ向かった。
ひと通り注文をして、最初に乾杯をする。
「どうよ、小説のほうは?」
坊主さんは現状を知らず、明るい声で聞いてきた。
「いや、それがですね……」
俺は息詰まっている現状を正直に伝えた。
すると坊主さんはポカーンとした表情になり、「おまえ、何を言ってんだ?」と不思議そうにしている。
「だから、小説諦めようかなって」
「そうじゃなくてさ。何でそうなる訳?」
「だってとてもじゃないですけど、原稿用紙三百枚以上書くなんて無理ですよ……」
「…たく、本当におまえは馬鹿だな」
「ええ、どうせ馬鹿ですよ」
ヤケになっていた。
馬鹿というのは充分自覚している。
しかし面と向かって馬鹿と言われるのはイライラした。
「先週も智の書いた作品、途中までちょっと見たけどさ。おまえ、どれだけ自分がすごいか相変わらず分かってないんだな」
「どこがすごいんですか? 中途半端なだけじゃないですか」
「ちょっとパソコン出してみ」
「何でですか?」
「いいから」
そう言うと坊主さんは俺のバックを取り上げ、パソコンを取り出した。
俺の書いた題名のない小説を起動すると、何やら別にいじりだす。
「いいか、龍一。ワードにはほら、こうやって四百字詰め用のファイルもある訳ね」
そう言って坊主さんは四百字詰め原稿用紙の型を画面に出した。
「はい」
「おまえが今書いている形式っていうのはさ、四十×四十なのね。ここまではいい?」
「はあ……」
「で、今までおまえが書いた文章を全部選択して、そんでもってコピーして…。この原稿用紙に貼り付けると……」
俺は画面を見ながら固まっていた。
原稿用紙ファイルにズラズラと並ぶ文字。
どんどん進むページ数。
二百九十三枚で止まる。
「分かった、龍一」
「は、はい……」
涙が出そうだった。
焼肉の煙が目に入ったからじゃない。
今までやってきた事が、否定されていないという事実が分かったからだ。
「四十×四十…。本当にビッチリ書いたら原稿用紙四枚分になるでしょ? 何でおまえはこんな単純な事に気がつかない訳?」
本当に俺は馬鹿だ。
痛感する。
自分で原稿用紙三百枚以上書こうと、ずっと寝る間も惜しんで頑張ってきた。
その通りにちゃんとできていたのだ……。
諦めちゃいけない。
諦めたらその時点ですべては終わる。
俺は何度も坊主さんにお礼を述べた。
食事を終えると、坊主さんは伝票を手に取る。
「ちょっと今日ぐらい俺が出しますよ」
「馬鹿野郎。俺のほうが二つも先輩なんだ」
「それは分かっています。でも俺、感謝してるんですよ。出させて下さい」
「いいよ、そんな気を使わなくて。それよりもこの作品が完成したら、俺に一番始めに見せろよな?」
「いえ、それは無理です。春美が一番目です」
「じゃあ、二番目でいいよ」
そう言って笑いながら坊主さんは財布を取り出した。
俺はその後ろ姿に向かって深々と頭を下げた。
何故か昼間なのに、遅番の小泉がメロンへやってきた。
彼がここに来るなんて非常に珍しい。
「どうしたんですか、小泉さん」
「いや、ちょっと話がありまして……」
やけに神妙な様子の小泉。
「どうしました? 俺でよければ聞きますよ」
「ありがとうございます」
店長でありながら名義人でもある小泉。
オーナーの金子さんは、当初彼にこう言ったそうな。
「いいか、良平。おまえはまだ若いし、独身だ。名義料は給料とは別に二十万払う。だけどな、名義料の二十万はおまえ専用の口座を作っておくから、そこに俺が毎月積み立てておく。通帳だけは渡しておくよ。じゃないと金を渡せば、みんな使ってしまうだろうからな。で、店が辞める時、もしくは警察にパクられた時に、初めておまえに名義料は渡す。それでいいな?」
通帳は小泉で、判子とキャッシュカードは金子が管理。
なかなかいい話である。
裏稼業では聞いた事がない。
北中と先日フィリピンへ行った小泉。
それまで真面目に貯金をしてきたのにフィリピンの女にハマリ、金を使い果たしたようだ。
「それで今まで確認した事なかったんですけど、俺の口座を見てみたんです」
「これまでの名義料が振り込まれている通帳ですよね?」
「はい、二年分。だから最低でも二百四十万円はあるはずなのに、一円しかなかったんです……」
「……」
考えられる事はただ一つ。
オーナーの金子が、小泉の金を使い込んでしまったという事しか考えられなかった。
まったくどいつもこいつも……。
「岩上さん、これって……」
「小泉さん、とりあえず直に金子さんへ聞く事ですよ。じゃないと分からないじゃないですか? ひょっとしたら口座を移しただけかもしれないし」
俺が言っている台詞は、ただの気休めに過ぎない。
「はあ…、そうしてみます……」
小泉は肩をガックリと落としながら、階段を上がっていった。
小説を書き始めてから十八日目。
とうとう作品は完成した。
題名はまだ決まっていない。
原稿用紙で三百七十一枚だった。
何ともいえない達成感。
気持ちが良かった。
さて、俺が生み出した初めての作品。
この処女作になんて名前をつけようか?
歌舞伎町の入門編として書いた。
だから本来書きたかった事の百分の一も書いていない。
プロレスの試合でいえば、逆水平チョップとドロップキックしか使わないと決めて書いたような作品である。
それでも自分の過去を入れたこの処女作は、とても大事な宝物に見えた。
本として読める形にしたい為、A4の用紙を購入し、プリントアウトする。
タイトルは歌舞伎町何々という題名にするか。
いや、よく考えろ。
俺は地元の人間に言う時、いつも歌舞伎町ではなく新宿という言い方をしてきた。
だとすれば最初は新宿とつけたい。
問題は、そのあとに続く名前をどうするかである。
春美という存在があったから、俺はめげずに最後までやり遂げる事ができた。
目に見えないところでも格好を常につけていたかったのだ。
それが意味のない事だとしても……。
彼女から連想するのは当然ピアノ。
聴かせたいが為にピアノを始めたのだ。
まず自分がピアノを弾いている写真をモチーフに、絵を描いてみよう。
坊主さんから教わったスキルの一つ。
プロのデザイナーも使用するアプリケーションソフトのフォトショップを起動する。
幻想的な感じな扉絵にしたい。
まず俺がピアノを弾く写真を中で展開し、別に新規レイヤーを作る。
写真の透明度を半分まで落とし、じっくりマウスで輪郭を描いていく。
部分的に拡大してちょっとずつ丁寧に……。
輪郭ができると俺は色をつけていく。
濃い色でなく薄い色を何度も重ね合わせるように少しずつ塗っていく。
面倒な作業だった。
しかし自分で書いた小説の扉絵でさえも、俺は自分で描きたい。
元の写真に歪みを使って、様々な形に歪ませる。
俺は六時間掛けて丁重に絵を描いた。
この上に乗せるタイトル。
どうする?
いいアイデアが思い浮かばなかった。
たまにはピアノを弾いてみるか……。
ザナルカンドを弾く。
数え切れないぐらい弾いてきたのでスムーズに弾ける。
まだ途中だけど、月の光も弾こう。
「……」
駄目だ。
ザナルカンドほどの情熱を持って接していなかったせいか、途中で演奏をつっかえてしまう。
ピアノの先生にはあれから連絡していないな……。
俺が悪かったのだ。
潔く謝ろう。
久しぶりにくっきぃずへ寄ってみる事にした。
しかし何て謝ればいい?
途中で考え込んでしまう俺。
向きを変えて行きつけのJAZZBARスイートキャデラックへと向かった。
「いらっしゃいませ」
寡黙なマスターが静かにボトルを目の前に置く。
グレンリベット十二年のボトルを眺め、今までの様々な事を思い出してみた。
いつも辛い時や悲しい時、グレンリベットは無言でそばにいてくれる。
愚痴をこぼす相手もいない。
俺はショットグラスに酒を注ぎ、語りかけてみた。
「小説を書いてみたんだ。でも惚れた女には相手にされず、ピアノの先生にも呆れられ…。俺って馬鹿だよな……」
「……」
「相変わらず無口な奴だな…。まあいいや、おまえが俺の事を一番分かってくれる」
緑色のボトルに光が当たり、綺麗に反射している。
俺はグレンリベットを手に取り、じっくりと眺めた。
ボトルにジャズバーの一部が映る。
そこにはピアノが映っていた。
「分かったよ。辛い時はピアノを弾け…。そう、言いたいんだろ?」
グラスの酒を一気に飲み干すと、俺はマスターに声を掛け、一心不乱にピアノを弾いた。
昨日は飲み過ぎたなあ。
今日が休みで良かった。
眠い目をこすりながら、郵便受けに新聞を取りに行く。
「ん……?」
新聞の下に一枚の封筒があった。
宛名は俺。
送り主はくっきぃずからだった。
先生は何故こんな近くなのに、わざわざこんなものを……。
急いで封を破る。
《第八回 くっきぃずピアノ発表会 出場のお知らせ》
中に入っていた一枚の便箋。
見出しにはそう書いてある。
続けて先生の手書きで、文章が書いてあった。
《久しぶりね、岩上君。元気でお過ごしでしょうか? 今度の発表会、あなたにはぜひ、出てほしいわ。月の光、あとちょっとでしょ。もう一ヶ月ないんだから、早く顔を出しなさい。待ってますよ》
先生は俺を見捨てた訳じゃなかった。
勝手に俺が勘違いをしていただけ。
こんな俺を必要としてくれているのか?
俺に価値があるのか?
月の光だってすべて完成した訳ではない。
発表会だって、あと三週間後だ。
でも先生の気持ちが嬉しかった。
どす黒く濁っていた心に、美しい光が差し込んだように思えた。
春美に聴かせる為でなく、自分自身の為……。
やってみるか……。
それから今後を考えよう。
少しだけ希望を持てた。
たった一通の手紙で相変わらず単純だな、俺は……。
久しぶりに、くっきぃずへ行く。
中に入るなり頭を下げた。
俺が悪かったのだから、必死に謝るしかない。
「何してんの、そんなところで。早くこっちいらっしゃいよ」
先生はいつもと変わらなかった。
優しい笑顔で俺を出迎えてくれた。
「先生、俺、発表会に月の光、間に合いますか?」
「大丈夫です」
「だって……」
「私の教え子でしょ? 自信を持ちなさい。あなたはザナルカンドをたった四回のレッスンで完成させたのよ。発表会まであと少し、頑張りましょう」
「はい……」
今までのおさらいとして、最初からピアノを弾いた。
先生はうんうんと満足そうに首を振りながら楽しそうに見ている。
「あなた、本当にサボらず頑張っていたのね」
音を聴いただけで分かってくれるなんて、さすが俺の師匠だ。
「先生、一つ質問が」
「何でしょう?」
「ピアノの語源で、だんだん早くとか強くって意味合いの言葉ありますか?」
「ありますよ。アッチェレランド。もしくはクレッシェンド」
新宿アッチェレランド……。
いまいち語呂が悪い。
新宿クレッシェンド……。
「これだっ!」
思わずピンと来て、俺は大声を上げていた。
「ど、どうしたの、岩上君? いきなり……」
「いや、あのですね。実はレッスンに来ない間、小説を書いていましてね……」
俺はこれまでの事を先生に説明した。
「そう、小説を書いていたんだ? あなた、本当に色々できるのね」
感心したように先生は言ってくれるが、たまたまである。
「いえいえ、周りのサポートがあってこそです。先生のおかげで俺はピアノを弾けるようになり、小説のタイトルも『新宿クレッシェンド』と決める事ができました。多分、これ以外ピッタリくるものはないと感じます」
「そう、そう言ってもらえると嬉しいわ。じゃあ、続きをやりましょうか?」
残りの部分を教わる。
俺が思うに、月の光は段階の違うパートみたいなものが八つある。
七つ目は一番初めを少しアレンジしたような感じだった。
音符の読めない俺は、暗記というシンプルな方法で演奏をするしかない。
それぞれの各パートに分けとにかく弾き続けた。
個別に暗記していくしか方法はない。
指で鍵盤の叩く位置を記憶し、目で確認する。
耳で記憶した音を確かめる。
六つ目までのパートは、ずっと弾いていたのでゲップが出るくらい記憶していた。
あとは七つ目と八つ目のみ……。
先生はレッスン料を今回受け取ってくれなかった。
俺は必死に食い下がる。
「あのね、前回月謝でレッスン料をもらったでしょ? 月で四回あるのに、岩上君は三回しか来てなかったのよ。だから今回はいいの」
「だって先生、それは俺が勝手に……」
「じゃあ、これからはきちんとレッスンに来て。あなたなら頑張れば、月の光がちゃんと弾けるから」
「ありがとうございます……」
それしか言葉が出なかった。
先生の恩情を無駄にはできない。
俺は月の光を完成させよう。
不肖の弟子が、ようやく恩返しできるかもしれない。
先生の恩に報いたかった。
発表会までの間、俺はひたすら五感を研ぎ澄ませた。
部屋に帰ると返事など来ないのを承知で、春美へメールを打ったみた。
まだ未練タラタラだ。
この事実を彼女へ伝えたかったのだ。
《九月二十一日の日曜日…。市民会館山吹ホールにて、俺のピアノ発表会出場が決まりました。午後四時から開始します。君の為に始めたピアノが、こんな調子になりました。不思議なものですね。 岩上》
メールを送ると、そのまま横になる。
今の俺にはピアノしかない。
発表会を済ませてからゆっくり考えればいいさ。
自然と深い眠りにおちた。
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