あれだけ降っていた雪は夕方ぐらいにはやんでいたそうだ。田中が教えてくれたので、外に出て確認してみる。どっちみち今日でケリをつけないと…。九時半頃になると、帰る準備をしだす。帰りに峰との話し合いが待っている。向こうは謝罪したいと言ってはきたが、実際は峰自身の気持ちが一番の問題なのだ。状況次第では今日じゃ済ませられない可能性もあるのだ。しっかりその辺は自分自身見極めないといけない。
会社を出て、西武新宿駅へと向かう。二階の改札口へ向かうエスカレータの前まで来ると、軽く深呼吸をした。頭の中で簡単に今までの事を思い出し、整理してみる。十日の金曜日に起きた小江戸号の座席を巡る小さなトラブルから、もう今日で二十八日の火曜日になる。あんな小さな出来事が十九日間もだらだらと時間が過ぎていった。出来る事なら、もうここで終わりにしたい。ゆっくりとエスカレータに右足を乗せる。エスカレータは私を乗せて静かに二階へ登っていく。
もう年末の夜十時近くなので、駅構内は人が沢山いる。忘年会の帰りなのか、真っ赤な顔をしてブツブツ言っている酔っ払いや、人前も気にせず抱き合ってるカップル。公衆電話で泣き叫びながら話している変な女。こうして見ていると、本当に日本は平和だというのがしみじみ分かる。改札のところまで歩いていくと、峰の姿が見えた。峰は私の姿を確認すると、軽く会釈をして駅員待機室のドアを開けて待っている。
「どうぞ、お入り下さい。」
わざと睨みつけるように峰を見てから、黙って中へ入る。折りたたみ椅子が用意してあったので、何も言わず勝手に腰掛けた。他の駅員の視線が私に注目しているのが分かる。
「神威さん。本当にちゃんとした謝罪も出来ずに、申し訳なかったです。」
「何で急に態度、変わっってんですか?俺は散々あれだけ言ってきたはずですよ。」
意地悪な言い方をあえてした。今まで溜まり積もったものを抑え切れなかった。おろした子供の事やこの間の駐車禁止の件なども、峰にすべて怒りをひっくるめてぶつけてやりたかった。
「あの時、偉そうな口利いてたじゃないですか?もう謝罪は済んだみたいな言い方で…。今さら自分の主張を変えないで下さいよ。」
「いえ、そのような言い方はしてないです。神威さんにご迷惑掛けたのは事実ですし、不愉快な思いをさせ、大変申し訳なかったと思ってます。」
「だってあなたは俺に公衆の面前で赤っ恥かかせたじゃないですか?」
「いえ、そのようなつもりでは…。」
「前にも言ったでしょ。そんなつもりじゃなくても周囲はみんなそう見るって。」
「申し訳ありません。」
「冗談じゃないですよ。その後の対応だって酷いもんじゃないですか。それに何ですか、昨日のあの対応は?」
「すみませんでした。」
私は携帯を取り出して峰の目の前に見せる。
「昨日のあの会話、実はこの携帯で一部始終撮っていたんです。気付いてました?」
「い、いえ…。」
「出るとこ出ても、俺は全然構わないんですよ。」
卑怯な言い方だ。自分でもそう言ってて嫌だった。
「申し訳ありません。」
「いくら謝られても…。」
「いえ、私には本当に心から神威さんに謝る事しか出来ません。本当に気を悪くさせてしまい、申し訳ありませんでした。」
「……。」
「すみません。ずっとあれから心の中で気持ちが悪かったです。何故、もっと早くこのような機会を作れなかったのかと…。申し訳なかったです。」
峰は平謝りして頭を下げる。見ていて誠意の感じとれる謝り方だった。駅長自身が下の駅員たちが見てる前で、自分より年下の私に頭をひたすら下げる。立場を考えれば、恥ずかしくないはずがない。私はもういいと言っても、必死に峰は謝っていた。
「峰さん。もう、いいですよ。頭を上げて下さい。」
「いえ、神威さんは私たち駅側が言えないような事まで、あの女性客に言ってくれました。本来なら感謝してもし足りないぐらいです。神威さんは非常に知識人です。それをこのような形にしてしまいまして…。私の配慮が足りなかったです。」
「確かにあのメガネかけた馬鹿な女が一番の原因ですよね。一番騒ぎを巻き起こした張本人が場を荒らすだけ荒らして逃げた。見つけたら、あの女はぶち殺したいですよ。」
「ま、まあ、それはそれで困りますけど…。」
もう嫌味は散々言った。和解に動くように話してもいいタイミングだろう。
「とりあえず言ってみただけですよ。どっちにしてもあの女が元凶なんですから。」
「そう言っていただけると…。」
「ただ、そのあとの朝比奈さんと峰さんの対応が悪かったんですよ。今になって思えば、電車の発車する前で、色々と大変な部分があったのは分かります。実際にあの状況で駅側の立場にしたら、言いたい事ってあると思うんですよね。」
「ええ、そう言っていただくとありがたいです。こちら側の言い分であの時の状況を説明しますと、あの女性は私が駆けつけた時点でテーブルを叩きながら興奮してました。これじゃ話にならないなと判断して、神威さんに話をしたんです。あの時は慌てていたので、大変失礼な言い方になってしまったのは確かですが…。」
峰も緊急に連絡を受けて、情報の少ない状態であの場に来たのだ。慌てても仕方がない。
「もういいですよ。自分も今までわざと意地悪い言い方をしてたと思いますし、ここまできて引くに引けない部分もありました。反省する部分は、こちらもあるんです。昨日、間壁さんから連絡あった時、峰さんを私たちの仲間なんですって、俺に素の感情を言ってくれました。ジーンときちゃいましたよ。じゃあ、俺のやってる事って何なんだって…。自分で正義というか間違ってない行動だと信じて動いてきましたけど、もう少し相手の気持ちを考えてやれても良かったんじゃないかって…。だから峰さんもこれ以上、謝らないで下さい。お互い笑顔で…、みんながこれで良かったと思えるように笑顔で今までの事、お互い水に流しちゃいませんか?」
峰の表情が和らいでいくのが分かる。私も体の中につかえていたものが、すべて流れ落ちたような気がする。色々あったが、これで良かったのだ。そう思わないと、おろした子に対して申し訳なさ過ぎる。
「ありがとうございます、神威さん。」
「こちらこそ、ねちねちとすみませんでした。」
私と峰は向かい合って、笑みをこぼした。
「じゃあ俺、そろそろ帰りますよ。小江戸号に乗って。」
「ありがとうございます。」
「いえ、こちらこそあの電車があって、本当に助かってるんですから。もう十年ほど利用してるんですよ。小江戸号があるからこそ、私は今まで新宿でずっとやってこれたんです。もちろんこれからも西武新宿線を利用させていただきますけどね。」
「ありがとうございます。これからもより一層お客さま方が気分良く乗っていただけるように最善を努めます。」
「頑張って下さい。あと間壁さんや福島さんによろしく言っておいて下さい。散々世話になって迷惑も掛けてしまったんで…。では、自分もそろそろ失礼しますね。」
私は笑顔で答え、部屋から出ようとする。
「あ、神威さん。」
「はい?」
「まだ次の小江戸号まで時間があるので、ゆっくりしていったらどうですか?」
「お言葉に甘えさせていただきます。」
今までの確執がすべて解けた。さおりにこの瞬間を見せてやりたかった。
「神威さんて随分と体も大きいですけど、昔、何かやってたんじゃないですか?」
そう…、言われたとおり随分と昔になってしまったのだ。もうあの頃の輝きは自分には無い。大和プロレスで精神や肉体を極限まで鍛え抜いた若き頃。戻りたくても、もう無理なのだ。出来ればリングにまた上がりたかった。もう一度、自分のテーマ曲にのって、観客のブーイングを浴びながら入場してみたかった。戦って前のめりに倒れるような生き方をしたかった。
「……。」
「神威さん?」
「え、ええ…、本当に昔の話です。」
「やっぱり何かやってらしたんでしょ?」
「ま、まあ…。」
「格闘技じゃないですか?」
「ええ…。」
「私、プロレスが大好きなんですよ。」
峰がプロレス好きだったとは…、一気に親近感が湧いてくる。峰さんになら過去の事を少しぐらい話してもいいだろう。
「実は俺…、チョモランマ大場社長が健在の時の大和プロレスにいたんです。」
「えー。」
顔を真っ赤にして興奮してくる峰。落ち着きない素振りを見ていると、もはや西武新宿駅駅長という立場を完全に忘れているかのように見える。
「お世話になった師匠がヘラクレス大地さんです。」
「うーん、大和かー…。大地、大好きだったんだよなー…。」
その大地さんも今はもうこの世にいない。おれだけお世話になり、恩も何も返せていないのに…。今の私を見て、大地さんは喜んでくれるだろうか。いや、決して喜んでくれないだろう。
「俺なんかどうしょうもない問題児ですよ。プロレスでも格闘技でも…。」
「神威さんの現役時代を見てみたかったなー。」
無理な話だ。私の試合の記録は永久に潰されてしまっている。格闘技雑誌にすら写真を載る部分を揉み消されてしまった。現場で実際に試合を見てくれた人しか事実は知らない。
「出来たら、一度でいいからまた戦いたいですね。」
私の願望…、言い方を代えれば夢だった。でも夢とハッキリ言えるという事は、もう現実的な事ではなくなってしまったと、自覚してしたという事だ。本当にリングに上がりたいと…、それが実現出来ると自負するなら、何故私は今、会社でパソコンなんか叩いているのだろう。
「また頑張って下さいよ。」
「難しいですよ。離れて何年も経っているんです。気力だけじゃ、あの世界通用しないですって。」
「神威さんと話していると、不思議な迫力を感じるんです。気迫とでも言った方がいいのかもしれないですけど。」
「自分自身が情けない真似しちゃうと、プロレスが舐められちゃうんですよ。勝手にそう自分が思ってるだけですけどね。もう大和とは関係ないですよ。自分なんて…。でも少しの時間だったかもしれないですけど、あそこで俺は育ててもらったんです。その精神は永久に消えません。大和に恥をかかすような真似は絶対に出来ないんです。師匠の大地さんには結局、何の恩も返せないまま、先に逝かれてしまいました。だからこそ、自分の信念に恥じない生き方をまっとうしたいんです。」
私は永久に自分自身に対して満足しない。したらその場で成長が止まるだけだ。大地さんに憧れ、早く横に並びたかった。でも私は私の器しかないのだ。大地さんの器とは違うのである。どんなに時間が掛かっても、自分らしさを出しながら少しずつ近づけばいい。峰さんや他の駅員に、あの件から解決までの間に子供をおろした事は言うまい。あれは私の責任なのだ。自分が不甲斐なかったばかりに…。
「神威さんの現役時代の写真、サインして私に下さいよ。」
「写真なんて何も無いですよ。今は別の形で頑張っていくだけです。」
「なんだ残念だな…。でも別の形って…。」
「以前、小説書いてるって言ったじゃないですか?」
「はい。」
「伊達や酔狂じゃなく、ちゃんとコツコツ書いてんですよ。」
「それは信じてますよ。」
「内容を西武の中傷って事じゃなく、読んだみんなが良かったと思えるような作品にしているんです。だから峰さんとも絶対に最後はこうならないといけなかったんです。」
「私?」
「ええ、ハッピーエンドとして終わらないと。もちろんちゃんと峰さんも、名前を変えて登場してますよ。大物悪役キャラとして。」
「悪役ですか…。」
「しょうがないじゃないですか。駅員の視点じゃなく、乗客側の視点から自分勝手に書いているのですから。」
「はぁ…。」
「人間って現実もそうなんですけど、誰か一人の敵というか悪者を作り上げて、一致団結させるような傾向ってあるんですよね。今回の件でやってきた事を自分自身振り返ると、峰さん一人に標準を絞って最後まで攻撃してたじゃないですか。」
「ま、まあ…、そうですね。」
「とりあえず小説の中で峰さんはラストシーンをいい感じで書かせてもらいますよ。」
「まいっちゃうな…。」
「あ、そろそろ小江戸号の時間だ。峰さん、俺、行きますね。」
「どうぞ。本当にすみませんでした、神威さん。」
「何、言ってんですか。もういいですよ。」
一礼して小江戸号へと向かう。疲れが溜まっているはずなのに、足取りは軽かった。席に座ると、早速さおりにメールを打つ事にした。彼女に一番最初にこの事を伝えたくて、しょうがなかった。
「さおり、ようやく西武新宿の件、片付いたぞ。おまえに本当に色々と迷惑掛けてしまったな。でも今日、たった今、言ったとおりにハッピーエンドにしたぞ。これであの子も少しは喜んでくれるかな?俺はあの子に自分の生き方を…、俺の背中をずっと見せ続けるよ。良かったら、さおりにはずっと俺の傍で見ていてほしい。明日、俺が帰ったら食事でも行こうか?色々話したい事が沢山あるんだ。」
十二月二十九日 水曜日
朝起きてから、携帯にさおりからのメールが届いていたのを気付く。昨日は家に帰ってからすぐに寝てしまったようだ。
「良かったね。昨日は初雪も降って、ちょうど小説の方も良い仕上がりになりそうだね。完成するの楽しみにしています。ずっと長引いてた西武の事、うまく終わって良かった。明日、ご飯食べる時、色々話聞かせてね。」
メールを読んでいると、自然に笑みがこぼれる。これで今回は良かったのだろうか。正直なところ、私には何も分からない。振り返ると、どうしてもおろしてしまった子供の事を思い出してしまう。さおりとの仲が戻ったとはいえ、失ったものまでは永遠に戻ってこないのだ。この感情は一生付きまとってくるのであろう。私は生きていく限り、失敗しても反省して、自分自身を昇華していかなければならないのだから…。
仕事を終えて、いつものように小江戸号で川越に向かう。駅に到着すると、さおりが笑顔で待っている。私たちはレストランで食事をして部屋に戻る。
「龍、西武の件が解決出来て、本当に良かったね。」
「ああ、でも犠牲になった事が多過ぎるよ…。」
「うん、そうだね…。」
お互いそれっきり会話が止まってしまった。二人とも思っている事はきっと同じだろう。
「今さらだけど、本当にごめんな、さおり…。」
「龍だけの責任じゃないよ。それにあの時は二人とも余裕がなかったし、仕方がない事だったんだよ。二度と同じ事を繰り返しちゃいけないけど…。」
「そうだよな…。」
さおりに腕枕をして、寝る体勢に入る。真っ白な天井を見つめながら、色々頭の中で考えた。一時間ぐらい経っただろうか。さおりはいつの間にか寝てしまっている。私は右手で、さおりのお腹にそっと手を当てた。もう当然の事ながらお腹は出てない。ここに私とさおりの子供が確かにいたのだ。ここですくすくと成長していたのだ。それを私は…。
「すまん…、すまない…。」
私は声を殺して泣いた。私の頭にさおりの手が触れてくる。とても優しい感触だった。
「そんなに自分を責めないで、龍…。絶対にあの子も龍の事、笑顔で見てくれているよ。」
「……。」
私は大声を上げて思い切り泣いた。
十二月三十日 木曜日
さおりは家に帰り、私は仕事へ向かう。昨日、大泣きしたせいか目が充血していた。明日まで働けば、ようやく休みになり久しぶりにゆっくり出来る。小説「とれいん」をたっぷりと書く時間が作れそうだ。
会社でも私はオーナーの目を盗んで、黙々と小説を書き進めた。作品の中は間壁さんや福島さんとの話し合いのシーンまで書けている。最初から読み直してみると確かに事実通りなのだが、何故か釈然としない。読んでいてリアルな事はリアルなのだが、何かが足りないような気がする。何度も読み返していく内に、何が足りないのかが分かった。しかし足りない部分は私一人で決めても駄目だ。携帯を取り出し、私はメールを打ち始めた。
「さおり、答えてほしい事がある。俺たちの間に出来た子。「とれいん」に子供をおろした事まで入れようと思う。出来れば今、書いているこの小説はあの子に捧げたい。何も分からないまま、俺たちのエゴで命を消されてしまった。せめて形に残るように、俺が書いた作品ではあるが、あの子の事を形として残してあげたいんだ。でもその事を書くのに、さおりの意見も聞きたい。少しでもさおりが辛かったり、嫌な気持ちになるのなら、俺はそれについて書かない。でも俺の意見に少しでも賛成してくれるなら、ちゃんと書いてあげたい。よく考えて返事をほしい。自分の気持ちに素直に、正直に言ってほしい。突然こんなメール送ってごめんな。」
作業をしながら刻々と時間は過ぎていった。さっきメールを送ってから三時間は経つ。でもさおりからのメールは届いてなかった。ずっと悩んで迷っているのだろう。俺も残酷な事をしてしまっている。ちゃんと逢ってから話すべきだったのか…。仕事が全然手につかなかった。果たして「とれいん」に、あの子の事を入れて、私はどうしたいのか。座席を巡る騒動の話に、あの子を入れて何になると言うのだろう。さおりも複雑な心境だろう。でも、ここまで魂を込めて書いた「とれいん」を単なる読み物にしたくはなかった。自分たちの事を暴露しながらも、簡単に子供をおろす馬鹿な連中や、これからの人たちに対するアンチテーゼとなるような作品にしたい。
アンチテーゼ…、その言葉のちゃんとした意味合いを調べてみる。自分がよく理解していないのに、その言葉を使っても説得性がない。三省堂のデイリー 新語辞典で調べると、こう書かれていた。
はんていりつ【反定立】。ヘーゲルの弁証法で,出発点である定立が発展の過程で否定され,全く新しい段階として現れた状態。また,定立の命題を否定する命題。反措定。反対命題。アンチテーゼ。反立。(ドイツ) Antithese。
これだけじゃよくは分からない。しかし要は簡単に命を粗末にするなと私は訴えたいのであろう。確かにみんなそれぞれ生活状況や環境など違う事だらけだ。それでも子供を産むという事は誰でも変わらないはずだ。
夕方、さおりから一通のメールがようやく届く。今まで自分の気持ちを整理して考えていたのだろう。辛い事を思い出させ、可哀相な事をさせた。それでも私の信念が可哀相と思う気持ちを上回った。
「了解です。反省とともに作品の中に残してあげたいという事ならOKです。辛いと言えば辛いけど、あとは龍に任せます。忘れ去られるより、ずっと良いよね…。」
何度もさおりからのメールを読み直した。これで私はまた一つ何かを背負った気がする。今はこの「とれいん」を焦ってでなく、ちゃんと一字一字魂を込めて執筆するのが私の使命だ。誰に何と言われてもいい。これは私とさおり…、そしてあの子だけの作品なのだ。
二千四年も、気がつけばもう明日で終わり。私はずっとテーマを持って頑張り、そして生き続けよう。さおりと共に…。
帰りの西武新宿駅の改札を抜けると、向こうから一人の駅員が歩いてくる。どこかで見た事あるような…。助役の福島さんだった。この人にはありがとうございますといった感謝の念がある。あの時、私に対して深々と頭を下げてくれた事が、随分と昔の事のようだった。一昨日、峰さんとの話し合いで解決した事は福島さん、知っているのだろうか。私は近づいて話し掛けた。
「福島さん。」
いきなり苗字で呼び掛けられて、福島さんは不思議そうにこちらを振り向く。でも私の顔を見るなり、すぐ笑顔になった。
「先日はどうも…。」
「峰さんとの一件、聞きましたか?」
「ええ、聞きました。聞きました。本当に良かったです。ありがとうございます。」
「何、言ってんですか。福島さんや間壁さんとかのおかげですよ。本川越だと駅長の村西さんに助役の小谷野さん。みんながちゃんと冷静に親身になって対処してくれたからじゃないですか。ますます俺、西武新宿が好きになりました。」
「そう言っていただけると、本当になんて言っていいのやら…。ありがとうございます。」
「これで本当にスッキリ出来ました。お騒がさせさせて、すみませんでした。」
「いえいえ、こちらこそ。」
「じゃあ、あの小江戸号乗って帰るので、そろそろ行きますね。」
「ありがとうございます。お疲れ様でした。」
「失礼します。」
心から笑顔で会話が出来た。私は向きを変えて歩き出す。小江戸号の入口まで来た時、背後から声が聞こえる。
「神威さーん…。」
振り向くと福島さんが走って近づいてくる。
「ハァ、ハァ…。」
「大丈夫ですか?どうしたんです?」
「…、ハァ…、…。」
福島さんは片手に缶コーヒーを持っている。ひょっとしてわざわざこれを渡す為に…。
「ま、まだ…、ハァ…、寒いでしょう。ハァ、ハァ…。良かったら飲んで下さい。」
私は缶コーヒーを受け取り、頭を深く下げた。
「すみません。ありがとうございます。何か気を遣わせてしまって…。」
「良かったら、飲んで下さい。」
「ありがとうございます。俺、メチャクチャ嬉しいです。」
私は改心の笑顔でお礼を述べた。福島さんも満足そうに頷いてくれる。
小江戸号に乗って私は川越に向かう。たまたま今日の座席はメガネの女と揉めた因縁の「A2」だった。でも当然の事ながら、私の座席に女物の荷物はない。あれは十年に一度もないような事が偶然起きただけなのだ。
福島さんからもらった缶コーヒーのタブを開ける。電車の外の景色を眺めてみる。何度も見た風景。何も変わりはない。私自身は今回の件で、いい方向に変われたのだろうか。いや、それは周りの人間が判断する事だろう。おろしてしまった子供に対して、私は踏ん張って今現在を生きていかねばいけない。いつか師匠の大地さんに追いついて、横に並ぶことが出来るだろうか。これだけは方法が何も分からない。ただ私なりに考えて、足掻くしかないのだ。
一口飲むと胃袋に暖かいものが流れ込む。福島さんからもらったコーヒーは、少しほろ苦かった。
ー了ー
2024年5月になって、14年間未完成なままの新宿コンチェルトを自身で読み返してみた。5月12日で読み終えた。
作中に登場するとれいんは、実在するものであり、俺にとっての心の傷の一つである。
以前とれいん紹介記事のところに永久お蔵入りと書いた事があった。
でも明日13日はジャンボ鶴田師匠の命日。
今年になって自分自身を色々整理しなきゃと考えてはいた。
先日140万円を失う詐欺にも遭った。
実際それだけの現金を失ったのは痛いが、我を忘れるような…、また精神に支障をきたすようなものはない。強がりでも何でもなく、ただ自然体にその後の日々を過ごしている。
俺は業が深い。
ずっと自分で言い聞かせてきた言葉。ならばその業の一つであるこのとれいんをお蔵入りなどでなく、ありのまま出してしまおう。
そう思った。
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